3−19 遠い過去は変えられないけど、未来は変えられる
「マサカズさん、無事でしょうか⋯⋯」
マサカズと別れてから数時間後。
雨が降っている中を、ユナ、ナオト、レイ、レネ、ミントの五人は、エルフの国に入ってきた方向とは真逆の方の大樹の森を進んでいた。
「⋯⋯そうだと信じるべきだ」
少なくとも、今こうして時間が逆行しないという事実が、マサカズの生存を意味している。いやもしかしたら、認知できていないだけで夥しいだけの『死に戻り』を行っているかもしれないが、確実に時間は進んでいる。
「あの⋯⋯皆様はどういった関係なのですか?」
本来は世話係として同行していたが、こんな大惨事に不幸にも巻き込まれたミントが、ユナとナオトの二人に声をかけた。
「そうですね⋯⋯知り合ったのは、確か今から大体一ヶ月前くらいでしたね」
「そうだな。⋯⋯あれから、まだ一ヶ月しか経っていなかったのか」
「一ヶ月前⋯⋯それにしては、とても仲が良いのですね」
「まあな。⋯⋯命をかけた戦いを幾度としてきた仲だ。互いの命を安心して預けられるようになった、ってことさ。ああ、信じていた。信じていたんだ⋯⋯」
ミントが何気なく言った言葉だったが、それはナオトの傷を穿ることになった。
「す、すみません」
「大丈夫だ。あんたに悪意がないことくらい知っている」
ナオトはどうやらいつもの冷静さを取り戻したらしい。今の彼には、エストが裏切った直後のピリピリとした雰囲気がない。
「⋯⋯それに、エストはまた戻ってくる」
「え?」
あれだけ彼女に対して怒っていた彼からは想像もできない言葉が出た。
「勿論、ボクはすぐに許す気はない。どんな理由があれど、やったことの責任は変わらない。殺人なんて、尚の事だ。一度殺されたのに、そんなことをした奴とは、ボクは顔を合わせることさえしたくない。──だが、ボクはそれをする奴を知っている」
一度エストに殺されたにも関わらず、その後すぐに彼女をパーティーメンバーに引き入れた男を、ナオトは思い出す。
「ボクはそいつを最初見たとき、正気なのかと思った。⋯⋯ああ、正気じゃない。狂ってる。正常ではない。今でも、そう思ってる。だけど、それは結局、ボクの主観でしかなかった」
死ぬことを知れない者。
死ぬことを知れる者。
「そいつから見たら、ボクの方こそ狂ってるんだろうなって、気づいたんだ。人は過ちを犯す。とはよく言うけど、それは人間だけじゃない。完璧な存在以外は皆、過ちを犯しているんだ。そんな誰でも犯すような過ちをしたことを、いつまでも許さないなんて、どれだけその人物の度量が狭いんだってな」
「ナオトさん⋯⋯」
「アイツはきっとエストを説得する。そして、戻ってくる。⋯⋯罪を許すのは、時間が経ってからだ。でもそのときはとりあえず、戻ってくることに納得はするさ」
罪は消えない。だが、許されない罪はない。死という代償であっても、必ず罪自体は消え去る。
万物は罪を犯す。そのうちの一つさえ、どれだけの時間が経っても、どれだけの代償を払ってでも、許せないのは、果たして常人だろうか。いいや、それはとんでもなく心が狭い人物だろう。
「⋯⋯っと、何やら話していたところ申し訳ないですが、目的地が見えましたよ」
五人の耳に、ザザーッという音が聞こえた。水が崖にぶつかる音──つまり、
「⋯⋯海?」
惑星の六割を占めるとされる海。そこには塩が混ざっており、なめると塩っぱいし、真水よりも体が浮くことで、泳ぐことが可能な液体だ。
「この世界の海も、あっちと変わらないんだな」
眺める景色だけなら、日本と変わらない。しかし、よく海を見てみると、見知らぬ魚が泳いでいる。勿論、ナオトとユナがよく知る魚も泳いでいた。
「それで⋯⋯どうして海に来たんだ?」
「転移魔法は使えませんし、陸路だとモートルが復活していた場合、逃げ切ることはできません。なので──」
レネの瞳が光る。
「⋯⋯さあ、海に飛び込んでください」
「は?」
ここは崖になっており、一度飛び込めば戻ることはできない。二人は泳げるのだが、そう何時間も海に使っていれば低体温症は免れないだろう。
「大丈夫ですよ。ほら」
レネが海に飛び込む。ワンピースだと普通は泳ぎづらい。のだが、なんと、レネを避けるように海の塩水は動いた──というより、レネが、海を退けたようだった。
「私の能力の『守護』は、対象を守る能力。応用して、このように対象を海から守れば、海底を歩けるというわけです」
レネの言葉に従い、他の四人も海に飛び込む。先程と同様に、四人も海底を歩くことができた。
「王国まではかなり歩くことになりますが、これなら安全でしょう?」
現在地点からウェレール王国まで歩くなら、何日かかかるだろう。しかし魔女と魔人と異世界人と人造人間なら、飲まず食わずでそれくらいなら歩き続けれるだけの体力がある。
「⋯⋯マサカズ、エスト⋯⋯無事でいてくれよ」
ナオトはエルフの国の方を見て、一人そう呟いた。
◆◆◆
いつの間にか、辺りは暗くなっていた。
天の青色は灰色に塗り替えられ、そして、冷たい雨が降ってくる。次第にそれは強くなったが、少女はそんなこと気にしていないと言った様子だった。
いや、気にすることができなかった。そう言ったほうが正しい。
「⋯⋯」
肩くらいまである、サラサラした、雪のように真っ白で綺麗な白髪は、雨を吸収して濡れている。彼女の灰色の瞳は、今の空のように曇っており、何も思考していない。何も考えていないことが分かる。
複数の魔法がかけられた、白を基調とし、黒色と青色のアクセントがあるゴシックドレスはびしょ濡れで、体にひっつきボディラインを強調していた。普通なら、すぐさま雨宿りができる場所を探して、濡れた服を乾かすべきだろう。勿論、彼女の魔法能力をもってすればそんなこと簡単に行える。
「──」
無気力。何もしたくない。何も考えたくない。何も感じたくない。何も──。
視覚、聴覚、触覚などあらゆる情報は彼女の脳に入る前にシャットアウトされる。
「──」
だがしかし、それは無警戒というわけではなかった。
無感情、思考放棄の状態から、彼女はすぐさま突然現れた対象へ、機械的に攻撃行動を取る。
この程度の雨では到底消えることのない炎の矢が放たれるが、対象となった少年は知っているかのようにそれを避けて、
「エスト、話がしたい」
剣先が、白髪の少女──エストの喉元に突き付けられる。あと少しでも少年が腕を動かせば、きっとエストの喉を掻っ斬って、その命を奪うだろう。
だから、エストは動けなかったのか? いや、それは大きな間違いだ。
「⋯⋯今更、何を」
いつもより低い声で、エストはマサカズを威圧した。
話し合う気なんてない、というアピールだ。
「本当に話し合う気がないなら、俺はもう死んでる⋯⋯そうだろ?」
──マサカズの背後には、赤色の魔法陣が既に展開されていた。
マサカズの剣か、エストの魔法か。どちらが速いかなんて自明の理で、試そうともならない。
「⋯⋯」
本当のところを突かれ、反論の余地がない。
沈黙という答えは、肯定として受け取られる。
「殺意があったのは最初だけだ。俺が話し合いたいと伝えるやいなや、お前から殺意はなくなった。つまり、お前の本心は俺と話したい。違うか?」
背後の赤色の魔法陣が消滅するが、
「──さい」
代わりに、彼女の左手の平に、白色の魔法陣が展開された。
「うるさい!」
マサカズの体に作用する重力の向きが変化し、エストの左腕の動きと連動する。
半円上の軌道をマサカズの体は描くと、重力加速度が最大限かかった状態で、近くの大樹に背中から叩きつけられる。
衝撃が、受け身さえ取ることを許されないマサカズの全身に響き、内蔵を傷つける。
だがその傷は、マサカズを殺す致命傷にはなり得なかった。
気絶寸前だったが、マサカズは立ち上がり、エストの曇りがかった瞳を見る。見て、言う。
「これが、お前の本音だ。お前には殺意がない。俺を殺す気がない」
エストほどの魔法使いであれば、容易にマサカズくらい殺せる。だから、本当に黙ってほしいなら、本当に消えてほしいなら、今の一瞬で、蚊でも叩き潰すように殺害できたはずなのだ。
「黙れ!」
再度マサカズの体は不自然な重力に従って、また別の大樹に叩きつけられる。左肩から叩きつけられたことで、その部分の骨にヒビが入り、激痛を伴ったが、痛みは生の証である。それ即ち、マサカズは今度も死ぬことがなかったというわけだ。
「ほら、な⋯⋯お前は、分かっているはずだ」
痛い。痛くて痛くて、とても苦しい。だが、そんな程度の理由が、ここから逃げ出す口実にはならない。
傷から流れる血液を、雨が洗っていく。
「黙って!」
マサカズの体は白く輝き、それは彼の体の主導権をエストが握ったことを示す。
何度も何度も、大樹や雨で柔らかくなった地面に、マサカズの体は叩きつけられた。
今にも意識が飛びそうだった。頭が重く、血を流し過ぎたことで平衡感覚が失われつつある。だが、一心で、エストを救うという一心で、マサカズはフラフラな足に力を入れ、倒れるものかと立つ。
「静かにしてよ⋯⋯どこかに行ってよ⋯⋯」
また、マサカズに重力魔法が行使される。だが、先程までと違い、その強制力は非常に弱かった。彼の体を動かすには、あまりにその力は弱かった。
「どうして⋯⋯私を⋯⋯そこまでして⋯⋯」
分からない。なぜ。どうして。
「──知ったからだ」
「⋯⋯え」
シッタカラダ。
何を? 何を知れば、何を知ることになれば、ここまで体を張ってエストと対面できる?
「お前の過去を」
過去。六百年前の出来事。愛するルトアを失ったという経験。
「⋯⋯嘘。嘘よ。私のことは、絶対、誰からも⋯⋯。まさか、レネが」
「いや、レネからは聞いていない。俺は、お前から聞いたんだ」
「私から⋯⋯?」
──マサカズは既に、今この瞬間のために、六度も『死に戻り』をしていた。それら『死に戻り』の過程で、彼はエスト本人から彼女自身の過去について聞いていた。
もっとも、それを聞いたのは監禁後だったのでその時間軸は捨てることとなったのだが。
「ああ」
「⋯⋯知ったからって、何だって言うの? だからって⋯⋯キミに何ができるの!?」
何が変わる。何が分かる。知るのと理解するのはまるで違う。表面上のことだけで知った気になっているマサカズが、とても憎たらしい。
「許すことができる、お前を」
「──」
分からない。分かれない。分かりたくない。
何を言っている。意味を分かって言っているのか。
どこまで傲慢なのだ。どこまで強欲なのだ。
とても癪に障る。とても鬱陶しい。お節介で、必要以上に関与しようとしてくる態度がこの上なく気に入らない。
うるさくて、黙って欲しくて、静かになって貰いたい。
なのに、どうしてこんなにも、私は──のか。
「そんなこと、私から願い下げだよ。いつ、助けてほしいと、救ってほしいと、私が言ったの?」
「言ってる。お前が俺たちを一度、殺したときから」
「私はキミたちよりもお母さんを選ぶ。だから、キミたちには死んでもらう必要がある」
「ああ。お前にとって、母親は他の誰より、それこそ自分自身より大切だろう」
「だったら、それが分かるなら、どうして私を引き止めるの!? どうして私と話し合おうとするの!? ねえ、どうして⋯⋯!」
「──お前を、絶望させたくないからだ」
突きつけられた無慈悲な現実というものを、人はそう簡単に受け入れることができない。そして理想との落差があればあるほど、現実に絶望し、生きる意味を失くすことになる。
絶望して欲しくない。ただ、それだけ。
「死者を、それも六百年前の死者を、蘇らせることなんて不可能だ」
『死者の蘇生には、その体の七割以上が現存している必要がある』なんていうのは、蘇生魔法が使える者であれば常識にも等しい知識である。無論、魔法に精通している魔女であれば、知っていて当たり前。知っていないほうが可笑しいくらいの、法則だ。
「でも、それは魔法の話! イシレアの能力なら、もしかしたら⋯⋯!」
能力は魔法の完全上位互換の力である。魔法の法則は、能力には通用しない。
「ならどうしてそんな万能な能力で、イシレアはわざわざこんな回りくどいことをしてエルフの国を襲った? どうしてお前を蜜で釣った? もしアイツの能力が、本当に何でもできるようなら、お前を洗脳という形で支配下に置くことだってできるはずだ」
『⋯⋯私の能力は、他者にはあまり干渉できません。小指一つ動かさせるだけでも、反動は強い』
イシレアが、彼女本人が言っていた言葉だ。
「簡単な話だ。⋯⋯できなかったから。アイツの能力は、死者を蘇らせることなんてできないからだ」
現実的で、合理的。論理が通っており、真実を的確に付いている。それを否定できるのは感情論しかない。だが、それは、何の根拠もない、こじつけでさえない、ただの願望でしかない。
「──」
だから、否定することが、マサカズに反論することができなかった。
それが正しいと、分かりきっていたはずのこのことを、ようやく今、エストは認めた。
「分かっていた。分かっていたさ。そんな夢物語なんてないってことに。そんな理想はありえないってことに。⋯⋯でも、信じたかった。嘘を完全な嘘だと思いたくなかった。限りなくゼロに近いその可能性を、私は心のどこかで信じたかったんだ。縋り、たかった⋯⋯」
ああ、そうだ。騙されたかった。一時の間だと分かっていても、理想を追い求めたかった。
「⋯⋯キミは、とても酷いよ。酷くて⋯⋯優しい」
彼女の声は、震えていた。
エストは俯いていた顔を上げると、その涙が溢れて、グチャグチャになった顔を、マサカズに晒す。
泣き笑いのような表情を見せながら、エストは口を開き、感情を爆発させる。
「⋯⋯私は、私のためにしか何もできない。私は、他の人の都合なんて、考えなかった」
全ては自分のため。他者など所詮道具でしかなく、目的のためならば仲間であろうと犠牲にする。
「だから、私はキミたちを殺してしまった、私自身のためだけに」
手段を選ぶことはしない。それがどんなに非倫理的であっても、躊躇なく実行に移す。それが、魔女としてのエストの考え方。これまでの生き方だった。
「⋯⋯そう、私は悪い子なんだ。私は許されないことをした。許されなくて当然の行いをした。殺されたって文句はない。罵詈雑言を浴びせられても何も言えない」
自業自得。因果応報。他者を踏み台にしたならば、それ相応の報いを、拒否する権利はどこにも、誰にもない。
「⋯⋯なのに、なのに⋯⋯裏切ったのに、殺したのに、どうして──」
救われる権利なんてない。唾棄され、後ろ指を指され、一生避難されたって可笑しくないことをしでかしたのだ。それが当たり前。それが当然。それこそが、裏切りに相応しい末路。
「どうして! キミは、私を許そうとするの!?」
叫んだ、心の奥底から、本当に理解できないと。
困惑。無理解。彼女はいくら考えても、マサカズの思考が分からなかった。
「お前が仲間だからだ。大切だからだ」
「──」
マサカズはエストに微笑みかけ、続ける。
「遠い過去は変えられないけど、未来は変えられる。お前を許さない俺たちという未来を、お前は変えられる。⋯⋯エスト、俺たちはお前が必要だし、何よりお前は仲間だ。お前を奴らから『奪い返してやる』からさ⋯⋯俺たちの元に、帰ってきてくれないか?」
自業自得? 因果応報? 当然の報い?
そんなの、どうだっていい。
マサカズはエストを許したい。ただそれだけだ。そこに必然性なんてない。それ以上の理由なんて要らない。
「いつも俺たちをからかって。いつも俺たちと戦って。いつも俺たちを強くしてくれて。いつも俺たちに飯を作ってくれて。いつも俺たちと笑ってくれる。そんなお前が居ないと、俺たちは寂しいぜ?」
涙を流す少女の頭を、少年は軽く叩く。
最初こそ大きく見えた彼女も、今や既に、そんなフィルターは外れている。
魔女としての彼女ではなく、一人の少女としてのエストを、マサカズは助けたい。救いたい。──許したい。
「だから、戻ってきてほしい。⋯⋯仕事はまだ残ってるんだぜ? それで、この仕事はエストが居なきゃ終わらせられない。早く戻ってきてくれなきゃ、俺たちは寂しい思いをしたまま死ぬことになるからさ」
黒井正和の笑顔が、エストの灰色の瞳に写った。
エストの泣き顔が、黒井正和の黒色の瞳に写った。
「──っ!」
降っていた雨が止み、雲と雲の間から陽の光が指す。丁度良く光はマサカズとエストの二人を照らす。
「⋯⋯仕事、ね。全く、私が居ないと終わらない仕事とは、そんなのを引き受けるキミたちは本当に馬鹿だよ」
「引き受けるも何も、異世界召喚されていきなり押し付けられたんだ!」
ようやく、いつもの調子を取り戻した。
「⋯⋯ふふ。そう。⋯⋯でも、それはキミたちを手伝わないという理由にはならないね。良いよ。私はキミたちの仕事を手伝おう。⋯⋯まあ、それをするのは⋯⋯」
「⋯⋯ああ、それをするのは、まず⋯⋯」
だが、まだ全てが終わったわけではない。
二人は笑みを浮かべる。
それは、安心したからだとか、面白いからだとか、ましてや嘲笑なんかではない。
その笑みは、決意の現れである。
「虚飾と憂鬱の魔人を倒してからだ」