6−29 終焉
自分自身にかかる重力を操作し、超速でメーデアに肉薄する。その間に戦斧を創造し、一回転して勢いをつけて振り下ろす。それはメーデアの肩を大きく抉り、あと少し力を入れれば左肩を斬り落とせただろうが、彼女にはまるで苦痛の表情が浮かんでいなかった。
発勁と呼ばれるそれは、拳を振りかぶらずに対象にダメージを与える技だ。エストの胸部にとてつもない衝撃が走り、肋骨が幾本か折れながら突き飛ばされる。
だが重力を操作することで体制を立て直すも、目の前に『影の手』が出現する。魔法を唱える時間はないだろう。無詠唱で転移するが、転移先を特定されたようで、一息つく間もなくメーデアが魔法を行使する。
紅い水晶の散弾がエストを撃ち抜いた。体の一部が結晶化するが、
「痛いなぁ⋯⋯!」
すぐさま周辺の肉ごと魔法で抉り、治癒する。
エストは左腕を薙ぎ払うと、メーデアの首を重力を操作してねじ切った。
そして彼女を全方位囲むようにして〈次元断〉が行使され、メーデアを切り刻む。しかし彼女の体は瞬時にして元通りとなった。
「〈世界を断つ刃〉」
「〈虚空壁〉」
虚空はまた異なる世界だ。〈世界を断つ刃〉は虚空世界を切断するが、基底世界を切断することは叶わなかった。
エストはメーデアにドロップキックを食らわせる。例え質量が大きくなくても、加速度が大きければ破壊力は十分だ。
メーデアは『影の手』でエストの足を掴み、そのまま地面に叩きつける。だが叩きつける直前、メーデアは手から獲物が逃れたのを感じると同時、エストがメーデアの背後に回り込んでいた。そしてそのまま頭を蹴られ、首を千切られる。
それでも体は動く。裏拳でエストの脇腹を殴り、その先に紅い結晶の棘を生成する。
「〈世界を断つ刃〉!」
先程見たばかりの魔法をエストはコピーし、行使する。魔力が一気に減るが、直後に全回復させる。
紅い結晶の棘を切断し、回避に成功。地面を両手で押して体制を直す。
「〈白夜〉」
影は影を失い、しかし力はまだそこに存在する。
『影の手』は完全に不可視化し、エストを襲う。
「〈虚空歩行〉」
不可視でも当たらなければ問題ない。メーデアの位置の前の座標まで虚空世界で向かい、魔法の効果を解く。
解いた瞬間、信じられない程の倦怠感を覚えたが、そんなのは後回しだ。創造した二本のスティレットを眼球に突き刺すと、メーデアの心臓を直接握り、潰し、その血液を操作し、内部に血の棘を作る。
だが『影の手』がエストの首を掴んで──握り潰す。
そして、違和感を覚えたメーデアは水晶の壁を生成すると、爆炎が飛んできて水晶を融解させた。
「はっはー! 残念、それは囮だよ!」
爆炎の弾丸が雨のように降り注ぐ。水晶さえも融解させる熱量のそれは、人体に当たれば即ドロドロの肉に変貌させるだろう。
メーデアのぶち抜かれた眼球と眼窩、潰された心臓、抉れた肉、致死量を超えて失われた血液は『再生』によって再構築される。
爆炎の弾丸を全て捌くことはできず、メーデアは何発か命中していた。
「まだまだまだまだまだァッ!」
エストの背後にあったいくつもの赤い魔法陣が更に増える。それらは、かつての彼女の同時行使できる魔法の数を遥かに超えた。
メーデアがドロドロの肉体になろうとも、射撃は止まない。撃って撃って撃って撃ち続ける。残弾は無限だ。しかし、
「──!?」
エストは鼻血を出す。頭と心臓辺りが──心臓自体には何も異常がない──熱い。
過熱異常だ。
エストには魔力制限がない。無限に魔力は創造できる。しかし、その魔力を使うための機構も無限の魔力に耐えられるわけではない。
人智を遥かに超したエストの演算能力、魔法を扱うための器官が悲鳴を上げた。ツケに回した倦怠感を始めとし、多種多様な身体異常がエストを襲う。
展開されていた魔法は全て閉止し、エストはうつ伏せに倒れる。指の一本たりとも動かすことができない。
ドロドロとなっていた肉塊はスライムの擬態のように人形を作り、メーデアが再生する。
「楽しい時間というものはすぐに終わりますね。私をこんなにも殺したのはあなたが初めてですよ」
メーデアは倒れ伏せるエストにゆっくり歩いて近づく。
「イザベリア・リームカルドが火力なら、あなたは技術です。あれほどの数の魔法の同時展開。そしてその魔法創造力。その点であれば、私をも上回ります」
純粋な魔法能力では、エストはメーデアに迫っていた。短期間で、おおよそ理解できないほどの成長速度がエストにはあった。だが、
「あなたには私を殺せる力がありましたが⋯⋯どうやら、そこには至れなかったようですね」
メーデアはエストにトドメを刺すために、〈世界を断つ刃〉と唱える。それは無慈悲にも、しかし慈悲あるようであった。
エストはメーデアと違い、首が切断されれば死ぬ。そして今の彼女は、自己蘇生魔法が行使できない。それはつまり、エストを簡単に殺せるということだ。
「──はっ、そう簡単には死ねないね」
斬撃が切り裂いたのは地面だった。エストは立ち上がっていた。
「⋯⋯焼き切れかけた脳で、よくそんなことができますね」
エストの体はもう動かせない。意志の力とは強いものだが、そんなものでは全く動かないのが本来あるべきエストの体の状態であるべきだ。
それでも動くのは、彼女が自分の体を重力を操って動かしているから。神経を伝わない動作にはキレがなく、遅いし大雑把だ。しかしそれでも、動くこと自体が可笑しい。
「しかしまあ⋯⋯それだけです」
エストの左腕で操られた重力を、メーデアは魔法で操って無力化した。──エストの操る重力には、彼女自身の魔法抵抗力が適応される。だが彼女の魔法抵抗力は非常に弱まっており、今やメーデアには通用しない。
メーデアは重力を操り、エストの体を空中に浮かす。首を持ち、呼吸が苦しくなった。
「無駄な抵抗でしたね、エスト。あなたには私を殺せる素質があった。ですが、もう時間切れです」
重力を一気に加速させ、エストを地面に叩きつける。そうすれば彼女の死にかけの体は容易に潰れ、内蔵をぶちまけ死に至るだろう。
「──!」
痛い体に鞭を打ち、マサカズは背後からメーデアの首を狙う。戦技は行使していないが、その首くらい簡単に両断できる。例えそれで殺せなくても、エストの死は回避できるだろう。
「⋯⋯ふふふ。手伝ってくれたのですか?」
────しかし、トドメを刺したのはマサカズだった。
マサカズの剣はエストの首を切断した。あっけなく、少女の首は簡単に飛んだ。
返り血がマサカズの服を汚した。剣には肉と油が付着した。
白い長い髪を持った頭部は落ち、断面から夥しい量の血を流しながら少女の体は地面に倒れる。
クルクル、クルクル、クルクル、クルクルと、死は回る。
くるくる、くるくる、くるくる、くるくると、絶望は回る。
「──は?」
気づいたとき、マサカズが斬っていたのはエストの首だった。
メーデアはエストと位置を交換したのだ、マサカズの刃がメーデアの首に当たる直前で。だから、
「あなたが殺したんですよ。ふふふ⋯⋯ああ、ミカロナの気持ちが今なら分かりますね。これは絶景です」
仲間殺し。正常な感覚で味わうそれは、本当に胸糞悪い。
「────」
マサカズは剣を落とした。そして跪いた。何も聞こえない。何も見えない。罪悪感だけが、彼の心を支配した。
「嘘だ嘘だ嘘だ⋯⋯馬鹿な。そんなこと、まさか⋯⋯エスト、生き返れよ。あのときみたいに、騙すつもりなんだろ?」
それは生き返らない。
「⋯⋯なあ、悪い冗談は──」
「──それが真実ですよ、黒井正和」
メーデアはマサカズに歩み寄る。しかしそれは、慰めるためではない。むしろその逆だった。
「エストはあなたが殺した。それは事故ですが、結果は何であれ変わりない。⋯⋯分かっているんでしょう?」
マサカズはメーデアに拳を振るう。だが蛞蝓の動きを見きれない人間はいるだろうか。メーデアにとってマサカズは、それと何も変わらない。
拳を簡単に受け止め、握り潰すと、投げる。マサカズは地面を転がった。
そしてゆらゆらと立ち上がる。潰れた拳にはまるで興味がないようだった。
「人間、最期に見せてあげましょう。私を手伝ってくれた対価に、世界の終わりを」
メーデアはマサカズの全ての抵抗力を『影の手』で潰すことで、彼を観客に招待した。
そして、黒の魔女はイザベリアを閉じ込めている水晶の棺に近づき、手を翳す。
「さて、始めますかね」
──突然、空に黒い光の柱が十二本立つ。位置は曖昧で分かりづらかったが、それら一本一本の距離はかなり離れているように思えた。
このウェレール王国からも黒い光の柱は立っていて、丁度王城から発していた。
黒い十二本の光は空に魔法陣を描く。魔法を知らずとも、その構成要素が異質であることは本能的に理解できただろう。
大陸と同程度に巨大な──比喩抜きで空というキャンパスに展開された黒色の魔法陣は起動する。
その魔法陣を展開したのは、黒の魔女、メーデアだ。
瞬間、イザベリアの体は朽ち果てた。老婆となることもなく、その姿のまま枯れ果てたのだ。
「『甘美な現実は神への反逆。不遜、不敬、しかしそれは自由の象徴。幻想、憧憬は実現のための着想であり、逸脱は方法。神殺しは真なる方法にして、真なる反逆にして、真なる自由。渇望、願望、熱望、欲望。今この時、王座からその身は引き摺り落とされる。黒に満ちて、黒に跪き、黒に頭を垂れ、謳い、歌って、唄え。黒は唱う』──」
────〈今、有象無象は終焉を迎える〉
◆◆◆
──それは正しく『終焉』であった。
空に、空中に、世界に罅が入り、悲鳴を上げる。世界が殺されているのが、理解できた。
「代償は二十億の人間の命と一人の『逸脱者』の命。そして私の全ての魔力」
崩壊していく世界を、頬を赤らめながら彼女は謳う。
「なんと⋯⋯これが、私の望んだことなのですか? ⋯⋯期待以上。こんなにも、素晴らしいことだとは⋯⋯いや、私を私が満たせるわけがなかったということですか」
壊れていく世界を、子供のように興奮し眺めながら彼女は歌う。
「終わりは、終焉は、愛すべきものですね。世界の終わりは、私を唯一満たしたものですから」
滅亡していく世界を、愛するものに愛を伝えながら彼女は唄う。
「あなたもそうは思いませんか? こんなにも世界は美しいのです」
終わっていく世界を背後に、メーデアは唱う。
「私は全てを愛していました。世界を愛していました。憧れ、尊敬し、恋い焦がれていたのでしょう。だからこそ、私はこれを望んだのでしょう。そうでもなければ、今の私のこの感情は説明できないのです」
太陽は世界諸共壊れていく。
月は世界諸共滅していく。
動物は、植物は、無機物は、人間は、魔族は、世界諸共死んでいく。
平等に、形あるモノ、形ないモノ区別なく、万物は終わりを迎える。終焉を迎える。
「これが、『感謝』。これが、『愛』。これが、『歓喜』──っ!」
メーデアは笑う。満面の笑みだ。これまで彼女が浮かべたことのない表情。愛らしく、可愛らしく、美しい。
「ふふふ⋯⋯ああ、嗚呼、アア⋯⋯終わりは、なんて美しいのでしょうか」
そんな笑顔にも罅が入った。しかし、それには痛みはなく、そして恐怖もない。土人形のように簡単に壊れていく。
死には恐怖を持たない。彼女には死神が寄り付かなく、きっと鎌をテーブルに置くだろうからだ。
しかし、彼女はその鎌を握れた。自分自身の首に、それをかけられた。
「世界は私をいつも愉しませた。最期も同じく、いや、それ以上に──」
──「楽しませた」と、生首の口は動いた。
世界諸共メーデアの首は落ちた。それは彼女の死である。決して蘇ることのない、死。
壮大な自殺の果て。彼女は自らの首を鎌で切り裂いた。最高の笑みを、絶頂の最中、魅せる。
──そして、災厄の魔女、最強の魔女、黒の魔女、メーデアは、彼女によって殺された。
「⋯⋯⋯⋯」
世界の終焉は美しいとメーデアは言っていたが、マサカズにはそうは思えなかった。それどころか、目の前の絶望に耐え切れず、精神が崩れ落ちていた。
しかし──その精神は取り戻された。
「⋯⋯え」
マサカズの手には、剣がいつの間にか握られていた。それは趣味の悪い装飾がある割には軽い短剣であった。
彼はこれを、知っている。
「エスト⋯⋯?」
見れば、彼女は倒れたままだ。首も切断されている。しかし──彼女の左手から魔法陣が砕けるように消える瞬間を、マサカズは見た。そしてそれは彼を現実へと引き戻したのだった。
「⋯⋯ああ、そうだな」
その意図は簡単に理解できた。だから、マサカズは躊躇なくそれを自分の首に突き立てる。痛みは最早感じられない。
「俺がお前らを救ってやる。皆生きて明日を迎えるその時まで、例え何度死ぬとしても──必ずだ」
そして──マサカズは傍迷惑な集団自殺を拒み、自分を殺した。
世界は死に向かっていたが、死んではいなかった。だから、マサカズの死は受け入れられた。彼の死は、神が世界に干渉できる唯一のきっかけであった。
『逸脱者』は神の支配から逃れた者だ。しかし、それでも神にはなれないし、死んだなら、それは『逸脱者』ではない。
────世界の時間は逆行を開始した。