7−41 殺意≒覚悟≒無慈悲
矢を放てば獣人の頭は難なく破裂する。それはゴムを何重にも巻かれたスイカがそうなるようにも見えた。
殺せば殺すほど、常人の倫理観から遠ざかっていくのが実感できる。しかしそれは必要事項で、やらないことはできない。
「⋯⋯っ」
後ろに回り込まれたことを、加護でも何でもなく、研ぎ澄まされた直感でそれを察知した。しかし弓を引く暇などなく、故にユナは矢を逆手で掴んだ。そしてそれを後ろに突き刺す。
心は嫌だと叫んでいるが、体は命を守るため、最善に動く。矢は襲い掛かってきた獣人の眼窩を穿き、その生命を絶した。
『慧眼之加護』は無慈悲にも敵を見つけ出す。そしてユナは容易くそれを殺害する。繰り返し、繰り返し、繰り返し⋯⋯。
二手に別れていることもあり、拠点に残る数少ない獣人たちを殺し尽くすには、それほど時間を必要としなかった。
殺戮を終わった頃、ユナはナオトたちと合流した。
「⋯⋯⋯⋯」
ナオトからすれば、ユナの今の顔は酷かった。美男美女が多いこの世界でも上の上の美貌を持つ彼女も、鏖殺はそれを台無しにしてしまうようだ。
覚悟はしていた。でも、耐えられるとは限らなかった。ただ、それだけ。ユナからしてみれば、無抵抗の者を一方的に殺しているようなものだったのだ。彼らの抵抗は無いに等しかった。
「ユナ、僕たちは殺人に慣れないといけない。ここではね」
ナオトには、殺人への忌避感は⋯⋯全く無いと言えば嘘になるが、ユナほど抵抗感はなかった。自分は感情欠落者なんじゃないかと思ったほどだ。
「⋯⋯ええ、分かってます。頭では、分かっているんです」
そうだ。理解はしている。理解はしているつもりだが、受け入れることとは全く異なっていた。必要であるのと、しなければならないのは、全然違っている。
──倫理観は嗜好品。ナオトの言葉だ。
「でも⋯⋯気持ち悪い。命を奪っているこの感覚は慣れようにも慣れない。私が由奈でなくなるような気がするんです」
殺人は癖になるとはよく言う。しかし、癖にならない人も居る。ユナのような性格の人間は、そういう割り切りができない。
彼女は、優しい性格であるべきなのだ。自分だけでも優しくなければ、自分が優しければ、誰かの命を救えることもある。そういう考え方の彼女にとって、現状は矛盾に満ち満ちている。
「ユナ⋯⋯」
彼女には何を言っても慰めにはならない気がした。だからナオトは名前しか言えなかった。
「──ユナっ!」
沈黙が訪れるはずだった。が、それは突然の襲来によって遮られた。
ユナに飛び掛かって来る人影があった。ナオトさえも気づくのに遅れたことから、人影の実力は二人と同等、あるいは上回っている。
刃がユナを襲った。それは確実に凶刃であり、命を奪うために振るわれたものだった。
だが、ユナはそれを感じ取っていた。『慧眼之加護』ではなく、彼女はその純粋な能力のみで。人が直感と呼ぶその力で。
「っ!」
ユナはその場で回転し、勢いをつけ、拳を襲撃者に叩き込む。転移者として、常人を遥かに越す威力は、容易く命を奪う打撃だ。徒手空拳においても、普通の人間は異世界人には勝つことができない。
「ちぃ⋯⋯っ」
襲撃者──狼のような獣人は、他の多種多様な獣人とは異なっていた。確実に、彼らの上位者。少なくとも実力はそうだ。
しかしそんな相手にも、ユナは悠然としていた。
「⋯⋯あなたの負けです」
ユナの加護は人の感情を見通す。即ちそれは、人の記憶も見通すことができるということ。エストのように直接記憶に関与しているわけではなく、ただ感じ取るだけだが、それでも見ていることには変わりない。
彼はこの拠点の支配者。言うなれば司令官だろう。
「認められるか。私はまだ、負けていない!」
「もう殺したくはありません。無駄な死は見たくない」
「ここでお前たちを殺せば、私は生きて逃げられる! 殺したくないのなら、ここで私に殺されてくれるのか!?」
「⋯⋯⋯⋯」
相手は強い。
「⋯⋯母さん、父さん、私は」
敵は殺す以外の方法をもってして、無力化することは難しい。
「──仕方ない、とは逃げることですかね」
次の瞬間、ユナの居た場所にはソニックブームが発生していた。つまり、彼女は襲撃者、ダイハード・チェルコフに仕掛けていたということだ。凄まじいスピードを、それも弓士が見せたことを理解するために瞬間を要し、直後、彼は矢を防いだ。
ダイハードの両手が痺れた。本来、近接戦闘を想定されていない矢で刺されてこれだ。もし剣などをユナが持っていたならば、ダイハードは今、死んでいたかもしれない。
「ユナ!」
「ナオトさん、ここは私だけに任せてください。殺すことに対して、向き合わないといけないので」
ユナはこの戦いで、人殺しの名に耐えられるようにならなくてはならない。彼女はたった一人で、ダイハードを殺さなくてはならない。死への覚悟。死者への理解。殺害への慣れ。
だから、ユナはダイハードを殺す必要がある。
「舐めるなよ、人間の雌が!」
弓士などの遠距離武器持ちへの対処法として正しいのは、接近すること。だがユナは自ら接近してきたし、そして力量はただの戦士とは比べ物にはならない。現に、ショルマン派閥でも上位の戦士であるダイハードでさえ舐めてはかかれない相手だ。それも戦士でない相手だというのに。
「舐めてなどいません」
薙ぎ払われた剣は身を低くして躱し、懐に潜り込んだユナは肘打ちを叩き込む。肋を砕く感触。獣人とはいえ鳴ってはいけない轟音、打撃音が響く。そして怯んだ隙に追撃を加える。両手で地面を支え、両足で腹部を蹴り付ける。『身軽之加護』を持つユナは、自身の体重を感じさせない戦い方ができるのだ。その体重は変わらないでいるが、まるでグラム程度しかないように体を動かせる。
ぶっ飛ばしたダイハードは勿論空中にいる。ユナは跳躍することはせず、背中に掛けていた弓を取り出し、射る。
三本の矢が一気に射撃され、ダイハードに突き刺さる。しかし他の獣人のように破裂することはなかった。
着地し、ダイハードは肩で息をしていた。
「⋯⋯⋯⋯」
ダイハードは気づいていた。今、ではない。最初から、だ。彼はユナには勝てない。だが、生き残れない。戦わなければ。
立ち向かわなくては、勝利は掴めない。敗北と諦めは同義である。
「もう命は助けません。私はあなたで、殺すことに覚悟しなければならなくなりましたから」
戦意を喪失したかのように立ち尽くすダイハードに、ユナはそう言った。
「命乞いなどしない。自分の命は、自分で助ける。それがこの国のルールだ!」
矢を抜き取るとき、それは撃ち込まれるより痛かったかもしれない。鏃が返しになっていたからだ。けれども、彼は抜いた。声をあげてでも。その間、ユナは何もしなかった。
「うおあああああっ!」
雄叫びをあげ、ダイハードは突撃してくる。痛みと出血が原因で歩みは乱れ、戦士としては駄目駄目だ。剣戟は更に遅くなり、それに当たるほどユナは弱くない。何度か空中で鋼と鏃が衝突したことによる火花が発生した。
ダイハードの剣を握る腕が痺れて、まともにそれを握ることもできなくなるまではすぐだった。最後の命も、悪足掻きも無意味だった。それはつまり、ダイハードは敗北したということだ。
敗北は、この国において死である。
「還りなさい」
せめて安らかに──母なる大地に。
心臓に一突き。最期はあまりにも呆気なかった。ユナに一太刀も浴びせることなく、ダイハードは地面に転がる。
胸部から流れ出る血液は、一瞬で真っ赤な水溜りを作った。それは明らかに致死量であり、見るまでもなく傷は致命的だ。
今までの殺人は仕方ないからやっていたことだったが、ユナは明確な殺意の下で、初めての殺人を行った。
それは苦しくはなかった。切なくもなかった。気持ち悪くもなかった。しかし、楽しくもなかった。嬉しくもなかった。心地よくもなかった。無感情──いや、それは、哀れみか。
果たしてそれが命を失った相手へのものか、はたまたそんなことをしてもそれほど嫌悪感を覚えない自分へのものかは分からなかった。だが、言えるのは、殺すことには慣れた、ということだ。
「⋯⋯多分、今、私はあの人たちのような目をしているんでしょうね」
ユナはマサカズとエストを思い出す。彼らは自分に対して優しくしてくれたし、自分を仲間だと思っていた。ユナが加護の力を使わずとも、そうだと確信できたほどだ。
しかし彼らの目にはあるべきものがなかった。エストの方は分かりづらかったが、マサカズの方は特に顕著だった。
──殺人者の瞳。それが彼にはあった。代わりに人の命を重視する目──少なくとも見ず知らずの人の命を大切にするそれ──はなかった。だからユナは最初、マサカズに対してあまり良い感情を抱いていなかった。エストにもそうだったが、彼女が魔女──人ならざるものだと知ればそんな瞳なのも理解できたが、マサカズは人間だったから、受け入れるには難しかった。
しかし、今ので少しは分かった。彼は必要だったから殺人者に成れたのだ、と。
「ああ、母さん、父さん、私は悪い子になってしまったようです」
もし元の世界に帰られるなら、自分は本当の笑顔で帰られるだろうか。汚れた手で、両親に抱きつけるだろうか。
自分の両親なら、そんな自分も受け入れてくれる。でもそんな自分を自分は受け入れられない。帰りたいが、帰られる資格がない気がする。
「ナオトさん、皆さん、すみません。私の我儘に付き合ってもらって」
「いいや、構わない。それほど時間はかからなかったからな」
ユナとダイハードの戦闘は五分もかからなかった。時間が切迫しているわけではないし、これぐらい誤差だ。
「ありがとうございます。⋯⋯行きましょう」
ここですることは全て終わった。あとは、後方から、司令部を失った四百の軍隊を殲滅するだけだ。
ユナたちは馬を回収し、次第に強くなりゆく雨の中を駆け出した。
◆◆◆
神崎由奈。日本どころか世界でも有名な彼女は、弓に関して天才的な技能の持っていた。彼女が的を外したことはなく、的の中心への命中度でさえ九割を超える。勝負をすれば勝利は確実だし、どんな弓であっても使いこなせる力を持っていた。
尊敬されて当然だ。しかしまた、妬まれることも必然だった。彼女の美貌が、それに拍車をかけていた。
彼女は目立たないが、嫌がらせを受けていた。陰口、根も葉もない噂は当たり前。弓を事故に見せかけられ壊されたこともあった。しかし、彼女はそれらを受けても尚、特に気にしなかった。由奈は嫌がらせに反応することが何より相手を喜ばせると知っていたからだ。
彼女には一人の弟が居た。とても可愛らしくて、将来女の子にモテることが約束されたような子だった。一年しか変わらない弟は、由奈と一緒の学校に在学していて、二人が兄弟であることはよく知られていた。美男美女姉弟なんて言われていたぐらいだ。
嫌がらせの標的が由奈である限り、何も面白くない。嫌がらせとは嫌がる反応を楽しむからこそのものであるからだ。だったら、考えることは単純明快だった。嫌がらせの対象は──いや、それは最早虐めだ。その相手は、由奈の弟、秀千だった。
秀千への虐めは由奈への憎しみが倍増したものだった。由奈にしていたものに加えて、暴行、パシリ、机への落書き──そしてエスカレートしていき、最終的にリンチにまで至った。秀千も由奈と同じく、妬まれる才能があったから、同級生と一学年上の生徒たちによるリンチだ。生きた秀千が、笑顔を見せている終戦がその日、そしてその日以来にも家に帰ることはできなかった。帰ってきたのは永久の眠りについた弟だった。
秀千とは別学年で、彼は姉に心配させたくない気持ちがあったこともあり、由奈がそれを知るのは全てが終わってからだった。
由奈は絶望した。確かに、突然嫌がらせが終わったことは気づいていたが、標的の変更が理由だとは思ってもみなかった。
両親は由奈のせいじゃないと言っていたが、彼女は自分が原因だと思っていた。もし自分が嫌がらせを無視せず先生に言っていたなら? もし自分が秀千への虐めに気がついていたなら? もし自分への嫌がらせが急に終わったことに違和感を覚えていたなら? 弟は助かっていたかもしれない。弟は今も生きていたのかもしれない。弟が殺されることはなかったのかもしれない。それが彼女の心に溜まっていた。
復讐心はなかった。そんなことしたって無駄だ。だからせめて、人に優しくしようと、人の変化に気がつこうと努力するようになった。もう、自分のせいで誰かに死んでほしくない。そう、誓った。
──そう誓っていたが、今日、ユナは自分から殺人を犯した。それは仕方ないからではない。必要だから、覚悟して、殺ったのだ。
なぜなら世界は、こんなにも無慈悲なのだから。