30節 後日 其弌(ごじつ そのいち)
天帝国、如究竟殿、婆楼那間。
そこは、天帝やその1族が使う大浴場だった。名前はお風呂が好きだった1代目天帝、婆楼那から。
蛇の像の口からでている白色のお湯が、広い浴槽を満たしている。
御修羅は湯船につかりながら、天井を睨みつけていた。
持ち前の青い長髪はお湯に沈んでいる。
天井には五賢帝の曼陀羅(丸い絵)が描かれており、その真ん中に鎮座している婆楼那(五賢帝に入っている)の微笑みがどうも御修羅の癪にさわり、苛立たせていたのだ。
そのうち、五賢帝から婆楼那を抜いて四賢帝にしてやろうかなと思いはじめたところ、大浴場の扉が盛大に開け放たれた。
「御修羅~!」
チッ。
思わず舌打ちがでてしまった。
御修羅がさらに顔をしかめる。
やってきたのは桐壷だった。
体も洗っていないのに浴槽まで走ってくると、そのままの勢いで飛び込んだ。
ザバァーン! と大きな水飛沫があがる。
瞬く間に御修羅は頭から、ずぶ濡れになってしまった。
「オマエ、莫迦じゃねぇの‼」
立ちあがって怒鳴る御修羅。それを尻目に桐壷は浴槽をバタ足で泳いでいた。
「せっかくのお風呂なんだから楽しまないと!」
「うるせぇ! オレはゆっくりと風呂に入りたいんだよ!」
御修羅はあがると足早にでていこうとした。
「えぇ、もうあがっちゃうの!」
「あたりまえだ! なんで風呂までもオマエと一緒にいなきゃいけないんだ!」
「あ、もしかして……」桐壷がくねりながら風呂からでてきた。わざとらしく体を隠している。
「おいどんが“ハ☆ダ☆カ”だから?」
ブチッ、御修羅の頭の中の大切なものが切れた。
「ぶっ殺されたいのかクソ餓鬼ィィ‼」
「いやぁーん、見ちゃダメダメぇ~」
桐壷は笑いながら御修羅のまわりをクルクルまわっている。
その間、ピキピキと御修羅の額の血管が浮きあがった。
ついに御修羅の感情は限界を迎え……。
「あぁぁ、もう、今日という今日は許さん! みじん切りにしてやるゥゥウウウゥゥ‼」
御修羅の頭には完全に血が溜まってしまった。大きく目を見開き発狂しながら、桐壷に襲いかかる。
「きゃー! 変態!」
桐壷は楽しそうに御修羅から逃げた。
キャンキャン追いかけっこをはじめる2柱。
それに割って入るように何者かが現れた。
「猊下、殿下」
突然だったので、御修羅も桐壷も「わっ」と声をあげて、動きを止めた。
現れたのは、全身真っ白な西洋鎧で身をかためた神だった。
馬の頭を模した兜で顔は完全に隠れている。
全体的に西洋棋にでてくる桂馬のようだった。
「夢浮橋殿下……」
御修羅は名を呼んだ。
突如現れた神は明王衆の1柱、“夢浮橋明王”だった。天帝国で最も強い神と言われており、『天界無双』という異名がつけられている。普段は桐壷の側近として下界の明王庁を管理している。
「なぁにぃ、夢ちゃん? もしかして一緒にお風呂……」
「桐壷殿下が下界に投下なされたロウデーヴァタが討伐されました」
無機質で感情のこもっていない声が桐壷の言葉を引き裂いた。
「えぇ! ロウデーヴァタ死んじゃったの⁉」
報告を聞くや否や、桐壷が驚愕の表情をつくった。
「嘘ぉ~。おいどんの夏休み(議員には夏休みがある)の自由研究がぁぁぁ……」
顔に絶望を浮かべ、そのままタイルにしりもちをつく。
桐壷の自由研究の内容は『さいきょーのどうぶつがげかいにこうりんしたら』というもので、ロウデーヴァタを下界におろしてその被害を観察するというものだった。もっとも桐壷はロウデーヴァタを御修羅名義で雨形公爵へ送った時点で飽きてしまい、その後は手つかずだったが。
「あっそう。それで?」
御修羅がぶっきらぼうに言うと、兜の馬面が御修羅に向いた。
仮面の穴から赤い瞳が御修羅をのぞく。
寒気が急速に背筋を通過した。思いもよらず御修羅は体を震わした。
自分が怖がっていること隠すように、御修羅は不機嫌そうな顔で夢浮橋をガンつけた。
御修羅は夢浮橋が苦手だった。
他の神は感じていないようだが、御修羅は夢浮橋から恐怖に似た不気味な気配を感じ取っていた。御修羅にとってそれは、メラメラ燃える青銅の牡牛を前にした、人間の赤子のような感覚だった。
夢浮橋は御修羅に頭をさげると説明をはじめた。
「善台明王庁と雨形明王庁からの報告によりますと、現地の騎士団によって討伐されたそうです」
桐壷が抗議の叫びをあげる。
「そんなこと100%ありえない‼ ロウデーヴァタは最強なんだぞー‼ チート神通力にありとあらゆる攻撃を通さない肉体。首を斬られても生きる強い生命力。弱点なしの最強生物が下界の雑魚に負けるわけがないでしょ‼」
「けど、電気には弱いって言ってたよなぁ?」
御修羅が口を挟む。
「電気には弱いけどぉ……。どうやって殺すわけ? 多分、下界の技術では殺せないと思うよ」
「あぁ、くだらねぇ。どうせ、ただ単に弱かったんだろ」
正直、御修羅はただ単に桐壷のつくりが甘いから死んだのではないかと考えている。
逆にそれ以外ありえない。
「猊下。それは違うと思われます」
夢浮橋が御修羅の前に立ち塞がった。
「ロウデーヴァタの行動を観察する限り、桐壷殿下がおしゃったことは本当だと思います」
「じゃあ、なんで死んだ?」
「神に殺されたのでしょう」
即答だった。
「それもそれで、ありえない‼ 夢ちゃんや御修羅なら兎も角、生半可な神が敵う相手ではないと思うんだけど」
「生半可な神でも倒せる方法はあります」
「だから、そんなの……」
「雷の神通力を使ったのでしょう」
場が一気に静まり返った。
雷や電気の神通力は天帝の1族である救世の血筋にしか使えないものなのだ。救世家は前天帝、照瑠天を残して全員、御修羅が殺したはずだ。
「……なにが言いたい? 下界に救世の生き残りがいるってか? それとも照瑠天が現れたってか?」
御修羅の問いかけに夢浮橋はかぶりを振った。
「中津邦安世がやったのでしょう」
は? 御修羅は困惑を表面にだした。
「けど、夢ちゃん……、中津邦 安世は御修羅が殺したはずだよ……」
「生きていたのでしょう。生きて、下界に匿われているのでしょう」
夢浮橋の淡々とした語り口調には何故か信憑性が感じられた。
「その根拠は?」
夢浮橋が気に入らない御修羅は強い口調で問いただす。
「勘です」またもや即答だった。
「勘って……」
「では、わたしは失礼いたします」
夢浮橋は御修羅と桐壷に背を向けると空気に溶け込むように姿を消した。
「勘? 願いじゃなくてか?」
もう夢浮橋はいなくなっているようで、返答はこなかった。
「あぁぁ、ロウデーヴァタやられたのはショックだぁ」
桐壷が頭を床にあずけて、へたれ込む。余程ショックだったのか、両手で顔を覆っている。
御修羅は改めて天井を見る。
相変わらず婆楼那の顔は笑っていた。
それに腹立った御修羅は桶を取って、今までの苛立ちや、憤怒を込めて天井に投げつけた。「イヤァァァァァァ‼」という叫びもセットで。
桶は婆楼那の顔面にあたると粉々に砕け散った。そのまま、御修羅に破片が降りそそぐ。
御修羅は破片を避けようとせず、その光景を強く、強く、見つめていた。
婆楼那の顔は泣きべそをかいているように見えた。