朱の憤懣
「何なのよあのぼんくらは! あいつのせいで幽子ちゃんがあんなことになったんじゃないの!」
陽子が拳を握りしめて自分の膝に落とす。
「姉さん声が大きい」
「頼むから霊力を引っ込めてくれ……」
どこか冷めた目つきをした弟と青い顔をして冷や汗をかいている弟が抗議の声を上げる。陽子は終始落ち着かない態度の幽子の晩御飯が終わるや否やお風呂の準備をして散々幽子を甘やかしていた。幽子から事件の説明を受けたときは妙なストーカー達を殴り倒したくなったがぐっとこらえた。
そして幽子が風呂に入ってここにはいなくなったのを見計らい、朋樹の部屋で兄弟3人で顔を突き合わせていた。晩御飯の途中で帰ってきた両親にも今日のことを伝え終えてある。天野家当主は忙しいようで今回の事件の解決は子供たちにさせると決めているらしい。幽子を迎え入れたことで忙しくなってしまったので彼女にほとんど関われないことを当主は苦悩していたが宮中にも出雲国造の元にも行き来する機会が圧倒的に増えたことで泣く泣く丸投げをせざるを得なかった。
「颯太の奴……やっぱりあいつもぼこぼこにして」
「抑えて抑えて、武瑠が可哀想だ」
(姉さんは相変わらず激情家だなあ……仕方ないっちゃ仕方ないけど)
ガタガタと体を震わす武瑠をこれ以上見るのもいたたまれなくて朋樹も霊力を放出させる。姉の霊力が徐々に収縮するのを見届けると自身の霊力を霧散させた。目に見えてしゅんとしている陽子。一応悪かったとは思っているようだ。
「幽子ちゃん、本当に難儀なことになったわね……ストーカーは何となくだけど幽子ちゃんを殺すつもりはないのでしょうけど」
「殺すつもりがないって何で言い切れる?」
武瑠が陽子に凄んだ。さっきまであんなに震えていたくせに、と思いを込めて陽子が武瑠を睨み返す。
「だって血吸とかそういったものを持ってなかったんでしょう? それに、今回はただの偵察な気がするわね。幽子ちゃんに武瑠がべったりなのはとっくに知られてるのにわざわざ二人を狙うのは変よ」
「……誰がべったりだ誰が」
不服そうな声がしたが陽子は歯牙にもかけない。
「姉さんに賛成だな。それでも武瑠がしっかり姿隠しを幽子ちゃんに頼んで家に帰ってきたのは正解だった。天野家の場所はバレているだろうけどね。毎日それで登下校した方がいい」
まさか幽子が姿隠しを使えるとは思わなかった。幽子は霊力をあまり消費しないような使い方をあれこれ模索していたんだなと陽子は感心する。姿隠しの効果が切れて朋樹が驚いた経緯を聞いたときは笑いを堪えるのが大変だった。
「できれば学校にも行かせたくないんだが」
「さすがにそれは不自然よ。あんたも自動的に休まないといけなくなるし、それでもし学校に変な霊力持ちがいたら勘付かれるわ。まあ私も家に置いておくのを賛成したい気持ちは山々なんだけどね」
「あの学校の霊力持ちは俺と幽子を除いて3人しかおらん。そのうち一つは玄霧家の娘だ。幽子の友人でもある」
「玄霧がいるの? ……これは好都合なのか不都合なのか……」
玄霧家はどちらかというと閉鎖的な家である。中立を保つ必要があるからなのだろうが、あまり他家と交流を持たないと言われている。何でも、帝お抱えの諜報員の噂があるのだ。
「どう出るか分からんな、あの家は。でも彼女は幽子に危害を加えていないのは確かだ。休み時間は一緒に図書館に行っていたり何やら話して笑っているし」
武瑠は幽子と学校では一切関わりがない。しかしどうしても気になるのでついつい目で追ってしまうことに武瑠は気づいていなかった。
「幽子ちゃんのことよく見ているのね。あんまり相手にされてないみたいだけど」
(止めろよその嫌味を含めた笑い方)
「兄貴もニヤついてんじゃねえよ……話がずれまくる」
武瑠は文字通り頭を抱えた。いちいちからかわれるのは鬱陶しいし、生暖かい目で見られるのも不快である。
「俺さ、幽子ちゃんの霊力暴走の理由は他にもあると思うんだ」
急に朋樹が口にした言葉に陽子が驚く。武瑠は何となく朋樹が言いたいことが分かった。
「それは、何? 朋樹」
「大国主命だよ。今は10月だ。力が強くなってるんじゃない?」
(そうか、神在月か!)
霊力暴走の時の霊力が幽子固有のものと違うのは理解していたがその原因までは思いつかなかった。
「俺もそう思う。幽子から感じた霊力には大国主命の霊力も混じってた」
やはり封印が不完全なのだろうか。
「でも出雲大社の神在月の祭りは11月半ばよ? 早いんじゃない?」
陽子の疑問は最もだ。出雲大社の神在月の祭りは旧暦の10月、つまり現在の暦に合わせると11月に行われる。どちらが基準なのか不明だがやはり祭りの時期の前辺りに変化が起こる方が辻褄が合うだろうに。
「俺たちにとっての神在月の認識と神様にとっての神在月の認識が混ざっているんだろうね。前者は太陽暦、後者は旧暦。……もしそうだとしたら幽子ちゃんは丸々一ヶ月苦しむことになるかもしれない」
厳しい顔をして言う朋樹。誰もが反論できなかった。
「これ以上封印を強めると幽子に影響が出そうだ。魂に刻んでもいいが解呪がややこしいからしたくない」
「父さんにやってもらう? でも術式は武瑠の方が得意だしな……」
「定期的に霊力を吸い出すしかないのかしら……」
ポツリと陽子が言う。対処療法だが無いよりはましな筈だ。武瑠と幽子の双方の協力あってこそだがその点は全く問題はなさそうである。
「ありだな。手を握るだけで簡単だし確実だ」
武瑠が然りと首を縦に振ったが、残りの二人は微妙な顔をしていた。
「何か変なこと言ったか?」
怪訝な表情をしている武瑠に朋樹が何やら耳打ちしてくる。最後まで聞き終わると武瑠は弾かれたように朋樹から距離を取った。
「はっ?! 冗談だろ?! そんなことしたら確実に嫌われる!」
「ほぼ最終手段だ。こちらの方法が一番効率がいいんだよ。意識と霊力を断ち切るよりも簡単だろ?」
茹でダコもかくやと言うほど赤みがさした顔をした武瑠に面白そうに告げる朋樹。何となく陽子は内容を察した。
「……ふざけやがって」
苛立ちとも困惑ともつかない声が漏れた。
「それじゃあお守りを持たせるとかどう? 武瑠の霊力を込めた物にしたら効果抜群だと思うの」
(たまには姉貴も良い事言うな)
武瑠は心の中で姉に向かって合掌した。
「お守りって神社のか?」
「それでもいいけど、身につけて怪しまれない方がいいわね。肌見離さず持ってもらうの」
(肌見離さずって難しいな。中学生だし)
何を幽子に持たせようか。学校にも持って行けて肌身離さず持てるものとは何だろう。
文房具にするか? 否、肌身離さずに持つのは中々難しいだろう。ほぼ鞄の中に入っているだろうし。
ヘアピンにするか? 否、途中で紛失すれば意味がないし、そもそも幽子はそれほど髪が長くない。
栞にするか? 否、いつもそれを持ち歩くとは考えにくい。
(女子の持ち物が分からんな……)
武瑠は一生懸命考えていたものの、該当するものが意外と存在せず愕然とした。無意識に左腕をポリポリとかいていたがそちらに目を向けると小さい赤が膨らんでいるのに気づく。いつの間にか刺されていたらしい。腕時計の近くに跡があってかきにくかった。
「そうか、腕時計なら……!」
手を一度叩きながら世紀の大発見のように口にした。
「え? ひょっとしてあんたのそのゴツい腕時計を幽子ちゃんに渡すの?」
不満そうなのは陽子だけらしい。朋樹はそのまま頷いていたが。
「もう一つ持っているからそっちだな。今つけてるやつはでかいからよろしくない」
「私の時計にあんたの霊力込めなさいよ。それなら」
それを聞いて武瑠は渋面を作り、首を振る。
「いやいや男物でしょ? 幽子ちゃんは華奢なんだから浮いちゃうったら」
「じゃあ今から持ってくるからそれを見てから言ってくれ」
1動作で立ちあがった武瑠は朋樹の部屋を出る。数分してからまたそのドアが開けられた。
「これなら大丈夫だろ」
武瑠のごつごつして豆だらけの手には、男物にしてはやや小ぶりな時計が乗っていた。陽子はそれをつまみ上げて観察する。白い文字盤に青い針の美しい、シルバーの金属バンドの時計だった。あまり使い込まれてはいないようで目立った傷は見当たらない。
「あんたこんなの持ってたの。たぶんだけどこれ男女兼用かもね。綺麗な時計だわ。バンドのサイズを調節したら幽子ちゃんにはぴったりよね」
「武瑠がこんな小さめな時計をつけるタイプだとは思わなかったな。いいね、スイスミリタリーの時計」
いつの間にか朋樹も陽子の手元を覗き込んでいる。
「これならいいだろ。女物にしては太いかもしれんが」
「幽子ちゃんの反応が楽しみね。時計を送る意味分かってたらだけど」
クスクス笑う陽子を顔を真っ赤にして睨みつける武瑠。
「ち、違う! ただ貸し出すだけだ! 11月が終わるまでの期間限定で!」
朋樹も笑いだした。本当にこの二人は人をからかって遊ぶ天才である。
「貸し出し……ねえ? 幽子ちゃんがそれ似合ってたらどうするつもり?」
「うるさい! 兄貴には関係ないだろ!」
声を荒らげているとドアが遠慮がちにノックされる。
(まずい、今の聞かれてたか?)
ぎくりとした武瑠をよそに、外にいる者に声を掛ける朋樹。
「幽子ちゃんかな? どうぞ」
ドアノブが回って幽子が顔を出す。顔を真っ赤にした武瑠と、未だ笑いが止まらない朋樹と、すごく綺麗な笑顔をしている陽子と目があった。
(これどういう状況なの?)
幽子は目を瞬かせていたが、三人を見回すと口を開いた。
「あの、お風呂上がったので呼びに来たの」
「ありがとう幽子ちゃん。じゃあ入ってくるわ」
陽子は幽子の頭を撫でると部屋を後にする。
「朋樹さん失礼しました」
ドアを閉めようとしたらいきなり目の前に大きな手が現れて驚く。単に武瑠がドアを掴んで閉めるのを阻んだだけであった。
「九鬼、話がある」
その顔はいつになく真剣で幽子は戸惑った。大方予想はつくものの、何を言われるかまではぼんやりとしか想像できなかったのだ。
「うん、わかったよ。霊力の交換する?」
朋樹は二人の声が遠ざかるのを黙って聞いていた。
「上手くやれよ、武瑠」
不器用な弟に向けた言葉は武瑠には届かない。それでも何故か口に出てしまった。