5−24 家族のために
セレディナは走った。走って走って、走った。
喉がはちきれそうなくらい痛い。肺が凍りついたみたいだ。口の中には鉄の味が充満していて、足は重りでもつけられたみたいに重い。
だが、走ることを辞めてはならない。だって、それが、生きることが、彼女の役目だから。
「っ⋯⋯!」
泣き止むことはなかった。涙を流しながら走った。途中で何度か立ち止まって休みたいと思ったが、それは役目を放棄するのと同義だったから、父母の命を無駄にするかもしれないと思ったから、止まらなかった。
走る。走る。走る。どれだけ走ったかは分からない。だが、長かったことは覚えている。そして、
「──セレディナ!」
声がした。よく聞いた声だ。今、最も求めていた声だ。でも、その声にはセレディナと再開できて嬉しいという気持ちがなく、それどころか、絶望の感情が含まれていた。
しかしセレディナはそんなことにも気づかず、後ろを、安心したような表情で振り返る。
「母さ──」
「セレディナ! その魔法杖を早く投げ捨てて!」
セレディナは抱えていた魔法杖を見る。美しいが、それが理由で今、こんな目に遭っている。だから憎々しくもある。
なぜ、母親がそんなことを望むのかは分からない。だが、それについて聞く暇はないことは分かった。
セレディナは何の躊躇いもなく、魔法杖を投げ捨てた。
魔法杖は宙をクルクル、クルクルと回って、飛んで行く。それがセレディナから五メートル離れた時だった。
「──残念。もう少し早ければ、間に合ったかもね」
白髪の女性は、指を鳴らした。それと同時に、魔法杖は──爆裂した。
とんでもない熱風が、衝撃が、光が発生し、辺りを蒸発させる。地面にクレーターが出来上がり、周りの木々は、自然は焼き尽くされた。
そして刹那の破壊の後、セレディナは目を開けた。生きているようだし、体も熱くない。それどころか、冷気を感じた。そう、セレディナは、間一髪のところでツェリスカの氷魔法によって守られたのだ。
ただ、ツェリスカは自分を守ることができなかった。
「お母様⋯⋯!」
全身が、焼け焦げていた。焼けていないところがなかった。そんな状況でも立っているのは、ツェリスカが吸血鬼の真祖であったからだ。しかしいかに吸血鬼であろうとも、この火傷は致命傷となり得る。すぐさま負のエネルギーによって体を治療しなければ、死は免れない。
「これは⋯⋯素敵な家族愛だね。自分の身を犠牲にし、娘を守るなんて」
ツェリスカは膝を地面に付き、満身創痍も良いところだ。このまま死ぬことは確実。こんな状況で、白の魔女に勝てるわけがない。
「私は冷酷だ。慈悲深いわけでもない。でもキミに敬意を表し⋯⋯せめてこれ以上、苦しまずに殺してあげる」
エストがツェリスカに手をかざすと、そこに白の魔法陣が展開される。それは〈次元断〉、確実に彼女の命を奪うだろう。
「さあ、死ね」
魔法が行使され、不可視の斬撃が放たれる。それはツェリスカの首を刎ねて、活動を停止させる──はずだった。
「⋯⋯何のつもりかな? 魔王の娘」
セレディナが、ツェリスカとエストの間に入って、ツェリスカを守るようにしたのだ。
脆い肉壁だ。母子共に殺すこともエストには容易だった。しかし、彼女はそれを躊躇った。
「殺させない!」
泣き顔でそんなことを言われても、まるで威圧感がない。相手によってはその嗜虐心を助長するだけだろう。だが、エストは違った。
「⋯⋯嫌いだ。本当にキミは⋯⋯キミたちは嫌いだ。守ることができるなんて。⋯⋯はは、私は⋯⋯」
エストは哂っている。でもそれはセレディナのことではないようであった。それどころか自分を哂っているようであった。
「お前、何をしている! ⋯⋯魔王様!? それにお嬢様も⋯⋯!」
騒ぎを聞きつけた魔国連邦の住民たち──殆どが異形種──が駆けつけてきた。
セレディナは少し安心した。助けてきてくれたんだ、と。しかし心のどこかで、不安も感じていた。彼らも死ぬんじゃないかって。
そして、最悪なことに、不安こそ正解だった。
セレディナとツェリスカを助けようと、住民たちはエストに各々、できる攻撃を繰り出した。多数に無勢。エストはそのまま殺されるなり、捕縛されるなりするはずだった。だが、彼らは相手を見誤った。この世界では、一騎当千が成り立つのだと。
「邪魔」
肉の裂ける音が、一度だけした。それはここに居る全ての者たちの首が、同時に切断されたことによる音だった。
鮮血が街を汚し、住民たちが事切れて倒れ伏せる。首から上をコロコロと地面に転がしながら。
「⋯⋯」
エストは何も言わなかった。しかし彼女の灰色の瞳には、冷たき感情が潜んでいて、それはセレディナを怖がらせるのに十分だった。
再び白の魔法陣が展開される。それは死を意味する。来る、死が。死ぬときが。現状を打破する術をセレディナは持たない。だから死を待つしかない。
魔法が行使され、今度こそ斬撃が飛んできた。見えないが、視える。それは外れることなく、ツェリスカとセレディナの首を斬り落とすと。
「──死にたくない」
──その時、エストは目を見開いた。何故ならば、自分の魔法が防がれたのだから。
斬撃は掻き消され、それを行った子供は、真紅に光る瞳でエストを睨んでいた。
「殺してやる。殺してやる!」
セレディナの手にはいつの間にか真っ黒な刀が握られていた。
「⋯⋯無駄な足掻きね。キミはやはり、殺すべきだ。今度こそ、始末しよう」
セレディナは黒刀を振るう。が、剣術の心得がない彼女の剣技など児戯も同然。しかしセレディナの筋力は見た目に反していて、パワーとスピードだけなら既に転生者に匹敵しているようだった。
だが、それはエストに刃を届かせるには、あまりにも距離があった。
技のない暴力がエストを襲う。全て掠りもしなかったが、エストはかと言って無闇に攻撃することもできなかった。この黒刀に、何か不味い気配を感じたからだ。掠りさえ許されないと。
しかし、いつまでもお遊びに付き合っているわけにもいかない。セレディナの剣の癖を見破り、隙を見つけると、魔法を行使した。地面から生えてきた銀色の刃が、セレディナの両刀、両足の太腿を突き刺し、空中に拘束した。
これまでに感じたことのない激痛に、セレディナは悲鳴にならない悲鳴を上げる。
今度こそ終わった。そう思ってセレディナは諦めたが──彼女の働きは、無意味ではなかった。
瞬間、セレディナの視界が真っ白になる。知覚できたのは、死にかけの状態で、周りがゆっくりになっていたからだ。普通の感覚だと、この真っ白になる視界は知覚できなかっただろう。
「⋯⋯え」
そして気がついたときには──見知らぬ場所に居た。
草原、だろうか。とにかく、ここはセレディナの知らない場所だった。
「何が⋯⋯」
何が起こったのか、セレディナは理解できなかった。
両肩と足の傷は、蒸気を上げながら塞がっていき、完治したのはそれから小一時間ほどあとだった。
そして、自分が突然知らない場所に居た理由を知ったのは、それから更に何ヶ月か後のことだった。
◆◆◆
──突然目の前からセレディナの姿が消えた原因は、先程まで死んだも同然だったはずだ。それでも尚動くのは、この短時間で自身の致命傷を重傷になるまで回復させたからだろう。
「⋯⋯へえ、自分は逃げない、か」
「それが⋯⋯お母さんだから」
セレディナに転移魔法を行使し、彼女を別大陸に逃したのはツェリスカだ。
「一体どこに逃したのさ? そんなに魔力を⋯⋯いや、キミが持つ全てのエネルギーまで使って」
「話すわけがない。分かっているだろう」
転移魔法の一般的な最大転移距離は、個人差もあるが、魔女クラスでさえ凡そ半径五十キロメートル。国と国の主要都市を行き来することは、普通の転移魔法では不可能とされる。できたとしてもそれは、魔法陣を描いて、魔力を大量に用意する必要があった。
それが大陸間となれば、必要魔力量なんて想像もしたくない。
「⋯⋯ま、大体予想はつくけどね。別大陸でしょ? じゃなきゃキミは自身のエネルギー全てを使うことはない」
真祖の吸血鬼であるツェリスカは、魔力の他に負のエネルギーを大量に保有していた。古より生きる彼女のエネルギー総量は、エストの全エネルギー量を凌駕するどころか、何倍かさえ分からないくらいだ。問題はそのエネルギーを活用するだけの力がなく、一撃一撃はエストに劣ることであり、短期戦を仕掛けられれば負ける確率の方が高いことである。
しかしツェリスカは、無理矢理に全てのエネルギーを一気に消費し、セレディナを別大陸に転移させた。その負荷は──常人の理解外にある痛みだった。
「⋯⋯白の魔女、エスト⋯⋯なぜお前は、私たちの命を奪おうとした? 私たちが何かやったのか?」
すぐに死ぬだろうツェリスカは、せめて最期に、どうしてこんな目に遭わなくちゃいけなかったのかを知りたがった。
「キミたちは私を支配下に置こうとした。私は誰の下にもなる気はないのさ。だから、さっさとキミたちを殺す必要があった」
どこで知ったのかは分からないが、エストはツェリスカたちの狙いを見抜いていたようだ。
「⋯⋯」
「弱者は強者に淘汰される。そう言い換えたほうが良いかな?」
ただこれは、返討にされただけだ。自然の理であり、敗者は死ぬことを受け入れるべきだ。
でも、娘のことを思うと、ツェリスカは「死にたくない」と思ってしまう。
ああ、視界が暗くなっていく。とても眠たい。体から熱がなくなっていく。死が怖いわけではないが、娘のことが心配だ。幸せに生きてほしい。
死にゆく時、最期に、
「⋯⋯私はキミたちが嫌いだ」
──ツェリスカはそれを聞いた。
◆◆◆
ウェレール王国で不穏な動きがあったという噂を聞いて、まさかと思い私はこの国を訪れた。しばらく滞在して、情報を集めているうちにいくつかの気になることを聞いた。
一つ、最近、やけに強く、この辺りでは見ない三人の男女が現れたこと。
二つ、その三人の男女と一緒に行動している白髪の少女は化け物じみた魔法使いであるということ。
三つ、魔法学院の指定魔導書保管庫にて、不可解な魔導書がいつの間にかあって、それは下手に触れることなく、今もそこにあるということ。
「⋯⋯魔導書」
昔、お母様から聞いたことがある。魔王は代々、大罪を冠する七体の魔人を従えている、と。
私も大罪の魔人たちと会ったことがある。外見は普通の人間だったけれど、全員人外じみた力の持ち主だった。今の私でも、そのうちで勝てるのは四体くらいで、その他の三体には勝てないか、良くて互角。『嫉妬』と呼ばれるあの少女に関しては、勝てるわけがないと思う。
更に二体の大罪の魔人も存在するそうだが、それについてはよく知らない。
ただ、この七体の魔人は相当な戦力となるはずだ。だから私は、大罪の魔人を召喚するための魔導書を母国に探しに行ったのだが、見つからなかった。
多分、奪われたのだと思う⋯⋯白の魔女、エストに。
そんなときに、エストと思しき人物の目撃情報と、魔法学院にある不明の魔導書。
もしかすれば罠かもしれない。何らかの方法で私の存在を知っていて、また、誘き出すため、わざわざあの魔導書を置いたのかもしれない。
だが、そうかもしれないからと言って、萎縮するのはもうごめんだ。
だから、私は魔法学院から魔導書を奪うことを計画した。そしてそのとき出会った。
「──」
「そんなに怯えなくて良いですよ、魔王、セレディナ」
全身が真っ黒だった。黒髪、黒目、黒いドレス。そして出会って瞬時にして理解した。この黒い女性こそ、ラグラムナ竜王国を単身で壊滅寸前まで追い込んだ存在──黒の魔女であると。
「セレディナ、私と協力しませんか? その代価として、あなたの欲望を叶えてあげましょう。そうですね⋯⋯例えば、死者の復活など」
黒の魔女は微笑む。同性である私でさえ見惚れてしまいそうだった。だけど、いやだからこそ、その魅力が怖かった。
まるで、心が支配されているみたいで。
「死者⋯⋯そんな、ことが」
「あるんですよ。私ならね。私は⋯⋯この世界から逸脱していますから」
言っていることはよく分からない。だけど、妙に説得力があった。
普通、死者の復活など、それも五百年前の父母の復活など、できるはずがない。例え能力者であっても、そんな力には大きな代償があるはずなのだ。
「まあ、制限がないと言えば嘘になりますが、ね。しかし少なくともあなたの父と母であれば可能であり、何の異常もなく復活することは約束しましょう」
怖い。だが、魅力的だった。
普通ならもっと疑うべきだ。もっと情報を集めるべきだ。しかし私は、その黒の魔女の提案を、
「⋯⋯分かった。協力しよう」
受け入れた。
私の知ってる主人公像が崩れる。何だこの主人公。悪役じゃねぇの⋯⋯? by.作者