7−34 蜥蜴
それは彼らに『蜥蜴』と呼ばれたが、本物の蜥蜴からはあまりにもかけ離れた外見だった。
腐った血液を毎日シャワーのように浴びているのか、体表は元からそうであったかのように赤黒かった。それからは離れた場所にいると言うのに、血生臭ささが鼻孔を通り、脳を直接刺激している錯覚に陥った。
普通の蜥蜴と同様にある二対の脚に加え、腹部辺りからもう一対の脚が生えていて、さらにそれらの先には鋭利な鉤爪が備えられていた。鱗は鎧のように硬いらしく、一国を滅ぼすに容易い死霊たちの一撃をものともしなかった。
『蜥蜴』は口を開く、大きく、大きく──頬を裂いているのではないかと思うほどだった。そしてその巨大な口の中には無数の、まるで鮫のような牙が揃っていて、それを用いて周りの死霊たちを喰らって、貪って、血肉を求める。
「────」
粗方喰らい尽くすと、それは雄叫びを上げる。満足、歓喜、あるいは少ない事への不満、悲哀なのかもしれない。だが少なくとも人間が言えることは、それが化物であることだけである。
死霊という言葉では形容するに足りない。言うなれば、形容するに値する人が持つ語彙、それは、『死神』だ。
「振り向けっ!」
──どのようにして、そんな『死神』を誘導するのか?
その解決方法として挙げられたのは二つ。一つは殴って気を引き、追わせるというもの。そしてもう一つは餌──死霊の肉片を撒き散らすことだ。
それら二つの方法を実行することはいつでもできた。ならば、手っ取り早く『死神』を誘導するなら二つ同時に進行すれば良いのではないかと結論付けたのはネイアだった。
「────」
グレイは一般的な世界では最硬とされるアダマンタイトさえも両断できる剣術を持っていたが、『死神』の鎧のような鱗に弾かれた。刃こぼれもしなかったのは彼の技術であり、もし彼でなければ一太刀で刀は使い物にならなくなっただろう。
「はは! 腕が痺れてる! ララギアでもこんなことはなかったのに!」
グレイは刀を持ってから負けたことがなかった。彼は加護も能力も魔法も使えなかったが、ある意味でそれらを超える才能を持ち合わせていたからだ。
生まれながらにしての絶対強者。亜人の最強剣士。それが彼の人生だった。
しかし、彼は今、ようやく最強の座が絶対でないことを知らしめられた。だけれども、彼はそれに絶望しない。どころか高揚感さえ覚えて、憶えて、
「っと、駄目だね。チームワークが今は大切だ」
殺意を抑えて、グレイは『死神』の気を惹く。彼の使命は目の前の化物の誘導だ。決して殺し合いではない。
『死神』の溢れんばかりの貪欲は歯止めが効かないらしく、死霊でもないグレイさえ捕食対象だ。蜥蜴はグレイを、その壊れた口で噛み付く。しかし彼は捉えられない。捕らえられない。
「はっ! 久しぶりだ、この感覚!」
ジャンプし、グレイは空気を蹴る。生命を──いやそれ以上のものさえも可能性のある逸脱した身体能力で、不自然過ぎる軌道を描き『死神』に向かう。そしてその眼球を一閃で二つ潰す。
「はははははははははははッ!」
連撃に継ぐ連撃? 殺意に続く殺意? 狂気に接ぐ狂気? そのうちどれだ? そのうちどちらだ? そのうち誰が彼なのだ? いいや、全てだ。
刀を振っているだけだというのに、零れた血は切断され、飛び散り、風が巻き起こり、残像がいくつも見える。刀が弾かれるなんてどうだっていい。振り回せるならそれで構わない。何度も何度も斬りつけたなら、斬れないものなんてあんまりない。
グレイの一呼吸はおよそ五秒だった。その間、無数の斬撃が、隙なく叩き込まれた。ようやく一息ついて『死神』は腕をグレイに伸ばすが、もう既に彼はそこに居ない。
「あーあ。やっばいなぁ。腕に感覚がない。⋯⋯けど、鱗は剥がせたね」
怪物の頭部の鱗は剥がれ、真っ赤な血肉が剥き出しだ。柔らかで、そこから体の内側をグチャグチャのミンチにできる。
顔面の皮を剥がされ、怒りに狂った『死神』はグレイのみを視界に入れて、まるで暴走列車家かのように走る。
単純なスピードならば『死神』の方が速いが、比較的小さいグレイは小回りが利く。だから誘導は特に問題はなく成功した。
グレイは何もないところで跳躍した。合図があったからだ。だが怒りに身を任せている化物はそのことに気づかず、そのまま走り抜ける。よって『死神』は落ちる、地下に。
「──撃て!」
リルフィットの合図が響き、その通りにすべく、皆は銃のトリガーを引く。軽いそれから放たれる火力は肉を容易く貫通し、いくつかは鎧に弾かれたものの大半は彼奴の体内にぶち込まれる。
灼熱の弾丸は身を焼き、これまでにおそらく殆ど味わったことがないだろう激痛はさぞ苦しかったのか、『死神』は鎌を捨てて喚き散らす。
しかしマサカズたちに慈悲の心はない。絶え間なく弾幕は続き、弾倉交換もタイミングを合わせて、全員が一緒にすることはない。
火薬の匂いが濃くなり、幾度もの射撃で聴力は麻痺している。『死神』が動かなくなってからもしばらく撃ち続け⋯⋯手元にあった弾丸が全てなくなり、バックパックから取り出す必要が出たあたりでようやく弾幕は終了した。
『死神』は指の一つも動かなくなった。鎧はほぼ無傷であり外傷はなさそうに見えるが、内部はそれこそ真っ赤な、鉄塊入りのスクランブルエッグのようなものだろう。
「⋯⋯⋯⋯」
死霊たちは第一段階でもなければ死ぬことがない。第五段階、蠢くそれともなれば何もかもが不明であり、逆に言えば何があっても不思議ではないということでもある。
「で、どうすんのこれ?」
死霊を完全に殺すには、バラバラにするしかない。しかしいくら内蔵をグチャグチャにしても、接合することはできるらしい。
「燃やそう。火は全てを解決してくれる」
と、言うことでアルティンは火炎放射器を取り出し、それを頭の中に突っ込みトリガーを引く。内部温度は急激に上昇し、油を含んだ内蔵や筋肉は燃える。そしてやがて炭化し──しばらくしてから火炎放射を止める。
「これくらいやれば良いね。⋯⋯よし、あとは脱出するだけ」
八人はトラックや筏に乗る。ドライバーはパラダインだ。アクセル全開。シフトチェンジは完璧。エンジンは唸り、一気に加速する。生半可な死霊たちは轢き殺し、追ってくる死霊たちは頭をぶち抜き殲滅だ。
そうしてしばらく走っていると、マサカズはあるものを見た。
「魔法陣⋯⋯」
今現在、この大陸の殆どの国にある世界終焉の大魔法陣──ほどではないにしても、やはり巨大な魔法陣がそこには描かれていた。そしてそれは光っており、つまり稼働中と言うわけだ。
「これが原因だったのか」
ここには一つしかなかったが、マサカズはこれが無数にあると考えた。でもなければ、これほど広大な土地を『無数の亡国』にするには力不足だろうから。おそらくは中心地にも似たようなものが描かれていることだろう。聞けば、境界線と同じように中心地にも強力な死霊が集まるらしいとのこと。
しかし今はその全てを破壊して回る暇はない。さっさと境界線を抜ける。
「────」
七百年ぶりの外は、彼らが知るそれとはまるで違っていた。一面の銀世界は、そこになかったはずのものだ。
「⋯⋯ようやく、ようやく、私たちは脱出できたのね」
リルフィットは口に零す。彼女に共感するように、パラダイン、アルティン、ハーレイ、ウィルは頷いた。見慣れた景色であるネイアも、彼らの気持ちは理解できたようだった。
「だな。だが、まだ終わりじゃない。そうだろ、リーダー?」
副隊長は言う。そうだ、まだ終わりではない。内部には同胞たちがいる。彼らを救うまで、自分たちは本当の意味で脱出したことにはならない。
「うん、そうだね」
◆◆◆
「マサカズ、君について聞いたことはなかったね」
『大雪原』をトラックで走るという、異世界とは思えない状態だったのは先程までで、今は雪の上で焚き火を炊いている。勿論湿っていない木なんてないから、燃やしているのはリルフィットらが用意した可燃物質だ。見たところ炭のようだった。
話しかけてきたのはグレイだった。自分たち以外は既に眠っており、機械生命体であっても睡眠は取るらしい。彼らの肉体は機械だが、脳に休眠が必要であることには変わらないらしい。
「転移者、そんで黒の魔女を殺すのが使命の人間だ」
「違うよ」
グレイが求めているのは、それ以上のこと。
「⋯⋯君は雪兎人を生き返らせることができる者を知っていると言った。『無数の亡国』の境界をなくすことができる者が居ると言った。おそらく、その人物とは黒の魔女を殺すことに協力している人物だろう? 君は一体何者なのかな?」
隠し通すことも考えたが、グレイはおそらく勘付いている。だから逃れられない。隠すことは、できない。
マサカズは自らを発言に警戒心が足りなかったと知った。しかし、そうせざるを得なかったということも理解した。つまり、遅かれ早かれ、話すことにはなっていたのだ。
「⋯⋯グレイ、お前が思っている通りだ」
彼は動揺しなかった。けれども、微かに彼の目は細まった。そして無意識だろう。彼は腰の刀に手をかけた。
「⋯⋯まさか、本当に」
「ああ。⋯⋯魔女は大体イカれてる。でも、半分は話が通じるし、なんなら一人は正に聖母ってぐらい優しい人だ」
マサカズはグレイに、自分が魔女に繋がっていることを話した。
「なぜ隠していたのかな?」
「なぜ隠さないと思った? 魔女はこの世界の厄災そのものだろ? それで協力関係にヒビが入るのは勘弁して欲しかっただけだ」
確かにそうだ、とグレイは納得したようだった。
「⋯⋯ちなみに、誰と協力してるの? 半分、って言っていたけど、三人だよね?」
「まあ、な。でも予定も合わせると合計四人だ。魔女は六色だけじゃないからな」
始祖の魔女、イザベリア・リームカルド。マサカズがリオア魔国連邦から向かう予定の場所に封じられている魔女の名前だ。しかし魔女と言えば六色魔女であるグレイには、ピンとこないようだった。
「青、赤、白、そして始祖。特に連絡を取ってるのは白のエストだ」
「エスト⋯⋯名前以外殆ど情報がないっていう?」
「そう。それだ」
そういえば、彼女のことを知る者は殆ど居なかったな、とマサカズは思った。一般人が知る魔女なんて、レネぐらいだろうか。
「魔女⋯⋯強いの?」
「さあな。俺には異次元過ぎて分からない」
想像主としてのマサカズならば、エストの強さを見極められただろう。が、今の彼には同じことができない。しかし普通の魔女よりは圧倒的であるはずだ。現に、口では分からないと言いつつも、マサカズはエストがグレイ相手に負けるイメージがつかない。
「魔女とは会ったこともないから、戦ってみたいものだね」
「好戦的過ぎるだろ。⋯⋯何でララギアから逃げたんだ? あそこなら戦い続けられるだろ?」
「刀を振れば簡単に死んで、酷いときには鞘から得物を取り出すまでもなく敵は平伏すのが楽しいわけないよ。それに、あのままあそこに居たって、何だか良い未来になる気がしなかったから」
なんとも自分勝手な理由で亡命したんだろうということが、今の彼の発言で分かった気がした。しかし気持ちは分かる。
「そもそも、あの国のやり方が気に食わなかったってのもあるね。次期大統領を殺し合いで決定するなんて、兵力を自ら削るようなもの。⋯⋯まあ疲弊しても周辺国ぐらい滅ぼせるからやれてるんだろうけど、それでも今やることじゃなかった」
黒の魔女の復活は今から五年前に確認されたことだ。そして次期大統領を決定する内乱は四年前に始まった。やらないという選択肢を取れたというのに、戦争は始まった。万全な状態でさえ壊滅する可能性があったというのに、黒の魔女への警戒があまりにもなかったのだ、ララギアは。
「ララギアはこのままじゃ落ちぶれる。そう思ったんだ」
だから亡命をした。
「⋯⋯なるほどな」
「なんか辛気臭い話をしたね。明るい話をしよう。魔女って可愛い?」
「お前のテンションはどうなってるんだ? というか、何で?」
「僕は番に選ぶなら強い女性が良い。魔女ってのは強い生物なんでしょ? それで外見が良いなら最高だとは思わない?」
「⋯⋯まあ、外面は悪くないんじゃないか? 人間なら一目惚れする奴が大半だ。でも、魔女は子作りがほぼできないぞ」
「え、マジ?」
「ああ。俺、あいつらが生理になってるの見たことねぇもん。数ヶ月一緒に居たけど」
ユナは月に一回ぐらい明らかに体調が悪くなっていたが、エストはそうでなかった。魔法で消しているのかもしれないが、生理現象であるために隠し通すことは難しいはずだが、全くそういう気配はなかった。それに、マサカズの知識には、生物的に優れた種族であるほど繁殖能力が低下するというものがあった。
「ドラゴンだってそうだしな」
「⋯⋯うーん。そこまで期待していたわけじゃなかったけど、無理って言われるも何だかなぁ」
「それに、俺ならおすすめはしないぞ、魔女を伴侶にするのは。レネさんを除いて碌なもんじゃない」
「ねぇ、その碌なもんじゃない彼女らに僕たちの世界を委ねているんだよね?」
「⋯⋯まあな。そうしないといけないから」
「⋯⋯何だか怖くなってきた」
グレイは世界の命運に不穏な気配を感じた。しかし祈るしかできないこともまた事実であるから、何もできない。
──夜はまだまだ続く。焚き火のぱちぱちという音が、彼らから雪の冷たさを取り除いてくれている。
その後もしばらくマサカズとグレイは談笑していた。見張り番が起き上がるその時まで。