6−17 消失
ベクトル操作。『怠惰の罪』。それは力の向きを自由に変えることができ、魔力を消費することでその大きささえも変更することのできる能力だ。また、便宜上ベクトルと言ってはいるが、スカラー値も変えることができる。やろうとすれば対象の体温を急激に上昇させることも可能だ。
しかしながら、この能力にはいくつか制限がある。まず一つ目が、能力発動には接触が必要であるという点。例えば水の動きを制御したいのであればそれに触れる必要があり、極論溶岩なんかには能力が行使できない。またそのベクトル値の理解、即ち演算も必要であり、知らないベクトルを操作することはまず不可能である。
二つ目に、これは当然とも言えるがベクトル、スカラーが存在しないものには無力であるという点。
そしてこの点こそが、ミカロナとの戦いにおいて最もシニフィタが不利になるものである。
「触覚、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、そして痛覚に平衡感覚、温度感覚⋯⋯感覚というものは様々ある」
シニフィタを、数少ない無力化できる能力。
「ボクと君とでは相性が悪い。君のその能力は自動じゃないし、何より⋯⋯魔力で増加できる力には限度がある。でしょ?」
「そこまで知っているなんて、ね。全く、面倒だわ。これじゃあ少しだけ⋯⋯本気を出す必要がありそうね」
「⋯⋯その目、素晴らしい」
シニフィタは地面を軽く蹴る。しかし摩擦抵抗も、垂直抗力も、そして重力⋯⋯ともかくそこに発生した全ての力を水平に働かせ、彼女はその軽い動作からは想像もできないほどのスピードを出し、ミカロナに肉薄する。
触れてしまえばこちらのもの。シニフィタの『怠惰の罪』もさることながら、彼女にはその高い基礎能力も備わっている。
全身を使った右フックはミカロナの首を狙う。頸動脈という弱点をわざわざ狙うくらいならば、その首を丸々千切った方が早い。
だがミカロナは流水のようにスラリとシニフィタの一撃必殺を躱し、そして優しく、赤子の頬でも撫でるかのようにシニフィタの首を後ろから触ると、
「──っ」
冷たさがそこに広がった。零ケルビンと同程度の冷気は、彼女の全身を一時的にでも麻痺させるには充分だ。
体が凍ったかのような感覚に襲われたが、その実それは正常そのもの。しかし『死ぬほどびっくりする』という言葉が比喩でないように、感情や感覚というものは軽視できない。
「結構優しく触ったつもりなんだけどね」
ミカロナの右手には衝撃が走り、もう少しで手の骨にひびが入っただろう。能力で反射、増加した結果がこれだ。もし全力で殴っていたならば、きっと右肩から先は丸々千切られていただろう。
だが、それさえ受け止めてしまえば、思考が停止したシニフィタに一撃食らわせるだけ。
ミカロナはもう一度シニフィタに触れて『感覚支配』と、〈氷槍〉を行使する。
痛覚が増加されたシニフィタの腹部を氷が貫いたが、直後麻痺が回復した彼女は氷を砕に、即死を免れる。
だが、
「っ⋯⋯はあ、はあ、はあ⋯⋯」
幸運にも氷が貫いたのは脇腹であったため、ダメージは比較的少ない。だがそれは集中力を大きく乱す痛みであり、また、
「さあ、ここからどうするの?」
『怠惰の罪』には演算能力が必須だ。しかし、これまで殆ど痛みを知らなかったシニフィタにとって、今の苦痛による計算の阻害はあまりにも鬱陶しい。
「〈上位──」
一瞬展開された緑色の魔法陣を確認して、ミカロナはそうはさせるかと、対象を〈上位治癒〉としてある魔法を無詠唱で行使する。
〈魔法不能〉は本来、同格相手には効果を発揮しない魔法であるが、能力メインのシニフィタと、魔女のミカロナでは当然後者の方が魔法能力は高い。
シニフィタの治癒魔法は解除される。この魔法は特定の行使者が選択した一つの魔法しか無効化できない上に、重複はしない。しかし──緑の魔法陣は効果を発揮した。
「⋯⋯同時展開ができるとはね」
シニフィタは二つの魔法を行使していた。〈治癒〉と〈上位治癒〉だ。彼女はわざと〈上位治癒〉をミカロナに見せつけ、それのみに意識を集中させた。
「さあ、なんの事?」
魔法の同時展開は魔法能力が高いのは勿論のこと、練習も不可欠だ。持って生まれた才能でもなければ、基本的に魔女でさえ同時展開は難しい部類に入る。
まさかそれが魔人なのにできるとは、ミカロナはそこまで考えていなかった。
「これは一本取られたよ」
しかしながら、〈治癒〉ではその脇腹の傷は完治させられない。止血と傷の接着はできたが、痛みはまだある。言うなれば縫ったばかりの傷跡みたいなものだ。安静にしていれば治るが、激しく動けば傷は開く。
「でもまあ、君はもうまともに動けやしないよね。ああどうしよう。このまま自滅させるか、それともその傷を抉るようにするか⋯⋯迷うなぁ」
「そう。ならあんたが死ね。それなら迷う必要はないわ」
シニフィタの瞳が光り、地面を踏みつける。すると地面は割れて、飛び上がった無数の石が重力魔法で動かされているみたいにミカロナへと飛んでいった。追撃に大きな岩も飛ばされるも、ミカロナは防御魔法で防ぐ。
それを目隠しにシニフィタはミカロナに急接近。頭を掴み、地面に叩きつけたその一瞬まで、ミカロナは反応することさえできなかった。故に彼女の緑の瞳が光っても能力は発動しなかった。
後頭部が割れて、脳幹を潰されるが、死のあとに蘇生魔法によって生き返る。足の力のみで立ち上がると、緑の髪の合間から殺気が、愉悦が篭った瞳がシニフィタを視姦するように見る。
「⋯⋯不死身の化物」
「ボクたち魔女が自己に蘇生魔法が使えることくらい今更でしょ?」
蘇生魔法は消費魔力量が多く、何度でも生き返ることはできないはずだ。だから何度か殺すことができれば勝利は可能。しかし、
(⋯⋯面倒だわ)
攻撃は殆ど避けられる。接触することも大変危険。そして同じ手は二度と使えない。蘇生可能な回数は不明であるが、戦闘に回す魔力も考えて、使えてあと二回くらいだろう。
(助けを呼ぶ? ⋯⋯いや、それは無理ね。アレがそれを許すとは思えない。なら誘導する? これも駄目ね。下手をすれば味方諸共アタシたちは全滅する)
ミカロナとシニフィタの相性は最悪だ。どちらの能力も発動には基本接触が不可欠ではあるが、ミカロナの能力は喰らえば致命的。だがシニフィタの能力はある程度抵抗することができる。先程ミカロナがやっていたように、優しく触れるなどだ。
しかし、シニフィタ以外でもミカロナの相手ができるとは思えなかった。少なくとも多数で相手にしなくてはならないだろう。もしそうなればミカロナに時間を稼がれ、あとは各個撃破されるだけ。
「⋯⋯面倒だわ」
つまるところ、シニフィタに残された方法はただ全力を尽くすだけである。それ以外できないし、それしか勝てる見込みはない。
「諦め。でも負ける気はないって顔だね。ゾクゾクする。何て美しいんだろう。ああ⋯⋯」
ミカロナは恍惚な表情を浮かべる。美少女がするものだから絵は映えるが、その実体は変質者そのものだ。
「余裕がある? いや、そんなことはない。けど切羽詰まった感じでもない。⋯⋯そうか、君は『怠惰』である前に『従者』であったっけ。決意、しているわけなんだね」
笑みを浮かべる。
「その誇り高い決意。従者としての使命感。尊い意思。⋯⋯壊す価値が存分にある」
ミカロナはシニフィタを陵辱することを決定する。
「手足を切断し、それから魔人として、女として穢す?」
死なないように手足の断面を処置しつつ、犯す。美しいものを徹底的に壊すには一番の方法だ。
「それとも目の前で⋯⋯君の主人を陵辱するのも良いね。君は無力で、何もできず、ただ見ているだけしかできないように拘束しようかな」
大切な人を目の前で強姦するのもまた捨てがたい。屈辱感を味あわせることもできるのだから。
「いいや、君にやらせることもできるね。死姦ってやつさ。って、君の主人はもうアンデッドだったか。まあいいや。意識だけ覚醒させた状態で、君の体をボクが操るんだ。傑作だとは思わない?」
どれもこれも吐き気を催すような所業ばかりだ。ミカロナはそれらを本当に美しい、本当に素晴らしいものとして雄弁している──納得できたものではないが──のだから、彼女の狂った価値観が分かる。
「何をするにしても、まず、ボクは君を倒さないといけないね。前戯といこうじゃないか」
ミカロナは指を鳴らすと、彼女の周囲に無数の氷でできた人形が五体生み出される。それぞれ両手剣、双剣、戦斧、ハンマー、弓を得物としていた。
「ボクの人形たちよ。行け」
一体の氷像は氷の剣を携えて、シニフィタに接近する。召喚者が優秀であるためにその氷像の動きは歴戦練磨の戦士のようであった。
だが、シニフィタに物理攻撃は通用しない。力は反射し、斬りつけたときより大きな衝撃が帰ってくると、氷像は簡単に砕けた。
続く双剣による連撃も一切通用せず、戦斧の大きな一撃も、ハンマーの打撃も、弓の射撃も同様に、次の瞬間に氷像はアイスダストを生み出して壊れる。
「何? 今ならあたしは能力を使えないとでも思ったの?」
「まさか。⋯⋯でも、まだ終わりじゃないよ」
続いて召喚された氷像は先程の五体を遥かに超える数だった。
「氷像なんて久しぶりに作るから、少し練習しておきたかったんだ。ここからが本番さ」
氷像は魔力を持たない。生命でないから当たり前である。しかし、物理的な行動ならできるし、この魔法によって作られた氷像は自動で最適解の動きをするし、召喚者の命令を忠実に実行する。
「⋯⋯面倒にも程があるわね」
シニフィタを囲むのは、百をゆうに超える氷像の大軍。
「ボクの独自魔法、〈氷像軍〉。効果は見ての通り、最大で大隊規模の氷像を生み出す魔法だ」
氷像が発する冷気が、広場の草木、果ては空気を凍てつかせ、気温を下げた。
シニフィタは白い息を吐くが。ミカロナはそうではなかった。
「ボクの二つ目に得意な魔法は氷系の魔法なんだ。⋯⋯君はこの軍団にどれだけ耐えられる?」
シニフィタの能力は手動発動だ。彼女の演算能力は人並外れているが、それでも限界というものがある。よって、彼女は能力だけでなく魔法や格闘を用いなければならないが、それは腹部の傷に負荷をかけることにも繋がる。
「────」
「その顔いいよ。いいね。最高だよ。愛らしくて愛おしい。ボクの好みの表情だ」
シニフィタは能力を、魔法を、格闘を駆使しながら氷像の大軍を一つ、また一つと潰していく。その姿はまさに無双する戦士であるが⋯⋯限界は誰にでもある。
一騎当千が当たり前のように成り立つこの世界でも、数は力である。一騎当千と言うのであれば、万を、億を、兆を、京を、垓をぶつけてやれば良い。その一人が殺せるまで、何人でも仕掛ければやがてその時は訪れる。
「どれだけ壊せる? どれだけ砕ける? どれだけ倒せる? どれだけ抗える?」
動けば動くほど傷が開く。痛みが走る。細胞の一つ一つが悲鳴を上げ、モスキートーンが頭の中で響き、残響に残響が重なっていく。
「ボクの魔力が尽きるのが先か、君の体力が尽きるのが先か。どちらのほうが早いと思う?」
頭痛、吐き気、目眩。体内を蛇がのたうち回るかのような激痛が絶え間なくシニフィタを襲い、視界はぼやけていてまともに何も見えない。ただどこに魔法を撃っても、無闇矢鱈に暴れても、そして連続するベクトルの演算処理をすれば、外れる攻撃はない。
「綺麗だ。美しい。美麗だ。可愛らしい。素敵だ。微笑ましい」
刹那は永遠、瞬間は永久、寸時は永劫かのように思えた。
終わりのない、終わりの見えない。スタートラインしかそこには用意されておらず、ゴールラインの設定は未完だ。
否、この理不尽な競技のゴールはその人の死であった。もしくはこれを切り抜けるか。だが後者を選ぶ余地は最早ない。
「ぐあっ⋯⋯」
遂に耐えきれずに、一体の氷像の得物がシニフィタを捉えた。
「喘いで、痛みに。苦しんで、刃物に。ボクに君の泣き叫ぶ声を聞かせてよ。その音楽を。美を」
決壊したダムにはもう水を塞き止める機能が失われたように、一度でも攻撃を許してしまえばその隙間をそれらは掻い潜ってくる。
「傷を負ったのは何年、何十年、何百年ぶり? 良いでしょ、痛みは。最高でしょ、苦しみは。ボクも君のその姿には笑みを隠せない。美しい顔が、魅惑的な体が、強者で誇り高い心が汚され、犯され、壊され、潰され、抉られ、侮辱されるのは見ていて本当に気持ちが昂るし高揚する。胸がはち切れそうなくらい興奮するんだ」
そしてその隙間はやがて大きくなり、完全に崩壊する。
──シニフィタの視力が失われ、視界が真っ暗になる。
「ねえ、人の全ての感覚を支配したら、その人はどうなると思う?」
触覚が失われ、周りの状況がわからなくなる。
続いて平衡感覚が失われ、自分が立っているのか倒れているのか分からなくなる。
「やったことあるんだけど、面白かったよ。蹲るんだ。何もかもが怖くなるんだろうね。意識だけがはっきりする状態で、床も天井も壁も、上下左右もない静寂の真っ暗闇に放り出されるも同然なんだから。ストレスは計り知れないだろう」
怖い。
「でもそれにはバリエーションが一つしかない。だからボクは敢えて、君の聴覚、嗅覚、痛覚、あとどうでも良い感覚だけは残しているんだ」
感覚というものは、他の感覚がないと研ぎ澄まされる。夜闇では聴覚が鋭くなるように。
それをミカロナは能力を用いて強制的に行っている。
「──ボクを楽しませてね、シニフィタ」
ミカロナの台詞を書くときが何気に楽しい。勿論私はそんな趣味はありません⋯⋯と言いたいところですが、彼女ほどでないにしてもそういう面はある気がしてきました。純愛も好きなんですがね。
にしてもキャラクターを書いているとき、何だか思考がその設定に近づく気がするんですよね。これが俗に言う「キャラが勝手に動く」っていう感覚なんでしょうか。それとも私には演者としての才能があるのでしょうか。
プロット通りに物語が進んだことないんですよね。このキャラはこういうことするだろうと思って書いていたらいつの間にかプロットから逸れるっていう。
別にプロットを作るだけ作って、大体こんなもんかって見ずに書いているわけじゃありませんからね。ええ。