7−106 都市攻防戦Ⅰ 〜開戦直前〜
エストは今、彼女に与えられた部屋の中で寛いでいた。
部屋は客人を迎えるためのものらしく、気品に溢れていた。カーテン一つ取ってもかなりのお金を掛けたんだろうと分かるほどだった。テーブルの上には小さいながらも繊細な装飾が施された花瓶が置かれている。それには目もくれず、エストはふかふかなソファの上に座って、手に持つノートに魔法陣を描いていた。
一段落ついたのか、エストは紅茶の入ったカップに手を伸ばし一口飲む。それからテーブルの上に戻し、彼女は隣に控えていたノーワに目をやる。
「キミ、紅茶淹れてくれる? もうポットにはないようだから」
「畏まりました」
ノーワはポットを持って、部屋に備え付けられた台所に向かう。そこでケトルに水を入れ、沸かした。予め紅茶の葉が入っていたポットにお湯を注ぎ、蓋をして蒸らしながら数分待つ。
最後にカップに、茶漉しを使いながら紅茶を淹れた。手際は完璧だ。従者としてもう何度もしたことがあったから当然である。
「⋯⋯ふむ。美味しいね。ありがとう」
「はい。お褒めに預かり光栄です」
それだけ言うと、エストはまた魔法陣を描き始めた。鉛筆の速度はとても速く、考えずに適当に描いているかのように思われた。しかし、魔法のことを知っているのであれば、それが決して適当でないことが分かる。義務教育のレベルでしか魔法学は習っていないとは言え、ノーワでも、これが出鱈目な魔法陣ではないと理解できた。
(⋯⋯思っていたより人間らしい)
目の前に居るのは泣く子も黙る六色魔女が一人、白の魔女、エストである。その芸術品を思わせる美貌や雰囲気に惑わされそうになるが、彼女は正真正銘の化物だ。いつ、ノーワを殺してもおかしくないと思っていた。
しかし、この数日間、こうして接してみるとエストは伝えられていた魔女の印象とはまるで違っていた。確かに、その同性のノーワでさえ魅了する美しさによる影響もあるかもしれない。けれど、それ以上に、エストの振る舞いが人間らしかったのだ。
(まあ、魔法陣⋯⋯おそらくオリジナルを、いとも簡単に作っているところは人間っぽくないけど。でも、例えこの人が人間でも同じことができたんだろうなぁ)
魔女になって頭が良くなるとは考え難い。つまり、眼前で行われている偉業と言うべきこれは彼女生来の能力ということだ。全く、世の中には想像もつかない天才がいるらしい。
(それにしても⋯⋯)
ノーワはエストの、足、くびれ、胸、露出している形、そして最後に顔を順番に見た。胸を見る時間が少し長くて、直後に自分の胸を見て憂鬱な気分になったのは言うまでもない。
エストは女性的な魅力に溢れている。身体つきなど整形でもしているのかと思えるほどだ。らしき手術痕──魔女なら完璧に治せるだろうが──がないため、やはり、生まれ持っていたのだろう。
もしも自分が男ならば、何がとは言わないが堪えられなかったかもしれない。結果、選択を間違えれば即死が待っているのだから怖いものだ。
「⋯⋯⋯⋯。⋯⋯えっと、私の顔に何かついてる? あと何で私の胸とキミのを交互に見てるの?」
「──え? あっ⋯⋯す、すみません。本当に綺麗な方だな、と。いえ、他意はありません」
「⋯⋯そう。⋯⋯うん。まあ⋯⋯こうやって反応されると、少し恥ずかしいかな」
エストは微笑んで、困ったように言う。外見を褒められることが少なかったのだろうか。魔女という立場にあれば、他の人と関わることは少ないのだろうか。
「失礼しました」
「良いよ。⋯⋯っと、そろそろ切り上げようかな」
エストは魔法陣を描いていたノートを、空中に突如展開された黒色の靄の中に入れた。これも魔法なのだろう。
「スレイン君、少しお話しようか。仮にも従者なのだから、キミのことを知りたいね」
と、エストは突然ノーワに話しかけてきた。まさかそんな話をされるとは思ってもいなかったため、ノーワの頭は一瞬真っ白になったが、それから聞き返した。
「私のこと⋯⋯ですか?」
「うん。ああ、こっちから話した方がいいかな。相手のことを聞くならまず自分から⋯⋯ってね?」
魔女の生い立ちについて興味がないと言えば嘘になる。是非とも聞きたいと、ノーワは思った。それが顔に出ていたのか、エストは納得したように頷いて話し始めた。
内容は彼女の母親であり、先代の白の魔女であるルトア、という女性の話であった。ルトアについて話すエストの姿はどこか子供らしく、そして楽しそうだった。
だが、明言はしていないがその人物は既に死んでいるのではないだろうかとノーワは思った。もしそうでないなら、エストが白の魔女とは呼ばれないからだ。
「素晴らしい御方だったのですね」
だから、「是非お会いしたい」や「今どうしているのですか」などという質問はしない。すれば確実にエストは不快に思うだろうし、何より、それが如何に苦しいことか、ノーワには分かっていたからだ。
エストは話し終わると「次はキミの番だよ」と言って、紅茶を一口飲んで聞く体勢になった。
そしてノーワは語り始めた、自分の生い立ちを。
「私はある村の村娘だったんです。朝、日が昇る前に起きて、畑仕事などをする。夕方になれば家に戻って家族と夕食を食べ、日が落ちる頃に床に横になる。そうした生活を繰り返し、結婚し、子育てをして、そのまま人生を終えるはずだった」
ノーワ・スレイン。エルティア公国のとある開拓村に生まれた彼女は、そこで一生を終えるだけの少女だった。
彼女は両親と、兄弟姉妹、総勢六人で暮らしていた。日々の生活は豊かとは言えなく、贅沢は殆ど無く、しかし、充実していた。幸せだった。そう、あの時までは。
「でもある日、村が魔物に襲われました。豚鬼、子鬼、そしてそれらを纏め上げていた蜘蛛人によって、村は壊滅しました。私は何とか逃げて、兵士に保護されましたが⋯⋯生存者は私一人だけでした」
蜘蛛人は、名前の通り人のシルエットを持つ蜘蛛である。人間と同じ二本ずつの手足と背中から生える四本の脚。状況に応じてそれらを使い分ける魔物だ。
知能も高く、多くの場合人間と同等である。勿論魔法も使えるし、蜘蛛と同じく糸を吐くこともできる。更には他の虫を操ることもでき、やれることが多彩だ。
このように自然界では上位者であるために、オークやゴブリンなどの魔物を従える事がよくある。そんなものに狙われては、人間の開拓村など抵抗もできずに全滅するのが普通。一人でも逃げ切れていることは幸運だった。
「それは災難だったね」
「⋯⋯はい。それからです。私がこうして戦士として鍛え始めたのは」
ノーワは腰に携帯していた剣の柄を触る。もう三年ほど握り続けている剣だ。特別な魔法も何もかけられていないが、相棒とも言える存在である。
「キミが今こうして近衛兵団に所属できているのは、両親からの贈り物が理由だろうね」
「そうですか? ⋯⋯いや、そうなんでしょうね。私の父親は凄腕の戦士でしたから。それにしても、魔女様は戦士の力量も測れるのですか?」
戦士の強さとは、同業者であれば見ただけで凡そ分かる。いわゆる勘というものだ。だが魔法使いの強さは実際に魔法を行使している所を見なければ分からないものである。それは魔法使い側からしても同じで、彼らも魔法使いはともかく、戦士の強さは一目では分からないらしい。
「できるよ。専業戦士ほどではないけど、私の剣技は中々のものだと思うね」
魔女は例外らしく肉体能力も人間とは比較にもならない。ただ剣を振り回すだけでも相当厄介だろう。技術を修めれば対処なんてできるはずがない。
「凄いです、魔女様」
「うん。⋯⋯その魔女様っていう呼び名じゃなくて、エストって呼んでほしいかな。私は名前で呼ばれる方が好きなんだよ」
「え、はい。分かりました、魔女さ⋯⋯エスト様」
「よし。では私もノーワと呼ばせてもらうね」
エストとノーワは向かい合って笑った。
雪のような白髪、麗しい容貌、透き通るような肌、安心感を与える声、そしてたかだかの従者である人間に向ける優しさ。美人、という言葉が外見的意味でも内面的意味でも相応しい御方。それがエストという人物だ、とノーワは思った。
「⋯⋯決めた。これから私の従者として働いてもらうんだ。何か欲しいもの、ない?」
「そ、そんな! 何かを貰うなど⋯⋯!」
「いいからいいから。何か欲しいものは?」
エストは立ち上がり、ノーワに迫る。作りもののような美貌が目前に来て、彼女は思わず頬を赤らめた。
従者でしかないノーワが何かをエストから貰うなど高望みが過ぎる。しかし、それを主が望むなら断るのも不敬だ。けれど、何か欲しいわけでもない。
ノーワは悩んでいると、エストの方から話し掛けてきた。
「⋯⋯宝石とかは? 白金剛石はどう?」
「白金剛石っ!? そんなもの、受け取れるはずがありません!」
「え? えぇ⋯⋯? 人間の間では価値があるって聞いたんだけど⋯⋯?」
白金剛石とは小指ほどのサイズでさえ家が買えるほど価値が高い宝石である。手にしているだけで犯罪に巻き込まれるかもしれない高価なものであり、サイズによっては一生が安保される。
エストはこの白金剛石を世界中を周っている時に見つけた。わけあって売却ができなく、魔法的価値はないため余っていたのである。
「ちなみにこれなんだけど」
と言ってエストが取り出したのは拳より一周り大きい白金剛石だ。売れない理由とは、これの価値が高すぎるがあまり買い手が居ないからである。
国家予算とまでは言わずとも、個人が出すのはまず不可能な値段。オークションの最初の値段がそうなれば、誰も買うはずがない。かと言って適正価格で売らなければ市場に影響を及ぼすかもしれず、流石に自重した。
「ひえっ!?」
目の前にあるのは人の人生を何度か繰り返せる代物だ。ノーワは声にならない叫び声をあげた。
「⋯⋯うーん。じゃあこれは?」
エストは空中に展開された黒い靄からナイフを取り出した。刃渡りを考えると戦闘用のものである。黒い刀身には青の魔法的な光を発する文様のようなものが書かれている。
「どうかな? 私が作ったものなんだけど。ああ勿論、複数あるよ。元々私が使う予定のものだったし」
これを断れば今度は何を持ち出されるか分かったものではないし、これ以上断るわけにもいかない。だからノーワはエストが取り出したナイフを手に取る。
手に取った瞬間、ナイフの文様は一瞬だけ光った。何が起こったのかとエストに目を向ける。
「今のは使用者の魔力を記憶したんだよ。このナイフは斬りつけた相手の体力と魔力を奪い、自分に還元する効果を持つ。そのために魔力を使用者のと同じものに変換しないといけないからね」
更にエストはナイフについての説明を続ける。
ナイフは魔力を溜め込むこともでき、それを消費することで斬れ味の上昇やセットされた魔法を行使できる。
また、武器の耐久度は非常に高い上、自己修繕する。実質的に壊されることのないものだ。
本当は『生きている武器』を作ろうとしたらしいが、複製が物凄く面倒であったため辞めたとも話した。
ついでに斬りつけた相手に負のエネルギー、アンデッドだと正のエネルギーを流し込む効果もつけた。全部魔法による効果だ。
価値にすれば、ノーワが買えるものではないだろう。しかし白金剛石よりは現実的な値段であるはずだ。
「⋯⋯軽い」
ノーワはナイフを持ってみると、その軽さに驚いた。
一部の剣は重さを以てして叩き斬るという使い方をするものだ。が、ナイフはそうではない。素早く接近して斬りつける、というのが主な使い方だ。
「凄いです、エスト様!」
「嬉しいよ。是非、それで私を守ってね」
エストほどの魔女を、ただの人間が守る必要があるとは思えない。しかし、だからといって何もしないのは従者の主義に反する。
「はい!」
ノーワは声を大きくして答えた。
「ふふ。キミは面白いね。⋯⋯本当に、気に入った」
エストは自分の従者に聞こえない声で喋る。
「⋯⋯この子は強くなる。才能があるね。磨けば光りそうだ」
エストが計画していたのは、自分を信奉する人間を作ることだ。さてどうしたものかと考えていたエストに付けられた従者は、まさしくその目的を達成するための手段であった。
が、その人間──ノーワ・スレインはエストから見ても強くなる素質、才能を持っていた。
彼女の村がアラクノイドに襲われても逃げられたのは、きっと偶然ではない。彼女は無意識にその力を発揮していた。記憶を閲覧すれば分かることだ。
それからエストは再びソファで寛ぎ始めた。
しかし、数分後、彼女は窓の外を見て怪訝な表情を浮かべた。
「⋯⋯ノーワ、私はこれから外に出る。それをサザン候に伝えてきて欲しい」
「承知しました。どこに向かわれるのですか?」
エストは意味深に窓の外を見たまま言った。突然のことにノーワは困惑したのだが、
「外を見て」
「⋯⋯外、ですか?」
ノーワが見渡してもそこには普段の町の様子があるだけだ。しかし、エストの横顔は神妙な面持ちをしていた。
「ほら、よく見て。〈視覚強化〉」
魔法が掛けられ、ノーワの視力は一時的に向上した。その良くなった目でもう一度辺りを見渡す。⋯⋯すると、
「⋯⋯あれは」
「アンデッド。グールにゾンビ、それにヴァンパイア⋯⋯他にも⋯⋯亜人も居るね。⋯⋯トロールにオーガ。アラクノイドもいるよ。あと⋯⋯って、え?」
エストは驚いたような声を出す。その声でさえ美しさが失われていないのには、最早世界の不平等ささえ感じたほどだ。
「──はは。アイツ、仕掛けてくるの早すぎ。さては⋯⋯」
確かに、セレディナたちはエストを本気で殺す気で行くと宣言した。だが、計画を破綻させることはないと思っていた。
なのに、ここで仕掛けてくるということは⋯⋯
「──冗談だといいな」