13節 覚醒(かくせい)
中津邦 安世はふかふかの布団のうえで、ゆっくりと目を開いた。
寝ていたみたいだが、久しぶりに夢を見なかった気がする。
今までどんな夢を見てきたのか忘れてしまったが。
安世は上体を起こし、周りを見渡す。
畳の床に、本がびっしり詰まった棚。
その隣にある金縁の白いクローゼット。
座布団の前にはロココ調のテーブルがあり、そのうえにはランプ代わりの提灯がおいてある。
なんだこの和洋折衷のいき過ぎた部屋は。
少なくとも伽藍堂な安世の部屋ではない。
安世の視界は自分の腕を捉えた。
思わず2度見をしてしまう。なにせ、肘からさきがなくなっていたからだ。
えっ……これは……。
頭の中で記憶がゾンビのように甦った。
レイとの出会い。
神通力の封印解除。
御修羅との戦い。
堕天。
1通りの記憶が、脳の墓場から、腐乱した腕をだして現れた。
あらためて自分の腕を見る。
「私……生きてる……」
喉の奥からでてくる熱い声が確かな生命を確認させた。
確かあの後、そのまま落ちていってレイに受け止められて……。
「私生きてる!」
正直、終わりかと思っていた。
流れ的に、きっと、レイが助けてくれたのだろう。
本当によかった……。
「おはよう。中津邦さん」
感激しているのも束の間、冷たい寒気が流れ込んだ。
季節外れの西比利亜寒気団が現れたのかもしれない。
安世は西高東低の高気圧がある方に目を向けた。
陽射しが入ってくる窓の脇に女の子が寄りかかっていた。
髪から肌から着ている服まで全部真っ白な女の子だった。
鏡のような白銀の瞳に見つめられると何故かドキッとしてしまう。
「レイさん……!」
安世の前に突然現れ、導いてきた幽霊“レイ”だった。
レイは安世のそばにくると、唐突に安世をおし倒した。
「ちょ……ちょっと⁉」
レイはかぶさるように安世に乗っかる。
影のかかった整った顔が安世の眼前にぐぅんと近づく。
「レ、イさん……」
言葉にできないくらいのいい香りが漂ってくる。
それが原因ってわけでもないが、心臓が通常の何倍もの速さで動く。このままでははちきれてしまいそうだ。
何回、経験しても慣れない。
そんな安世の困惑をよそに、レイはその真っ白な両手を安世の頬にくっつけて、ぐるぐるとこねはじめた。
ぐるぐる、こねこね。
こねこね、ぐるぐる。
「リェイしゃんにゃにを、しゅりゅんでしゅくぁ!」
安世はレイの手を引きはがそうとするが、腕がなくてできなかった。
抵抗空しく、流れに身を任せるはめになった。
ふと、自分の顔に滴がぽたぽたと落ちていることに気づいた。
レイの腕の動きが止まる。
えっと思い、安世はレイの顔に瞳をあわせる。
レイの眼から涙があふれでていた。
「リェイしゃん……」
ぽつぽつと涙をふらす雨雲と化したレイを安世はポカンと見つめた。
「よかった……本当によかった……」
レイの泣きっ面が安世の首筋に埋まる。
「あたし、中津邦さんが死んじゃったら、殺されちゃったら、どうしよう……どうしようと思って……」
大きな嗚咽を発するレイ。
意外な行動に安世は若干たじろいだ。
出会ってまだ、そんなにもたっていないのに、ここまで泣くか。
ここまで、レイにとって自分は大切な存在になっていたのか。
安世がそう考えていると。
「中津邦さんがいなくなったら、あたし、詰んじゃう……」
詰む?
急に将棋の話にでもなったのか。
「あたし、御修羅を殺せなくなっちゃう……」と続けてレイは口走った。
「…………」
安世は言葉を失う。気分は一気に微妙になった。
安世が死んだら、レイは現世と干渉ができなくなる。
そうすればレイは御修羅を殺せなくなる。
安世の脳がどんどん勘繰りはじめる。
レイが心配していたのは自分のことではなく、御修羅を殺せなくなることだったのか。
レイにとって自分は現世と干渉するための……御修羅を殺すため道具でしかないのか。
道具がなくなれば詰むから、『あんたが死にたいと思っていても、あたしが絶対に死なせないから!』と言ってくれたのか。
(……しかたありませんね)
レイはもともとから、御修羅を殺すために自分に近づいたのだろう。ならば、自分のことを道具だと思っていてもしかたがない。
自分が変に勘違いしていただけだ。
レイは悪くない。
そう自分が……。
その考えが安世の罪であり、詰みだったのかもしれない。
無理やり自分の心を納得させようとするが、その思考が逆に安世をムカムカさせた。西塞羅もビックリな弁論だ。
もうなにを言えばいいのかわからず、安世はただただレイに視線を向けていた。
レイの泣き顔は悔しいけど可愛かった。
背中をさすってやりたいぐらいに。
2柱はそのままの状態でいた。
その間、レイの泣き声だけしか響かなかった。
それ以外、安世を含めてありとあらゆるものから音が発せられなかった。
静寂ではないのに、本当に静寂だった。ここまで静かだったのはこれが初めてだって言える程、静かだと感じた。
このまま永遠に続くと思われた静寂だったが、唐突に破られた。
その犯人は部屋のドアノブだった。
奴はガチャッという音をたてて、静寂を粉々に破った(この場合の『破る』は『やぶる』と読むのではなく、“叩きわる”とかの『わる』と読むべきなのかもしれない)。
当然の如くドアノブは傾く。すると、扉が開かれた。
そこからゆっくりボブカットの人が入ってくる。
ハート型の髪飾りが印象的で、黒いタンクトップを着ている。
手には桶が抱えられていてその中にタオルみたいな布が見える。
「体拭きにきたでぇ!」
野太くて強い声が響きわたる。
ボブカットは満面の笑みだった。
可愛らしい、小動物を彷彿とさせる眼と、安世の赤い眼が重なりあった。
「あの……その……」
安世はなにか話そうとするが、言葉が思いつかない。
そうだ、自分はコミュ障だった。その答えに辿り着いたときにはもう、緊張で眉間にしわができていた。
「目覚めたんか!」
ボブカットは凄い勢いで安世に近づいた。
「大丈夫なん⁉ どこか痛いところあるん⁉」
え……えぇと……。
ボブカットの迫力におされて、なにも言えない。
「この人は中津邦さんを助けてくれた人間よ」
レイはいつの間にかケロッとして、安世の隣に座っていた。
その姿に安世が内心イラっとしたのは内緒の話だ。
「人間ってことは、ここは、もしかして……」
気を取り直した安世は声を潜めて聞いた。
「えぇ。下界よ」
ハッキリした答えが返ってきた。
下界……。まさか、本当にきてしまうとは。
安世はボブカットをまじまじと見つめる。
この存在が人なのか。
見た感じ、神と全くと言っていい程、変わらない。
色々考えていると、レイが一段と低く、冷たい声で安世に警告した。
「いいこと、中津邦さん。下界には御修羅の直属の手下“明王衆”がうろついているわ。自分が神であるとか、自分の本名とかは誰にも言わないこと」
下界も安全じゃねぇじゃん‼
安世はつい心の中で突っ込んでしまった。
レイが廃墟で言っていた話と違う。
そのことに抗議してもしかたがないので、いつものように折れた。
「わかりました……」とナチュラルにお返しした。
「わかったってなにをや?」ボブカットは首を傾げていた。
(しまった……)
レイは安世以外には見えないのだ。普通の声でレイと会話していたら、霊能力者か狂神認定間違いなしだ。
「いや、それはその……」
安世が口ごもっていると、また扉が開いた。
今度は端正な男が入ってきた。
鼻が高く、シュッとした小顔で、綺麗な姿の御修羅に負けないぐらいの上品な気配をかもしだしている。その姿は何故か馬を連想させた。
名馬と言われる馬はこんな感じなのかもしれない。
「雄作! この子目覚めたでぇ!」
名馬に気づいたボブカットは嬉しそうに安世に手をさしのべた。
「おぉ、マジか!」
雄作と呼ばれた男は歓喜の形相で安世に近づく。
「大丈夫か? どこか痛いところあるか?」
ボブカットからされた質問を標準語でされた。
「そやそや! 大丈夫なんかほんまに?」
ボブカットもまた、安世に聞いてくる。
1人でも勢いがすごいのに、2人でこられたら対処しきれない。あわわわわ……。と安世がフリーズをしかけたとき。
ぎゅぅぅ。
安世のお腹が鳴った。顔を赤らめて、すぐ腹をおさえる。
「なんや、腹が減ったんか。丁度ええから、朝飯にしようや」
ボブカットは立ちあがり、颯爽と部屋から飛びだしていった。
「よし、おいらも手伝ってくるか」
雄作はゆっくりと扉に向かった。
「あ……あの……」
なにか話そうと暗寿が口を開く。
いくら相手が馬みたいだからって『目標は3冠ですか?』なんてことは訊かないよう、気をつけながら。
「すぐに戻ってくるからな。ゆっくりしててな」
雄作はそう言って、でていってしまった。