6−9 緑の魔女
エストたちがウェレール王国に転移する前日の未明頃。
王都から少し離れた場所であるが、辺境とは呼べないくらいの場所にポツンとあるのは、青の魔女、レネが当主の屋敷だ。
「⋯⋯レネ様でしたか」
まだ幼さの残る美貌は危なげな魅力を持っていて、その深海のような瞳にはやはり光がない。青藍色の髪は後ろで纏められており、所謂ポニーテールという物だ。
メイド服はまだまだ似合わないように思える少女であるが、メイド三姉妹の中では一番家事が速く、上手い。
「ああ、マリーですか」
「はい。夜中に何を?」
レネは魔女であり、そこまで睡眠の必要はない。一週間に数時間眠ることができればそれで十分だ。しかしいつでも眠ることはできるため、レネは普通の人間と同じような生活リズムを取っていた。
「小腹が空きましてね」
「そのお姿で? 私からしてみれば、今のレネ様のお召し物は、まるで砂漠に行くためのものですよ」
「⋯⋯⋯⋯」
レネは、いつものワンピースではなく、全身をくまなく包み込む厚着をしており、少なくともウェレール王国周辺を彷徨くには似合わない。
「⋯⋯エスト様がご心配なのでしょう。しかしあれからまだ数日しか経っておりません。何もありませんよ」
「そう⋯⋯でしょうか。あの子ならば、何か癇癪でも起こして、聖共和国を滅ぼしそうで⋯⋯」
レネは本気でそう思い、悩んでいると分かる仕草を取っている。仮にも義姉と呼ばれているのならば、もう少しエストを信用してやっても良いのではないかとマリーは心の中で思う。
「流石にそれは⋯⋯まあ、はい。⋯⋯ええっと⋯⋯多分、ない⋯⋯でしょう。それに」
しかし、レネのその気持ちも分かる。エストがああ見えて子どもっぽいことをマリーたちは知っている。自分たちに対して暴力気味ではないことが唯一の救いであるが、逆に言えば身内以外には容赦の欠片もないのである。
「レネ様には仕事があります。王国において、あなた様が危険に晒されることはないべきであるのです。先のエルフの国、ガールム帝国での件のようなことがこれ以上あってはなりません」
レネは王国の救世主であり、女神でもある。魔法の重要性に関していち早く取り組めたのもレネのおかけだし、宗教的にも、政治的にも、彼女の立場は決して低くない。
「何より、あなたが危険な目に合うと暴走する御方が居ますからね。その巻き添えで王国を滅ぼしたいわけではないでしょう?」
「うっ⋯⋯わ、分かりました⋯⋯」
マリーを造ったのはレネ本人だが、人格形成は人間と同じように多種多様である。
メリッサが元気っ娘、ミントがお淑やかだとすれば、マリーは気の強い女の子だ。
「ホットミルクでもご用意致しましょうか、レネ様。もう春も終わるというのに、今夜は少し寒いですから」
冬が終わり、春も終わって、そろそろ夏が来るというのに、今夜は真冬ほどではないにせよ、少し肌寒かった。この程度で体調を崩すほど、レネたち魔女や、マリーたち人造人間はヤワではないが、温かいものは美味しく感じられる。
「ええ、そうですね。一杯⋯⋯⋯⋯」
レネは魔法で一瞬にしていつものワンピース姿に着替え、夜月の浮かぶ空が見れる椅子に座るが、その時、彼女は唐突に口を閉じた。
「どうかなさいましたか?」
不自然な挙動のレネを心配して、マリーは声をかける。すると、彼女は、
「──今すぐメリッサとミントを起こしてください。その後、あなたたちは王都の皆様を⋯⋯冒険者組合の地下に避難させるよう誘導しなさい」
「え⋯⋯一体、何が」
レネの様子は至って真剣だ。それに彼女はこんなジョークを言えるほどポーカーフェイスが得意でもない。これは本当に、危険なのだろう、何かが。
「この冷たさ⋯⋯もっと早く気づくべきでした。これは⋯⋯」
──いくら何でも冷たすぎる。この時期にしては、あまりにも。
「⋯⋯こんなことができるのは魔女。それも広範囲の魔法を得意とする魔女くらいです」
「まさか⋯⋯!」
広範囲の魔法とは、制御が難しい。消費魔力量も多いし、敵味方関係なく滅ぼしてしまう危険性を常に孕んでいる。
しかし逆に言ってしまえば、敵味方関係なく殲滅するなら、普通の魔法を連発するより遥かに効率的だ。
「緑の魔女、ミカロナ。彼女は六色魔女の中でも、特に殲滅が得意であったはずです。彼女ならば、王都全域を──そして、この屋敷にも効力を渡らせることもあるいは可能でしょう」
そうなれば後は早い。マリーはメリッサとミントを叩き起こし、服を着替えることもなく、すぐ様王都に向かった。
「ミカロナ⋯⋯。何か、引っかかりますね」
◆◆◆
もう日は跨いだが、夜明けまでには時間がある。本来ならば人々は寝静まり、静寂が王都を包んでいるはずだったが──。
刀を地面に突き刺すと、瞬時にして辺りの表面を氷が覆う。それを見た緑髪の女は跳躍した。その危険性を、経験と勘で判断したからだ。
「────」
地面に触れていたものを全て氷漬けにする技を躱されたが、これで終わるとも彼──ジュン・カブラギは思わなかった。
跳躍したことにより、緑髪の彼女は空中に居る。飛行魔法のスピード程度ならばジュンからしてみれば遅い。
氷刀を緑髪の彼女の胴体を切り裂くため振るうが、またもや避けられる。
氷の刃を生成しつつ、リーチを変えた斬撃さえも、緑髪の彼女はまるで予知しているかのようにスラリスラリと躱していき、
「〈魔法強化抵抗貫通・魔法矢〉」
緑髪の彼女は初歩的な赤魔法を行使しつつジュンとの距離を取る。
空中に幾本もの光り輝く非実体的な矢が出現し、それら全てが彼を襲った。
彼の魔法抵抗力であれば、いくら魔女といえど、この程度の魔法ならばそこまでダメージを負うことはない。だからと言って全弾命中できるわけではないが。
刀で可能な限り〈魔法矢〉を弾き、弾ききれなかったものを仕方なく受けながら、多少の傷を負うも、それらは戦闘は続行できる程度のものだ。
緑髪の魔女に肉薄し、今度こそ刀でその首をもぎ取る。そう確信して、刀を振り下ろしたときだ。
「──っ!?」
傷が、痛んだ。
傷は広がってもいない。何かをそこに突っ込まれたわけでもない。出血量も未だ少ないままだ。だと言うのに、感じる痛みは先程とは比べ物にもならない。
ジュンは苦痛の表情を浮かべた。
「──ああ、その顔。その顔こそ、ボクが望むものだ」
緑の魔女──ミカロナ。『欲望』は、相手の苦悶の表情を見ること。
緑の光が視界の端に見えた。
ジュンの体感では、その痛みは、ほぼ腕が千切れている深い切込みを入れられたときくらいだ。しかし、視覚情報はそれが極々浅い傷であり、大したものでないと判断している。
彼は一旦ミカロナから距離を取り、意識を強く持つ。そうする度に痛みは和らいでいった。しかし、それでも、かなり深い傷と同程度の痛みで、動きには多少支障が出てしまう。
この不可解な現象は十中八九能力の影響だろう。そう判断したジュンは、ミカロナとの距離を詰められない。
「ボクの能力は他者への干渉ができるタイプだけれど、精神的に屈強だったり、そういう相手との距離によっては効力が弱まるし、実際に傷が開くわけじゃない。まあだから、今の君の判断は正解だけど⋯⋯不正解でもある」
ミカロナは、これまでジュンが誰より──あの冷酷性悪魔女のエスト含む──嗜虐的かつ純粋的な狂気の笑みを、その幼げのある美貌を崩さずに浮かべる。
「さあ! 苦しんで、痛がって、喘いで、這いつくばって、悶て、のたうち回って。それこそ人間の一番美しい状態! それこそボクが望むものよ! 〈杜撰な治癒〉」
そうミカロナが詠唱したとき、ジュンの傷が痛んだ。しかし、それは先程の能力による痛みではなく、もっと単純なもの──浅い傷が、どんどんと深くなっていっている。
「ぐっ⋯⋯ああ⋯⋯!」
出血量が酷い。傷がどんどん肥大化していっている。痛みのせいで動けない。体中の筋肉が抉られることで運動能力が喪われていく。
「ああ。アア。嗚呼。なんて素晴らしい。なんて美しい。これは良い。この瞬間だけ、ボクは心地よくて気持ちよくて絶頂さえ覚える!」
ミカロナは恍惚に笑みを浮かべ、頬は紅潮しきっている。息遣いが荒く、その幼い顔つきにはあまりにも似つかわしくない。
性的な意味で今、彼女は興奮しているのだ。人の苦しみを、痛む姿を見て。
「ぐっ⋯⋯クソっ! 凍らせてくれ!」
これ以上、傷が開くのと出血することだけは何としてでも避けなくてはならない。
ジュンは『死氷霧』に力を行使させ、彼自身の傷を凍てつかせる。
傷を無理に凍結させたことで更なる痛みが生じたが、継続的な痛みよりは遥かに楽だ。出血も止まった。
荒い呼吸をしながら、ジュンは再び刀を構える。
「そう来るのね。そう来たのね。ああ、それもまた美しい。主人のために主人を痛めつける武器というのも。その苦痛がとても美麗だ。⋯⋯どちらがより冷たいか、競ってみようじゃないか!」
ミカロナは赤色の魔法陣を無詠唱で展開した。その魔法陣の判別はつかなかったが、何をするのかを理解することは、ジュンにとってあまりにも容易であった。
「させるか!」
「いいや、するね。──〈亡国の冷気〉」
──瞬時、王都を⋯⋯否、ウェレール王国全土に渡る気温異常が引き起こされた。王国の辺境であっても気温が急に低下するほどだった。
その異常気象の発生地である王都では、その影響は勿論、辺境なんかとは比べ物にもならない。
「っ⋯⋯寒⋯⋯い?」
ジュンは『死氷霧』を持っていると、絶対に限りなく近い冷気耐性を持っている。そのため、彼が寒いと思うことは、それこそ異世界に転生して以来だ。
「────なっ」
そのときジュンが見たものは、にわかには信じがたい事象だった。
──大雨が降ったあとに気温が零度を遥かに下回ったみたいに、王都の至るところが凍りついていた。
「爪を何枚も剥がすのも、眼球を刳り貫くのも、舌を切るのも、歯を抜くのも、水で責めるのも、足の先から少しずつ切り裂いていくのも、そして、凍りつかせるのも、何もかも、ありとあらゆる、幾千もの、全ての拷問は至上の行為だ。人が痛み、苦しみ、喘ぎ、悶えるのは名曲でも聞いているみたいに心が満たされる。理不尽に激怒し、憤怒し、憤慨し、ボクを侮辱し、陵辱してやると声高らかに宣言し、喉がはちきれそうなくらい罵詈雑言を吐き出すのは、ボクの嗜虐心を燻る。同情を誘い、死にたくないと泣き叫び、糞尿を汚らしくぶちまけ、赤子のように駄々をこねて、殺さないでくれと命乞いをするのは、もっと壊してみろと、もっと砕いてみろと、殺さないように殺してみろと、ボクへ向けられる励ましの言葉にしか聞こえなくて、歓喜の極みだ」
ミカロナは両手を広げて、
「ああ⋯⋯ボクは今、悲鳴に満たされている。ボク自身の『欲望』が叶えられていくのを全身で感じられる。⋯⋯でも、まだだ。まだ、足りない」
彼女はジュンに歩き、近づきながら、口を開閉する。
「ボクは満たされない。ボクは決して、満たされない。分かっているんだ。だからこそ、ボクはいつまでも、その努力を怠らない」
息が分かるくらい近くに来たとき、ジュンはようやく正気を取り戻し、刀を振るう。ミカロナの首に刃が届き、血を流させることには成功した。しかし、
「痛み⋯⋯ああ、心地よい。気持ち良い。でもボクは死にたくない。痛みを与えるのも、受けるのも最高だけど、死んでしまえばそれができなくなるから⋯⋯ごめんね」
ジュンの両腕は完全に凍りつき、それが地面に固定されていた。このまま何もしなければ、芯まで凍りつき、ほぼ確実に壊死するだろう。
だが、彼にはそれを溶かす術を持たない。
「君は、どんな表情を見せてくれるのかな⋯⋯?」
「狂人め⋯⋯!」
ミカロナはわざと斬れるように、刀に首を滑らせ、ジュンと視線を合わせる。
「狂気? ⋯⋯確かに、そうかもしれない。ボクは狂ってると思う。こんな歪んだ性癖を持っているのだから。でも、それが可笑しいとは思わない。だって、ボクはボクなんだから。ボクはボクが狂人であると自覚しているけど、果たして君は狂っていないと確信できるのかな? 君は、自分が自分であると言えるのかな? 君は、自分こそ可笑しいのではないかと、思わないのかな?」
ミカロナの狂気の宿った美しくも冷たな、鬱蒼とした森のような瞳がジュンを見つめた。
彼女の氷のように冷たな指がジュンの顎に触れて、
「ボクは感覚を操る能力者。視覚、聴覚、触覚、痛覚、味覚は勿論⋯⋯『第六感』さえも操ることができる」
ジュンは自分自身の脳に、土足で踏み込まれるような不快感を覚えた。
「そして、ボクが直接触れている間、例えボクより強い存在であろうとも能力は効果を発揮する。抵抗ができないわけじゃないのが玉に瑕だけど⋯⋯屈強な精神でも持ち合わせていなければ直ちに発狂させられるし、持ち合わせていても脳を錯乱させることくらい容易さ」
そして、
「⋯⋯さようなら。まともな状態の君と」
──ミカロナの瞳が緑に光る。