優しい記憶はお茶の香りがするものよ
「君がいつも出してくれるこのお茶は、なんていう茶葉を使っているの?」
とてもおいしいから、と彼女は眼を細めてティーカップをソーサーの上に置いた。
おいしいと思ってもらえているなんて、お茶を用意する甲斐があるというものだ。
「君の国のもの? 取り寄せたものだったりして。」
そうだね、僕の国のもの。その表現はあながち間違いじゃあない。
「回りくどいことを言わずに教えてったら」
うん、そうだね。君にこの秘密の茶葉について教えてあげよう。時機を見て話そうと思っていたんだ。
僕らの国には、こんな言葉がある。
「優しい記憶はお茶の香りがするものよ」
いつだって僕らの国にはお茶の香りがあふれている。他の国では「茶葉の国」なんて呼ばれているんだっけ。
詳しい話をする前に、「僕たち」というものを知ってもらう必要があると思うんだ。もう一杯お茶を用意してあげよう。
「僕たち」はお茶と生きている。これは別にお茶好きだとかそんな話ではないんだよ。
特別なお茶を飲んで「僕たち」は育つのだから。
でもね、ただお茶を楽しむだけじゃないんだ。きまりがある。誰も犯してはならないきまり。
1、出されたお茶はかならず飲み干すこと。
2、出されたお茶には本人以外は口をつけないこと。
3、お茶を出されたら、必ず「有難う」と言葉にすること。
どんな時でも、私たちはこのきまりを破らない。別に破ったからといって特段罰があるわけでもないのだけどね。
不思議だろう? まあ順に話してあげるから、落ち着いて。
秘密の茶葉の「秘密」は、大人しか知らない。子どものころは毎朝温かいお茶が用意され、水筒いっぱいのお茶を持ち歩く。それは互いに口をつけることはしてはいけないと親に口を酸っぱくして言われている。そうしてその日の最後に、「今日のお茶もおいしかったよ、ありがとう」と空の水筒を返すんだ。別に誰かにそう厳しく教わるわけではないよ。君たちがご飯を食べる前に手を合わせて「いただきます」と言うだろう? それと同じことさ。生活の一部なんだ。
さて。もちろん、子ども心に禁止されたことには好奇心が沸き立つ。うちのお茶もおいしいけれど、他のおうちのお茶はどんなにおいしいのだろう。一口ぐらい、と僕も友だちと交換して口をつけてみたこともあるが、とても飲めたものじゃない。甘くておいしいのだと勧められたそれは、渋くて苦くて喉を通すことも難しい。友だちは無理に飲んだ挙句、おなかを壊してしまった。
「だからだめだと言ったでしょう」
母が眉根を下げて頭を撫でたのを覚えている。通過儀礼みたいなものね、と困ったように微笑んでいたっけ。
そんなわくわくした顔をしなくてもいいんだよ、君はとても顔に出やすいね。まあ、最後まで聞いてくれたらみんな分かるから。さっきのきまり、あっただろう?特段罰はないといったけど、しいて言うならこれが罰になるのかもしれないね。
そうそう。お茶を出すのは親だけではないよ。そういえば、給食でも毎日お茶が出ていたかな。自分の名前が書かれたコップに、先生が一杯ずつお茶を注いで回る。お茶を飲むときは必ず「有難うございます」とお茶係の号令に合わせて声をそろえて言ったものだ。おいしくて大人気のそれには、毎日お替りの列ができていた。先生が変わってもそれは変わらず、お茶を注いで回る先生たちは私たちが何歳になっても嬉しそうに微笑んでお茶を注いで回ってくれたよ。
あとは――そうだね。父がお茶を用意してくれたこともあった。小学生のころかな。友だちと喧嘩した日だったか、僕は酷く父に怒られた。どうしても謝りたくなくて、口を噤んでぼろぼろと泣いた。父は無言で立ち上がりどこかに行ってしまったので、見放されてしまったように感じて、さらにぼろぼろ涙がこぼれた。そうこうしていると、ことり、と音がして目の前にティーカップが現れた。
「飲みなさい」
父はそう優しく言った。お前が心配だよ、とそうも言っていた気がする。
その時にどういう言葉を返したのかは全く思い出せないけれども、その時飲んだお茶が妙に優しくて心が落ち着いたのだけは覚えている。
叱るときにもわざわざお茶を出すのは変わってるって? 確かに、君の国では珍しいことなのかも。でも、僕の国では普通なんだ。前に君と喧嘩した時もお茶を出したことがあるはずだよ。君は涙目のまま、無言でそれを飲み干したっけね。あの時の君はいとおしてたまらなかったよ。いや、からかってないって。恥ずかしがらないでよ、僕も恥ずかしくなってくるだろ。
さて、もう一杯特別な思い出のお茶の話もしておこうかな。いやいや、これも関係があるんだって。もう少し付き合ってよ。くだんのA先生の話をしたいんだ。そうそう、前に話をしたことがあったよね、そう、僕の恩師のA先生。
高校卒業も間近、志望する大学に落ちた僕は、卒業式をさぼったんだ。意外だって? まあ今の僕を見れば、そうだろうね。さ、茶々を入れるのはよしてくれよ。
スマホの電源も切って、地元から離れた土地で、制服姿のまま夜の街を一人で歩いていたところを警察に補導された。両親も先生たちも随分と僕のことを探してくれていたようだった。
夜遅く、学校に連れていかれた僕はA先生と二人きりになった。先生は、静かに怒っていた。寒い夜だった。机の上のお茶が湯気を立てて存在を主張していた。
「あなたのその自分勝手な行動が、どれだけの人に迷惑をかけたのか、考えなさい」
そんなことは自分でもわかっていた。けれど、このどうしようもない苛立ちをどうにも抑えられなかったのだ。どうして自分だけうまくいかないのか。もどかしさと腹立たしさとむなしさと焦り。いろいろな感情がどろりと僕の口からあふれてしまいそうなのを、僕はやっとの思いで我慢して、誰も傷つけないどこかへ逃げ出したのだ。それなのに、それをわかってくれないなんて。
泣きそうになるのを、出されたお茶と一緒に飲み込んだ。いつもはおいしい先生のお茶は、なんだかいつもよりツンとしていて、先生はきっと意地悪でこんなに辛いお茶を出したのだろうと思ったよ。それで、腹立たしくなって、僕はそのお茶を飲むのをやめてしまったんだ。最後まで飲まなかったし、ありがとうございますなんて口に出したくもなかった。きまりを破ったんだ。A先生は悲しそうな顔で最後はお茶を片付けていったよ。それで、A先生とはサヨナラ。卒業式も終わっていたから会うこともなかった。
そんな悲しい顔をしないで。まだ話は続くから。サヨナラ、なんて言ったけど、あの後一度だけ先生に会いに行ったことがあるんだ。僕が成人して、茶葉の「秘密」を知ってすぐ。僕はどうしても先生に会いに行かなければならなかったんだ。
その日の僕の心中をそのまま表現するならこうだろうね。
あの頃は苦手だったA先生に自分から会いに来る日が来るなんて。
僕自身信じられない思いだったけれども、それはA先生もおなじだったらしい。
「今年で成人よね。あなたが来てくれるなんて、思いもしなかったわ」
さあどうぞ。A先生はあの頃と同じようにお茶を出してくれた。
昔に飲んだ時はツンとした独特な香りが苦手だったのにね、ティーカップにそっと口をつけてみたら、不思議とそれが爽やかに鼻孔をくすぐった。じんわりと胸が温まってきて、涙が止まらなかった。僕は「秘密」を知ってしまったから、どうしても「ありがとう」と伝えずにはいられなかったんだ。あの頃に言い忘れた言葉を、どうしても伝えなくてはと、心が突き動かされて、僕はA先生を訪れたんだよ。
そろそろ、君にも「秘密」を教えてあげなくちゃね。秘密の場所に連れて行ってあげる。ここまで僕の長話に付き合ってくれてありがとう。
なんだか怖いって? そんなことはないよ。大丈夫だから。さあ、立ち上がって目をつぶって。僕の手を握って、息を吸い込みながら、そのまま三歩。歩いてみてごらん。
いち。
にい。
さん。
「さあ、目をあけて」
まばゆい光が差し込む。涼しい風が吹いている。
どうして。だってさっきまでは彼と、彼の部屋で寝る前のおしゃべりを楽しんでいたはずなのに。金のひかりがエメラルドの大地を照らして、遠くに一本、小さな樹が佇んでいる。
「あれが君の知りたがっていたお茶の茶葉が採れる樹だよ」
彼に手を引かれて、エメラルドを踏み分けて樹に近づいていく。
とくんとくんと光が揺れる。やわらかい香りが鼻をくすぐる。
青々と茂ったそれは、摘み取りがたく思えた。
「これはあなたなのね」
そう言えば、彼は満足そうにうなずいた。
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