5−7 愛
──荒れていた息は突然治まり、学校は酷く物静かだった。まだ朝は早いとは言え、ここまで静かなのは明らかに不自然だった。
「──」
正和は──マサカズは、気がついた。ここが、夢の世界であると。そして、これは過去の記憶であると。
「明晰夢⋯⋯ってやつか」
夢であると理解しているときに見る夢、明晰夢。自らの思い通りに夢をコントロールできるらしく、この不自然なまでの学校の静けさも彼が行ったことだった。
「⋯⋯こんな夢を見るってことは、俺は俺が思っている以上に精神的に疲労しているのか」
過去でもっとも平凡かつ、しかし幸せな一日を、夢として思い出し、追体験する。なるほど、理屈はこれで正しいだろう。もし、これが夢であると夢の中で気づかないままなら、もっと良かったのだが。
「──いや、それには私が関係してるよ」
──突然、後ろから女性の声がした。
マサカズが振り向くと、そこには、
「⋯⋯これはどういう冗談だ?」
長く、雪のような白髪。目は知的さを感じさせる灰色で、肌は色が抜けたように真っ白な、幼さもありつつ、どこか妖艶さもある美貌。
そして、よく知った相手。
「──エスト」
彼女ならば、マサカズの夢の世界をも操作できるはずだし、それをしそうな人物でもある。だが、いくら彼女でも、こんな危険な状態で、わざわざマサカズの夢をコントロールするとは思えない。
「エスト? ⋯⋯それは、おそらく、キミが今、一番頼りたい相手のことだろう。けど、それは私ではない」
と、エストは自分が誰なのかを忘れたみたいに言った。
「⋯⋯は?」
いや、事実そうなのだろう。外見や口調まではエストそっくりだが、何かが、まるで彼女とは違う。そう思えば、彼女がエストの姿をした全くの別人であるかのように見えてきた。
「だったら⋯⋯お前は誰だ?」
「私かな? 私は──世界だ」
世界。世界? 何を言っているのだ、この女は。
マサカズの理解能力のキャパシタを遥かに超えている発言だ。より、理解できなくなってしまった。
「世界。言い換えるなら神かな。あるいは理。あるいは全。あるいは始まり」
「は? いや⋯⋯え?」
このエストのような何かは、本当に何かだ。存在Xとでも名付けたいが⋯⋯それだと、不信仰を疑われて幼女にでも転生させられそうだ。
「まあ、こうしてキミの前に現れたのは、キミを救うためだ。私が何者であれ、私はキミに協力的さ」
「そう、か。⋯⋯ええっと、お前は何と呼んだら良い?」
「好きにして構わない。キミが最初に呼んだエストでも、神様でも、颯斗でも、美穂でも、何でも、ね。でもキミはそういう答えを求めていなさそうだ。だったら⋯⋯私のことは、ガイア。そう呼ぶと良い」
「ガイア? それまたどうしてだ?」
ガイアとは、ギリシャ神話における地母神の名前であり、神話関連では有名だ。
「キミの記憶の中で、もっとも近いのがその名前だからさ」
つまるところ、目の前のエストのような何かは、全ての母、なのだろう。何ともまあ、ここに来て異世界物らしくなって来たか。
「で、どんなチート能力をくれるんだ? 最強の身体能力か? 最強の魔法か? それとも魔剣とか?」
「何言ってるのかさっぱり分からないんだけど、おそらく、キミの望みを私は叶えてあげられない。私は神でもあるけど、キミに⋯⋯いや、キミたちに今以上干渉することはできない」
考えてみれば、異世界人とは特定外来生物も良いところだ。その世界の秩序を乱したっておかしくない存在であって、本来その世界に入り込むことは許されない。偶然にもこの世界のパワーバランスが馬鹿みたいに狂ってるから影響が少なく済んでいるに過ぎないのだ。
「キミにこれ以上の力を与えるような干渉は、できない。しようものなら私は私自身を崩すも同然で、それは世界の崩壊を意味する。すまないね」
ガイアは本当に申し訳なさそうに。マサカズにそう謝った。
下手には出られているが、どうもマサカズは強く出れない。これはおそらく、相手が神、あるいは神に類する存在であると本能的に理解できているからだろう。
「いや、いいさ。⋯⋯それで、助けてくれるって、どうやって?」
力は与えられないが、それ以外の方法ならできるっていうことだろう。問題はその方法であるのだが、
「知識だ。私は世界であり、神であり、理であり、全だ。だから、知らないこと、答えられないことはない。⋯⋯でも、私はキミに全てを話すことはできない」
これまた、深く干渉できないということだろう。
「と、言うと?」
「これは単に、キミの問題でもある。全てを告げたとき、キミは耐えられない。キミはきっと、その事実に発狂し、再起不能になる。そして私には、キミのその精神を治すような干渉ができないからだ」
──それは、とんでもないことだ。
マサカズは自分でも、精神的にはタフな方だと思っている。それこそ、大罪の魔人たちに制圧された絶望的な現状でも、何とか発狂を抑えられるくらいには。
そんなマサカズが、必ず発狂するような、そして再起不能になるような事実。とても、悍ましい。
「これは試練だ。キミを救えるのは、今の私の姿の少女であることは確実。キミの目的、道標は、『私』なんだ。それだけは、分かっていて欲しい」
「⋯⋯エストが?」
「ああ、エストが。だってそれは、キミが示しているから。私の姿は、私を見た者が今、一番必要としている。あるいは愛している姿だからさ」
ガイアは両手を広げ、マサカズに、教師が生徒に教えを説くように答える。
「後者はない。としたら前者。だから、エストを頼るように立ち回れってことか」
ガイアはその答えに肯定するように頷く。
そのとき、マサカズは突然、頭に霧がかかったかのような感覚に陥り、跪く。そんな状態になったというのに、焦りは全く無かった。
「これ、は⋯⋯?」
「眠りから覚めようとしているんだ、キミは。夢はいつまでも見られない、そうだろう?」
ガイアの、エストの姿が、いくつにも重なって見える。頭が重い。体が重い。立っていられないのだ。でも、苦しくも、辛くもない。
「最後に、聞きたい⋯⋯」
マサカズは揺れ重なる世界で、ガイアの肩を掴み、必死になって声を出す。それに彼、あるいは彼女は動じず、聞く態度となる。
「何かな?」
「⋯⋯お前は、前に一度、いや、何度だ? 俺とお前とは何度、出会ったことがある?」
──やけに、見覚えがある。
確かにガイアの姿は現在、エストの姿であるが、それでも雰囲気はエストとは全く異なることに気づいている。だからこそ、その雰囲気に既視感を覚えたのだ。
「⋯⋯さあ、何度、だろうね。今回が初めてかもしれないし、忘れているだけで毎日眠るときに夢で出会っているかも知れない。キミが忘れれば、この私も忘れられてしまうからね」
「それは、一体どういう──っ!」
体全身が、急に一気に重くなった。もう、こうして夢の中で居られるのは限界ということだろうか。
「ガイア⋯⋯また、会えるのか?」
「キミが忘れなければ、会ったことになるだろう。では、黒井正和⋯⋯英雄よ、敵を討ち滅ぼせ」
──その言葉を最後に、マサカズの意識は完全に途切れる。
◆◆◆
言葉に表すなら、あれは記憶の追体験であり、また、世界との遭遇であった。
「ガイア⋯⋯ああ、覚えている」
夢は起床してから時間が経てば忘れるというが、少なくとも今回は忘れずに済みそうだ。
正直な話、あの夢で現状を打破できるような情報が手に入ったわけではない。未だ状況は最悪そのものであるが、それでも、心の持ちようは変わった。
精神と肉体は相互に影響し合う。
病は気からとも言う。心を強く持つこと、つまり決意とは、中々馬鹿にならない力を持つものだ。
「エストだ。今回のループを抜け出すには、エストの力が必須になる」
情報、もとい希望を手にしたマサカズは、それに縋るために奔走すべきだろう。
エストたちがこのアセルムノに到着するのは、早くて翌日の早朝、遅ければ明後日の夜と言ったところか。何にせよ、最低でも今日一日は何事もなく過ごさなければならない。
「問題は、エストたちにどうやってセレディナたちのことを伝えるか⋯⋯」
勿論、直接言いに行けば即殺害されるだろう。マサカズが死んでは時がそこから動かなくなる。
かと言って、何もせずに待つことも許されない。マサカズはセレディナにエストたちの情報を流さざるを得なくて、もし流せば『色欲』とやらに『死者の大地』を監視させることになるだろう。
セレディナがどれだけの強さであるかは不明だが、前回、エストと対峙したとき、エストに毒を盛れたらしい。だから、勝負にはなる程度の実力であることは確実だ。
何より、不確定要素としてレヴィの存在がある。
「レヴィの能力が、抵抗可能か不可能かで大分変わるんだよな⋯⋯」
レヴィは、普段から黒のベールで自身の素顔を隠している。そして彼女は、その能力を制御できないようで、謂わば素顔を見たものを殺し尽くす、無差別殺人能力者であるのだ。
能力は基本的に、能力者に制御できて当たり前のはずだ。しかし、この無差別に発動する『嫉妬の罪』という能力は一体何なのか。
「可能性として高いのは、本当に無差別で、抵抗不可の超凶悪能力であることだ。最悪のケースを想定しておいて構わないだろう」
対処法は今の所、素顔をそもそも見ないくらいだ。何度も思うが、この能力は警戒してもしきれないほどに強力である。
「かと言って同士討ちさせるにもリスクが大きすぎる。仲間だから、能力は理解しきっているはずだしな」
マサカズが知らない対処方法を知っている可能性もある。だから、同士討ちはできず、逆に自爆しても可笑しくない。これは却下だ。
「『強欲』は正直、わからん。見たところ魔王への忠誠度は低そうだが⋯⋯演技の可能性もある」
魔王に次いで警戒すべきなのが、『強欲』だ。何を考えているのかは分かるが、何をしたいのかがよく分からない。理解の範疇を軽々と超えているのだ。
「⋯⋯やっぱ、『色欲』か」
魔王と『強欲』は言わずもがな、どうにもできない。『嫉妬』ならあるいは可能かもしれないが、それは単独での話だ。基本的に、『嫉妬』は誰かと一緒に行動している。
ならば、残るは『色欲』のみ。
「エストたちがここに到着するタイミングをずらして魔王に報告する。そして⋯⋯『色欲』を真っ先に殺して、奴らからカードを一つ奪った状態で全面戦争を仕掛ける」
可能な限り、魔王軍からは戦力を奪っておきたい。そして奪える可能性があるのは、『色欲』のみ。
「よし、このプランで行くとして⋯⋯問題は⋯⋯」
「──まさか、こんなことになるとは思わなかったね。これも、君の思惑かい?」
大まかな魔王軍討伐作戦の道筋を立てて、あとはその補強をしようとしていたマサカズに、突如、話しかけてくる人物が居た。
「──『強欲』」
太腿くらいまである長い銀髪、宝石みたいな紫紺の瞳、黒と紫を基調とした、真っ白な肩を大きく出したドレスを着た、美貌の持ち主。
その姿を見て、マサカズは彼女の大罪を声に出す。
「いやいや、まさか魔王様が君みたいなのを仲間として認めるなんて思わなかったし、それ以上に君が承諾することが信じられないよ。もしかして、何か狙ってる?」
マサカズは内心で冷つくが、決してそれを表に出さないように、あくまで表面所では冷静を装う。
「お前も言っていただろ? 生存欲こそ人間が持つ一番強い欲求だって。その欲求──欲望に従ったまでだ」
声は震えていない。だが、この人の感情を読むことができる化物には、マサカズの嘘が通用するのか。
「⋯⋯なるほど」
フィルは納得したように腕を組み直し、豊満な胸を支えるようにすると、マサカズはそこで安心した。
「──私は魔王様の配下になっている。けど、それは忠誠を誓っているということではない」
演説でも、フィルは同じことを言っていた。あくまで彼女が魔王に従っているのは、魔王が彼女に自由を、知識を、対価を保証してくれるからである。
「私はいつでも私の思うままに生きる。それこそ自由であるからね。だから⋯⋯今の私は、面白い方に加担する」
そこで、マサカズは目を見開き、ただでさえ速かった心臓の鼓動がより早くなったのを感じる。
「私の能力は、直接考えていることが分かるわけじゃない。あくまで分かるのは、その時の感情だけ。⋯⋯でも、心の奥底の感情を偽ることはできない。私にポーカーフェイスは通用しないし、感情から何を考えているのかを予測するのも、もう慣れているんだよね」
フィルは右目を瞑り、左人差し指を自分の口に当て、嫣然と微笑んで、美しく艶やかな声で、マサカズの顔に近づく。
ラベンダーのような、甘い花のような匂いがした。
「──君が何を考えているか。何を感じているか。何を思っているか。全部、私は視ている。私の能力の、欲求の改竄は、あくまでも副次効果程度だと知っておくと良い」
「⋯⋯お前は、本当に分からない」
「私は『強欲』だよ? 君程度の⋯⋯いや、魔王様でも、魔女でも、魔人でも、異世界人でも、どんな知恵者でも、私以外が私自身を理解できるわけないよ」
フィルは、『強欲』の魔人は、マサカズが魔王を討とうとしていることを知って尚、そのことを魔王に伝えようとしていない。そしてその理由は、
「君が理解できるのは、するのは、していいのは、私がそうしたいから、そうしたという事実だけ。結果だけさ」
美しくも、狂気的で、美術家がその生涯を費やして描いた美女の絵画のような笑みを、嗤いを、彼女はその顔に浮かべた。
フィルが、自分は自分以外に理解されて堪るか、という感情を抱いたことは、能力を持っていないマサカズでも分かったことだった。
「⋯⋯で、何しにここに来たんだ?」
まさか、この演説を聞かせに来たわけではないだろう。何か目的があって、フィルはマサカズの前に現れたはずだ。
「ああ、これは私の悪い癖だ。こうして本題を忘れて、関係のない、まあ大切なことなんだけど、ついつい話し込んでしまうんだよね」
「そうだな。今正にもう一度そうなろうとしている」
うっかり、と言ったふうにフィルはあざとくポーズを取る。
「えっとね、魔王様が君を呼んでいるってことを伝えに来ただけさ」
「⋯⋯そんなとこだろうとは思っていた。で、魔王とやらはどこに居るんだ?」
「防衛要塞内。歩きで行ってもいいし、この私が転移魔法で送ってもいいよ」
一応は敵であるフィルの魔法は、頼りたくない。魔王の前ではなく、宇宙に放り出されたって可笑しくないのだ。この女であれば冗談にならない。
「君が私のことをどう思おうが勝手だけど、私も一人の乙女なんだよ? そう、何やらかすのかわからないような怪物みたいに扱われたら流石の私も少し傷つくよ。いいの? 魔王様に言いつけちゃうよ?」
フィルは涙ぐみ、マサカズに対して上目遣いをする。無駄に顔は良いので、彼は顔を赤らめる。
「お前ならマジでやりそうだから困るんだよ。⋯⋯あー、分かったから、転移させてくれ」
「ふふ、君はやはり面白い。私も見てくれは良いとは思ってるけど、そこまで恐怖心を抱かなくなるとは予想外だよ」
「馬鹿言え。これが虚勢だってことも、知ってるんだろ?」
「いいや? 君の感情は恐怖と勇気という、全く逆の要素が混ざり合っているんだ。これは実に興味深い。いやはや、こんな感情、まるで死を死だとは、終わりだとは思っていないような、死は怖いが、絶望はしていないような、そんな感じがする。言葉にできない感情だ!」
これ以上話すことは、フィルにマサカズの加護の情報を流すことに等しいと思い、マサカズは悦に浸るフィルを無理矢理現実に戻す。
「はいはい。分かった分かった。はい、〈転移陣〉っと」
マサカズの足元に白に発光する魔法陣が展開される。もう見慣れた転移魔法だ。
「じゃ、死なないように立ち回ってね」
そんな不穏な言葉を聞きながら、マサカズは魔王の下へ転移した。
ここまで長くやってると感想が欲しくなってきます。酷評でも何でも良いので、感想が欲しい⋯⋯いや、やっぱ酷評はちょっと遠慮してください。私の脆い硝子で、小鳥のような心臓が破裂してしまいます。