4−23 始祖の魔女
長い腕と足を用いて、始原の吸血鬼は四足歩行の具合で、己が飢えを満たすために走る。それは砂竜さえ超すほどの速さであった。
エストの真横に、あの化物が追いついてきた。灰色の瞳と紅色の瞳が合う。
「しつこい⋯⋯!」
〈爆裂〉を叩き込んだというのに、この化物はすぐに追いかけてきた。たしかにあれでは死なないと思っていたが、もう少し怯んでいてほしかったものだ。
「〈剛射〉!」
揺れる砂竜の背中の上で、ユナは弓を構える。技術ある者には簡単に防がれるのだが、理性なき野生の化物では、それもエストに気を取られている今の状況では難しい。
矢が、数ある紅い瞳のうちの一つを射抜く。血飛沫を上げ、視界の一つを潰した。目を潰された激痛に始原の吸血鬼は重低音の喘ぎ声を響かせる。
だがしかし、その程度では始原の吸血鬼は怯みはしても諦めはしないようだった。視界の一つが潰れたとはいえ、他の目もある。ただちに殺すべき対象たちを捉え直す。
「エスト!」
ナオトの呼びかけに反応し、その意図を理解したエストは魔法を行使する。
真っ黒な炎が始原の吸血鬼の全身を燃やし、目を閉じさせる。その瞬間にナオトは始原の吸血鬼に飛び掛り、短剣を突き刺した。
「っ!」
真っ黒な魔法陣が展開され、魔毒を、化物の体内で生成する。体内の魔力が毒へと変換され、苦痛を感じさせる。
アンデッドには、基本的に毒や麻痺などの効果が薄い。しかし魔毒は普通の毒ではないため、確実に始原の吸血鬼の体を蝕んだ。
「──」
大地に轟音が響き、空気が揺れた。
始原の吸血鬼は苦痛に悶え、無闇に長い腕を振り回すと、ナオトにそれが命中した。
腹部に内蔵を吐き出しそうなくらいの衝撃と鈍痛が走ると、ナオトの体は空中に投げ出された。
「〈重力操作〉」
能力の獲得によって、魔法行使能力が上昇したおかげで第十階級の白魔法が使えるようになったレイが、ナオトを、彼の砂竜の背中まで戻す。
「嘘でしょ⋯⋯あれを食らってまだ⋯⋯」
魔毒はたしかに、始原の吸血鬼には通用している。だが化物はそれを上回る胆力で無理矢理体を動かしているようだった。
しかしそんな馬鹿力も長くは続かないはずだ。現に、始原の吸血鬼のスピードは下がっている。
「〈爆矢〉!」
ユナは始原の吸血鬼の足元ならぬ腕元に矢を突き刺すと、矢は爆発し、化物の体制を崩した。魔毒の激痛もあり、今度こそ──
「ガアアアアッ!」
──振り切れる、とはならなかった。
雄叫びを始原の吸血鬼は上げると、両腕で大地を押し、跳躍する。
「〈電磁加速砲〉っ!」
創造した黒くて細長い剣の周りに電磁力が流れ、フレミングの右手の法則に従って、剣を撃ち出す力が発生する。
超加速力を得た剣は音速に達し、始原の吸血鬼の胸を貫いた。腐敗した血が、噴水から噴出される水のように、その真っ黒な体から流れた。
しかし、胸を貫通したというのに、それでも尚、始原の吸血鬼は活動を終えなかった。胸に刺さった剣を抜き、そして、長い腕を活用して投槍の要領で遠投する。
剣は的確に偏差を考えられて、エストを突き刺すように軌道を描いた。
「恐ろしいものですね⋯⋯」
だが、レイの瞳が黒く光って、その剣は無に帰した。
「ありがとう、レイ」
「いえ。当たり前のことです」
始原の吸血鬼も、もうエストたちを追う体力は残っていないようだった。いやむしろ、魔毒に体を蝕まれ、更に無理に体を動かし、その上剣が胸を貫通しても尚、活動していることが可笑しい。普通なら活動を終了すべきほどのダメージであるはずなのだ。
「トドメ刺すべきでしょうか?」
始原の吸血鬼の損傷は激しい。体力も殆ど無いだろう。ユナがあの化物を殺そうとするのも必然だろう。だが、
「近づくのはよしておいたほうがいいと思うね。あの化物のことだ。まだ何かあっても可笑しくない」
明らかに再起不能レベルの重症を負っても、まだ動くあの不死性。近づいた瞬間に突然暴れだして皆仲良くあの長い腕に押しつぶされて即死、なんて可能性は大いにある。
「正直、どっちにすべきなんて言えないんだけどね⋯⋯」
始原の吸血鬼の具体的な戦闘能力、不死性を知らないため、エストは適切な対処方法が思い浮かばない。
彼女の広く深い見識も、本より手に入れたものだ。そもそも本にさえ存在くらいしか載っていなかった始原の吸血鬼の情報は、あってないようなものである。
「いいや、ここは安全を取っておくべきだと思う。ボクたちはマサカズと違ってやり直しができないからな」
ゲームオーバーとは訳が違う。人生とはハードコアモードで、普通は二度目はない。人生は一度限りのゲームだ。
であれば、臆病──慎重な選択を取っても良いだろう。
「私もナオトさんに賛成ですね。私が消したあの剣⋯⋯とんでもない力がなくては、あんなスピードも、パワーも出せるはずがありません」
レイの『虚飾の罪』だからこそ無力化できたのであって、あの反撃を防御魔法で防ぎ切ることは不可能だっただろう。それこそ、青の魔女であるレネくらい青魔法を行使できなければならない。
「これは⋯⋯本当に、私が力を取り戻しておかなかったら駄目だね」
帰るときには始原の吸血鬼も回復していて、魔毒もおそらく、解毒されており、抗体を作っているだろう。単純な体の強さであれば、破戒魔獣にも匹敵する。もっとも、破戒魔獣ほどの再生能力は有しないのだが。それだけが救いだ。
◆◆◆
始原の吸血鬼を撃退してからは特に何もなく、二十八時間が経過した。
マトモに寝ることさえままならなかったために、魔人であるレイ以外の人間メンバーはかなり疲労が溜まっている。そろそろ安全な場所を見つけて、半日ほど睡眠を取るべきだろう。
「高台はなさそうだけど⋯⋯」
少なくとも見渡した範囲では、高台らしいものはない。
アンデッドは生者の気配を察知できるが、逆に言えば気配さえ察知されなければ襲われづらい。低位アンデッドの多くは視力が悪いので、物理的に察知されることがあまりないのだ。そのため、高台が一番安全な場所だと言える。
レネお手製の、低位に限るがアンデッドの察知機能から逃れる効果を持つ魔具を、エストたちは持っている。普通に移動している分にはこれで十分なのだが、こんな大地のど真ん中で留まっていられるほど高性能なものは、短期間では作れなかったとのこと。
「あそこ⋯⋯なんでしょう?」
ユナはどこかを指差す。だが、エストたちにはその場所が分からなかった。
「もう少し近づけば分かると思いますよ」
ユナは『慧眼之加護』で、レイは単純な種族的な視力で、その場所が現在地点からも見えるらしい。
しばらくユナが指差した方へ歩くと、そこには砂岩がポツンと、不自然に露出していた。
「⋯⋯何かが下にある?」
ナオトがその砂岩の周りの砂を退けると、やはり砂岩が露出した。
本来長い年月を要して出来上がる砂岩が、こんな表面で堆積しているとは考えづらい。おそらくこれは人工物であるだろう。
「とりあえず⋯⋯っと」
何はともあれ、これは調べる必要がありそうだ、仮に休憩できるところでなくても。
レイは能力を行使して、砂岩の一部を除去すると、暗闇の空洞が現れる。砂竜も中には入れそうなくらいには広い。
これで人工物が確定し、そしてこれがなんであるかもある程度予想がついた。
「『始祖の魔女の墳墓』⋯⋯時間的にもそろそろだと思ってたよ」
出発から三十九時間。二日半と三時間が経過し、ようやく目的地に到着した。
「この墳墓内が安全なら良いんだけどね」
二日間砂漠の昼間を移動し続ける。しかも常にアンデッドに注意を払いながらだ。睡眠時間も合計三時間あるかさえ怪しい。体が悲鳴を発しており、休養を求めている。
「⋯⋯少なくとも、この辺りにアンデッドは居ないようだ。休むなら今だと思うな」
一定範囲内における、自分たちへの敵対意識を持つ存在を知覚する戦技、〈敵知覚〉を無詠唱で行使しても、その対象は見当たらなかった。
「じゃあ、少し先に進もうか」
現在地点は、『死者の大地』の表面の真下だ。勿論アンデッドの生者知覚機能から逃れられるわけがないため、もう少しこの墳墓の奥に進む必要がある。
「〈光〉」
長い真っ暗な通路を通るために魔法で光を灯す。先を見ると、そう遠くないところに大広間が見えた。一先ずはあそこを目指すべきだろう。
通路を通っている最中はただただ無音だった。特に話すこともないため無言で進み、響くのは各々の足音だけ。青白い魔法の光で灯される場所以外は真っ暗闇で、まるで音がそこに飲み込まれていくかのような錯覚に陥る。
「──」
圧倒される、とはこんな感じなのだろうか。
大広間に辿り着いたとき、エストたちは思わず息を呑んだ。
神秘的だった。一瞬、ここが墳墓であることを忘れてしまいそうなくらい、大広間の壁画は歴史を、技術を感じさせ、その美しさ、その不思議さに驚かされる。
『始祖の魔女の墳墓』は、いつ造られたかは不明だ。いつの間にか、その存在が噂として流れて来たため、詳しい歴史は分からずじまい。ただ分かるのは、少なくとも千年以上前に造り上げられたものであること。何せ始祖の魔女は現存する魔女という種族の元である可能性が高いのだから。
その千年前に造られたはずの墳墓が、今の時代に生きるエストたちを驚愕させる。技術も、相当に高く、これが千年以上前に出来たとは思えないほどだ。
ロストテクノロジー。失われた技術。幾度もの大戦があったこの世界において、科学技術が発達する前の魔法技術がどんなものであったか、知る者は少ない。
「⋯⋯十分なスペースがあるし、今日は一旦ここで寝よう。六時間後に『始祖の魔女の墳墓』の探索開始、ということで」
「分かった」「分かりました」「かしこまりました」
いざという時に備えて、特に、今すぐには睡眠の必要がないレイに周りの警戒を任せて、エストたちは睡眠を取る。
◆◆◆
──夢。睡眠中に、脳内で見る心像、幻覚のこと。本来自身の記憶についての整理のために行われる現象であるのだが、魔法、いやそれ以上に不可思議なものがあるこの世界では、その限りではなかった。
明晰夢という言葉がある。夢の中がどれだけ現実的でなくても、それを夢見の人は現実だと思ってしまう。だが何かの拍子で、夢を夢だと認識したとき、それは明晰夢となる。そして明晰夢は自分の思うようにコントロールできるものだ。
だったら、どれだけよかったか。夢を夢だと認識したのに、自分の意思で操れない夢がある。果たしてそれは夢なのか。それとも──現実なのか。
「⋯⋯ここは」
エストが気づいたときには、いつの間にか見知らぬ場所に居た。
そこは一面が真っ白い空間だった。何もない。『白』だけが永遠と続く世界だった。その果ても分からず、いやそもそも、地面があるのかさえ分からなかった。自分だけがその空間内において三次元的存在であるかのように思えたほど、そこはあまりにも非現実的であった。
「⋯⋯誰?」
後ろに気配を感じ、振り返る。
地面に立っている感覚がない。というかあらゆる触覚がなく、自分が今どうやって振り返ったのか分からない。しかし今はそんなことどうでもいい。
「ごめんね。少しあなたの夢に干渉させて貰ったの⋯⋯エストちゃん」
──そこには少女が居た。外見年齢は十代前半くらいだろうか。ロアと同じくらいだ。
喪服に身を包み、150cmの背丈くらいある黒髪は非常に綺麗だった。瞳は真っ赤な絵の具のようであったが、吸血鬼のそれとは異なる赤色だ。ハイライトが、生気がそこからは感じられなかったが、そんなことどうでもよくなるほど、魅力的である。
顔立ちは幼い。だがその幼さは見かけ上のものでしかなかった。確かに覚えるこの威圧感、そして知っているこの雰囲気は、彼女の正体がなんであるかを示していた。
前回は、顔が見えなかったが、今回は違う。
「キミは⋯⋯始祖の、魔女?」
一番最初の魔女にして、最強の魔法使い。それこそが、目の前の少女であるのだろう。
「始祖の⋯⋯ああ、あなたたちからしてみれば、私はそう呼ばれているのね」
透き通るかのような美しい声。可愛らしい子供の声。しかし、あくまでそれは表面上のものであると分かる。
「私の名前はイザベリア。始祖の魔女なんて二つ名じゃなくて、あなたには名前で呼んでほしいな」
始祖の魔女──イザベリアは、そう言いながらエストに微笑みかける。大変愛おしく感じた。同時に、畏怖の感情も。
「⋯⋯イザベリア、キミと話がしたくて、私はここに来たんだ」
どのようにして始祖の魔女と話し合うかなんて特に考えもしていなかったエストからしてみれば、今の状況は絶好の機会だ。ここで話をしておけば、すぐにでも帰れる。
「魔女としての力を取り戻したい⋯⋯でしょ?」
「──」
言う前に当てられたことに、エストは少し動揺するが、すぐにそれが当たり前のことだと気づく。
夢への干渉がされているのであれば、当然こちらの記憶や思考も閲覧できるだろう。
「魔女という種族は、魔族。つまり体の構造も人間とは似て非なるもの。だから魔女になる方法は単純明快、その体組織を魔女のものにすればいいだけ」
「なら⋯⋯」
「魔女化の儀式⋯⋯あれは私が作った魔法の一種だけど、その効果は体組織の変換ではなく、私の精神への干渉と接続、そして力の一部の受け継ぎ。だからあなたと私は接続状態にあって、当然その力の在り処も分かるの」
あのとき、魔女化の儀式をした際に視た、始祖の魔女、イザベリアの姿は、彼女の精神に繋がったということだったのだろう。
「じゃあ、力は今どこに?」
「あなたの中よ」
「⋯⋯え」
エストの中に、まだ魔女の力は存在する、という意味なのだろう。
「正確には、あなたの魂の中。魂は生命の根源だから、そこに入れこむことで、その力は最大限発揮される。⋯⋯はずなんだけど、どうやらあなたはその力を、魂の中から出せなくなっているの」
憂鬱の魔人、メレカリナの能力が、おそらくエストの力を封じた。しかし、それは奪ったということではなかった。
魔女化の儀式はイザベリアとの接続、そして力を受け渡すための魔法。だから、あのとき行なった魔女化の儀式は意味を成さなかった。既にある接続をもう一度接続し直すことにも、既にある力を更に渡すことにも、何の意味もないのだから。
「つまり、対処方法は、私があなたの魂に直接干渉して、その⋯⋯なんて言うんだろう、扉? 魂の扉⋯⋯みたいなものを開ければ、あなたは力を取り戻す⋯⋯ね、簡単でしょ?」
ややこしいが、凡そ話は理解できたし、イザベリアの口ぶりだと力を復活させることは簡単なのだろう。
「戻して──」
欲しい。そう言おうとした瞬間、エストの口が無理矢理閉ざされる。
おそらくそれを行なったイザベリアが、エストの真正面に近づくと、微笑みをまた、いやさっきとは打って変わって、危険な、何かを企んでいるような、けれど引き込まれそうな笑みを浮かべた。
「あなたは少し勘違いをしているね。あの力は元より私の力。覆水盆に返らず⋯⋯一度手放したものが、何でも簡単に、元に戻るとは思わない方がいいと思うよ?」
「⋯⋯っ」
エストが力を失ったのは、完全に自分の不注意のせいだ。それを他者に何とかして貰おうと思うのは、あまりにも虫が良すぎる話だった。
「⋯⋯今まで魔女になったのはいくらか居て、勿論その中には、エストちゃん、あなたのように力を何らかの原因で失ったことがある子たちもいる。力っていうのは無くならないもので、私は簡単に私自身の力を取り戻せるんだけど、そういう子たちにはもう二度と魔女の力を渡さなかったんだよね。だって」
イザベリアの顔が小さく、しかし確実に歪む。
「──その程度だった、ってことだから」
酷く怖い。ただの少女の外見だというのに、全身の毛が逆立つかような寒気がする。まるで、自身とは違う存在、同じ生き物であるかさえ疑いたくなるくらいの壁が、そこにあるような気がする。
「⋯⋯でも、あなたにはチャンスをあげる。力を取り戻すに相応しいかどうかを証明できれば、力を開放してあげる」
「⋯⋯チャンス」
「そう、チャンス。⋯⋯内容は⋯⋯っと、もう話す時間がなくなってきたね」
忘れかけていたが、今居るこの空間は、エストの夢の中だ。
夢はいつか醒める。その醒める時が、今来たということなのだろう。
「内容は、下に、私に会いに来たら伝えるよ。また会うときを楽しみにしてるね、エストちゃん」
イザベリアの言葉は、意識が途絶える──覚醒するエストの耳には殆ど入っていなかった。しかし、重要なことは、そこだけはっきりと、鮮明と聞こえた。
──下に、私に会いに来たら伝えるよ。
エストの夢の、白い空間の端から黒くなっていき、そして視界が完全に真っ暗になった。
その暗くなる最中、イザベリアはまだ何か、先程の発言の他に呟いているようだった。しかし最早何も聞こえないエストの耳には、その呟きの内容は分からなかった。