29節 帰還(きかん)
目が覚めたのは誰かの背のうえだった。
細くて硬い背中。筋肉が引き締まっている。
馬ぐらい――それよりも、もっと早く走っていた。
その背中が菜花だと気づくのに時間がかかった。
「お目覚めになられましたか?」
隣から声がかかる。
伯爵が青っぽく変色した背広を着ながら並走していた。
「あの……私……」
「菜花がロウデーヴァタの体から聖下を助けました」
「菜花さん……」
菜花が動きを止めた。
「本当にありがとうございます。わたくしめはあなたに命を救われました。この御恩は何年たとうが忘れません」
菜花は頭を縦にさげた。
「わたくしからも、この度は本当にありがとうございました。聖下のおかげで無事、伯爵領に平和が戻りました」
伯爵も頭をさげる。
「い、いえいえ、私はそんな……」
お礼なんか言われたことがなかったので、暗寿はどう対応すればいいかわからなかった。
顔を赤くして後ろ頭をかく。
「そういえば、お2人とも、ロウデーヴァタにやられたはずじゃ……」
「あぁ、確かに。あのときはわたくしも行動不能状態に陥っていましたが、つい先程、回復いたしました」伯爵が自慢げに言った。
「そ、そうなんですか……」
祇ってすげぇ……。と暗寿は内心思った。
「もう少しで、公爵府にお着きになりますので、しばし、お待ちを」
(これ、帰っている途中だったんですか……)
そういえば、車はロウデーヴァタにぶっ壊された。
だからって、この距離を走りでいくなんて。
(そうだ……)
暗寿は左右に首を振る。
「レイさん……、どこに……」
レイの姿を探していた。
「ここよ」
背中から声が聞こえたので、暗寿は「ひゃあ!」とびっくりした。
「お見事だったわ、底國さん」
「へへっ、そうですか……」
レイの顔を見つめる。
肌が雪のように白く、つり目とつり眉が特徴的で、鼻が高い。
美人なのは間違いがないのかもしれない。
ふと、レイとのチュウを思いだす。
みるみる内に顔が熱くなってきた。
「なに、唇舐めているの?」
「ふぇっ?」
無意識に舌が唇に触れていた。
こ、これは……。と暗寿は顔を手で覆う。
「もう、本当に助兵衛なんだから……」
レイは頬をぷくっとふくらませた。
「あの、レイさん……。なんで、あのとき、私とチュウを……?」
「……なんだろう」
レイが頭を傾けながら目を明後日の方向へ向けていた。
なにか言葉を探しているようだった。
「とりあえず……あたしは暗寿さんに御修羅を殺してもらいたいと思っている。けどね、暗寿さんのことを道具だなんてサラサラ思っていないわ」
「……!」暗寿は瞳をぱちぱちさせる。
「なんか、暗寿さん、あたしのこと鬼畜不人情幽霊だと思っていない?」
「鬼なのか、畜生なのか、人なのか、幽霊なのかわかりませんね」
「ふざけないで!」
「ふぇっ?」
「あんたのことをどう考えれば道具になるわけ? 御修羅を殺すための刀? それとも銃? あたし、あんたのことをそういう目で見たことないし、見れるわけないじゃない! 逆にどうやったらそう見えんの?」
「けど、あのとき、私がいなくなったら、御修羅を殺せないって泣いてたじゃないですか……」
「あれのこと気にしていたの⁉ あれは単純に暗寿さんが目覚めて嬉しかったから泣いていたの。それを言ったら、恥ずかしいから、御修羅云々って言ったわけ」
暗寿はぷいっとレイから顔をそらした。
「……じゃあ」
「じゃあ?」
「私のことなんだと思っているんですか?」
暗寿の言葉を聴いたレイは一瞬、驚いた顔をする。
そして、顔を赤めさせた。
「あんたのこと⁉ ……なんて言うかその……」
もじもじしているレイは珍しかった。
もともとから可愛いがもっと可愛く見えてくる。
「――大切な……仲間? 友達? 親友? 戦友? ……もうわからないわ」
「なんですか、それ⁉」
思わず暗寿は叫んだ。
「じゃあ、友達よ! 友達!」レイはやけくそなったそうで、突き放すように言った。
「じゃあって⁉」
「なによ! あたしの神生の中で2番目の友達よ。喜びなさい!」
神生で2番目って……。
(生きているとき、どんだけ友達がいなかったんですが……)
まぁ、暗寿に言えたことではないが。
「というか、レイさんの神生はすでに終わっていません⁉」
「うるさいわねぇ! 暗寿さんだって1回、神生終わりかけたでしょうが!」
「気づいたんですが、私のこと名前で呼んでいませんでした!?」
レイの暗寿の呼称は『底國さん』から『暗寿さん』になっていた。
「そんなことばっかり言ってんなら、今日からあんたのこと、助兵衛って言うわよ! この助兵衛!」
「なんで、ですか⁉ そーえば、突然チュウをする方が助兵衛ですよねぇ」
「なんでっすってぇ⁉」
レイと暗寿がわーわーぎゃあぎゃあ言いあっている姿を菜花と伯爵が微笑ましそうに見ていた。
「本当、なにとお話しているのでしょうか?」
「もしかすると、本物の神さまがいるのかもしれないな」
「本物もなにも、聖下が背にいるではありませんか」
「そうだな」
2柱と2人は楽しそうに公爵府に向かった。
公爵府についたのはお昼を少し過ぎてからだった。
公爵府のまわりにいた青い甲冑を身につけた武士たちは伯爵を見るや否や、かけ寄ってきた。
「閣下、大丈夫ですか?」
陣羽織を着た武士が訊く。確か善台騎士団の団長だった。
「あぁ、問題ない」
応答をしている伯爵の横で菜花が暗寿をおろした。
暗寿はゆっくり着地する。
フラッと体が揺れた。まだ、肉体に疲れが残っているのか、それとも神通力の炎症が違う形で現れたのだろうか。
「大丈夫ですか?」菜花が後ろで体を支えてくれた。
「ありがとうございます……」
暗寿がお礼をしていると……。
バーン! と大きな音が響き渡った。
公爵府の扉が盛大に開かれたのだ。そこから、雄作と灯が飛びでてきた。
「暗寿ちゃん!」
暗寿を見つけると、2人は猛ダッシュで近づいていき、暗寿をぎゅうぅと抱きしめた。
右と左から圧迫される。
「息が……うぃきが……」
苦しそうな声に気がつき、夫妻は暗寿を離した。
「大丈夫やったか? どこか怪我とかはないんか?」
灯は心配そうに涙を流しながら顔を近づける。
「すまんかった。暗寿ちゃん。神さまだったとは知らずに酷いこと言っちゃって」
「い、いえ……そんな……」
暗寿が口をもごつかせていると、また2人に抱き着かれた。
「あぁ、本当に生きていてよかった……」
(雄作さん……灯さん……)
2人の顔から本当に暗寿のことを心配していたことがわかった。
暗寿の心がなにかに満たされていく感じがする。
これで、暗寿の望みだった掛上夫妻との生活が守られる。
そう考えると、本当によかったのかもしれない。
2人の顔を見た暗寿の目から、自然と涙がでてくる。
「掛上さま」
泣いている2人と1柱の前に伯爵がでてきた。
「空気を読まないようですいません。この度は聖下を勝手に連れだしてしまい、大変申し訳ございません。聖下との契約により、掛上自動車整備場を伯爵府専属の……」
ベシッ!
雄作の拳によって、伯爵の言葉が切れた。
頬を思いっきり殴られた伯爵はその場に倒れた。
一瞬にして、時間が止まった。
暗寿を含め、みんな顔を青く染めている。
その中ですぐ行動したのは菜花と灯だった。
菜花は伯爵を守るように立ちはだかり、灯は雄作を羽交い絞めにした。
「てめぇ! 聴いたぞ! おいらたちを人質みたいにして暗寿ちゃんを脅したんだって?」
雄作は腕を振りながら暴れる。
「これでも、人間かよっ! 下民にだったらなにやってもいいのかよっ!」
「やめろ! 雄作! オマエ莫迦か!」
灯が標準語で叫ぶ。
「こ、これどうなるのでしょう……」
あわわっと口が開きっぱなしの暗寿の横で、伯爵が立ちあがる。
ギロッと雄作を見据えると、頭をさげた。
「この度の狼藉は誠に申し訳ございませんでした」
伯爵の謝罪に雄作は動きを止める。
その場にいたみんながぽかんとした様子で伯爵を見た。
「善台伯爵の名により命ずる。今、わたくしに狼藉をしたその男を無罪放免とする。善台騎士団および伯爵領に属する者はその男に手だしをしないように」
そう言うと、伯爵は公爵府に向かって歩いていった。
「聖下。後の処理はわたくしめがやっておきますのでご安心を」
「わ、わかりました。」
暗寿は伯爵に頭をさげた。
「後、向こうの空き地に停めてあったあの赤い電気自動車。あれって掛上さまのものでしょうか?」
伯爵が雄作の愛車のことを言っているのはすぐにわかった。
「あぁ、そうだけど?」
雄作は訝っている顔を伯爵に向ける。
「前に同じ種類の車を持っておりました。いい車ですよね」
伯爵はそう言い残して、公爵府の中に入った。
その顔は少し寂しそうであった。
菜花は暗寿たちに一礼をしてそれに続いた。
「ふん。誰が見てもいい車だってわかんだろ」
雄作ぷいと顔を公爵府から反対に向けた。
「なんや、雄作。車の趣味があって嬉しかったんちゃうか?」
「うるせぇやい」雄作はまんざらでもないように言った。
「じゃあ、そろそろ帰るか」
灯が前方を指さした。
「帰ったらお風呂だな」と雄作。
「昨日入っていませんもんね、雄作さん」
「いや、まずは暗寿ちゃんからや。雄作とは夜入るって言っているやろ」
灯が鋭く指摘をする。
「ふえっ」暗寿の頭から煙がでる。
「えぇ、今日はおいらを先にしてくれよ」
「しらんがな」
レイが暗寿のそばにきた。
「よかったわね。“新しい家族”ができて」
「新しい家族……」
暗寿は口ずさんだ。
ただただ雄作と灯を見つめたのだった。