7−98 名ばかりの契約
空はいつの間にか曇天となっていた。空気は張り詰めている。鉛色の雲が太陽光を遮り、気温は低くなった。
ウィンズのどこでも血の匂いは漂っているが、そこに近づくにつれて鉄臭さは濃くなっていく。
ハルトたちは役所に到着した。突入から一人の犠牲もなかったが、精神的疲労は大きい。常に死臭がするし、蛆が這っている死体がそこらにいくつも転がっているのだから当たり前といえば当たり前だ。しかしようやく、目的の一つを達成できる。
「誰かいないか」
先に突入した兵士が、真っ暗闇の役所内に声を響かせた。
荒れ果てた建物の中。硝子は割れ、家具は散らかり、裸足で歩こうものなら数秒後には血みどろになっていそうだ。何より、洪水でも起きたらしい。──それが血でなく、本当に水であればどれほど良かったか。
これに伴うように死体もかなりの数が転がっていた。人間は当然、公国に住む亜人や、殺戮者であるグールの死体も少なくなくあった。
「酷いな⋯⋯」
兵の誰かが言った。念の為声は掛けたが、応答すべき相手は既に血の池に沈んでいることだろう。生存者は誰も居ない。バリケードであったはずの家具が散乱しているのだから。
襲撃があったのは昨日の夜だ。あれからまだ、一日も経っていない。普通ならばまだ戦いや抵抗は続いているはずなのだ。だのに、戦いは終わっている。残っているのはグールだけだ。
「⋯⋯店長」
ハルトはふと、足元の死体の顔を見た。見覚えがあった。この都市に来たのならば、必ず訪れる飲食店の店長を努めていた男だ。小柄で、料理をするときはいつも危なっかしい。だが味は逸品だったし、量も多いし、値段も安かった。もう少し高くしても良かったんじゃないかと思うほどだ。
そんな良い人が、ここで恐怖の顔のまま殺されている。首が文字通り皮一枚で繋がっている状態で。
こんなこと、許されて良いはずがない。真っ当に生きている人は、真っ当に死ぬべきなのだ。こんな死に方はあまりにも報われない。
「生命の反応はないよ。私たちをのぞいて、誰も生きていない。全員死んでるね。さあ、さっさと帰ったら? 私だっていつまでもキミたちを護り続けられるほど規格外じゃないんだよ」
魔女、エストはそう言った。分かっていたことだが、彼女に人の心はない。赤の他人の死体にはそこまで興味があるわけではないようだ。だからこそ、人の心を持つ者にとっては無視できない。
「魔女様、あんたはこいつらはどうして死んだと思う?」
それはハルトの、精一杯の反抗だ。
「弱かったから」
「⋯⋯そうか。だからか」
「うん。私がキミたちの不快になる言葉を発したのは分かっていてのことだよ。⋯⋯でもまあ、そうだね。⋯⋯世界は弱肉強食なのさ」
エストはどこか神妙な面持ちで答える。そこには上位者らしい傲慢などはない。世界を知る者として、無知なる者に正しい知識を伝えるかのように言った。
「弱い者は強い者の為すことに何もできない。それに振り回されるしかないし、従う他ない。どれだけ崇高な目的を掲げても、力がなければ下らない目的を持つ者には勝てない」
まるでそれを実感したかのように、伝える。
「死ぬ原因は突き詰めれば、全部自分のせいだ。失敗もそう。人が言うところの不運とは、全て当人の責任」
突きつけられた現実はあまりにも悲惨だ。知っても悲しいだけの、無意味な真実。だからこそ無知とは愚かである。無意味とは必ずしも、不必要とは限らないのだ。
「キミの信念を突き通したいのなら、まずはキミが強くなることだ。私がキミたちに協力しているのは、感情だけが理由だと思うべきではないよ。私がキミたちを哀れに思っているのは事実だけど、それだけで動くほどのお人好しじゃない」
エストはその後に「あの人と違ってね」と小さく独りで言ったのをハルトは聞き逃さなかった。
「まあなんであれ、私からすればキミの言葉は全て戯言だ。理想論。真っ当な死? そんなの、誰にも決められない。全生命は今この瞬間にも、理不尽に死ぬ可能性を秘めているのさ」
「それが、あんたの考えか?」
「そう。死を悔やんでも意味ないのにね。本当に。全く。遠い死者は生き返らないというのに。どうして、悔やむんだか」
エストの言葉には棘があった。人を不愉快にさせるどころか、怒りを抱かせてもおかしくない発言だ。確かにこの死体の山に血縁や仲の良い相手がいない兵士が大半だろう。けれども、同じ国に住む同じ人間だ。悔やまないわけがない。助けられなかったと、後悔しないわけがない。
しかし、ハルトはエストの言葉が、彼女自身にも向けられたものであると察した。だから強く言えなかった。
「⋯⋯さて、話している暇はない。さっさと帰るべきだよ」
「それはできないな」
「⋯⋯まさか墓でも作るつもり?」
「死体の安置所は作るつもりだが、そうじゃない。この都市のグール共を殲滅する」
目的の二つ目、都市ウィンズの確保。即ちグールの殲滅だ。が、そんなの無理だ。襲い掛かってきたグールを対処するのさえ苦労するというのに。ハルトはこの命令に不満を持っていた。
「⋯⋯手伝え、と?」
「そうなるな。契約内容に俺たちの命を助けろとは言っていない。だからあんたに『契約』を通すことはできないだろうな。そも、国の首脳部には話さえしていない。俺たちを見捨てても、お前には問題があるとは思えないんだぜ」
エストは黙る。言い返すつもりもない、これから、ハルトが言おうとしていることに。だがそれを予想していなかったわけではない。彼女は微笑を浮かべた。
ハルトはエストの表情に目を細めた。自分の考えが肯定された、と受け取ったのだ。
「──なら、どうして俺たちをあの死神から助けたのか。気になっていた。でも考えたら⋯⋯そりゃそうだ」
「へぇ。中々頭が回るようだ」
「⋯⋯。あんたこそ、芝居が上手いな」
なぜエストはハルトたちを助けたのか。簡単な話だ。ハルトたちには交渉の材料としての価値がある。
今回の件──ハルトたちの派遣の本当の目的は、敵の力量の測定。グールたちの戦闘データを収集することだ。つまり、彼らは死が前提の部隊。そのことに薄々気づいていたとしても、確証は得られなかった。戦場では死は珍しくない。そして死人に口なし。例えそれが絶望的なまでの戦力差だったとしても、誰も『最初から死ぬことを想定して進軍させた』なんて確信できない。限りなく黒に近い灰色でしかないのだ。
「正解だよ。⋯⋯もしも、その死ぬはずだった軍隊が帰ってきて、助けた相手が事実を暴露したのなら? キミらがそれを高らかに叫べば? この判断をした人間は責任を追求され、信頼を失うだろうね」
エストの目的は何か。おそらく、エルティア公国で大きな権力を有することだ。その先、何がしたいのかは分からない。しかし、ともかくそれを狙っている可能性は高いとハルトは結論づけた。
「あんたは⋯⋯何がしたいんだ?」
「国だよ」
分かっていた。でも、いざ言われると驚きをハルトは隠せなかった。いわば国盗り⋯⋯一国さえ手に入れようとするその欲深さに。
「どうしてそれを俺に言った?」
だが、そんなことをハルトに言う理由が分からない。いやむしろ、デメリットでしかない。
「⋯⋯ふふ。分からない?」
エストは含みのある笑いをハルトに見せた。
「⋯⋯あんた、そこまで計算して? 俺を試したのか」
ハルトの気づいたこと。それは、
「俺にも国盗りの片棒を担がせる、と」
「正解。気づいても気づかなくても、どっちでも良かったんだけどね。説明する手間が省けたよ」
ハルトがエストの能力『記憶操作』の一端でも、その権能に気がつく。さすれば、エストの今の行動には何のリスクもないことが理解できるだろうし、また、一種の脅しにもなる。「お前の記憶を操り、発狂させることもできるんだぞ」と。
『記憶操作』はその性質上、ひとりを犠牲にしなければ見せつけることはできない。物理的な脅しであればナイフを持ち出せばそれで良いだろうが。説明するにも手間がかかるのだ。
「あと、この程度読めないと、私の手となるには力不足だからね」
扱いづらい人材とは三種類居る。想定外の賢者と、活動的な無能と、度を越した馬鹿だ。エストの試験では後者二つを落としている。問題は相手が賢者であった時だ。しかしエストを超える賢者への対策を、エストができるわけないためこの際諦めるべきだ。
「キミには確か、『契約内容』を言っていなかったね。どうせ確認するのは無駄だと思ったんだろうけど、そうだね。私には『契約』なんて言う理は通用しないから。だからこう言おう⋯⋯」
『逸脱者』であるエストにとって、『世界の理』たる『契約』による強制力は無意味だ。契約を結んだ相手に、デメリットだけを相手に背負わせるものでしかない。彼女にはメリットしかないのだ。
それが可哀想に思えたから、エストは『契約』を別の言い方で表現した。内容は変わらない。ただ単に、ハルトには真実を伝えたかっただけだ。試験を合格したご褒美とも言える。
「『要求』──キミは私に協力し、私を英雄、信仰対象とするまで布教してね。私の偉業、私の強さ、私の素晴らしさを国民に伝導することがキミの役目だ」
一方的で、ハルトには利益がない約束事。契約と呼ぶことはできないから、『要求』と言い換えたものだ。あの団長との『契約』だって、実質的にはこれと同じ。あれは形式上のものでしかなかった。
「断われば⋯⋯死、あるいは記憶消去か?」
「命が失われることはないよ。でも⋯⋯人間の心ってのは脆い。過去に神官の信仰対象だけを別の宗教の神にしたことがあってね。どうなったと思う? それまでにやってきた行いは全部そのまま。だからこそ、矛盾が表れた。それで神官はね、狂って自殺した。ちょっと記憶を操るだけで、自殺に走るのさ。心を壊すことくらい造作もないよ」
別宗派の仕来りを何十年もやってきたことに、今ようやく気がついた。本人からすればそういった感覚なのだろう。ただの勘違いでは済まされない不敬罪だ。普通、ありえない話なのだから。だからこそ、信仰深いほど、年月を重ねるほど自らの矛盾に耐えきれず、自死してしまう。そうしないと罪悪感に押しつぶされてしまうからだ。
似たようなことを他にもやったことがある。冒険者が殺したモンスターを人間に誤認させることで、殺人をした、と思い込ませるのだ。そうすれば自殺とまではいかずとも、相当気に病んだ。これを親友、愛人、家族、子供などに変えればどうなるか。想像に難くない。
「心ってのは、記憶を元にして作られているものなのさ。だから私は他人の心を壊す術を持っている。さあ、選んでね。キミは凄惨な現場を見て精神がぶっ壊されるか、私の言いなりになるかをさ」
「⋯⋯一ついいか?」
「それはね、私なりの矜持ってやつさ。キミには自我を持つ権利がある」
エストはハルトの質問を先読みし、聞かれる前に答えた。
「⋯⋯そうか。あんた、能力無しでも心を操れるんだな」
彼女の両目は光っていない。だからハルトの決意も、彼自身のものだ。もしかすればこう思う事自体が改竄後なのかもしれない。けれど、何となく、そうではない気がした。
エストという魔女は善ではない。人を利用するし、殺すことは躊躇わないし、自分の目的のためなら何でもするだろう。だが、完全な悪でもない。
「そりゃね。私天才だし。やれないことのほうが少ない」
しばらくして、ハルトは答える。
「そうだな。分かった。俺は綺麗なお嬢さんの頼みごとを断れない」
「私をお嬢さん呼びとはね。そんな人間はそうそう居ないよ?」
「初めて怖がらない人間がいた。大好き! とか言ってくれないのか?」
「簡単に人間に惚れるような人外やってないよ、私。寧ろ本当にそうなら、警戒するよ」
そういった意味では、ハルトという人間はエストにとって扱いやすい。人間らしい魔女に対する畏怖を持っているが、同時に計算高さも持ち合わせている。今回の作戦において、公国内部の協力者としては合格ラインだ。
「じゃ、まずは殲滅だね」
「ああそうだ。あんたの目的を達成するには、それが必要となるだろう」
グールの殲滅。これはハルトたちが帰還するにあたり必要となる条件。彼はどんなに早く済んでも一週間はかかるだろうと考えている。その間、キャンプ地とするのはこの役所だ。死体を埋葬して、内部を片付けて、キャンプを設営するのに数日は掛かりそうだ。
「流石に詠唱しないとキツイかな」
「えっ、何がだ?」
突然、そんなことを言い出したエストにハルトは尤もな疑問をいだき質問する。だが彼女に答える気はなかったらしく、独り言は続けられた。否、それは独り言ではない。
「〈範囲拡大・生命探知〉⋯⋯これで全部だね。多くない? 魔力足りるかなっと。〈多数狙定・重力増加〉」
エストの左手に白の魔法陣が展開され、そして効果を終了して消滅した。
何が起こったのか分からない。けれど、何かとんでもないことが起こった事実は理解できた。
「第十一階級要素を含まないといけないんだろうなぁ。できたはできたんだけど。やっぱ、魔力による無理矢理の強化は、真の意味で無限じゃないと直ぐ限界が来る」
「今何が⋯⋯」
エストはいつものように、自分がやったことを分析し、何が駄目だったのかを振り返っている。それを気にすることなく、ハルトは思わず口にした。
魔女はハルトに説明した、珍しく。
「何って、やってあげたんだよ? この都市、ウィンズに蔓延るグール共の殲滅。疲れるからやらないでいたのに、やれっていうからさ」
投稿ペースが戻るとは何だったのか。
言い訳させてください、忙しかったんです。年末年始はなぜか忙しくなるんです。あと、少しだけ怠け癖がついちゃいました。