4−28 古竜
階段に足をつけた瞬間に転移魔法が発動した感覚がするが、周りは変わらず階段と、赤黒い石のような材質でできた通路なままだ。
四重の靴音は、大人四人が横並びになっても問題ないくらい広い階段を下りていく度に鳴る。そして、下の階層へと進む度、それは強くなっていっている気がする。
それとは何か? 一言で表すなら威圧感だ。
並々ならぬ強者の雰囲気。弱者では近づくことも、ましてや逃げることもできない風。その場に留まらせて、終いには瞬きをすることも、息をすることも、頭を動かすことも、何もかもをできなくさせてしまうプレッシャー。
階段を下りれば下りるほど、全身の毛が逆立ち、寒気を感じる。本能が危険信号を発しており、これ以上進むことを無謀だと、五月蝿く甲高く鳴る警報のように報せてくる。
しかしながら、ナオトとユナの二人は、それを理性で押さえつけた。
もし、二人が以前にも似たようなことを体験していなければ、きっとその場から一歩も動けずにいただろう。呼吸さえ忘れて、身が死んでしまうときまで全く自発的に行動ができなくなってしまっていただろう。
それと似たような感覚とは、初めてエストと出会ったときであった。即ち、この階段の先にいるのは──
『──来たか』
聞く者全てを身震いさせる重低音。魔女を除く生物の頂点にして、魔女に匹敵する唯一の存在。
古より生きる──竜。
「⋯⋯予想はしていたけど、まさかここまでとはね」
光を飲み込むような漆黒の鱗は鋼鉄より固い。だが、芸術品かのように繊細で、刃物のように鋭利。軽々しく触れれば、人間の皮膚なんか簡単に微塵斬りにされる。
前脚に後脚、そして更に、肩から生えた翼にも脚があり、それぞれの脚には五つの鉤爪が生えていた。
翼は開くと両翼合わせて20mほどだろうか。竜の全長も18mほどと巨体だ。
頭部から二本の、赤黒い角が生えていて、悪魔の角のように禍々しかった。そしてその頭部には、たしかに目はあった。しかし、それは閉じている。開いても見えないものである。その竜は盲目だったのだ。
牙を剥き出しにして口を開き、竜は人の言葉を発する──かのように思われたが、実際、竜は喋っていなかった。魔法で竜の言語を、人間たちに通じるローンル言語に換えているだけである。
『我はイリシル・エド=レーウェン。始祖の魔女イザベリアの墳墓の守護者である』
イリシルは、墳墓を荒らす不届き者共に、そう名乗った。
「⋯⋯古の、竜」
古竜。最強種族ドラゴンの最上位種だ。
『汝らに問う。この我に殺されるか、今すぐここから立ち去るか。答えよ』
その瞬間、イリシルから発せられる威圧感が増したような気がする。思わずひれ伏してしまいそうだ。
『始祖の魔女の墳墓』の情報がこれまで殆ど外部に出なかったのは、きっと、この古竜に始末されていたからだろう。
死ぬか、立ち去るか。二つの選択肢をイリシルは提示してきた。即刻排除行為をして来るわけでもないその態度には優しさと、また傲慢さが現れている。有無を言わせずに殺しにかからないのは、自身の実力を信頼しているからなのだろう。
「⋯⋯」
イリシルは自分のことを『守護者』だと言っていた。
間違いなく、ここを話し合いで通らせてくれるほど優しいことはないはずだ。
先に行くには、一つしか方法はない。そして、その方法とは、イリシルが提示した二つの選択肢のうち、どちらでもない。
「──皆様、ここは私が引き受けます」
答えに迷っていたエストの姿を見て、レイが自ら名乗り出た。
魔女に匹敵する生物、古竜。ならば、ここに居るメンバーの中で、イリシルと戦えるのはレイしか居ない。
だが、イリシルはマイとは違う。圧倒的強者だ。おそらく魔女としてのエストでさえ、イリシルら古竜と戦えば勝率は五分五分。勝っても負けても可笑しくない相手なのだ。
まだ力を完全に使いこなせていない今のレイが、イリシルに勝てるだろうか。もしかすると想像を絶する強さを持っているかもしれないイリシルに、勝算はあるのか。
「分かってます。最悪、逃げますから。そのときは⋯⋯すみません」
レイ単体でイリシルを相手しなくては、他は足手まといだ。エストならば多少援護程度はできるだろうが、なくてもあまり変わらない。ナオトやユナは、肉壁にさえならない。
無力。居ても居なくても変わらないどころか、居た方が邪魔なのだ。
「⋯⋯っ」
命を賭けた戦い。勝算は、今のレイでは五割を下回っていると言っていい。善戦はありえなく、苦戦が確定された未来なのだ。
エストは彼女の従者を、死なせたくないと思っている。だからこそ、レイの提案を受け入れることが難しい。
「⋯⋯エスト様、私は大丈夫です。あなたの役に立つことが契約内容──死んでしまえば、私はあなたとの契約が果たせなくなってしまいますから」
「⋯⋯ッ! ⋯⋯もう、ああ⋯⋯うん。わかった」
エストは、覚悟した。従者を失うかもしれないことより、レイを信じることを優先した。
勿論、エストにはまだ蟠りが残っている。しかし彼女の頭が、優秀な思考が、そうすべきだと判断している。この蟠りは、彼女の感情が原因なのだろう。
感情論ほど愚かなものはない。時として必要になるものではあるが、大抵の場合においては必要ないものである。
「だけど⋯⋯命令。古竜を倒して、死なずに、私たちと合流すること。さもなければ、キミをもう一度殺してあげるから」
「──厳しい、命令ですね。ですが、それを成し遂げるのが私の存在理由。⋯⋯エスト様、その命を達成した暁には、何か褒美を貰ってもよろしいですか?」
レイは初めて、エストの命令に代価を求めた。彼の忠誠心を考えれば、ありえないと言ってしまいそうなくらい珍しい。
「⋯⋯ええ。何かな?」
エストもそれには承知した。褒美を渡すことを拒否する権利は、彼女にはなかった。
「それは⋯⋯その時になったら伝えます。じっくりと褒美について考えたいので」
レイは少しだけ笑った。基本的に無表情だった彼が笑う姿は、いつもの彼とはまた違った印象を受けた。
「ふふ。全く、キミは誰に似たんだろうね。⋯⋯いいよ。私にできることなら」
どこか彼女に似てきている。そうやって人をからかうところなんて、正にそうだろう。
「言質、取りましたからね」
レイはそれだけ言って、古竜へと走り出した、骨の鎌を握って。
◆◆◆
──黒は、どうも苦手だ。
黒を冠する存在たちも、そして目の前の漆黒のドラゴンも、黒が特徴的な者はどうしてこんなにも自分たちの障害となってしまうのか。
思えば、そうなったのは今から二ヶ月ほど前、この世界に何度目かになる召喚をされた時からだったか。
「⋯⋯っ!」
骨の鎌。自身の魔力によって構築された魔法の武器であり、もう片方の鎌よりも、今なら単純な斬れ味だけであれば同等。強度もこちらの方が高く、使い易さもこちらが勝っている。
『強い。ただの魔人ではないな?』
レイは鎌を握って大きく振りかぶり、イリシルの頭部を狙う。だが彼は翼脚の鉤爪を器用に鎌の刃部に当て、弾く。
鋼鉄より固いとはいえ、鱗は斬ることができる。しかし、鉤爪はそうとはいかないようだった。肉体武器が魔法武器に匹敵するなんて、流石は古竜といったところだ。
「はい。私は虚飾の罪を背負った大罪の魔人、レイです」
耳を隠してしまうくらい長い黒髪を、今の衝突によって発生した風圧が靡かせ、彼の白と黒とが逆転した目と、イリシルとの盲目が合った。
今の一撃で、両腕が軽く痺れた。それほどまでに鉤爪は固かったというわけだ。そう何度も叩きつけていては、鎌よりも先に腕が動かせなくなるだろう。
「〈大火竜巻〉!」
閉鎖空間内における竜巻系魔法は非常に効果的だ。広範囲魔法ということもあり回避が難しく、威力も並大抵のものではない。古竜と言えど、直撃は避けたいはずだ。もし避けようとするならば、それ相応の大きな予備動作を要する。
(回避運動の瞬間を、狙う)
レイの能力、『虚飾の罪』は、他者に直接関係するものを除くあらゆるものをこの世からなかったことにする力だ。彼の前において、魔法やその他遠距離攻撃はほぼ無力にある。
〈大火竜巻〉を避けようとするならその瞬間に鎌を叩き込む。魔法で相殺するつもりならそれを能力で消滅させる。
──だが、イリシルが取った無力化方法は、そのどちらでもなかった。
「っ!?」
イリシルはその場から一切動かず、翼で炎の竜巻を払ったのだ。
魔法的な方法ではなく物理的な方法で、レイの魔法を相殺した。相殺された火の粉が、レイの周りに飛んでくるが、レイは払うことさえ忘れるほど、目の前の光景を信じられなかった。
『何を困惑している? ⋯⋯ああ、魔法が掻き消されたのがそんなに信じられないのか』
イリシルからしてみれば、当たり前だったのだ。
竜が魔女に匹敵する生物だと言われている理由は、その身体能力にある。魔女が魔法なら、ドラゴンは物理というわけだ。その上、ドラゴンは魔法も高水準で扱えるのだから、最強クラスの種族と言って差し支えない。
『汝は自身の魔法能力を存分に発揮できていない。力を無駄にしているぞ』
そんなドラゴン、ましてや古竜にとって、未熟な魔法使いの魔法なんて児戯だろう。
「⋯⋯ご指摘、ありがとうございます」
だがしかし、レイはそんなこと百も承知だ。自分自身の魔法能力がエストと同等に語れるほど高いわけでもないのも、鎌の扱いが最上ではないということも。元より、知っていたのだ。それを今こうして、言葉にされているだけである。
「──」
走り、振りかぶり、斬撃を繰り出す。結果は先程と同じ、翼脚によって防がれるのだが、レイは無駄なことを二度も行う者ではない。
『⋯⋯!』
鎌を鉤爪に引っ掛けて、腕力だけでその体を空中へと飛ばす。
「掻き消されるなら掻き消されないように! 回避されるなら回避されないように! 攻撃を叩き込めば良いだけです!」
骨の鎌に赤色の炎が纏う。灼熱の炎は辺りの酸素を燃料により激しく、大きくなっていく。
「〈灼刃豪炎斬〉ッ!」
炎はより強大となり、熱はさらに増す。
温度にしておよそ1800度。鉄を溶かす灼熱は鎌を、その行使者にさえ大きな負担をかけるが、その分、文字通り火力は凄まじい。
『⋯⋯悪く、なかったぞ』
爆炎がこの部屋を一瞬支配し、煙幕が晴れるのには少しだけ時間がかかった。
部屋の温度が一気に上昇し、サウナのようであった。体温を落とすために汗が出てくるほどだ。
「⋯⋯どこまでも、規格外ですね。今ので終わったと思ったのですが」
炎と斬撃を同時に防ぐなんて至難の技だ。だがその至難の技を、目の前のドラゴンはやった。
『我に傷を与えただけで、それは誇るべきことであるぞ』
見ると、イリシルの翼には所々、火傷と切傷があって、血を流していた。確実にそれはダメージとなっているのは分かるが、自分にも、決して小さくない反動が来るような大技で、その程度の傷なのだ。
レイとイリシルには確実に、力の差があることを思い知らされた。
『──今度は、我の番だな』
そう、今の今まで、一度もイリシルは攻撃をしていなかった。それはわざとであり、レイの実力を知るためだったのだろう。
レイの全力を防ぎきったイリシルの攻撃。彼は最大限警戒する。
魔法ならば能力で打ち消し、身体攻撃なら何とかして避ける。頭の中で考えうるあらゆるパターンを予測し、
『さあ、行くぞ!』
そのパターンの中で、おそらく、レイは最も対処が簡単な方法を引いたと思う。
イリシルは口を大きく開くと、その瞬間、彼の胸辺りが黄色に近い色の赤に染まり、光った。
火炎袋が真っ赤に光る。それは、炎吐息の予備動作であった。
他者へ直接干渉しなければ、全てを消すことができる能力、『虚飾の罪』にとって、ファイアブレスは絶好の攻撃だ。
ファイアブレスを消滅させ、混乱に陥っている隙を狙って、大きく口を開いた頭部にもう一度、〈灼熱豪炎斬〉を叩き込み、その口内を焼き尽くして斬り刻むだけだ。
イリシルはファイアブレスを吐いた。レイの炎魔法なんかより強力な炎が彼を襲う。下がってきていた部屋の温度が再度上昇した。
──刹那、レイの瞳が光った。
『──』
イリシルの閉じていた何も見えない目が、思わず開かれた。角によって辺りの状況を感じ取っていた彼は、炎が突然消滅したことと、そこからレイが突っ込んできているのに困惑した。
しかし、
「なっ⋯⋯!?」
レイの炎が纏った鎌は、イリシルの口内に入った。そこまでは良かった。問題はそこからだ。
──ドラゴンの鋭利な牙が、骨の鎌を噛んで止めて砕き散らせたのだ。
戦技の効果による爆炎がイリシルの口内にて発生するも、彼はそれを、火炎袋に飲み込んだ。
狂ってる、としか言えなかった。あの爆炎の戦技を、火炎袋に飲み込むなんて。下手をすれば火炎袋ではなく肺に行って、呼吸をできなくさせていたかもしれないのに。
『⋯⋯今のは、少し焦った。見事だ』
鎌を失い、必殺技も防がれた。だが今は絶望している暇さえない。すぐさまレイは後ろに跳んで、異空間からもう一つの鎌を取り出す。
そして、レイはそのことに違和感を覚えた。
「イリシルさん⋯⋯あなた、どうして今、攻撃してこなかったのですか?」
今の異空間から武器を取り出す一連の行動。隙だらけだし、武器を取られて困るのはイリシルの方だ。殺すつもりなら、そこから一歩も動かないのは可笑しすぎるし、それを行えるだけの技量が、彼にはあるはずなのだ。
『我はこの墳墓の守護者。しかし⋯⋯我は同時に、誇り高きドラゴンでもある。我は正々堂々、戦う。公平に、実力を全て発揮できる状態でなければ、それは正々堂々な勝負ではない』
イリシルは自身の戦いの美学を語る。
『我の主は違ったが⋯⋯我を否定することはなく、肯定した。故に、我は我の成したいことをすることこそ、あの方への忠誠であり、それをしないことはあの方への反逆となる』
主。イリシルはその方の従者であるのだろう。
その主が誰であるかは分からないが、イリシルさえ従うことに、忠誠を誓うことにした者。そして、彼の価値観を肯定した者はきっと、強大な力と魅力を持った者であるのだろう。
「そう、ですか。奇しくも、これは従者同士の戦い⋯⋯というわけですね」
『ああ』
目の前のドラゴンは敵である。だが、邪悪ではない。
レイは、白の魔女に仕える大罪の魔人。イリシルも、『あの方』に仕える古竜。
互いに己の主の命に、主のために戦う従者。互いに、負けることができない立場。負けることは、主の期待を裏切ることだから。
「──あなたのその誇り高さに敬意を評し、私の能力を教えましょう」
正々堂々の勝負を、イリシルは望む。それは彼が自分に課している美学であり、彼は他者にもそれを押し付けることはしていなかった。だから、レイは自分の力を晒す必要はなかったのだが、レイは、彼を見てそうしたいと思った。
「私の能力、『虚飾の罪』は見たもの全てを消し去る力。ですが、他者に直接干渉することはできません」
『⋯⋯ほう。素晴らしい能力だ』
二者はそれだけ、短く言葉を交わすだけして、口を閉じる。
それは決意、敬意の表れであり、全力で戦う合図でもあった。
刹那であったその空白の時間は、彼らにとっては何秒にも、何十秒にも、何分にも思えた。
場の緊張が高まり、それは、両者同時の攻撃によって一気に瓦解した。
──大罪の魔人と漆黒の古竜の決闘。その第二回戦の火蓋が切られた。