第3話
病院から狐がいなくなったと聞いたその日の夜、チャイムが鳴った。
夜更けに訪ねてくる者などいないはずなのに。胸の奥に小さな不安を覚えながら、玄関のドアを開けると――そこには、息を呑むほど整った顔立ちの女性と、その後ろに控えめに隠れるように立つ幼い女の子がいた。
「こんばんは。突然の訪問、驚かせてしまってごめんなさいね」
上品で、どこか人ならぬ気配を感じさせる声音。俺はただうなずくしかなかった。
「改めまして、この度はうちの娘がお世話になりました。あなたのおかげで、死なずに済みました。本当に感謝しています」
「……娘さん、ですか?」
言葉の意味を理解できずに首を傾げる俺を見て、女性は少しだけ微笑みを浮かべた。その笑みには、何かを悟ったような優しさと、試すような鋭さが混ざっていた。
「多分、あなたは助けた記憶を必死に探しているけど、思い出せなくて困惑してますよね? ここでちゃんと理解してもらうために言っておきますが――これから起きることに、どうか叫ばないでくださいね」
静かな口調なのに、有無を言わせぬ力がこもっていた。
背筋を冷たい汗がつたう。だが、この娘のことが分かるのなら――その一心で黙って頷いた。
「稲荷、変化を解いて。本当の姿を見せてあげなさい」
女の子はこくりと頷き、俺をまっすぐ見つめると軽く跳ねるように立ち上がった。
次の瞬間――光が弾けるように揺らぎ、目の前にいた少女の姿がふっとかき消えた。
代わりにそこにいたのは、一匹の子狐。ふさふさの尻尾を揺らしながら、小さな前足で器用に俺を見上げている。
そのあまりの光景に声が出ない。
口を開いたまま、ただ呆然と立ち尽くしていた。
「この娘は先日、あなたが助けてくれた狐――稲荷と申します。修行中で変化もまだ不安定なため、病院に長く置いておけず、私が連れ出しました。ご迷惑をおかけしたことをお詫び申し上げます」
「お兄さん、あの時は助けてくれてありがとう!」
子狐――稲荷は、柔らかな声で話しかけてきた。
小さな口が動き、確かに“言葉”を話している。まるで夢のようだった。
「どうしてもちゃんとお礼がしたくて、お母様にお願いして探してもらったの。お兄さんにお礼を言いたかったの!」
無邪気な笑顔を見た瞬間、胸の奥に張り詰めていたものがほどけていく。
――無事だったんだ。
それが分かっただけで、心の底から安堵している自分がいた。
「ところで話は変わりますが……お兄さんは人間同士の“化かし合い”でひどい目にあったそうですね」
女性の言葉に、空気が少し重くなる。
俺の過去――あの冤罪と裏切り。思い出すたび胸がざわつく。
「娘を助けてくださったお礼として、あなたを苦しめた者達に“お礼”をしておこうと思います。よろしいでしょうか? ……といいますか、実はもう、うちの周りの者が動いてしまっていて、事後承諾になってしまうのですが」
なんとも申し訳なさそうに頭を下げるその仕草とは裏腹に、言っている内容はかなり物騒だった。
「うちの娘は群れの中でも特に可愛がられておりましてね。恩人を苦しめた者がいると聞いて、止める暇もなく“お礼参り”に出てしまったようです。あっ、ご安心ください。狐と人間では化かし合いのレベルが違いますから、あなたが関与したなどとは誰も思いませんよ」
――化かし合いのレベルが違う。
なんという説得力だろう。
なにをしでかすかは想像もつかないが……まぁ、被害者の俺としては“ご愁傷様”とだけ言っておこう。
かわいそうだなんて、これっぽっちも思わない。むしろ、いい気味だとすら思っている。
そんな俺の内心を見透かしたように、女性は少し表情を和らげた。
「さて、本題に入りましょうか」
柔らかく言ったその次の瞬間――とんでもない言葉が飛び出した。
「稲荷を、あなたの嫁として嫁がせたいと思っています」
「……は?」
「娘も命を助けていただいたご恩に報いたく、あなたのそばにいたいと考えております。どうかそばに置いてやってください。
もし無理だと言われましたら……掟により、この子は群れから追放となります。人間に正体を知られた狐は、もう戻れないのです」
なんという理不尽なルールだ。
だが、俺を見上げる稲荷の瞳には、不安と決意が宿っていた。
――この子を追い出す選択は、俺にはできそうもない。
「いや、いきなり嫁とか言われても困ります。それに俺は今、生きるだけで精一杯なんですよ。娘さんを助けたのも……まぁ、自殺する前の“狐助け”ってやつで」
「生活に関してはご安心を。我が家から結婚祝いとして、しばらくの生活の足しになるだけの金品を用意してあります。
それに、あなたを苦しめた者達からも“慰謝料”や“権利”が自然とあなたの元へ届くはずです。心配いりませんよ」
――すでに化かされている気しかしない。
拒否できないように、最初から仕組まれていたような流れだ。
「どうか娘のためにも、お試しでも構いません。少しの間、一緒に生活していただけませんか? もし無理だと感じたら、慰謝料だけ受け取って別れていただいても結構です」
ここまで言われたら、もう逃げ場はない。
どうせ一度は死のうと思っていた身だ。
なら――少しくらい、化かされてみるのも悪くないかもしれない。
「……わかりました。生活の心配がないなら、お試しとして一緒に暮らしてみます。ただし、まだ“結婚”は保留で。あくまで共同生活ってことで」
俺の言葉を聞くなり、稲荷はぱぁっと顔を明るくした。
小さな尻尾をぶんぶん振って、弾むように声を上げる。
「お母様、私、必ずお役に立ってみせます! そして、絶対にお嫁さんになります!」
「ふふっ。あなたは私の自慢の娘ですもの。やり遂げてみせなさい」
――こうして、助けた子狐との奇妙な共同生活が、幕を開けたのだった。




