7−17 初恋
彼は婚約ということに無関心だった。否、誰かに恋をすることがなかったのだ。勿論、愛自体がないわけではない。家族へのそれはあった。ただ、性愛だとかの異性への愛だけがなかったのだ。
1118年──エルフの国は周辺国と敵対していた。いや、そう表現するにはあまりにも、エルフの国は残酷に、そして強引に侵略されていた。
通称──『亜人戦争』。
当時の人間の多くは『人間至上主義』であり、オーガやオーク、魔獣と称される者たちのような知能が低く、文化性に乏しい化物は勿論、単眼族や竜人族、ドワーフやエルフと言った所謂亜人、つまりは人間と同等、あるいは上回る知能、能力、文化を持つ者たちさえも差別した。
エルフたちは総称して亜人種と呼ばれ、そして彼らは確かに高い技術こそ有しても数は少ない。上位種族であればあるほど個体数も激減するものだからだ。だからこそ、人間は弱小種族であったため、その分、頭数も居た。
しかしながら、人間には知能があった。弱小種族故の知能が。
自分たちにはない硬い皮膚や、高い身体能力を補う技術、鎧や武器というものだ。当然ながら、他の種族もそれに似たものは持っていた。ただ、人間の持つそれらが他の種族より遥かに高い性能だったということだ。
人間は弱小種族であったが、その立場を上手く活用した。更に他にはない数の力、悪くない知能を活かし、戦術を編み出したりして他の種族と互角以上に渡り合った。これは、人間には冷酷な種類も居たから成り立ったのかもしれないが。
「──国王! 国王!」
ローゼルク王国、王城。時刻はそろそろ夜を迎える頃だろう。
王室に備えられたソファに座る老人の耳は長く、髪は梔子色だ。瞳は金色であり、老いてはいるが、容貌は整っている。若い頃はさぞ異性を魅了しただろう。
国王、リミルド・ヴェルドア・ケルシス・ローゼルクは今、彼の人生最大の危機に瀕していた。
「今すぐにでも避難を! あなた様が亡くなることだけは⋯⋯」
隣で宰相が五月蝿くそう言う。
──およそ十年前から始まった『亜人戦争』。人間とその他全ての種族との間で引き起こされたそれにより、エルフの国は堕とされる直前まで攻められていた。
人間はよく考えたのだろう。でなければ亜人全体をここまで追い詰めることなどできない。既にいくつかの亜人国家は滅んでおり、おそらくそれは内部崩壊だ。
十年にも渡る人間勝利の方程式。それが今、佳境に移っていた。
「国王! ローゼルク国王!」
「静かにしてくれ」
リミルドが一言発せば、宰相は何も言わなくなった。彼はどのようにして自分だけが逃げるかなんて考えてはいない。
「私はもう老いぼれだ。この私が逃げたところで、一体何になる?」
エルフ種族の寿命は個体差もあるが約七百年だ。そしてリミルドの年齢は数えていないが、もうそろそろ寿命の年になる。
死ぬ数年前から体は急激に老化していき、そして命尽きる。既にリミルドは自身の死が近々迫ることを確信していた。
だからこそ、逃げたところで意味はないとも思っていた。
「私の子⋯⋯ドメイが次期国王だ」
ドメイ・シェルニフ・ヴェル・ローゼルク。亜人戦争が始まる直前に生まれた二人の子供のうちの一人であり、今生きている子供の中で最も年が高い。
それ以前の子供たちは数人いたが、全員死亡している、戦争で。
「⋯⋯国王」
「この身は朽ちようとしている。だが、まだ動く⋯⋯戦線に出よう。お前は我が子供たち、ドメイとフェリシアを頼んだ」
リミルドは自らが戦線に赴くことで現場の士気を高めることを狙った。彼にできることなど、もうそれぐらいだからだ。そしてそれでできた僅かかもしれない隙を見て、子供たちには逃げてもらう。老いぼれ一つの身より、未来ある子供の方がずっと大切だ。──あるいは、ただの我儘なのか。
「承知⋯⋯いたしました」
宰相には王の子供たちが任された。それは重大であると同時に、最後の任務でもあった。
「必ずや、成し遂げてみせましょう」
「ああ⋯⋯幸運を」
宰相が王室を出て、ドメイとフェリシアを迎いに行こうとしたときだった。
「っ!?」
──爆発音が城内に響いた。よく嗅いだことのある爆薬の匂いもした。攻めてきたのだ、ここに、直接。
「ドメイとフェリシアを連れて今すぐに逃げろ! 時間はこの私が稼ぐ!」
リミルドはベッドの近くの机に置かれていた魔法杖を手に取る。国宝級のそれは、リミルドという強大な魔法使いの魔法をより強化する。
「はっ!」
宰相と国王は王室から駆け出した。
◆◆◆
爆発音がしたかと思えば、彼は無意識に部屋から出ていった。その手には何も持たず。
向かった先はたった一人の妹だ。彼女以外の兄弟は全員死亡した。だから、ドメイは妹を何より大切にしていた。次に両親だ。
「フェリシア!」
部屋の扉を勢い良く開く。通常、女の子の部屋の扉をノックもなしに開くのはご法度だが、今は非常事態だ。部屋の主もそれを咎める気はサラサラなく、兄が来たことに安心する。
「お兄様! 一体何が⋯⋯いや、分かりきっていることですか」
「そうだ。⋯⋯逃げるぞ」
十中八九、人間が攻めてきた。また生まれて十年前後しか経っていなくても、そんな簡単なことも分からないわけではない。
「お父様やお母様は⋯⋯」
「っ⋯⋯オレたちだけで逃げるんだ。待って全員死ぬより良い」
要は見捨てるということだ。それに、自分たちが両親を待ったところで何もできない。むしろ手荷物となる。
確かにドメイは剣が振れる。だが兵士を斬ることはままならない。フェリシアも魔法の才がある。だが扱いきれていない。
「⋯⋯分かりました」
自分たちは無力だ。それどころか重石だ。だから、逃げるしかない。
ドメイはフェリシアの手を掴み、走り出す。彼女とはぐれないように力を込めて。
無我夢中で走った。おそらく、過去一番速く、そして長く走れたと思う。疲れや足の痛みが全く感じなくて、ただ恐怖だけがそこにあった。
悲鳴が聞こえる。同士が倒れる音がする。肉を斬る音が、そう、殺戮の音が王城に響き渡る。全てを、ドメイたちは聞いた。
王城にはいくつか抜け穴がある。城攻めされたとき、逃げるためだ。普通に過ごしていれば気づかないものだ。しかしドメイはそれを知らされていた。
彼がそこに辿り着く直前──今まで誰とも遭遇しなかった幸運がなくなった。
「子供⋯⋯王子と王女か」
鋼鉄の鎧を身に纏い、両手には剣と盾が握られていた。紋章は人間国のものであった。
兵士はドメイとフェリシアを見つけると、襲い掛かってくる。そこには慈悲などない。無感情というわけでもない。殺意、憎しみならあった。
ドメイは反射的にフェリシアを庇う。先に斬られるのは彼の背中だろうし、それは致命傷になっただろう。つまりは無意味だ。
「──触るな!」
そこには二人の父親、リミルドと宰相が居た。
兵士の剣がドメイの肉体を切り裂こうとしたとき、炎の珠が兵士の身を焼いた。だが鎧は長くは燃えず、不自然に炎は鎮火した。特殊な加工がされているのだろう。
「〈風刃〉!」
炎が駄目ならば今度は風の魔法だ。リミルドは魔法を詠唱すると、鋭利な風の斬撃が吹く。しかし兵士は盾でそれを防御した。
盾は容易に斬撃を受け止めた。兵士は攻撃の対象をリミルドへと変更する。
兵士との距離はあって、リミルドは何度も魔法を行使したが、兵士は汗もかかずに肉薄する。殺し合いの熟練者と素人では当然だ。
兵士はリミルドを盾で殴り、首元を剣で突き刺そうとしたとき、
「──〈風刃〉!」
フェリシアは見様見真似で魔法を行使する。それは魔法杖をもったリミルドを超える破壊力であったため、鎧をバターのように切り裂いた。
鮮血がぶちまけられ、首はカランと音を立てながら床に転がる。
「────」
人を殺した罪悪感を味わうような余韻はない。リミルドの「逃げろ!」という言葉に体を突き動かされ、そして宰相が先導したこともあり、尻目に見た増援をドメイは無視した。
「逃げますよ!」
──魔法の音、鎧の音、斬撃の音が暫く続いたが、すぐにそれは途絶えた。
結末は酷くあっさりだし、一瞬だ。命は簡単に潰れる。
走る、走る、走ると、喉の奥から鉄の味がしてくる。走ったことか、あるいは恐怖か、またはその両方か、動悸も経験したことがないくらい早かった。疲れは感じないが、体力が増えたわけではない。体は増々重くなり、特に足なんかは鉄の靴を履いているようだった。それでも走ることはやめられない。
「⋯⋯!」
足元に弓矢が着矢した。もう少し横を走っていれば、背中に灼熱の痛みが走っていた頃だろう。
子供の足では大人にはすぐ追いつかれる。このままでは全員殺される。
「王子様、王女様、振り返らずに逃げてくださいよ」
「────」
ドメイはより強くフェリシアの手を掴んだ。
宰相は肩から下げていた弓を取る。矢を弦に携え、そして引く。
狙いは勿論兵士の頭部。鎧の隙間、眉間を撃ち抜く。
「──走れっ!」
矢が空を切る音、そして鎧が地面に倒れる音はほぼ同時に聞こえた。
ドメイとフェリシアは勢い良く走り出した。
走れ、走れ、走れ。
周りなんて視界に入れてなかった。目の前しか見ていなかったと思う。頭の中には走ることしかなかった。逃げなくては、としか思っていなかった。──何の為?
「──っ!?」
ない、手に、感覚が、握っている。
ドメイは何の為に走っていた? 逃げる為? なぜ? 殺されそうだから? いや、それ以上に──
「フェリシア!」
あるべき妹の手がそこにはなかった。手の中は空っぽだ。
気づけば、ドメイは『大樹の森』を走っていた。そして今立ち止まった。追手はまだ来ていないようなのは不幸中の幸いだろうが、それでもフェリシアは早く見つけなくてはならない。宰相がどれだけ兵士を足止めできているかなんて分からないのだから。
「⋯⋯⋯⋯」
草むらから辺りを見渡していたとき、ドメイは亡骸を見た、宰相の。それはそれは惨かった。ドメイがよく彼の顔を知らなければ、それが宰相だったのか分からなかったかもしれない。
「っ」
そして同時に、フェリシアも見つけた。死体ではなかったが、捕まっていた。両手を後ろで掴まれているのだ。
周りには三人の兵士が居た。当然、武器は持っている。
「王女様か。綺麗な顔してんなぁ」
「さっさと殺すぞ。特にエルフの王族なんかはな」
エルフの王族の血は特別だ。子を作りやすく、そして作られた子はより優秀になりやすい。
「勿体無いなぁ。少しぐらい楽しみたいぞ」
「⋯⋯今仕事中だぞ? もう制圧しきっただろうが。それにお前、昨日も別種とヤっていたじゃないか。絶倫か?」
「まあいいんじゃないか。仕事の報酬の前払いと思って。お前も溜まってるだろ? 俺たち三人の秘密にしようぜ」
倫理観が狂っているとしか思えない会話だ。少なくともドメイの知る人間──ウェレール王国の国王とはまるで同種族だとは思えない。
「やめ──」
フェリシアの口を兵士の一人が手で塞ぐ。声は聞こえない。
「騒がせるな。上に見つかったら面倒だ」
「はいよ。⋯⋯森の方でヤるか」
兵士はフェリシアを抱えて、森へ入っていく。
(どうする⋯⋯いや、一つしかすることはないだろ)
フェリシアはこれから犯される。その後は殺されるか、奴らに捕まって性奴隷になるかだ。
そんなことは許されない。
「──!」
ドメイは草むらから飛び出し、フェリシアを抱える兵士の顔面を殴る。拳の皮膚は破れたし、兵士は少し揺らぐ程度だ。
「何だ、ガキ。生きてたのか。まあ、死ね」
兵士はドメイを蹴りつける。彼の体は地面を何度かバウンドし、転がった。兵士は歩いて彼に近づき、髪を掴んで顔を見る。
「男なのに綺麗な顔してるなぁ? 悪くない。殺さないでおこう」
「嘘だろお前」
隣のまた別の兵士がその発言を聞いて少し困惑していた。
ドメイも拘束され、森の中に連れて行かれた。
しばらくして、適当な場所を見つけた兵士たちは二人を投げる。
「兄妹揃って一緒に犯してやるか。いいじゃないか」
「お前の趣味にはついていけん。⋯⋯見張ってるから、さっさと済ませろよ」
「別に良いぞ?」
「俺には嫁が居る。したくないな」
兵士の一人──デブは見張りに行く高身長から興味を失ったように、また別の大柄な兵士に話しかける。
「はー、これだから旦那は。まあいいか。よし、同時にやろうぜ」
「正面向い合ってか? はは、趣味悪いな」
ドメイとフェリシアの衣服を破り、全裸にする。
「エルフの年は分からないが、中々デカイな」
太った兵士と大柄な兵士は鎧を脱ぎ、そしてベルトを緩め、陰部を曝け出す。
「い、い──」
勿論前戯なく、それはフェリシアとドメイの中に挿されるだろう。容赦なく兵士たちはフェリシアの局部、ドメイの穴にそれを──
「──うっわ。女の子はともかく、男の子も犯すとかキモ」
長い銀髪の女性がいつの間にかそこに居た。手には何も持っていなかったし、衣服も黒のローブに鍔付き帽子を被っているだけだ。
「ん? ヤらないの?」
「は? 見張りのアイツは」
「あー、そこに居た男? 木の枝にうなじ貫かれて死んでるよ。自殺かな? 他殺かな? はは!」
銀髪の女性は笑った。手に持っていた甲を人差し指の先に乗せて、クルクルと回しながら。
「あ、そうそう。さっきこんなの見つけたんだよねぇ。これなんだと思う?」
「それ、は⋯⋯っ!」
彼女が手に持っていたのは、頭だ。不可思議なことに、首の断面はない。皮膚がそこにあった。しかしそれは作り物ではなく、本物の死体の頭だし、何よりその頭は彼らの司令官のものだ。
「くっ⋯⋯」
「正解はね、キミらの頭。ま、文字通り頭だけなんだけどね。笑えるよねぇー」
その頭は破裂した。しかし、血は女性に付着する前に何かに弾かれるようにして、彼女の衣服は返り血に汚れなかった。
「何者だ!」
「え、私を知らない? ほら、人から物を奪うのが大好きな可愛い女の子で有名な」
彼女は自分が有名人だと思っていたが、流石に顔は誰にも知られていなかったようだ。その事実に彼女は少し肩を落とした。
「⋯⋯っ!」
大柄な兵士は銀髪の彼女に襲い掛かる。確実に殺す気だったし、躊躇なんてなかったし、彼の人生一番の渾身の一撃だったが、銀髪の彼女の強さの物差しからすればゼロとあまり変わらなかった。
大柄な兵士の体は押しつぶされるようにして、平たい血肉の塊の出来上がりだ。
「ありゃ? ちょっと骨折るくらいに加減したつもりなんだけどなぁ。潰れちゃったよ」
「ひっ──」
太った兵士はあまりの恐怖に足が震え、その場に崩れ落ちる。そして露出したそれから黄色い液体が流れ始めた。
「何? キミマゾヒストなの? 気色悪いよ。死んで」
太った兵士の全身を真っ黒な炎が包み込む。彼女の魔法の前には、防炎加工がされていようとも無意味だ。瞬時にして体は真っ黒な炭に成り果てた。
「全く⋯⋯レネの頼みじゃなかったからこんな面倒なことしないんだけどね」
銀髪の彼女は犯される寸前だったエルフの子供たちを見て、一人そう呟いた。
「キミたち、生きてる? 死にたいなら殺してあげるけど。あ、自己紹介まだだったね。私はルトア。よろしくね」
人を殺すことにこれほどまで無感情で居られる女性。エルフの勘が、彼女は人間ではないと囁いている。
「⋯⋯あなたは私たちを助けてくれるのですか?」
一番怖いのは、ルトアというこの女性が第三勢力であることだ。
「うん。そうさ」
その答えに安堵するが、
「⋯⋯あなただけ、ですか? 相手は軍です。どれだけ強くても、あなた一人じゃあ、軍の力には⋯⋯」
見た所、助けてくれたのは彼女一人だけである。相手は一つの軍。それも小国の軍とは比べ物にならないほど大規模だ。だが、ルトアはその疑問を笑った。そして、
「──それを超える力でねじ伏せるのさ。だって、私は白の魔女だからね」
今度の過去編はどれだけ長くなるだろうか⋯⋯?