巡らせる瞳
(意外とチョロいな。でもこれ以上詮索はできんか)
武瑠は掴まれてよれた場所をそのままに頭をかく。あの様子では幽子にも何も話していないに違いない。
(今の状態で情報収集は難しいな……あいつら何を企んでいる?)
幽子を亡き者にする訳にはいかない。それは護衛としてではなく武瑠個人の考えである。そのためにはなるべく相手の情報があった方が良い。
(現当主……いや、権宮司はシロだ。何とか味方についてもらえないだろうか)
幽子を攫ったのは明らかにあの二人組と議長の独断である。自らの領内で勝手に引っ掻き回すなんてことを権宮司が許すはずも無い。問題は彼と接触する手段が皆無な点である。
(そういえば何でわざわざ幽子を攫った? しかも大国主様が唯一現世で顕現できるこの出雲の地で)
一番分からないのはそこだ。幽子が脅威ならどこか人の目撃されない場所で亡き者にすればいいだけの話である。側にいる武瑠を痛めつけてからいくらでもそれは可能な筈だ。大国主命が怨霊として顕現なんてしたらそれこそ本当に帝にとって脅威となり得る。
帝の側近たる御影家がそんなリスクが高いことをするだろうか?
同じく影の皇族と呼ばれる出雲国造にも忠誠を誓っているのに?
(大国主様を何としてでも顕現する必要があるのか? 一体何のために?)
考えられるとしたら大国主命の言葉を幽子の口を通して聞くことだろうか。または顕現させた上で大国主命を血吸で斬りつけて再び幽界へと戻すのか。
(駄目だ、全く何も浮かんで来ない)
色々考えたらお腹が空いたので目の前にある昼食に手を付ける。考えが出ない以上無駄に脳を働かせる必要もない。いつもよりも遅めの食事ということもあってついついがっついてしまう。噛んでいるのも謎だった。
(美味いな)
味噌汁だけは熱いので最後に手を付けたがその味噌汁は未だに湯気をたてていた所を見るとひょっとしたら10分も経たずに平らげようとしているらしい。
(あんまり早食いすると幽子に怒られるか)
何度か早食いを目撃されて武瑠は幽子に小言を言われたことを思いだしてふっと笑う。彼女のことを思い浮かべると今幽子がこの場にいないことを少し寂しく感じた。
(一人で飯食うのはかなり久しぶりだな)
当初は夕食だけは時間帯がバラバラだったが、それも幽子が天野家に来てからは彼女と二人で夕食を食べていたので一人でご飯を食べる機会は皆無になっていた。
「ごちそうさまでした」
食べ終わると部屋を物色しに立ち上がる。何気なくベッドに近づくと白い寝間着と浅葱色の袴と白衣が畳んで置いてあるのをみて軽く驚いた。
(神職の格好じゃねえか)
最初に裕典に部屋に押し込められた時に着替えは用意してあると言われたがまさか神職の服だとは思っていなかった。
(祭りには俺も参加予定なのか? そんなの聞いてないぞ?)
着替えが神職の服なら恐らくその可能性が高い。どんな祭りが執り行われるかまでは武瑠も知らないがしっかり準備している所を見ると武瑠も一緒に攫うつもりだったようだ。
(まさか俺が……素戔嗚尊と相性が良いのがバレてるのか? いや、それは無いか。あれは天野家の秘密。家族と幽子以外は知らないし幽子にも口止めはしてあるし、第一幽子に伝えたのは幽界だからそもそも漏れる心配はないし)
裕典を脅して武瑠と幽子を攫った理由を吐かたいと一瞬本気で考えた。いかんせん情報が少なすぎて憶測ばかりが拡大している。憶測に振り回されるのは嫌だ。
(幽子と一度幽界で相談してみるか)
頭がパンク寸前なのを静めるために再び部屋をうろついてタンスの引き出しという引き出しを開けたりクローゼットなどの収納を全て確認する。タンスの中からは作務衣が出てきたのであちらから指定してこないのであればそれを着ておけということなのかもしれない。
(それにしても広い部屋だな。設備も充実しているし……元々は客人のための部屋なんだろう)
玄関のすぐ近くのドアにはトイレもバスタブもあるし、何故か映らないテレビもあるしでまるでホテルである。窓も大きく、そこから見える池が美しいこともあり物見遊山に来た気分になれる。
(部屋からは出られないがな)
軟禁されていることが残念でならない。暇つぶしのできる物は持ってきていないし部屋の中にも見当たらないし、おまけにテレビも映らないとなると本当にやることがないのだ。窓からの景色をソファーからぼんやりと眺めるくらいしか武瑠にできることはなかった。それも5分すると飽きてしまい、立ち上がって窓の方へ向かう。
何気なく窓の鍵に手をかけるとまたもやその手が弾かれる。静電気が走ったような小さな痛みがした。
(そりゃそうか。ドアも駄目なら窓も駄目に決まってるよな)
窓ガラスに触れようとしても指先がビリビリと痛みを訴える。同じことが起きると分かっていてもどうしても試してみたいという欲求の方が勝った。
(幽子が霊力で実験する気持ちが分かったような気がする)
じんじんと痛む手をさする武瑠だが試したことへの後悔は不思議となかった。彼女の場合暇だからではなく単なる好奇心だろうが、あれこれ自分で試してみるというのも悪くない。だが幽子の場合は自分の体でも実験しようとするのでそこだけは自重して欲しいところである。
(仕方ないから鍛えるか)
武瑠はベッドに乗っている白衣と浅葱色の袴をテーブルに置くとベッドの上で腹筋を始めた。
予告どおり30分後に裕典が空のトレイを回収にやってきたので武瑠は腕立て伏せを中断してトレイを持ち出して入るように促す。
「わざわざありがとな」
裕典はドアの前に武瑠がいるとは思わなかったらしくドアノブを握ったままの状態で固まった。
回収に来てくれるのは素直に嬉しいので礼を言うと僅かに裕典の顎が引かれる。トレイを渡そうとしたら、彼が手に持っていた布を掴まされる。何かと思えばそれは紺色の角帯と紐だった。そういえばタンスにも他の収納にも入っていなかったと今になって思い出す。白衣の上に締める帯は袴を着る前には必須なのだ。トレイと引き換えにそれを受け取ると何故かそのまま棒立ちになっている裕典。何か用があるのかと武瑠は訝しんで声をかけようと思ったがその前に裕典の口が開かれた。
「ベッドにある装束を試着するように。帯を用意するのを忘れたから今渡した。今日中にサイズだけ確認して欲しい。夕食の時間にもしサイズが合わないなら取り替える」
それだけ言って目の前でドアが閉まる。武瑠が詮索してくるのを防いだのかもしれない。言いたいことだけ言って消えられるのは、何だか癪である。それでもサイズ云々を伝えてきたのはあちらなりの気遣いか。
「ちぇっ。手合わせを頼もうと思ったのによ」
体を動かすのは大好きだが、一人で動かすとなるとできることが限られる。しかも得物なんてないので、せいぜい空手の型を一通りやるか筋トレするかしかできない。霊力を高めての瞑想も、この条件下ではできるかどうか怪しい。霊力をいたずらに使うとその都度首が絞まるなんて勘弁である。
「まあ組み手やってくれって言っても断られる可能性が高いか」
指の関節をポキポキと鳴らしながらボソボソと一人で呟いた。武瑠は独り言を言う人間ではないが軟禁状態にされてストレスでも溜まっているのだろう、心の声がついつい口をついて出てくる。
(……あ、そうだ。袴のサイズがどうとか言われてたな)
裕典に言われたとおりテーブルにある白衣と袴を再びベッドに置いて、服を脱ぎ始める。タンスの横に姿見があるので白衣に腕を通して紐と角帯を持ちその前に立つ。白衣の襟元を整えたら紐を結んでしっかりと紐の下の部分を引っ張り襟元のだぶつきを無くし、角帯を手にして片方だけ半分に折って残りはそのままに巻き付けて、慣れた手つきで結び始める。
武瑠が結んでいるのは片ばさみと呼ばれる結び方で、見た目よりもほどけにくさを重視した結び方である。大して結ぶのに時間もかからないし背中がすっきりするので昔は着流しに刀を差す時によくこの結び方をしたらしい。つまりほどけることはまずないのだ。弓を引く時も竹刀を持つときも武瑠はこの結び方をしている。
ものの5分で結び終わった武瑠は帯の形を整えた後、そのまま帯全体を掴んで右側に回して結び目を後ろに移動させる。慣れたら後ろで綺麗に結べるようになるらしいが何となく不安なので必ず前で作ってから結び目を後ろに回している。
(後ろで結んでいる人は見たことがないがな)
帯ができたので袴を手にして再び姿見の前に立つ。袴の裾の位置はくるぶしよりも少し上にする。あまり短いと不格好になるし、逆に長いと裾を擦りそうで怖い。袴の後ろの部分にはヘラがあるので、それを帯に差し込んだ。結び方は一瞬悩んだが普段している結び方にしても、以前出雲大社に来たときは何も言われなかったのでそのままするすると結び始める。駒結びと呼ばれており、どうやら一般的な結び方ではないらしいがそれしか結ぶことができない。一文字や十文字といった結び方が主流らしいが儀礼で結ぶことが多いようで動きが多いと着崩れる恐れがあるとも聞いたことがあり、あえてその結び方を覚えていないのである。
(サイズは問題ないな)
鏡を見てもたつきや緩みがないか入念にチェックする。試着ではあるのだが、神職の装束を着るのは久しぶりなので、いつもよりも時間をかけて着付けてしまった。普段は使い込んだ紺色の袴しか着ないので、ほぼ新品のようなパリッとした袴を着付けるのは何だか気分が高揚する。
(そういえば雪駄と足袋もないな)
雪駄はともかく足袋が無いのは困る。ちなみに今は靴下を履いているだけだ。装束には足袋もセットなのにかなりこれではちぐはぐで落ち着かない。
(このまま夕食まで待って袴の結び方を聞いて、それからこの部屋にない足袋を要求するか)
どのみちサイズはLかLLなので、どうせならあの時に足袋も渡してくれたら良かったのにと、今ここにいない裕典に心の中で毒づいた武瑠は、現状整理と幽子達を攫った目的を洗い出すべく持ってきた鞄を漁って筆箱とノートを取り出し、しばし物思いに耽った。