焚き付ける錐
幽子の部屋のドアがノックされる。返事をしてトレイを持っていくとドアに着く前に明真が何かを手に持って入ってきた。幽子はトレイを渡してそれらを受け取る。
「これは……紐と足袋と、白い帯に白衣?」
半ば押し付けられたそれらをしげしげと確認しながら明真に尋ねる。
「ああ、ベッドに置き忘れたから持ってきた。今日中に試着してサイズを確認しておけ。夕食の時にサイズが合わないなら交換するから俺に伝えろ」
それだけ言って部屋を出ようとしたので幽子は彼に声をかける。
「貴方がベッドに置いたんですね。足りないって気づいたのは別の人から指摘されたからですか?」
あえてニヤリとして明真の反応を見る。幽子は外に出られないストレスを彼をいびることで発散させようとしていた。どのみち明真には諏訪で酷い目に合わされたので、これくらいの仕返しをしても罰は当たるまい。
案の定、彼は顔のみならず首まで赤くさせて幽子をジロリと睨む。手を出して来ないのは裕典からの指示でも出てるのだろうか。拳が震えているのを幽子は見逃さなかった。彼の霊力がぶわりと広がり幽子の全身を圧迫する。徐々に自分の体が震えるのを感じた。武瑠の霊力に比べるとそれほど怖い訳ではないが、自身の霊力は確実に削られている。
「お前には関係ない。あまり変なことほざくとその口二度と叩けなくしてやるぞ」
(あら怖い怖い。小さいほどよく吠えるって本当みたいね)
小さいとは言っても彼は幽子よりも10センチは身長が高い。しかし彼の霊力は強く、裕典のプレッシャーよりも幽子の体に堪える。ひょっとしたら霊力は彼の方が上なのかもしれない。下手に刺激すると裕典よりも危険だと幽子は感じ取ったが、引き下がるのは何だか癪である。彼の霊力は幽子にとって恐ろしいが、それよりももっと恐ろしい武瑠の怒ったときの霊力を度々浴びている幽子の敵ではない。そして武瑠は例え怒っていても、幽子の霊力を削り取ることはしないのだ。
「変なことついでにもう一つ聞きます。武瑠君に呪いをかけて地下街で人避けを施したのは貴方ですよね?」
幽子は明真に微笑みかけるが、墨色の瞳は許さないぞと訴えていた。目だけ笑っていないとそれだけで人を威圧できるのを幽子は知っている。
「俺だとしたらどうすんだ。どうせ何もできないのに無駄口を叩くな」
「あら、私は貴方達が私を斬ったのを許してないんですよ。これはほんの意趣返しのようなものです。それでも足りないことを私にしたって自覚はあるんですか? しかもよりにもよって武瑠君を呪うなんて。余計に貴方達を許せない理由が増えてるんですよ」
「言わせておけば次から次へと減らず口を……!」
さらに強い霊力が幽子の部屋を吹き荒れる。何か鋭いものが時折幽子の顔や胴体、手足をかする。血は出ないが、幽子の霊力を切り刻むには十分である。この程度なら霊力を斬られても全く問題はないので何とも思わないが、部屋を飛び交う霊力の刃が部屋の物を斬りつけないか心配になってきた。ここまで来ると霊力の消費もそこそこある筈だが、そんな様子は微塵も感じられないことを鑑みると、流石は一二を争う格の家の人間である。
(やっぱりこの人も金行ね。武瑠君と同じ不可視の斬撃みたいな形で霊力を使うのか)
武瑠は滅多に霊力を強く放出しない。幽子が怖がるからである。それでも当の幽子が強めの霊力を見せてくれと頼むと、渋々ながら見せてくれた。幽子が使うつむじ風に似ていたが、それよりも早く鋭い刃のように感じたので、金行の霊力は不可視の斬撃と彼女は名付けている。見せてもらった後に震え上がったのは言うまでもない。
(でも武瑠君の霊力を見たからには彼の威嚇は児戯に過ぎない)
それでも怖いものは怖い。幽子は煽りすぎたことを少しだけ反省することにした。
「強がれるのも今のうちだけだ。せいぜい無様に足掻いとけ。だがお前に渡す情報は無いと思え」
あれこれ考えていたら、いつの間にか距離を詰めて明真が幽子を見下ろしていた。気づいた幽子は弾かれたように飛び退る。
「さっきまで粋がってたくせに見下ろすとそのザマかよ」
勝ち誇った笑みの明真の言葉を聞いて、幽子は内心で首を捻る。彼の言葉が不思議な訳ではない。近づかれて一気に総毛立ったからである。
(あれ、何でかな)
裕典の時もそうだったが、彼らが近づくと物凄く嫌な気分になるのである。それこそ最初期の頃の武瑠に少し近い。彼らの纏う霊力のせいもあるかもしれないが、その頃の武瑠以上に幽子は彼らに拒否反応を示していた。
「相剋だからですよ。こればかりは仕方ないです」
幽子は何とか返答したが、言い訳にしか聞こえないと自分でも思った。
「まあいい。とりあえずそれの試着はしておけ。夕食の時に何も言わなければ翌日申し立てたとしても取り替えてやらないからな」
言うだけ言って彼は部屋を退出する。それを見届けた幽子は、大きく息を吐いてそのままずるずると床にへたり込んだ。
(煽るのは辞めにしよう……霊力が思ったより削られた)
半分は自業自得だから仕方ないにしても、あちらもあちらで乗せられやすいことが発覚した。下手につつくと蛇どころか鬼が出てきそうである。短気を利用して情報を引き出そうと画策していたのに、すんでのところで躱されてしまい幽子は悔しそうに床を叩いた。
(意地悪されそうだから試着してみるか)
幽子は深呼吸を何度か行い、霊力が幾ばくか戻ってきたのを確認してからゆっくりと立ち上がる。少しだけふらついたが動くのには支障がない。ベッドに明真から受け取った物を一度置いて服を脱ぎ、足袋を履いてから白衣と紐と帯を手に取り姿見へと向かう。
(白衣長い……武瑠君から借りた弓道着よりも丈がある)
白衣は足首くらいまであるのでどちらかと言うと長襦袢に近い。和服を着る時の癖で襟を抜きそうになったが確か巫女装束を着ている人は男性の着物のように襟が詰まっていた気がする。しっかりと襟元を整えてから紐でしっかりと結び、紐の下を引っ張って襟元の緩みを無くした。
(あ、和装の肌着がない。あと襦袢も)
しっかり白衣を着てから遅れて気づく。わざと忘れたのかそれともたまたまなのか。明真の杜撰さに少し呆れたが自分が着たことのない服を全部揃えるのは難しいかもしれないと思い直した。
(何かこれだとまるで弓道着みたい)
弓道着なら肌着も襦袢も無くても着れるのだが流石に同じような着方を巫女装束でするとは思わず、苦笑いが微かに浮かべる少女がこちらを見返していた。
次に白い帯を取って片方を半分に折り、もう片方はそのままにして腰に当てる。
(あれ、帯短い?)
幽子は巫女装束を着付けたことがないので弓道着と同じように着付ければ良いと考えていた。だが帯が想定よりも短く同じ結び方ができるかどうかが少し怪しい。さらに幽子は武瑠に教えられながら帯を結んでいたので一人で結んだことは無い。控えめに言ってかなり不安である。
(仕方ない。うろ覚えだけど何とかしてみる)
だがこれが中々上手くいかなかった。片ばさみという結び方を試行錯誤しているが、武瑠に教わった通りには何故かできない。かなり簡単にできる結び方と武瑠は言っていたが、きっとそれは嘘だと幽子は思う。武瑠は幼い頃から鍛えられているし、帯を締めるのも慣れているから簡単にできると言っているだけである。
(成績優秀な人に勉強の仕方を聞いても、普通にしてるだけって言うのと多分同じだわ)
幽子はドのつく素人だ。武瑠から言わせると、幽子には武術のセンスはない訳ではないらしい。武術の弓は上達してると言われたので、彼女にできるのは弓と簡単な護身術だけである。圧倒的にパワーがないのである。すばしっこさには自信はあるし、それは武瑠も認めているがそれだけなのだ。手数を代わりに増やしても、元々が軽いので大した打撃にはならないのである。スタミナは無い訳ではないが、力技で来られると彼女にはほぼ勝ち目がない。幽子に出来ることは、相手の隙きを突いて確実に急所を狙うことだけだ。
結局もたもたして帯を締めるだけで20分ほど時間を費やしていることに気づいた幽子は適当に帯をぐるぐると巻いて帯の端を巻いた所に差し込んでごまかした。
(後で幽界で武瑠君に教えてもらおう……)
少しだけ幽子は落ち込んだがまだ袴を履いていないことを思いだして少し重い足取りでテーブルにある緋袴を手に取り姿見へと戻る。
(ん? キュロットじゃない?)
袴に足を入れて違和感に気づく。幽子は袴が二種類あることを知らなかったので武瑠の袴との違いに首を傾げた。基本男性用の袴は馬乗りと呼ばれ、キュロットのように二股になっているもの、女性用は行灯と呼ばれ長いスカートになっているものである。道着しか着たことがない幽子は馬乗りしか知らないのだ。
(これ女性用なのかな。腰板もないしスカートだし)
前の部分を胸の下に当ててから紐を結んで後ろの部分の紐を前に持ってくる前にヘラを帯に差し込むのも忘れない。困ったのは前で結ぶ紐が太く、いつもしている結び方をしようとするとうまくいかないことである。
(女性用の袴って難しいわ……)
再び結び方で手こずる羽目になるとは思わず幽子は頭を押さえる。いい加減自分の不器用さに怒りを通り越して呆れてきた。結局上手く結ぶことができなかったので前で紐を交差させて袴の隙間に紐を通して後ろで結んだ。姿見を凝視して乱れがないか、サイズが合っているかを確認する。着付けそのものよりも帯や紐の結び方で時間を食ったがそもそも見えないので全く問題がないことに少しだけ安堵する。時計をちらりと見やると着付けを初めて既に40分ほど時間が経過したのを見てため息をついた。千早は軽く羽織り、赤い紐を前で結ぶだけの簡単なものである。少し大きい気もするがこれが標準なのかもしれない。
(うう……裾がもそもそして動きにくい)
只でさえ白衣が足首まであってその裾が纏わりついて動きを妨げるのに袴を履くと白衣と袴の摩擦のせいでさらに動きにくくなった。大股で歩くのはほぼ難しいだろう。飛んだり跳ねたりできる道着とはだいぶ違った。
(動く練習しないと決闘に支障が出るかな)
十中八九この装束で出雲大社に連れて行かれるだろう。試しにこのまま部屋をうろうろしたり走ったりしたが足の動きが洋服の時よりも制限されて走るのは難しかった。武瑠に教わった武術の型の再現もしたがやはり足に纏わりつく袴がかなり邪魔でほとんど上半身しか動かない。
(まあいいや。決闘は決闘でも霊力のぶつけ合いだもの。あんまり動かなくても問題はないわ)
接近戦に持ち込まれると幽子の方が不利だ。あえて武瑠は幽子に防御の方法を教えていない。それは防御をすると彼女の体に負担がかかることを彼が見抜いたからである。そもそも防御は相手の攻撃の半分以上の力があって初めて成立するものであり、骨格がきゃしゃな幽子では受け止めきれないのだ。そんな不確実なものよりも、彼女の身上である敏捷さを鍛えて、回避に特化した方がまだ勝算があると武瑠は踏んで、幽子に動体視力を身に着けさせるべく何度も拳を彼女に突き出して寸止めするのを繰り返したこともあった。自分に当たらないと言い聞かせても、飛んでくる拳は速く鋭いのでついつい体をのけ反ることは少なくない。
(あれは本当に怖かったな……)
武術を教えている時の武瑠は本当に恐ろしい。元々の顔立ちに加えてピリピリとした雰囲気を醸し出しているし、鋭い声で注意もされる。それだけならまだ可愛い方なのだが、幽子の受け身の時の変な癖を見つけたりするとすぐに一度中断し、羅刹もかくやと言うほどの形相で彼女を睨みつけて叱責が飛ぶのだ。
(あれだ、理科の実験の時に先生が異常にガミガミ注意するのに似てるのよ)
全ては幽子の身の安全の為とはいえ怒られるのは怖い。だが武瑠の指導で、幽子は一度も怪我をしたことがないのもまた事実だ。手や足首を捻挫することもないし、受け身を取らせる練習の時に幽子を投げるが、必ずそれは武瑠の部屋のベッドで行う。ちなみに幽子は武瑠にベッドに向かって投げられるのが好きである。一瞬ふわりと無重力になるあの瞬間がたまらなく好きで、封印の前に必ず武瑠に投げてとせがむのが幽子の日課の一つになった。最初は武瑠も渋っていたが、やがて根負けしてしまったようで、最近はノリノリで投げてくる。そのお陰で受け身は完璧に取れるようになった。幽子を投げるその手つきはいつも優しい。
(武瑠君は私を気遣ってくれてるわ)
慣れないうちは筋肉痛が酷かったが、それは幽子が余計な筋肉を動かしているからと武瑠に指摘され、むしろその状態で積極的に動いてみろと指導があった。彼の言うとおり、筋肉痛がある状態で動いた方が無駄な動きをしにくくなったし、信じられないことに筋肉痛の治る速さが上がったのである。慣れもあるのかもしれないが、筋肉痛の時こそ動けというのは武瑠の口癖の一つだ。
(武瑠君には教えられてるばかりね)
幽子はそのお礼に指導が終わると、疲労回復の術式を刻んでいる。武瑠は幽子の霊力だけでいいと最初は言っていたが、術式の練習もしたいと伝えると引き受けてくれた。霊力を流すのはお手の物で、武瑠を感電させることはなくなったし、何より武瑠がかなり喜んでいるので幽子もつられて嬉しくなるのだ。
(でも魂には刻ませてくれないのよね……まだ未熟だからかな)
とはいえ仕組みを聞いても今ひとつ理解できていないので出来なくて当然なのだがそれで落ち込む幽子を武瑠は責めなかった。
(そんなことよりも大国主命様に決闘を申し込む交渉の文句とか私を攫った目的を考えないとね)
幽子は巫女装束のままソファーに座り、思考の海の中に自ら身を踊らせた。