4−31 クリスタルの中の魔女
イザベリアの体が安置されている『封魔核』のある部屋の扉は、鉄製の重たい扉であった。
人間の少女の体であるエストには、その扉を開けるのが大変で、今の自分はひ弱な人間なんだなと改めて実感する。
「はあ、はあ、はあ⋯⋯おっも⋯⋯」
いやそれにしても、この扉はあまりにも重すぎる。エストは自身が子供だった頃、牢獄に閉じ込められていた記憶を思い出すが、そのときの牢獄の扉よりも、目の前の扉は何倍も重いと思う。
過呼吸になりながらも、エストは鉄製の扉を開けることに成功した。時間はかかった。
魔法を使えば良かったと、今更ながらに気がつくが、どうやらこの扉には魔法を弾く効果があるようだ。ここまで来た侵入者への、僅かな抗いだろうか。しかし少女の体であるエストでも開けるのだから、意味のない抵抗に過ぎないが。
「──」
無駄に重く、無駄に魔法無効化がある鉄扉を開く。すると、エストの視界には闇が映った。
廊下の光がその闇を微かに照らし、飛び交う埃に反射する。長年外気を取り込まなかった一室はとんでもなく埃っぽくて、エストは咳き込んでしまった。
その一室は、到底人の住む部屋とは思えなかった。
家具の一切がなく、壁や床を造る材質は腐敗しない木ではなく、石材であった。鼠色の表面が滑らかな石材で造られたそこは、切迫感があって、冷たさを感じる。エストは、彼女の過去のトラウマを思い出してしまいそうなくらい、そこは既視感に溢れていた。
石の密室。真っ暗闇の部屋。廊下とは異なり、全然手入れされていないこの部屋には、他に何もなく、ただ唯一、部屋の中央に、青白のクリスタルがあるばかりだった。
「⋯⋯『封魔核』」
青白のクリスタル。六角形から成るそれは、凡そ天然のものであるとは思えないほど純粋であった。一点の曇りさえなく、部屋中に散る埃さえ、クリスタルには触れることができなかった。
エストは発光の魔法を行使し、その全貌を確かめる。
「──っ!」
『封魔核』には、正しい形はない。このクリスタルだって、元は何の変哲もないクリスタルであっただろう。
『封魔核』とは、言わば一種の封印魔法。魔法によって創造されたそれが、『封魔核』となる。だが『封魔核』成り得たるのは、純粋かつ自然の物質でなければならない。クリスタルはその中でも、最も精度の高い『封魔核』の素材になるだろう。
「キミが」
クリスタルの中に封じ込められた核を、エストは見た。
全身が真っ白で、腕や足は細く、まだまだ未熟な体の小柄の少女。彼女の身長くらいある髪は漆黒であった。可憐、という言葉が彼女以上に似合う者は存在しないくらいの美貌を持っている。
千年以上が経過しているというのに、その体は一切の老化を遂げていない。安眠しているかのように、その表情は穏やかであったが、死んでいるという気配もしない。眠っているのだ、目覚めることない永遠の闇の中で──そう、本来は。
「⋯⋯始祖の魔女」
裸体でクリスタルに護られている少女の姿を見て、エストは確信した、彼女こそ、自身が求めた人物であると。
「──イザベリア」
そして思い出した、この墳墓の地上部で何があったかを。
「あの時、私はキミと既に出会っていた。あの強迫観念も、キミが植え付けた⋯⋯記憶」
失われた記憶、イザベリアとの夢の中での対話。全て思い出して、これからようやく挑戦ができるのだと気付かされた。
ここまでの全ては前哨戦で、
「ここからが、本番」
エストは殆ど無意識に、目の前の『封魔核』に触れる。
クリスタルは冷たかった。しかし、体温を感じた。冷たさと温かさを同時に感じるなんていう不可思議な体験をした直後、エストの心臓が早く、大きく、鼓動する。血の流れが途端に速くなり、耳鳴りが静寂を打ち破った。
「っ! はあ⋯⋯あっ!?」
心臓が鼓動する音。血が濁流のように流れる音。頭の中に響くモスキートーン。それらが休む暇さえ彼女に与えず、鳴り続ける。
「──!」
途端、エストの全身を形容し難い不快感が襲う。今までの何より気持ち悪くて、普通に生きていればまず味わうことのない感覚だ。
エストはそれに喘ぐが、声さえ発することができなかった。
体を支える足に力が入らず、いや、全身の力が抜けて、エストの体が冷たい石の床に倒れる。だがそんな状態でも意識と感覚だけはハッキリしていて、思考能力もいつもと何ら変わりない。
冷や汗が流れている。苦しい。痛い。何かが、内側から弾けようと暴れているようだ。
頭に響く音は、全身の血管に流れる血液は、そしてこの苦しみは時間が経てば経つほど増していき、エストの精神を痛めつけていく。
──冷たい冷たい冷たい冷たい冷たい冷たい冷たい冷たい冷たい冷たい冷たい冷たい冷たい冷たい冷たい冷たい。
「──ぁ」
唐突に、脈絡もなく、突然に、あらゆる不快感は、エストを襲うのを止めた。苦しみの渦から開放された彼女は、脱力して、冷たい床に倒れたままだ。力も戻っているが、それを活用する肝心の頭が働いていない。
虚無がエストの心を現在、支配している。
「──ん」
声が出ない。手も足も動かない──動かせない。運動神経が麻痺しているようだ。意識は鮮明になってきているが、まだまだ体は動かせない。
体の中にはまだ、あの冷たさがある。正体のわからない冷たさが、一度感じたことのある冷たさが、まだ抜けない。それどころか、その冷たさは増しているようであった。
冷たさはエストの鮮明だった意識を凍らせていく。脳内に冷気が満ちて、その意識を着実に奪っていっている。
冷たさが眠気を誘い、エストの意識を真っ黒な湖の底へと落としていく。
落ちて、落ちて、落ちていって──。
暗く、暗く、暗くなっていって──。
◆◆◆
──喪失した意識が覚醒する瞬間。瞼に直接光が差して、眠っていた彼女を強制的に起こす。
「──ん、あ⋯⋯」
草原の上に彼女は寝転がっていて、心地良い風が吹いている。頭上に浮かぶのは太陽で、世界を照らし、彼女の額を熱する。
花の香りが彼女の鼻に入ってきて、味覚ではなく嗅覚で甘さを感じた。
何も考えず、何も思わず、ただこの穏やかな世界を堪能していたい。人を怠惰にしてしまうくらい、この世界は優しさに満ちている。
だが不意に、彼女の視界を、一人の少女が覗き込んだ。
「会えて嬉しいよ、エストちゃん。やっと、あなたと触れ合えた」
赤色の瞳には光がない。だけどそんなこと気にならないくらい美しくて、魅惑的。それは彼女の心を支配して、求めてしまいたくなって──、
「⋯⋯っ!」
そこでようやく、エストの意識は今度こそ、眠りの狭間から覚醒する。
「⋯⋯もうちょっとだったのに」
喪服を身に纏い、とても長い黒髪に赤目の少女、イザベリアは、桃色の唇を少し尖らせて、艶やかな表情で、少女の可愛らしさを出して、惜しそうに言った。
「危うくキミの虜になるところだったよ⋯⋯どんな絡繰なのさ?」
先程、エストの無意識の中には、イザベリアを求めてしまう感情があった。あれは明らかに歪められ、生まれたものであった。
「クリスタル⋯⋯『封魔核』を触ったでしょ? あれに触るってことは、私の魂に触るってことなの。だから、あなたの魂と私の魂が混ざり合いかけた、ってこと」
赤と青が混ざれば紫色になるように、二つのものが混ざり合うということは、他の要素を取り込みまた別の完全なものになるということ。
二つの別々の魂が中途半端に混ざり合った場合、どうにかして完全になろうと、混ざろうとしていた魂を求めてしまう。眠りから覚めたエストでさえ、心の中には未だ、イザベリアを求める気持ちがある。
「⋯⋯え? ということは、私の魂は⋯⋯」
「そう。⋯⋯あなたの魂は、今、私の魂と混ざり合いかけた」
「──はっ!?」
魂が混ざり合う。それは文字通り一心になるということ。それに対して何も思わないほど、エストは無頓着ではない。
エストは自身の体を抱きしめるようにして、イザベリアから離れた。
「うっ⋯⋯私の初めてが⋯⋯」
「魂の混ざり合いを何だと思ってるの⋯⋯」
何やら変な方向に勘違いしている頭の中ピンクな白髪少女に、イザベリアは少し困惑したが、すぐさま気を取り直す。
「さて、と。私の思惑も見事に外したし、あなたの目的について話していこうか」
「キミ、本当に性格悪いって言われない?」
イザベリアに頼るしかない現状、エストは彼女が何をしようと、それに納得するしかない。彼女の気分一つでエストの目的の正否が決まるのだから、わざわざご機嫌取りをしなければならないということだ。
「私はわるーい魔女さんだから。好きな子にちょっかいかけたくなるのが、私くらいの年齢の子供なのよ」
「外見年齢でしょ、それ。実年齢なら私の二倍くらいはあるよね?」
「まあね」
イザベリアの考えが全く分からない。彼女が何をしたいか分かれば、振り回されることなくスムーズに交渉ができるのだが、今分かることと言えばエストに比類なき好意を、彼女は持っていることだけだ。
「⋯⋯で、キミは私に何を所望かな?」
要求にはそれ相応の対価が必要だ。魔女の力を取り戻したいともなれば、その対価は非常に大きいものであるだろう。
エストは内心緊張しつつも、それを悟られないように──無意味であるが──イザベリアに聞く。
「そうだね⋯⋯二つある。そのうち片方でも聞き入れてくれれば、あなたの望み、魔女の力を戻してあげる」
「その二つは?」
「まあ、そう急かさない。ここでの時間経過は、現実より遅いから」
イザベリアは子供に言い聞かせるような声色でそう言って、エストに近づいてくる。その際に体が空中に浮かんで、彼女の真っ赤な瞳がエストの目線に合う。
抑えていた『混ざり合いたい』という欲求が先ほどより強くなったが、エストは理性を保つ。本当に、イザベリアの性格は悪い。
「私があなたに望むのは、私にあなたの全てを委ねて欲しいこと。なぜなら、私はあなたを一目見たときから、魔女化の儀式で魂の繋がりを感じたあのときから、あなたに惹かれたの、髪に、瞳に、耳に、口に、手に、足に、外見に、性格に、その才能に。だから、だからだからだからだからだから、欲しいの。私はあなたの虜になってしまっている。空が青いように。山が緑であるように。人が人であるように。それは当然で必然で運命で宿命で定めだった。私はあなたの全てが欲しい。あなたが、あなただから、あなただからこそ、私の『欲望』を叶えることができる。あなた以外じゃそれは成しえない。あなたは特別。あなたは何者にも代用できない。あなたじゃないと駄目。あなたでなければならない。他の存在だと絶対に私の『欲望』は叶わない。満たされない。それができる唯一無二の存在があなたなのだから、私はあなたを何としてでも手に入れたいの。あなたがどれだけ私を拒んでも、どれだけ嫌っても、どれだけ憎悪しても、どれだけ貶しても、私はあなたが大好きで、愛していて、求めていて、逃れられない。それは決して嘘ではないし、これからも変わらない私の想いであることを誓う。だって私がこんなにも愛情を抱いたのはあなたが初めてなんだ。この悠久の時間の間、一度たりともあなた以外にこんな感情を抱いたことはない。あなたが私の『欲望』を目覚めさせたんだ。これまで全く私の中で分からなかったのに、あなたを見たら理解できた。あなたが私を目覚めさせたんだ。絶望という暗黒の世界から。私の心の傷を癒やし、私の心の空白を満たし、私の魂と混ざり合える。それは私を受け入れられるということ。私の魂を受け入れようものなら、普通はその負荷に耐え切れずに死んでしまうんだ。それほど、私は完成された人だった。私は何もかもできて、何もかもを思い通りにできた。でも、私には一つだけできなかったことがある。それは、私は私自身を思い通りにできなかった。私を操れるのは、当時、私を除いてもこの世に存在していなかった。どうしようもないと絶望した。どうしようもできないと赤子のように泣き喚いた。私が今こうしているのだって、自分を操れなかった結果。私自身の力を支配できなかった末路。この状態だっていつまでも続く永遠の平穏ではないの。私はいつか世界を完全に停滞させる。その時がいつかはわからない。明日かもしれないし、明後日かもしれないし、何億年後かもしれない。けど、絶対その時は来る。だけど、あなたはそんな私を操れる。だってあなたは私を魅了した。私に愛された。それは私の心を操れるということで、支配できるということ。だったら、あなたは私の全てを操れる。あなたは私の魂に耐えられる。だから、私はあなたの全てを望む。可笑しくて、狂っていて、非現実的で、笑い話にもならないかもしれない。でも、それが事実、真実、現実、それが私の理。私は私自身を救えないし、世界も私を救えないし、師匠も私を救えない。それは分かりきったことで、これ以上それらに求める気なんて全く無い。でも、あなたは私を救える。あなたしか私を救えない。助けて。救済して。欲しい。委ねて。あなたの心に、精神に、魂に、入って、溶け込んで、絡まって、混ざって、それでそれだけでそれさえすれば、私は救われる。世界が、救われる。私はあなたが欲しい。欲しくて欲しくて堪らない。あなたは私を受け入れなければならない、受け入れるべき、受け入れて欲しい。それが、私の──『欲望』だから」
──絶句。
エストは一瞬、頭の中が真っ白になった。目の前の黒髪の少女が何を言っているのか、全く何も理解できなかった。言っている内容は至ってシンプルであったが、意味が分からなかった。
「⋯⋯っと、少し熱くなりすぎたね。人と、ましてや愛する人と喋るなんてこれまでなくて。思わず悦に浸ってしまった」
感情の暴走、だろう。千年以上、殆ど誰とも会話していなかったために引き起こされた狂乱。
エストは見たり聞いたりしたことを全て覚えていられる。今先程聞いたイザベリアの演説を思い出し、その怪文を読み直す。
しばらくの時間が過ぎた頃、ようやくエストはイザベリアの告白を理解した。
「えっと、それで、つまり、キミが望むのは⋯⋯キミの『欲望』は、私の心身共に好き放題にしたいってこと?」
「言い方に語弊はあるけど、そんなところ」
要はそうだ。イザベリアはエストの心も、体も好きにしたい。全てを望むとはそういうことだ。
「ああ勿論、あなたの魂や精神、自我なんかはそのまま。私はあなたが大好きだ。だから、それらを潰すなんてできない。私の魂をあなたの魂と混ざり合わせて欲しいんだ」
「⋯⋯正直な話、嫌。だから、もう一つの選択肢教えてくれる?」
身も心も全てイザベリアに預けるなんて願い下げだ。
イザベリアの一世一代の愛の告白は、たった一言で断られた。
「──本当、あなたは私の思い通りにならない」
愚痴のように聞こえるが、それを言っているイザベリアの顔には笑顔が浮かんでいる。自分の思い通りにエストがならないことに、安堵して、嬉しく思っているのだろう。
「二つ目の選択肢を言う前に、一つだけ誓約して欲しい」
「誓約?」
「ああ、もし、あなたが私の二つ目の選択肢を呑めなければ、そして、できなければ──私がさっき言ったことを、受け入れて」
さっき言ったこと、とは、例の告白のことだろう。
つまり、今この瞬間、エストはイザベリアの第二の選択肢を呑む他なくなったわけだ。
「⋯⋯二つの選択肢、ね。最初から実質一つだった。私はまんまとキミの策略にハマったってわけね」
「ふふ。⋯⋯最初に言ったでしょ? 私はわるーい魔女さんだって」
イザベリアの目的は、エストを手にすること。
エストの目的は、魔女の力を取り戻すこと。
イザベリアが提案してきた、魔女の力を取り戻す条件をクリアしてしまえば、エストは力だけ取り戻してその場から去る。そうなればイザベリアは自分の目標を達成できない。
その条件が、イザベリアにエストの全てを渡すというものであれば、エストはその条件を呑まずに、あれこれと代案を出すだろう。これでは話が膠着する。
しかし、条件をクリアすれば魔女の力を取り戻す。だが失敗すればその全てを渡せ、なら、どうだろうか。きっと、エストは、
「──はい、分かりましたよ、魔女様」
「物分かりが良い。ますます惚れ込んでしまいそう」
「⋯⋯全く」
渋々、エストはイザベリアの条件を呑んだ。
「で? その条件って何さ? まさかここまで来て、絶対不可の無理難題とかじゃないよね?」
「勿論。私は公正で公平な女の子さ」
そこに『常識のある』というワードを入れてほしいとエストは心の中で思う。たしかに公正かつ公平だが、やり方に問題がある。というか問題しかない。
「あなたの魔女の力を開放する条件は」
イザベリアは片目を閉じて、可愛らしくて愛らしい表情で答える。
「──『五つの試練』を突破することだよ」
念願の長々台詞、やっと本編に書き込めました。やってみたかったんですよね、これ。