悲しい恋の
私は美しくありません。
カーテンの向こうで、シルエットだけの女は、静かな口調でそう言った。
だから私の姿を見る前に、私の中身を知って下さい。私の本質を知って下さい。外見による先入観を持たずに、どうか――。
僕は黙って彼女の申し出を受け入れたけれど、結局は彼女にとって不幸な結末しか待ち受けていないことを、漠然と知っていた。
僕を慕う女性は数多い。 僕は天から優秀な才能を貰い受けた芸術家であり、自身の美しさも、それさえが芸術の一端であるかのように完璧だ。
僕は誰よりも芸術を愛していたが、それを造り出す人間に対しては愛情を感じたことがない。
どんなにその若さや美しさ、時には夜の営みの巧みさを誇示されても、僕は生身の人間自身には興味を抱けないのだ。
彼女もやがて、諦めの涙を流すことになるだろう。
今まで自分の前を通り過ぎていった女達の姿を思い浮かべ、僕はぼんやりとそう思う。
朝。僕は朝食も摂らずに屋敷を出て、朝もやに霞む湖や森をスケッチして回る。
この地方特有の珍しい小石や木の実を拾って屋敷に戻ると、もう昼近くだ。
買ってきたパンで軽く食事を済ませ、スケッチや収集物を元に頭の中のイメージと構想を、スケッチブックに叩きつける。
ここから生まれるのが絵画なのかジュエリーなのか彫刻なのか、まだ僕自身にも分からない。
ただイメージを、それが廃れないうちにひたすらに書き殴る。
まるで頃合いを見計らったかのように、絶妙のタイミングでドアがノックされるのは、僕がふと疲れを感じ始めた午後の半ば過ぎと決まっていた。
「お疲れ様です。よろしければ、お嬢様のお部屋でお茶でも如何でしょう?」
彼女専属の人形のようなメイドは、いつも表情の無い顔で同じ台詞を言う。
僕が必ずYESと言うのを分かっていながら。
メイドは静かに頭を下げると、凝った作りのメイド服を揺らして僕を導く。屋敷の最奥、彼女の待つ部屋まで。
白で統一された陽当たりのいい部屋で、僕はメイドの少女に紅茶や菓子を振る舞われながら、彼女の芸術を余すことなく堪能した。
ある日は、清らかで繊細な美しい歌を。
ある日は、様々な表情を持ったミステリアスな絵画を。
ある日は、今にも動き出しそうな強い躍動感に満ちた、瑞々しい彫刻を。
僕は本心から彼女の作品を誉め讃え、カーテン越しに意見を交わし合うのを楽しんだ。
事実、彼女の作り出したものはどれも本当に素晴らしかった。
芸術作品に精通しきった僕をも強く引き付け、魅了してしまう程に。
けれど。
だからと言って、彼女自身を愛せるかどうかと言うのは、全くの別問題なのだ。
僕は惜しみ無く彼女の作品に対する好意と尊敬を口にしたけれど、彼女本人に対する関心は微塵も示すことは無かった。
カーテン越しとはいえ、彼女の切なそうな雰囲気は充分に察していた。
けれど、そればかりはどうしようもない。
僕は連日、そうやって自室と彼女の部屋を往復して過ごした。
彼女の細やかなアピールは多彩な広がりを見せ、最後の二週間に振る舞われた手製の夕食は、僕を大層喜ばせた。
温かいスープ、パンかサフランライス、付け合わせ程度の魚料理と野菜に、メインの上等な肉料理。
大体がこのパターンだったが、毎回工夫を凝らした絶妙な味付けは、飽きなどとは無縁のもの。各地を回り、あらゆる美味を経験した僕ですらを唸らせるくらいに。
全く、この大きな屋敷の女主人は、本当に何と様々な才能に長けた人なのだろう。
僕のような男を慕ってさえいなければ、きっといくらでも女性としての幸せを得ることが出来たのだろうに。
それを想う時、僕は憐れむような、悲しむような、不思議な気持ちに捕われてしまう。
上品で控えめだが、冗舌だった彼女。
カーテン越しのお喋りは最後の頃には急激に減り、諦めたような、脱力したような、悲しげなものに変わってしまった。
屋敷で過ごす、最後の日。
ようやく自分の作品を完成させた僕は、夕方、いつものようにメイドに呼ばれて彼女の部屋に赴いた。
室内は煌びやかに装飾され、テーブルには凝った料理が一皿と、ワインのボトルだけが用意されている。
「…。レディ」
僕はそっとカーテンの向こうに呼び掛けた。
今日まで屋敷に間借りさせてもらっていたこと。
結果、とても良い作品が出来たこと。
彼女の芸術は本当に素晴らしかったこと。
それらを、感謝と共に伝えようとした。
しかし、カーテン越しの彼女が応えてくれることはなく、重い沈黙が僕を威圧する。
「…さあ。どうぞ」
メイドが冷えたワインをグラスに注ぎ、温かいうちにと料理を勧めてくる。
少しばかり後ろめたい気持ちで、僕は丁寧に料理を切り分け、口に運んだ。
スパイスの効いたソースと濃厚な肉汁が絡み、刻んで散らされたハーブが爽やかに香る。
「…素晴らしい、味だ」
感嘆の溜め息と共に、僕は噛み締めるように呟いた。
それは良かった、と、メイドが零れるような笑みを浮かべた。少女の笑顔を見たのは、それが初めてだったかもしれない。
「お譲様も、大変お喜びですわ…」
メイドの華奢な指がカーテンにかかるのを見て、僕はハッとして食の手を止めた。
「お譲様は、心から貴方を慕っておいでですのよ」
彼女と僕を隔て続けてきた、薄く脆い布の壁。
それがスルスルと巻き取られ、影だけだった女主人が、その姿を露にしていく。
「お嬢様は、一体となりたいと思うほどに、貴方を…」
メイドの言葉が半端に途切れた時、たっぷりとフリルを重ねた優美なドレスが、金糸の刺繍を輝かせて僕の視界に広がった。
美しく、豪華だが嫌味ではない、彼女にピッタリな品のいいドレス。
「……………うあ…」
間の抜けた呻きが、思わず喉の奥から零れ出た。
美しいドレスはふんわりと椅子に掛けられているだけで、彼女はその上に全裸で腰掛けていた。
しかし、僕を放心させたのはその点ではない。
華奢な胴体。くびれたウエストはすんなりと細く、そこに付属するはずの手足は、四本とも根元からすっぱりと無かったのだ。
肩は肉を削がれて骨が露出し、乳房のあるはずの場所には、生々しい丸い傷跡があるのみだ。
「如何でしたか?この二週間の」
メイドがにっこりと、僕の顔を覗き込む。
「お嬢様の。お料理の。お味は……?」
嫌にゆっくりと丁寧に、言葉を紡ぐ。
「最初は右足。次は左。それから肩、左腕、乳房、最後に右腕……」
僕は食べ掛けの皿に目を落とした。
「ついに体力尽きてお亡くなりになったのは、ほんの一時間ほど前のことですわ……」
僕は椅子を倒して、よろめくように立ち上がった。ふらつく足取りで一、二歩前に進み、彼女の屍にゆっくりと近づいた。
私は美しくありません。
自らそう言った彼女。
初めて見るその顔は確かに地味で華が無く、お世辞にも美しいとは表現しずらいものであった。
――しかし。
僕は呆然と彼女の前に立ち尽くしたまま、たった今口にしていた肉の味、数日間舌鼓を打ち続けた料理の味を、鮮明に思い出した。
その芳醇かつ濃厚な味わいと、彼女の顔が一致した、その瞬間。
僕は生まれて初めて、生身の人間に深い愛を感じた。




