7−12 =信頼
アレオスと入れ替わるように部屋に入ってきたのは七人の男女だった。中には十代後半ほどで、この辺りでは見かけない人種も居た。そして一人の女性の存在から分かるように、
「ご無事ですか、皇帝陛下」
彼らはウェレール王国の使者だ。
「あなたは⋯⋯レネ殿ですか。一体何があったのでしょうか?」
王国でも国王、下手をすればそれ以上の地位の存在が来るなんてまるで思っていなかったアベルは少し動揺するが、それを隠して彼は、凡そ分かっている現状について話を聞く。
「一言で申し上げるならば、黒の魔女が襲撃をしました。目的は不明ですが⋯⋯とにかく、今すぐにでもここから離れてください」
なぜ、という部分が聞きたかったのだが、知らないのであれば聞けない。
アレオスでさえ勝てるか分からない化物だ。ここで留まっているより、逃げるべきである。皇族であるアベルが死ぬことになれば、子どもはいてもまだまだ小さいのだ。引き継ぎもできやしない。
「分かりました」
アベルが逃げる意志を見せたとき、レネは少し安心した。
「陛下を守っておいて下さいね、皆さん。レイさんとカブラギさんは私と一緒に来て下さい。エストを助けに行きますよ」
それからレネは二人の男に命令して、どこかへ──いや、黒の魔女の元へ行こうとしていた。
「陛下、そこの三人は大変優秀な護衛役です。⋯⋯これからは陛下の命令に従って下さい」
「了解、レネさん」
えらく軽い口調で、三人の少年少女の内の一人はレネに答えた。その手には剣が握られており、外見こそ訓練を積んでいない子どもそのものだが、そんな子どもはあんな剣を片手で軽々しく持たない。
「では、お気をつけくださ──」
そうしてここから離れようとしたときだった。
もし神が実在するならば、それはきっととんでもなく残酷であるか、あるいはそんな神の決めた運命でさえ、それを縛れないのか。
ともかくそれは現状考え得る最悪の場合であって、それ以上ではなく、それ以下は存在しないだろう。
「──逃げる、ですか。ならばそこの男をここに置いて行って下さい。そうすればすぐには追いかけません」
城の壁に、綺麗な円状の穴が開けられた。外部からそこに入ってきた存在は、全身を黒いドレスで身にまとった女性だ。
黒い長髪、黒い瞳、そして妖艶な姿は起伏が激しく、雰囲気は艶やかさのみで構成されたようだ。
しかし、そこには絶対強者としての恐怖を沸かせる威圧感があった。
「なっ⋯⋯!」
現れたのは一目で分かる──黒の魔女だ。
「⋯⋯エストをどうしました?」
レネは親友の娘にして、自身の妹のように扱ってきたエストについて黒の魔女に訊く。だが、
「⋯⋯さあ? 知りませんね。自分で確かめてみては?」
黒の魔女はさも分からない、と言った風に答える。それを挑発だと受け取ったレネは、怒りを沈めた。こんな分かりやすいものに乗るのは愚の骨頂だ。
「──逃げなさい。ここは私たちが何とかします」
最悪な現状。しかし対抗策はある。問題は、その対抗策がエストのような戦力がなければまるで使えないことだ。だが、それでもやらなくてはならない。
黒の魔女は皇帝なんかには興味がない。それどころか、ここに居るマサカズを除き、全員どうだって良い。
「逃しませんよ。あなたは殺さなくてはならない相手ですからね」
「っ!?」
黒の魔女の姿がそこから消え、後に残るのは巻き上げられた埃のみだ。それはつまり、彼女は純粋な身体能力のみでそこまでのスピードを出したということである。
マサカズの目の前に転移するように現れたメーデアは、魔法陣が展開された右手を彼に向けていた。その魔法陣を知っているマサカズは、その時死を覚悟した。戻れない死を、だ。
無抵抗に死ぬわけにはいかない。力はなくとも知識はある。剣で紅い水晶を弾こうと試みる。が、その前に、
「逃げなさい、早く!」
青い瞳を光らせながら、レネは能力を行使してマサカズを水晶から守った。守護壁はまるで傷ついておらず、それが黒の魔女にとっては予想外であったらしい。
その隙にレイは転移魔法を行使し、マサカズ、アベル、ナオト、ユナ、ミーファの五人を転移させた。
「行かせないのはこちらですよ。黒の魔女」
「そうですか。⋯⋯手加減はなしに、本気で殺してあげましょう」
◆◆◆
転移させられた先は、検問所を超えた先の平原であった。そこから走って逃げろ、ということなのだろう。
「⋯⋯ったく、どうしてこんなことに」
メーデアが帝国を襲撃してくる事自体は計画通りだ。しかし、そのタイミングが予想より遥かに早かった。何とか帝国内部で殺し合いを引き起こすことには成功したが、被害があまりにも大きい。
エストは帝国民をいくらか助けるために転移魔法によって避難させているだろうが、流石にあの周辺の住民くらいだ。
『逸脱者』同士での戦闘は、両者が周辺に被害を出さないように慎重に戦わない限り、必ず大被害が起こされる。特にメーデアとエストという魔力に限りがないような──片方は本当にない──者たちであれば、より被害は増すだろう。
「いや、今はそれどころじゃないな。俺たちじゃどうにもならないことには変わりないか」
マサカズはアベルの方を向き、
「皇帝陛下、生憎馬車なんかで私たちは来ていません。なので、走ることになりますが⋯⋯私に抱えられてくれますか?」
転移者は世界的に見れば弱い部類だが、人類の範疇では最上位クラスだ。勿論、たかだか普通の人間、それも運動もアスリートレベルでは絶対にしていないようなアベルよりは遥かに速く走れる。
不敬なことはわかっているが、そうでもしなければならない。
「⋯⋯ああ」
そしてそんなことも理解できないでいては、一国の長などできやしない。マサカズはアベルを抱き抱えた。おんぶされると思っていたアベルは少し困惑した。
「ユナはそこの女の人を抱えてくれ。ナオト、お前は周りを警戒して⋯⋯殿頼めるか?」
「分かりました」
「勿論だ」
マサカズは二人に指示を出す。アベルと一歳くらいしか年は変わらないようなのだが、彼にはどうもマサカズが年上のように思えた。天才というより、経験があるようだったからだ。
「よし、逃げるぞ」
悪く言えば敵前逃亡。良く言えば戦略的撤退。ここで逃げるのは最善の判断だ。
アベルの体に瞬間的に大きな慣性力が働くと、マサカズは人間とは思えない速度で走っていた。馬の全速力とほぼ同等の速さだ。横を見ればナオト、ミーファを抱えたユナも同じ速度で走っていた。
(メーデアは俺を狙っている。だから、ここでこいつらと別れた方が良くないか?)
走っている際中、マサカズはそんなことを考えた。
(でもそれはレネさんだって分かってるはずだ。なのにどうして⋯⋯)
レネは言った、「皇帝陛下を守れ」と。それはナオトとユナだけに言ったのではなく、マサカズにも言っていた。つまり、それはマサカズが別れるのは辞めろというメッセージだろう。
(──信頼してるから、なのか)
答えはすぐに浮かんできた。レネは信頼しているし、信用もしているのだ、エストを。そして何より、彼女自身を。
アレオスと言う戦力を失うことは痛手として許容できないし、帝国軍も同じだ。なんとしてでも帝国との同盟は結ぶべきなのだ。
ここでマサカズだけが別れたとなると、彼にはメーデアに狙われる自覚があったということになる。それが分かっていながら、何故、マサカズは帝国に来たのか。それを問いただされれば面倒だ。
勿論言い訳はある。しかし、信頼が失われる可能性も大いにある。今のマサカズは、何故狙われているかを理解できない人間でなくてはならないのだ。故意ではなく、それは過失でなくてはならない。何故ならば、『死に戻り』は本来、自分以外には観測できないものであるからだ。
(信頼⋯⋯か。俺はあいつを裏切ったも同然だが⋯⋯ここで生き延びないと二度と会えなくなる。本当に裏切ることになってしまう)
だったら、ここで博打をするしかない。マサカズは、エストたちを信じて逃げて、生きていないといけないのだから。
◆◆◆
防御に徹し始めてから、エストとアレオスは攻めあぐねていた。
しかしそれはメーデアも同様であるらしく、彼女もまた、エストとアレオスを殺すのに手間どっていた。
メーデアの姿は影によって隠れていて、狙いが付けづらくエストの魔法は度々外れる。外れた魔法は影に飲み込まれるように消えていった。
(治癒魔法の行使の阻止はできてる。ちょっとずつとは言えメーデアにもダメージを与えられているし、このまま殺しきることも可能)
しかし──あまりにも呆気なさすぎる。
黒の魔女、メーデア。七百年前に大陸中央の殆どの国を滅ぼした災厄の権化であり、前回、本当に世界を滅ぼした張本人。身体能力、魔法能力、特殊能力のどれ一つ取っても変わらず、知略においてもその地位は落ちない。
そんな『最強の魔女』が、エストとアレオスの二人だけでこんなにも簡単に殺せるだろうか? イザベリアを二度も殺害したメーデアを。
(⋯⋯なにかある。嫌な予感がする。でも、それが分からない。分からないことが、何より怖い)
捉えられないのだ、狙いが、目的が、考えが、何もかも。
理解不能な存在こそ、未知こそ、最古にして最上の恐怖。無理解とは恐れであるのだ。
そのときだった。突然、『影の手』から力がなくなったのは。
能力行使は本人の体力に関係がないが、能力者の意識がなくなったとき、それは解除される。持続される効果というものは、例えばエストの『記憶操作』で操作された記憶であったり、イシレアの『虚飾の罪』による改変された現実などだ。
メーデアの『影の手』の効果的に、能力者が居ないとそれは意味を成さない。影は死体のように力尽き、地面に落ちる。
「死んだ⋯⋯いや、気絶した?」
メーデアは不死身である。つまるところ、外的要因により死ぬことは決してない。ならば、単に力尽きた──気絶しただけだ。
いくら不死身であろうと、それで傷が治るわけではない。エストの神聖魔法が解除できなければ、再生能力はいつまでも発揮されず、そのまま肉体が朽ち果てるだけだ。
「⋯⋯⋯⋯」
アレオスは、そんな気絶したメーデアから気絶から覚めたときに暴れられないよう、四肢を切り取ろうとした。
(⋯⋯気絶。気絶?)
不死身である彼女か、意識を失わない能力を持たないだろうか。先程までの、メーデアらしくない行動は、一体何だったのだろうか。そもそもなぜ、メーデアは単体で帝国を襲ったのか。
──どうしてこんなにも、メーデアは弱かったのか。
「──アレオス、危ないッ!」
メーデアは何故弱かった? メーデアは何故一人だった? メーデアは何故彼女らしくなかった? メーデアは何故気絶なんかした?
──メーデアは何故、エスト、アレオスとの交戦を行った?
その全ての疑問への回答は、たった一つの目的から察することができた。
メーデアの目的は、マサカズの殺害だ。
「それは──!」
──瞬間、そこから闇が放出した。
それは少しの間だけ続き、やがて闇は晴れた。アレオスはエストの言葉に反応して何とか躱すことができた。もし少しでも反応が遅れていれば、周りにあった家屋のように、細切れになっていただろう。
「──気づいたの? ようやく、わたしに」
右手には、彼女の身長の凡そ二倍もあるだろう、金属を思わせる光沢を持ちながら、まるで革のように靭やかな縄の鞭が握られていた。それには所々に剃刀のように鋭利な刃があって、生きているように蠢いていた。
「⋯⋯なるほどね。最初から⋯⋯違っていた」
金髪のセミロング、紫紺の瞳。羽織っているものは真っ黒なローブであることを除けば、可愛らしい少女であるが、中性的でもある。
「ご名答。まさか黒の魔女様だと、まるで気づかないお前たちは本当に滑稽だった。⋯⋯いや、それも無理ないかな? 今のわたしの中には、あの方も存在するし」
彼女は嗤いながらに言う。
「じゃあ、改めて──わたしは黒の教団幹部、『美のセフィロト』、ティファレト」
最初から、メーデアではなかった。あれは、ティファレトが化けた偽物だった。
「私の知ってるキミは、もっと弱かったはずなんだけどね」
ティファレトは「何を言っているんだこいつ」みたいな顔をする。しかし、それはただの独り言だ。
前回、黒の教団の幹部たちは異常なまでに強化されていた。メーデアはそんなこともできるのだ。
だが、安心できることもあった。ティファレトは未だ時間稼ぎをしようとしている。右手の武器を見れば明らかだ。それはつまり、メーデアはまだマサカズを殺せていない。
(⋯⋯いつまでも持つとは思えないね。早く、こいつを殺さなきゃ)
ティファレトは鞭を握りしめて、エストたちに襲い掛かってきた。
・補足説明
ティファレトの「あの方はわたしの中に存在する」発言からも分かるように、完全にティファレトがメーデアを演じていたわけではありません。フィルの多重人格のように、メーデアは自分の人格を複製し、変身可能なティファレトに乗り移らせました。
そしてティファレトの能力はメーデアによって強化されており、彼女の潜在能力が完璧に発揮されています。なので変身能力を得ましたし、多少制限付きとはいえメーデアの能力に耐えています。
とは言っても限界はあり、不死能力も劣化していて、ティファレトの体は一度死亡しています。ただ、先程人格を複製したと言いましたが、実は少し異なり、厳密には魂を複製していました。
ティファレトに移っていたメーデアの複製魂は、首の切断に加えて、度重なる魔法、剣戟によって破壊され、メーデアの能力をティファレトは行使できなくなりました。なので、ティファレトは体の主導権をメーデアの魂から自分の魂に移行させたわけです。その際についでに首の傷なんかも魔法で治しました。
ちなみにメーデア状態のティファレトの精神はメーデアとほぼ同一ですし、実質劣化自己複製みたいなものです。そのときにも一応ティファレトの意識はありますが、夢のように感じられます。主導権を渡しているのでね。
あとこれはどうでも良いことですが、劣化魂の複製は一つまでな上に、やろうものなら本体がその分弱体化します。あくまで総合的な力は変化しません。力量保存の法則がこの世界にはあります、多分。なので正直そこまでのチート能力ではありません(当社比)。