4−29 あの日の約束
「──お前には、選ぶ権利がある。俺との契約を終わらせ自由になるか、彼女を守るために墳墓の守護者となるか」
黒髪の少年は、漆黒の竜に振り向かずに、それだけ問うた。
竜は黙った。なぜならばその二つとも、竜にとっては酷な選択肢であったからだ。
幼い頃、竜は両親から見捨てられた。それは、竜には一つ、奇怪な身体的特徴があったからだ。
それは、その竜は脚が六つあったこと。本来ないはずの前脚が、生えていたこと。それが、両親から忌み子として捨てられる原因となってしまっていた。
そんな竜を拾ったのは、目の前の少年であった。最初こそ、竜は誇り高いドラゴンが人間に従うかと少年に歯向かった。だが少年はその見た目からは想像もできないくらい強大な不可思議な力──今思えば、それは魔法だったのだろう──を持っており、竜は反抗することができなかった。
『⋯⋯なぜ、我を助けた?』
反抗することが叶わないと気づいたのは、少年と出会ってから三ヶ月後だった。それ以降、竜は少年に渋々従っていく日々であったのだが、竜は徐々に少年に本当の自分を見せ始めていった。
「単純だ。俺はお前がかっこいいドラゴンだなと思って、ペットにでもしたかったからだ」
竜はその理由に驚愕した、てっきり竜の力が欲しいだとか、単なる情けだとか、そんなことを予想していたばかりに。
『かっこいい⋯⋯我が、か?』
六脚の竜。ああたしかに、そんな種類は存在する。けれど、
『我の六つの脚は奇怪な身体だ。我の種族は四本の脚の竜なのだから、可笑しな見た目であるはずだ。それが、かっこいい、のか?』
竜は、自身の姿を恨んでいた。この二本の脚がなければ、両親に捨てられることはなかったはずなのだから。
それを良いと言う少年が、竜には理解できなかった。
「お前はまだ小さいから、このあとどんな姿になるかは分からない。だが、どんな姿になっても、その六脚はお前のかっこよさの一部になるぜ。俺が保証する」
『お前の考えはよく分からん。⋯⋯だが、保証してくれると言うなら、我はお前に従う。我を決して失望させるなよ、人間』
「従者の喋り方とは思えないな。⋯⋯まあ、いいか」
『ふん』
──お前は、我を失望させてくれないのではなかったのか。
「⋯⋯ごめんな。俺は、戻らなくちゃならないんだ」
どこへ戻るとは、何度聞いたって答えてくれない、その戻る理由だって。
ただ、ごめんとだけ謝ってくるばかりだ。
行かないでくれ。行くなら、我も連れて行ってくれ。そう何度言ったって、少年は竜の──イリシル・エド=レーウェンの同行を許してくれなかった。
「──きっと、いつか、お前を迎えに来てやる。だからそのときまで、待っていてくれ」
その時がいつかは分からない。けれど、きっとそのときは来る。そう、約束したのだ。
だったら、
『⋯⋯我を、絶望させないでくれ』
「⋯⋯ああ。約束する」
『──お前が来るその時まで、我はあの魔法娘から世界を守る』
「ああ、ありがとう。イリシル」
その言葉を最後に、少年はイリシルの目の前から去った。
それからというもの、イリシルは暗い、暗い墳墓の第三階層で、来たる侵入者に向けてずっと居座り続けた。
最初は苦痛そのものだった。何も音はせず、何も感じもしない。ただ無がずっと続いて、イリシルの精神を刻一刻と削っていった。
『⋯⋯む、目覚めたか』
あれからどれくらいの時間が過ぎただろうか。数日だけかもしれないし、数百年経っているかもしれない。何にせよ、時間感覚が狂っていることは確実だ。
イリシルは目の前に、一人の少女が現れた。
「あなたは⋯⋯イリシル? 竜が⋯⋯ああ、あれから数百年は経過したってことなのね」
華奢で白色の体を喪服に包み、宵闇のような髪は地面についているくらい長くて、寝癖が酷い。真っ赤な瞳にはハイライトがなかったが、彼女は生きている。
『イザベリア、もう分かっていると思うが、我は主よりお前の守護者となるよう言われた』
「⋯⋯そう。師匠も酷な人ね、あなたに終わらない仕事を与えるなんて」
イリシルの主と、イザベリアの師匠は同一人物である。しかし、扱いは違った。
『我は望んでこれをしている。主はきっと戻ってくる』
「戻ってきたところで何も変わらないでしょ。私でもどうにもできなかったこの現状を、師匠がどうにかできるとは思えない」
『そうだとは限らないだろう。我が主が我らを見捨てるか?』
イリシルは嫌な聞き方をした。イザベリアは彼女にしては珍しく、不機嫌そうな表情を彼に見せて、答える。
「見捨てるのと、諦めるのは違う。ああ確かに、師匠は私たちを見捨てるような人間じゃない。けど、あの人は私を救える人でもない」
キッパリと、イザベリアは彼女の師匠であり、イリシルの主の力を弱いと言った。
『⋯⋯どうして、拒絶する?』
イザベリアの言葉には棘があった。それはとても感情的で、古竜であるイリシルでさえ萎縮してしまいそうなくらいの鬼気がある。ただその棘の中にある本心を、イリシルは見抜いていた。
「諦めさせてよ。私に、期待させないで」
彼女は目を細めると、更に威圧感が増す。一気に周りの空気が重くなったような感じがして、イリシルは無意識に彼女から後ずさる。だが、
『きっと、主はお前を救う。諦めさせなんかしないだろう』
だって、自分も主に救われたのだから。なら、主はイザベリアも救うはずだ。
「──黙れ、蜥蜴風情。私の言ったことが理解できないの? 愚か者。私に『救われる』だとか、『諦めるな』だとか、そんな夢物語を言わないで。二度はないよ」
イザベリアの体内から魔力反応がした直後、イリシルの六つある脚全てが一瞬にして凍りつく。更に頭痛や吐き気、目眩に悪寒と、ありとあらゆる異常が彼の体に発生した。
『イザ、ベリア⋯⋯お前は⋯⋯なぜ』
「二度はない。そう言ったはずだけど?」
──イリシルの首に、赤色の線が無数に現れる。そこから鮮やかな血が流れて、それはいつでもイリシルのことを殺せるという合図なのだろう。
『はっ⋯⋯『封魔核』から離れ、目覚めたばかりだというのに、この我を圧倒するか⋯⋯』
古竜を圧倒する少女、イザベリア。彼女こそ、世界最強の魔法使いである。
国をたった一つの魔法で消滅させ、炎の魔法を行使すれば海が蒸発し、氷魔法を行使すれば溶岩が凍結し、時間さえ、彼女の思うがまま。『世界の理』から彼女は逸脱していて、最早彼女に逆らうことは誰にもできない。
イリシルの守護者という立場も、彼女を守るという意味ではなかった。その真意は、全く逆。イザベリアから、外を守る役割。彼女に近づく者を、彼女から守るのが、イリシルの存在理由である。
「私もあなたを殺したくはない。だから、これ以上私を怒らせないで」
イリシルの命はイザベリアの手の平の上。生かすも殺すも彼女次第で、イリシルはそれを十分以上に理解している。
『⋯⋯分かった』
イザベリアの事情を知るイリシルは、彼女がそこまで希望を思いたくないのも分かる。墳墓外で実体化することは不可能であり、もう一つの、ある方法で外に出ることも非常に難しいだろう。
これ以上何を言っても無駄だと気づいたイリシルは、彼女との会話を止めた。
◆◆◆
『⋯⋯我は』
何のために、こんなことを──していた?
あれからどれくらい時間が経過した? あれからどれだけ我は侵入者を殺した? 我はそもそも何なのだ?
『──っ!』
イリシルの視界に、黒髪の少年の後ろ姿が映った。一瞬、彼が何者なのかを忘れていたが、記憶という海の底に沈んでいたそれは、海面から水飛沫を持ってして引き上げられた。
ああ、そうだ。我は、主のために。
──アルジノタメニ。
『幻覚⋯⋯』
あれからイザベリアとは一度も会っていない。だからだろうか、他者が、恋しい。
誰かと話したい。誰かとこの苦しみを分かち合いたい。
苦しみを分かち合いたい? なぜ、これが苦しみだと思う?
主より与えられたこの命令を、苦痛だと思ってしまった自分に嫌悪し、同時にそれが自分の本心だとも気付かされる。
結局は、『主のために』という言葉でさえ嘘であったのだ。そんな大層な忠誠の表れも、所詮は虚飾。イリシル、彼の本心は、たった一つのシンプルかつ独善的なものであった。
『我は、主に求められたかった。求められている自身で、悦に浸りたかった』
イリシル・エド=レーウェンは、彼の主に対して賞賛獲得欲求を抱いていたのである。
『⋯⋯だが、それが我が主から承った命を蔑ろにする理由にはならない』
例えどんな理由でも、命令に背くことはできない。それが契約で、それが従者の義務なのだ。
『ああ』
自分が求めているものを理解し、心で戒めても、少年の幻覚がイリシルから消えることはない。
心のどこかで、それこそ、イリシルが制御できない深層心理で、彼は自分自身の欲求を抑えきれていない。
少年が、主が恋しい。またもう一度、会って何気ない会話を繰り広げたい。
──この目が、そんな幻覚を見せてきているのだ。
戒めが足りない。このままでは、虚実の判断がつかなくなってしまう。
ならば、
『──こんな目なんて、我に必要ないな』
直後、イリシルの両目は、彼自身の鉤爪によってくり抜かれた。
眼窩の痛覚はイリシルに熱を伝え、真っ赤な液体がドバドバと大量に流れる。視神経が途絶えたことで視界からあらゆる情報が消滅する。
ポロッと、二つの宝石のような紫紺の瞳が、血に塗れた球体が地面に落ちた。
何もないその眼窩にイリシルは手を翳すと、緑色の魔法陣が展開され、止血する。だが、眼球そのものは戻らなかった──いや、戻さなかった。
『暗い。何も見えない⋯⋯しかし、これでいい』
視力という重要な機能を失った代償は大きかった。侵入者への対処も以前より遅く、雑になり、本来圧倒できるような相手にさえ苦戦を強いられるようになってしまった。
けれど、イリシルは後悔しなかった。なぜならば、これが彼の、彼自身への戒めであったからだ。
最初はただの自己満足だった。だが、それは本当の忠誠となった。本当の忠誠を誓うまで、時にして600年。長い、長い時間を費やした。だからこそ、その忠誠心は強い。
それからは、ただ無心にその時を待ち、過ごす日々だった。
イザベリアの魔法知識や彼女自身を狙う侵入者は時間と共に減っていき、やがてその存在さえ風化したのはそれからすぐのことだった。
盲目にも慣れて、生命体を気配で察知できるようになった。むしろ視力以外の機能が失ったそれを保管するために発達し、戦闘力は全盛期さえ超えるようになった。
侵入者がほとんど居なくなった頃でも、イリシルは警戒を一時たりとも緩めなかったし、イザベリアにも会いに行くことはなかった。どうやら彼女は彼女なりにこの永遠とも言える退屈を過ごす術を見つけているらしい。わざわざイリシルが彼女を気にかける必要はなかった。
そんな時、だった。
『──来たか』
久しく、そう本当に久しく、この『始祖の魔女の墳墓』に、侵入者が現れたことを、イリシルは察知した。第一階層はとんでもなく広い空間であるはずだ。第二階層はモンスターの巣窟であるはずだ。それら二つを生還できるということは、つまり、この第三階層へと進む者は強者であるということ。だがしかし、その生存者でさえ、イリシルには勝てない。時間が経てば経つほど、イリシルの力は増す。彼の寿命はあってないようなものだ。力は上限を知らないようだった。
ともすれば、イリシルはこれまで、侵入者に対して強敵だと思ったことはなかっただろう。今でさえイザベリアに勝てる自信はないが、前回よりかはまだ勝負になるはずだ。
そうだと、思っていた。イリシルは、自分がイザベリアの次くらいに強い存在だと思っていた。だが、それは違っていたらしい。
盲目であるがゆえに、健常な眼よりも、その眼は深いところを視る。
現れた男女四人が明らかに異常な存在であることを、イリシルは一瞬にして察知した。特に、そのうち二名は、己の命を脅かせるだけの実力、もしくは才能があった。
才能を感じた方には、また別の違和感を覚えた。
それは、初めてイザベリアと知り合ったときの感覚に近い。その人物とイザベリアには何らかの共通点がある。言葉では言い表せない共通点が。
殺すことは惜しい。第四階層で寝ているイザベリアに、その人物について話しておくべきだと直感した。だが同時に、それは主の命令を破ることでもあった。
葛藤なんてなかった。イザベリアよりも主優先。それがイリシルの忠誠心だ。それがイリシルに与えられた命令であるのだ。
命令──イザベリアから外界を守るという命令があるからこそ、彼女を優先してはならない。
『我はイリシル・エド=レーウェン。始祖の魔女イザベリアの墳墓の守護者である』
イリシルは、墳墓を荒らす不届き者共に、そう名乗った。