4−18 知恵
──見開かれた目は真紅に染まっていた。美しい狂気がそこに宿っている。
本来の身体能力を遥かに超えたスピードを引き出し、彼女は化物のように、紅い視界に映るコクマーに襲いかかる。
空気を切る音は轟音となり、爪は刃物のようだと錯覚してしまう。
そこに女性特有の靭やかさはなく、代わりにあるのは圧倒的なパワーだった。
コクマーはサーベルで、ユナの拳を斬ろうとした。刃を彼女の方に向けるだけで、彼女は自分の力で、自分の身を斬ってしまうだろう。あるいは、それに気づき手を引っ込めるかだ。
「っ!」
しかし、ユナが行ったことは、コクマーの予想外であった。
ユナはサーベルを握った。その際に手のひらを少し斬ったようだったが、ダメージにさえならない。アドレナリンが出ている今の彼女の脳では、それを痛みだとすら思っていないだろう。
コクマーは、ユナの筋力を感じて、すぐさまサーベルから手を離すと、サーベルは彼女によって投げ飛ばされ、天井に突き刺さった。少しでもサーベルから手を離すのが遅れていれば、きっと、コクマー自身も天井に突き刺っていただろう。
「そんな細い腕のどこに力があると言うんですかね!」
コクマーは後ろ回し蹴りをユナの右脇腹に叩き込む。いくら力が増したからといって、防御力は以前のままだ。肋が何本か折れて、激痛が走り、肺に折れた骨が刺さって、血を貯める。
ユナの体は大きな力によって蹴られたことで壁に叩きつけられ、そこに人形を作り出す。埃が巻き上がったことにより一瞬、視界が妨害される。だが、コクマーは正確にユナの位置を特定し、天井のサーベルを回収して、それをユナの肩に突き刺した。
「っらあ!」
だが、今の彼女は、その程度の傷で狼狽えるほど、正常な感覚は持ち合わせていない。
肩に刺さったサーベルを抜き、そしてコクマーに投げつけるが、外れる。しかし元より、それを当てる気などなかった。
コクマーの腹を蹴り、右頬を全力で殴る。
歯を折り、血を吐かせ、服の襟を掴み地面に叩きつける。
「うらァァァァっ!」
乗りかかり、何度も何度もコクマーの顔面をユナは殴った。
しかし、死ぬまで殴られてやる気なんて、コクマーにはサラサラなかった。
黒色の魔法陣がコクマーの胸辺りで展開された。
「〈悪寒〉」
ユナは全身で、氷柱でも刺されたかのような冷たさを感じて、冷汗が滝のように流れる。一瞬動きが止まってしまったことで隙ができて、コクマーはユナの体を押し倒し、今度はコクマーが上を取る。
拳を握り、ユナの綺麗な顔に、容赦なく叩き込む。だが、ユナは何とかそれを首を動かすことで避け、頭突くことでコクマーの鼻柱を折った。
一度二者は離れる。
「⋯⋯いやはや。まさか、こんなにも手間取るとは思いもしませんでしたよ」
コクマーはやれやれという素振りを見せて、そう言った。
「あなたはお強い。このまま続ければ、私とて敗北の可能性があります。なので──本気を出しましょう」
コクマーの雰囲気が変わった。それを本能的に、無意識的に感知したユナは、彼を警戒し、近づけなかった。
魔法は、その人の脳力によって、力が変わる。高位の魔法使いに、頭の回転が速かったり、知識量が多かったり、あるいは発想力が高かったりする人が多いのは、これが理由だ。
「禁忌の魔法というものを、知っていますか?」
──瞬間、ナニカが、コクマーの周りに集まり、浮遊する。それは青白い光の玉のようだった。
「本当はまだ使うべき魔法でも、ましてや私に使うべき魔法でもないのですがね。ですが、私が死んでしまえば元も子もないですし、あの御方に迷惑をかけるのは死ぬより怖いので」
ナニカはコクマーの体の中へと入っていくと、ユナは、コクマーに変化が生じたと直感する。
「等価交換が原則の技術⋯⋯錬金術学的に考えると、最も高いエネルギーを有するのは何だと思います? この禁忌の魔法は、ある意味で最も禁忌らしい効果の魔法なんですよね」
錬金術なんて言う技術がこの世界にあることを、ユナは初めて知ったため、錬金術学的な考えというものが理解できない。だがしかし、分かることはある。その魔法が、碌でもない魔法であるということだ。
「錬金術では活用することができないこのエネルギーを、魔法という形で、魔力という形であれば活用できる。こんな簡単で単純なことを、なぜ皆さんはやらないのでしょうか?」
言っている意味が分からない。『このエネルギー』とは何を示しているのだろうか。
「そう、それはおそらく、大変難しいことであるから。あくまで理論上可能なだけであり、それを実現可能な魔法陣も、それに耐え得る器も存在しないから。ですが、あの御方は違った」
コクマーは、あの御方──黒の魔女に、やはり、心酔しているようだ。誰も聞いていないというのに、勝手に黒の魔女の素晴らしさを解き始めた。
黒の教団は、狂信者の集いである。
「あの御方は、その存在しない魔法陣も、存在しない器も、何もかもを創造した。私たちセフィラも、あの御方より生まれてきた存在。器に力を注ぎこむことこそ、私たちの役目。だからこそ⋯⋯私は、ここで死ぬわけには行かない。あの御方の『お遊び』の役に立たなくてはならない」
狂気に達した信仰心というのは、盲信というものだ。自身の身さえ顧みず、他者のために犠牲にする。
こと生物において、他者のための自己犠牲ほど、愚かなことはない。
情けは人の為ならず。人のあらゆる行動は、結局のところ自分のためであるように、完全な他人主義なんてあってはならない。もしあるとしたならば、コクマーのような、狂人であるだろう。
正常こそ汚く、異常こそ美しい。
無情な現実こそ正しく、温情な理想こそ可笑しい世界なのだ。
「⋯⋯」
捨てた理性は、目の前の狂気を見て、取り戻した。どうやら、捨てきれなかったらしい。それを可笑しいと思う心があるという現実が、それを知らしめていた。
「御託はもう終わりですか?」
「ええ。⋯⋯さて、一方的な殺戮を楽しむとしましょう」
理性は取り戻したが、代わりに力を失ったわけではない。傷を痛むことはあれど、外れたリミッターは、そう簡単に元通りにはならない。
身体能力の急上昇による反動を全身で感じ、今にも気絶してしまいそうだが、そんなの、あってはならない。
右足で、次に左足で地面を蹴って体は加速し、拳を握って、それをコクマーの顔面に打ち込む。
拳は音速を超え、轟音と風圧がそこに発生した。
「エネルギーを魔力へと変換し、放出することで⋯⋯こんなことができるのですよ」
ユナの拳は、コクマーの顔面に触れていなかった。1mmもないが、確実にそこにある壁──魔力の壁によって、衝撃は完全に吸収されたのだ。
「あなたの力では、この魔力の壁を破壊することは不可能ですよ⋯⋯っと」
コクマーは右足で、ユナに回し蹴りを炸裂する。ユナは何とか反応し、両腕で防御するが、衝撃は相殺しきれず、飛ばされた先の壁を破り、部屋に突っ込む。
「体に魔力を流すことで、身体能力を上昇させることができることは、ご存知かと思いますが、もし、それをほぼ無制限にできるなら?」
ロアの能力『無限魔力』と同じように、自身の身体能力を、自分の脳が処理できる程度までならば上昇させることができるのが今のコクマーの状態だ。
「私は器ではありませんが、それなりに耐え得ることができるのですよ」
次の瞬間、ユナの全身に強い衝撃が走って、体中のいくつかの骨が折れる
「魔力を飛ばしただけです。今の私は、単純な魔力量だけならば、それこそ赤の魔女以外には負けないでしょうね」
正真正銘、無限であるロア以外の何者より、現在のコクマーの魔力量より多い存在は、この世界中、どこを探したっていない。彼らが信仰する黒の魔女でさえ、今のコクマーとは、魔力量においては負けているだろう。もっとも、実際戦えばどちらが勝つかなんて明白なのだが。
しかしそれでも、圧倒的な魔力量というのは、強大な力である。
「蹂躙⋯⋯いえ、これでは単なるお遊びですね」
純粋な魔力の塊が、ユナを襲う。見えない打撃でも加えられているようだ。衝撃が発生し、それにより彼女の体は天井や床、壁などに叩きつけられる。
そしてコクマー方向に飛ばされると、
「あなたはお強い。ですが、私には、私たちの力には勝てない」
中指でユナの頭部を、コクマーは弾く。ユナは空中で回転しながら壁に叩きつけられたあと、地面に倒れる。
脳が掻き回されて、視界がグラグラする。脳震盪でも引き起こしたのだろう。気分が悪い。血も大量に出ている。意識を保つのがやっとだ。
「終わり、です」
コクマーは右足を大きく上げる。このままユナの頭部に踵が落とされ、頭蓋骨を卵の殻のように砕き、脳髄液と皺くちゃな脳をぶちまけるだろう。
死。それが明確に視えた気がした。
「──お前が、か?」
背後で、短剣が二つ、振りかぶられている。
コクマーは姿勢を低くし、斬撃を回避し、反撃を行おうとする。だが、
「〈十光一閃〉」
十の斬撃が、瞬く間に、コクマーの体を切り裂いた。
明らかな致命傷であり、普通なら、勝利したと思うだろう。だが、相手は異常だ。その普通は、通用しない。
「が⋯⋯は⋯⋯っ」
コクマーは痛みに悶える。だが、この戦技をまともに食らって、即死しないなんて、とんでもない耐久力である。
「ユナはボクたちに『近づくな』とは言ったけど、それはあんたが理性を取り戻していないときだけだろ?」
先程までのユナならば、きっと、マサカズたちを味方だとは判断できなかっただろうし、自主的にユナはその狂気を抑えることはできなかった。だから、彼女一人だけで戦う必要があったのだ。
だがしかし、今は違う。
「なら、今はいいってことだ」
「⋯⋯ええ、勿論です!」
三人は重症を負ったとはいえ、未だ油断できないコクマーに相対する。
そう、重症。重症だ。重症を負っていたはずなのだ。だというのに、コクマーの傷は、段々と塞がっていっていた。
「──本当、魔力っていうのは、何でもありなんだな」
魔力を体に流すことで、その身体能力を上昇させる。つまり、自然回復能力も上がるというわけだ。当然、それは魔法と比べれば遥かに効力は弱い。だがコクマーは魔力にモノを言わせ、無理矢理に自然回復能力を上昇させた。
「だが⋯⋯お前のそれは、無限じゃない。そうだろ?」
「⋯⋯っ」
コクマーは、ロアには魔力量で負けると言っていた。それ即ち、魔力は無限ではないということ。有限であるということだ。
「だったらお前を殺す方法は単純だ。⋯⋯魔力が尽きるまで、使わせる。ただ、それだけ」
有限であれば、無にしてしまえばいい。そして、無とは死だ。無とは消失を意味する。
「──あなたたちに、この私たちの力を、私たちのこれまでしてきた研究が、簡単に潰されてたまるものですか。⋯⋯ええ、本気。私は、たしか、そんなことを言いましたね⋯⋯」
コクマーの頬に、血が流れる。勿論、誰も攻撃していないため、その血は、コクマー自身が流したものである。しかし、それでも、彼は目を開いていた。激痛に顔を顰めることもなく、ただ純粋な感情を抱いて。
「私はケテルほど基礎身体能力が高いわけでもありません。私はティファレトほど武器の扱いが上手いわけでもありません。ですが、私には知恵がある」
『クロノテキセイ』は、黒の教団のセフィラたちに与えられた固有の加護とは異なり、共通の加護だ。
そしてその効果とは、全ての黒魔法を行使できるようになる、というもの。
行使できるということは、知っているということ。
知っているということは、創れるということ。
「〈黒手〉」
コクマーの背後に、真っ黒な手のようなものが六本ほど出現する。それは大小様々であるが、そのどれも、人一人くらいならば簡単に握り潰せそうだ。
黒系統の独自魔法である。
「ふふふ⋯⋯模倣品でさえ、これほどまでとは⋯⋯やはり、あの御方には届きもしないですね」
その魔法の維持は、コクマーでさえ厳しいほどだった。魔力をどんどんと削られていき、あと数分でもすれば、取り込んだ数万人分のエネルギーが完全に尽きてしまうだろう。
それでも、オリジナルより、劣ったものでしかなかった。ただの劣化コピーだが、第十階級魔法と比べても、その破壊力はトップクラスだろう。
「私たちの魔力が尽きるのが先か、あなたたちの命が果てるのが先か。根比べと行きませんか?」
体が重い。痛い。動かし辛い。だが、それがどうしたというのか。
ここで負けることは許されない。ここで殺されることはあってはならない。勝たなくてはならない。敵を殺さなくてはならない。全てはあの御方のため。それこそが存在理由で、それこそが役目。
コクマーは、マサカズ、ナオト、ユナの三人を、敵として認めた。弱小な転移者を、対等な敵であると。
あの御方より授かった名を、彼は人間たちに名乗る。
「──私は、黒の教団、『知恵』のセフィラ⋯⋯コクマーです」
ようやく⋯⋯ようやく、転移者組の活躍の場を作れた⋯⋯!