囚われの蝶
一瞬何が起こったかが分からなかった。景色が遠ざかったと思えば急に近づいてきた景色は先程まで見ていた景色とは全く異なっていて幽子は混乱する。何度か瞬きしたが見える物は変わらない。もうどうにでもなれと思って固く目を閉じてすぐに開くと見覚えのない部屋に武瑠と共に立っていた。武瑠はしきりに首を振っている。どうやら考えることは同じようだ。
「幽子、怪我は?」
押し殺した声と鳶色の射抜く目線が恐ろしい。幽子は罪悪感はあったものの先程の行動については全く反省していなかった。
「見た目ほど深くないわ。頸動脈は切ってないもの」
そう言って首元を見せる。加減して首を動かしたので傷口はごく浅い。せいぜいナイフで指を掠った程度の深さだ。刀は上手く扱えば人間の首を一太刀で跳ねることができると聞くので加減したという幽子の言い分は間違っていない。ピリピリとした視線を感じるが霊力だけは撒き散らしていないのは彼の気遣いだろうか。それでも武瑠が過去最大規模で怒っているのは間違いなかった。
「二度とこんなことはするな。俺の寿命を縮める気か」
厳しい口調が武瑠の口をついて出るがさり気なく彼は幽子に霊力を流す。
「ごめんなさい。ああしないと平行線だったしちょっと嫌がらせしたくなって。見事にあの人達は度肝を抜かれてたわ。武瑠君以外の金行は嫌いよ」
耳元でそう囁かれて武瑠は深い深いため息をつく。色々言いたいことがあるが裕典がこちらを睨んでいるのでなんとか腹の中に押し込める。その代わり流す霊力に抗議の気持ちを込めた。後半の台詞に少し舞い上がったのは内緒である。
幽子は少しぐらついてはいるが武瑠が霊力を流してくれるおかげでなんとか立っていられた。血吸に霊力を斬られたのが堪えていたので武瑠の行動はありがたい。その礼の気持ちを込めて幽子も繋いだ手から武瑠に霊力を流す。
「どうやら成功した模様。酔いはないか」
裕典が抑揚の無い声で話しかけてくる。二人は顔を見合わせたがそれぞれに答えを言った。
「気持ち悪くはないです。何が起こったかは把握してませんが」
「酔うなんてなかったぞ。目眩もないがここはどこなんだ?」
裕典の目が見開かれた気がした。
「……流石は随一の霊力持ちか。初めての人間は大抵酔うというのにな」
転移を使った、とそのままのたまう裕典。明真はどうもここにはいないようだ。現在幽子達のいる場所はコンクリートがむき出しになった窓の無い部屋である。地下室か何かだろうか。床には黒々とした草書体が彩っており、何かの術式が幽子達に施されたとひと目で分かった。本棚には本が所狭しと詰められており、その隣の棚には何かの薬品がいくつも入っている。
「転移? そんな術があるのですか?」
「転移だと? あの噂は本当だったのか」
幽子は全く心当たりがないが武瑠はどうやら合点がいったようである。
「武瑠君、どういうこと? 噂って?」
「転移は禁術の一つだ。帝の元に参内するのが主な用途で私用には使えないと聞いたことがある」
転移はごく限られた者しか使うことはできない。使えるのは帝に参内を許された家の人間だけである。あとは関係の深い家同士の行き来にもつかわれる。というのも霊力持ちは基本全国に点在しており、家の行き来だけでも時間がかかる場合が多いし、帝が明治に京都から東京へと移ったことで転移の必要性が急激に高まり、術を構成するに至ったという経緯がある。
「まるで魔法みたいね……でも禁術なんだ……そりゃそうか。こんなのホイホイ使われたら電車とかバスとか飛行機なんていらないもんね」
転移なんて気軽に使えたら交通機関に携わる会社から猛抗議が来そうである。
「なあ、これは転移の私用じゃないのか?」
武瑠が訪ねたが裕典にぎろりとにらまれたのみだ。更に彼は武瑠の発言には答えず幽子の首元の傷口を見た。
「手当をしよう。ついてこい」
短く裕典が言うと彼は部屋のドアノブを回す。階段が現れるのを見て幽子は自分の予想が当たったと感じた。階段を登る際、武瑠に何やら耳打ちされ、その内容を理解した幽子は彼に向かって頷いてみせた。こっそりと武瑠の血吸を素手で受け止めた手のことを聞いてみたが無言でその手を見せられ、問題ないと返ってきた。確かに見た感じでは傷は浅い。幽子よりも深く切った筈なのに、浅い理由が浮かばない。まるで紙で切ったのと同じくらいの傷である。不思議に思ってその理由を聞くと、自身の霊力である程度反発させたからだと武瑠は答えた。どうやら傷が深くなったり、霊力をごっそり失うのは幽子だけらしい。
短い階段を登り終わると暗く広い場所に出る。倉庫のような据えた匂いが幽子の鼻をつき、ひょっとしたら蔵のような建物なのかと想像した。目が慣れてくると畳やら大きな段ボールやらが雑多に積まれているのが見て取れる。天井は高く、格子のような場所からは日光が細かいチリを浮かばせながら差し込んでいた。何故か大きな額縁に絵が飾られていて幽子は驚く。その絵には海と砂浜、そしてその右側に松の生えた巨大な岩が描かれており、その岩には小さな鳥居がある。
(何の絵かな……しかもこれ、どう見ても水墨画なのに額縁ついてるし)
油絵でも何でもないのに額縁がある理由はいくら頭を捻っても分からない。絵巻を無理に額縁に入れたと考える方がしっくり来るが詳細は暗くてよく見えないのだ。
蔵の扉が開かれると落ち葉と共に木枯らしが吹き込んで裕典の舌打ちが僅かに聞こえる。そこに広がるのは明らかに繁華街ではなく、池が近くにある長閑な光景だった。池に沿って大きな屋敷のような建物も見られる。
「……本当に転移を使ったのか。しかもここは出雲大社に近いところだな?」
裕典は一瞬武瑠の方を振り向いて頷いた。幽子は出雲大社という言葉にあまり反応を示さなかったが動揺しているのは見て取れる。
「武瑠君よく知ってるね……そういえば私達が出会ったのは境内だったわ……」
最悪な出会いを幽子は思い出して苦い物を口にした時のような顔をする。殺すとか監禁するとか恐ろしいことを言われて慄いた記憶があり、できれば思い出したくもなかった。
「ああ、俺はここで手伝いをしていただけだ。人手が足りずに呼ばれたってのは表向きで実際は幽子がどんな人間かを見極めるためだった。封印の状況を視るついでだな」
「じゃああの時武瑠君は私を探してたの……?」
幽子はあの時単に脅されてたという風にしか受け取っていなかったが、よく思い出してみると明らかに幽子を知っていたような口ぶりだった。殺す発言のインパクトが強すぎて他の会話が頭に入っていなかったのだ。
「そうだ。そこまでしなくても幽子の霊力は境内に入ってきた時から分かっていたぞ。ここの参拝者は必ず八足門まで来るからそこで待ち伏せしていた」
(まるで仕組まれていたみたいね……修学旅行先が出雲大社だったのは偶然かもしれないけど……あれ?)
出雲に住んでいて一週間で転校なんてできるものなのだろうか。今更な疑問だがどうしても気になった。
「ねえ武瑠君。転校って出雲からだよね? 一週間でできるものなの?」
「いや、違う。俺があの時幽子と会ったのは単に俺が呼ばれただけで元々天野家は今の場所から動いていない。以前俺は隣の校区の学校に通っていて幽子を見つけた後に転校の手続きを取った。最初から俺と接触していたら幽子にどんな影響があるかが未知数だったから遠くても違う校区の学校に通ってた。どっちみち前の学校は遠かったから転校してきて良かったと思ってる」
(あの出会いは偶然じゃなかったのね……でも私が出雲大社に行かなかったらどうやって私に接触したのかな)
「それにしても出来すぎよ。最初から仕組んでたの?」
「仕組んでたも何も天野家はずっと幽子の動向を見ていたぞ? 封印を施した家の子供を気にするのは当たり前だ。天野家は九鬼家に巫女が産まれたら必ずその子供を守る責務がある。天野家が介入する前は巫女は殺されたり霊力過多による暴走で命を落としていたらしいからな。幽子の二つ前の巫女からは天野家のおかげでその天寿を全うしたって話だ。幽子のように大国主様に強く惹き寄せられる力は無かったようだが」
幽子は沈黙する。幽子のことはとうの昔から武瑠は知っていたのだ。知らなかったのは幽子だけである。背景を考えると仕方のないことだとはいえ複雑な気持ちになった。
「じゃあ私がもし出雲大社に行かなかったらどう接触してたの?」
「それなら九鬼家に挨拶に行って幽子に事情を説明するつもりだった。というか幽子が出雲大社に行くってなったから俺も行ったと言う方が正しい。人手不足なのは本当だったらしいがな」
(まさかの正面突破なのね)
幽子は未だに自分が蚊帳の外だったのが不満である。もし最初から自分の事情がわかってるなら家族とあんな風に拗れたりはしなかっただろう。両親や颯太に疎まれもしなかっただろうに。
(だめ、無かったことを考えても仕方ない)
幽子は頭を振って先程の考えを振り払う。幽子は天野家が好きだ。幽子のことを本当の家族のように扱う彼らに感謝している。それでいいではないか。
(血の繋がりなんて関係ないわ……)
話しているうちに池の近くにある屋敷に入っていたようだ。外観を見たかったのだがこの状況でそんな贅沢は言えない。長い廊下を見渡すとドアがいくつかそこそこの間隔を開けて存在している。その様子はホテルのようであり、酷い扱いを受けると予想していた幽子は混乱した。
(立派な所ね……こんなところにどうして?)
「貴女はここへ」
そう裕典に言われていきなり近くのドアの中に押し込められる。当然武瑠とは引き離されるらしい。
(共謀して逃げられる訳にはいかないもんね)
幽子は押し込まれた部屋を見渡すとベットを始め小ぶりなデスクにローテーブルを囲むソファーやクローゼットにローチェストといった家具が置いてあり驚く。入口の右手にはドアがあり、ドアノブをひねるとトイレと洗面台にバスタブまであるのを確認した。部屋自体もそこそこ広めで幽子が天野家に与えられている6畳ほどの部屋よりも3倍ほど大きく、それに比例して窓も大きかった。池に面しているようで景色も良い。池を通り越した奥は特徴的な屋根をもつ出雲大社の建物が小さいが見て取れた。
(ホテルのようだって思ったのは間違ってないみたい。それにしても立派な部屋ね)
てっきり虜囚のように座敷牢のようなところに入れられると思っていたが嬉しい誤算である。状況はあまり喜べないものではあるが心理的には楽である。
(武瑠君どこいったのかな)
幽子は振り向いて部屋を出ようとしてドアノブに手をかける。
「いたっ!」
しかし彼女の手はドアノブを握った途端に弾かれることになった。ぱっと手が弾かれてその衝撃の大きさに思わず3歩ほど後ずさる。ドアには何かの文様が浮かび上がっていたがほんの数秒で消えてしまった。
(なるほどここから出す気は毛頭ないと)
じんじんと痛みを訴える手をさすり、恨めしげにドアを睨む。きっとここに入った人間を出さないような術式が掛けられているに違いない。
(前言撤回。ここは座敷牢のようなものね)
いくら部屋が立派だとしても行動に制限が掛けられているなら例え格子が無くたって座敷牢と呼んでも差し支えはあるまい。幽子は諦めて部屋の奥に進んでソファーに腰を下ろす。テレビまで設えてあり十分寛げるようになっている。ちなみにリモコンはなく、テレビの主電源をいじったが、黒々とした画面には、必死でテレビ相手に格闘している自分を映すのみである。
(そうだ、私が電気を通せばつくかも)
さしてテレビを見ることに興味はないのだがやれることはやっておきたいと思う。電波も傍受できるかもしれない。電気と電磁波は同一のものであり、幽子はそれを操れる。電磁波はラジオでしか操ったことはないのだが波長を調節すれば何とかなると幽子は考えている。ラジオとテレビの波長はテレビの方が短い。地震が起きてもラジオの方が電波を拾えるのは電波の波長が長いからだ。波長が長ければ長いほど電波は遠くに届きやすい。例え障害物があったとしてもぶつかると回り込む性質がある。波長が短ければ短いと回り込む力は弱まるらしい。ただし障害物が金属なら電波は反射する。これは電波に限らず電磁波全般に言えることだ。金属に囲まれたエレベーターなどで携帯のアンテナが不安定になるのはそのせいである。
(あれ?)
テレビに手を添えて霊力を集中させようとしても何も起こらない。もう一度やってみても同じである。べしべしとテレビを叩いても駄目だった。
(テレビ叩いて直るのはブラウン管テレビだけか)
液晶テレビはこの限りではないようだ。
(いや、そんなことよりも霊力込めても発動しないってどういうこと?)
正確には霊力すら湧き上がって来ないと言うべきか。
(出られないドアといい霊力が使えないといい、この部屋は普通じゃない)
てっきりドアだけに術式が刻まれているのかと思っていたがこの部屋全体にも霊力に影響を及ぼす術式がかけられているのだろう。窓の鍵にも手を伸ばしたがやはりドアと同じく伸ばした手が弾かれた。窓そのものに触れても同様である。
(窓に近づくのは止めよう)
幽子はげんなりして窓を睨む。再びソファーに座ったが目眩がしたのでそのまま横になった。ノックが聞こえたのでどうぞと言いながら体を起こそうとしたが上手く動けずにそのまま裕典が入ってくるのを見届ける。何故かお盆を持って入ってきており、そこには何やら緑色のどろりとした液体が満たされたコップがあった。それをソファーの目の前に置いた裕典は徐に口を開く。
「傷をみせろ」
そう彼は言ったが実際に行ったのは傷を見ることでなく幽子の手を掴んだことだった。
「えっ、ちょっと離してったら」
手を掴まれた瞬間ぞわりと肌が粟立つのを感じる。
「治癒の術式を施す。動くな」
言うが早いか霊力を流され術式が施される。注がれる霊力が恐ろしい。幽子は思わずその手を振り払いたくなったが霊力が湧き上がらない以上何もできなかった。
(霊力さえあればこの人を感電させられるのに)
武瑠がいかに幽子を丁重に扱っていたかがよく分かった。霊力を流されて拒否反応が起こるのは単に霊力の相性が悪いだけということに幽子は気づいていない。
術式が施されるとピリピリしていた痛みが引いて代わりに傷口が痒くなる。どうやら今ので傷はふさがったらしい。思わず首に手をやると鋭い眼光が飛んできて掻く前にその手を引っ込めた。
「ありがとうございます……って言いたいところですが」
前半は頭を下げて感謝の意を述べるがその後は裕典に大して低い声で話す。
「武瑠君に呪いを掛けたのは貴方ですね?」
裕典は無表情を幽子に向けた。