5−6 黒井正和
「セレディナ、フィル、レヴィ──」
『魔王』、『強欲』、『嫉妬』らの名前をマサカズは挙げる。
『お兄さんは、魔王様の仲間。だから、ワタシの素顔を見ないでね』
という、自身の能力を無差別殺人能力だと肯定した台詞を思い出し、マサカズは頭を抱える。だが、それ以上に彼の頭を痛めるのは、
「──そして、『色欲』カルテナ」
モルム聖共和国、首都アルセムノ襲撃作戦に参加したメンバー最後の名前をマサカズは挙げた。
「ふざけんなよ⋯⋯どうしろって? 四人? 魔王に、魔女に匹敵する魔人、顔を見れば即死の能力者に⋯⋯これ以上面倒事を積み重ねるな⋯⋯!」
路地裏にて、マサカズは一人嘆く。
現在の時刻は、そろそろ昼といったところだ。本来、マサカズには軍人たちに剣を教える仕事があるのだが、無断欠勤となっている。しかし、それはわざわざ報告するほどのものではないだろう。
「都市の制圧。魔王軍の第二の目的」
アルセムノの制圧だ。どうして制圧するのかは不明だが、今の所街中で爆撃が起こされるということもなく、緊急事態ということで人々は避難所に逃げているが、これと言って悲劇は生まれていない。
「だがそれも時間の問題だ。何をすべきか、それをまずは整理しないと⋯⋯」
左腕に白い布を巻き、リストカットよりも酷い傷を外気から守り、止血も行う。
痛みはまだあって、額に、全身に冷や汗が滲み出る。額の汗を右手で拭う。
「街の人たちは『強欲』の能力の影響で萎縮済み。軍人も同様。まともに歩ける奴さえ少ない状況。『色欲』が何らかの方法でアセルムノを包囲していて、逃げ出すことは不可能⋯⋯」
状況はまさに、詰み。武力でも、組織力でも、知略でも、マサカズには勝てる兆しが全く見えない。お先は真っ暗だ。
「クソ! 個々でも十分なくらいの力を持ってるのに、そんな奴らが組織として動けばこうなるだろうよ⋯⋯」
マサカズは路地裏の壁を右手で殴る。壁に少しだけ罅が入って、何度か殴れば砕けそうだ。
マサカズは、異世界人で超人の力を持っている。普通の人間では比較にもならないだろう。しかし、上には上がいる。魔王や、魔人たちは、こんな壁、軽く砕けるだろう。
「⋯⋯やるしか、ないだろ。俺には、これしかないだろ」
赤色に汚れる左手と、健全な右手をマサカズは見て、
「『死に戻り』⋯⋯俺には、この力がある。この力しか、ない」
死に慣れるなんて、ない。慣れても、いけない。あれは恐怖そのものだ。あれは不快感そのものだ。言語化できないが、あえて形容するなら、死は絶望だ。無だ。虚無だ。
「それが、どうしたってんだよ。俺の命なんて幾つ失われても、結局『戻る』だろ。なのに⋯⋯なのになのになのになのになのになのに! ⋯⋯どうして、俺は⋯⋯何度も経験したのに、俺は──」
──こんなにも、死が怖いのか。
マサカズのこれまでの『死に戻り』には、少なからず希望があった。ケテルのときも、エストという希望があった。ティファレトのときも、自分で殺せるという希望があった。アレオスのときも、モートルのときも、イシレアとメレカリナのときも、マイとコクマーのときも、どんな『死に戻り』にも、何とかして脱出できるかもしれないという希望が、あった。だから、発狂しても、何とか生き足掻けたのだ。絶望しても、希望があると気づけたから、思い出せたから、立ち上がれた。
だが、今回はどうだ?
戦うのも、逃げるのも、できない。敵たちの組織力も統制力も士気も高く、弱点らしい弱点もない。漬け込む隙が、全く見当たらない。
頼れる仲間も今は『死者の大地』だ。『始祖の魔女の墳墓』だ。そして、国内で頼れそうな軍は無力化済みだ。つまり、マサカズは今、孤独である。
「無意味、無謀、無作為、無闇、無鉄砲、浅はか、無能」
やれることがない。やることがない。何をしたって意味がない。意味のあることができない。
「⋯⋯本当に、裏切ってしまおうか」
脳裏に、四人の姿が浮かび上がる。
レイ、ナオト、ユナ⋯⋯エスト。彼らを、仲間を、友達を、裏切る。それがどれだけ残酷なことであるか。マサカズは、よく知っている。よく知っているからこそ、マサカズは思う。
「楽なのは、どちらかなんて。俺にはよく分かる」
どちらも辛い。どちらも選びたくない。だが、どちらかを選ばなくてはならない。だったら少しでも楽な方へ、楽な方へと流れていくのが人間の性だ。
「──」
魔王軍へ、加入する。なるほど、それも悪くない選択かもしれない。魔王セレディナは仲間想いだということが、『嫉妬』の魔人、レヴィとの関わりで分かった。
セレディナのマサカズに対する信用は最低から始まっているが、取り戻せないことはない。
悪くない。悪くない選択肢のように思われる。しかし、どこか決めきれない自分が居る。
「──父さん、母さん」
不意に、無意識に、マサカズはその名を呼ぶ。
黒井颯斗は憧れの父親だった。仕事も、スポーツも、ゲームも、勉強も、何でも高水準にこなし、マサカズに色々なことを教えてくれて、妻子を溺愛する人であった。
黒井美穂は優しい母親だった。息子のために叱ってくれて、でも甘やかすときはとことん甘やかして。泣きたいときは胸を貸してくれて。笑いたいときは一緒に笑ってくれて。いつも、マサカズを見ていてくれた。そして助けてくれた。
黒井正和がこの世で一番尊敬していて、一番信頼していて、一番大好きな両親。この世界に転移してきてから、二人のことを思い出さない日はない。
「父さん⋯⋯母さん⋯⋯!」
これまで、マサカズは両親のことをできるだけ考えないようにしていた。毎日思い出しているが、そこまで。今、二人がどうしているか。突然居なくなったマサカズに対してどう思っているかなど、全然考えなかった──いや、考えられなかった。
だって、思い出せば、心が壊れる気がして。
「やり方を教えてくれよ、父さん。慰めてくれよ、母さん。俺は⋯⋯俺は、どうしたら良いんだ? 俺はどうしたら、こんな世界で生きて、二人の元に帰れる?」
そしてそれは、事実であった。
脆くて、いつ壊れても可笑しくなかったマサカズの心は、今、砕けた。そのせいで今まで抑えていた感情が、溢れた。
「帰りたい。会いたい。抱きしめたい。泣いて泣いて、『おかえり』って言って欲しい」
あの二人なら、きっとそうしてくれるはずだ。あの二人なら、きっとマサカズを迎えてくれるはずだ。
「どうすれば⋯⋯どうしたら⋯⋯何を⋯⋯何が、最善なんだ?」
目頭が熱くなる。涙が、自然と瞳に溢れて、頬を伝う。
「怖いよ。恐ろしいよ。嫌だよ。辛いよ。苦しいよ。助けて欲しいよ⋯⋯」
思い出す日々は、何気ない日常。朝起きて、母さんの美味しいご飯を食べて、父さんと一緒に家を出て、学校に行って、勉強して、友達と遊んで、帰ってきたら温かいご飯が用意されていて、家族一緒にそれを食べて、あとは父さんとゲームして、そして負けて、それを母さんが微笑みながら見ていて──。
「──」
恋しい。あの日々が。平凡だけど幸せに満ちていたあの家が、街が、とんでもなく恋しい。できるならすぐに帰りたい。あんな幸せな日々に、戻りたい。
「──」
泣いた。いっぱい泣いた。声は出さなかったけど、長い間泣いた。泣いて泣いて、泣き疲れた。だからだろう。いつの間にか、意識が遠くなって──
◆◆◆
──スマホのタイマーの音が、黒井正和を真っ暗な世界から引きずり出す。
意識が覚醒するまでにはまだ時間がある。ぼやっとする頭で、スマホのタイマーを止めて、そして正和は二度寝へと、
「ほら、さっさと起きろ!」
が、その二度寝は中年男性の声によって事前に防がれた。
「ろーさん? きーはきゅーずつじゃりーおか?」
呂律がまるで回っていない正和だったが、こういう朝は時々あるため、父、黒井颯斗はその難解な言語を日本語に翻訳できる。ちなみに今の発言を日本語に翻訳すると、「父さん? 今日は休日じゃないのか?」である。
「何寝ぼけてんだ。今日は金曜だぞ。ほら、さっさと下に行かないと、母さんの手料理が食べられないぞ」
その言葉を聞いた瞬間、正和は先程までとは比べ物にならないくらいシャキッとした表情になった。
「それは不味い。そう、非常に不味い。俺から母さんの手料理を奪ったら、未練で成仏できない、きっと」
「朝飯食べられないくらいで死ぬな。そして死んだら成仏しろ。⋯⋯全く、誰に似たんだか」
正和としては、大真面目に答えたのだが、颯斗はそれをジョークのように流した。
「さあ、誰に似たのか。それはもう、妻と子供に対してキモいくらい愛情を向ける、大体何でもできる父親だと思うぜ」
「ほう。そんな父親はまさに親の鏡だな。素晴らしい」
無駄に整ってる顔で、無駄に鍛えられた胸を張り、颯斗は自慢げに腕を組む。
「自画自賛って⋯⋯こういうとこあるから、素直に『尊敬してます』って言いたくなくなるんだよな」
そんな言い合いも、最早、息子と父親の間で繰り広げられる日課だ。そしてその後、
「正和! 父さん! 早く降りてきなさい! ご飯が冷めちゃうでしょ!」
こうして、母親の黒井美穂から怒られるのも、日課になっていた。
◆◆◆
ご飯に、味噌汁、野菜炒めと焼き鮭。飲み物は麦茶である。
歯を磨き、食卓に家族全員が着く。そして、朝のニュースの音が流れる中、黒井家は食事を始めた。
「正和、久しぶりの学校だが、メンテはしてるよな?」
何を、とは、正和は颯斗に聞かない。
長く思えて意外と短かった夏休みは昨日で最終日だ。勿論宿題も終わらせているため、特に困ったことはない。
「ああ。メンテは好きだからな。変速は調整済み。ブレーキのオイルも確認してる。チェーンもスプロケもフレームも、昨日洗ったばかりだ」
アルバイトをして、足りなかった部分は両親に出して貰って購入したロードバイク。ハイグレードであるため、本来なら通学に使うのには勿体無いが、妥協は許さない性格が正和にはあった。
「父さんより速くなってやるよ。若さには勝てないことを教えてやる!」
正和が何かするときと言えば、いつも颯斗がやっているところを見て、である。しかし今度の自転車は、正和から「やりたい」と言った。だからだろうか、両親が協力的だったのは。
「オレはいつもお前の先を行く男だぜ。それに、オレだってまだ若い」
「今年で41だろ? そろそろ全盛期は過ぎたはずだ。それに老けてる。母さんを見習えよ。二人並んだら、兄妹みたいだぞ」
正和は気づいていないが、颯斗も年齢の割には若々しい。ただ、母の美穂がより若々しく見えて、相対的に颯斗が老けて見えるのだ。
「兄妹って⋯⋯そんなに私、美容とかは気にしていないのだけれど」
「母さん!? オレが老けて見えるって言われるのには何も言わないの?」
こういうところが微笑ましい。美穂の発言には流石の正和も「何もしてないって嘘だろ」と、少し困惑したが、やはり、両親の仲は睦まじいままだ。
「父さんと母さんって、やっぱ仲良しだよな。喧嘩とかしたことあるのか?」
ここまで仲が良いと、喧嘩なんてしたことなさそうである。しかし、その返答は正和の予想の斜め上であった。
「あるぞ。というか喧嘩ばっかだった」
信じられない、というのが正直な感想だ。
「ええ、そうね。正和、あなたが生まれてから、母さんと父さんは喧嘩しなくなったの」
「へえ。で、どんな喧嘩してたんだ?」
「そうだな⋯⋯一番大喧嘩したときだったら、父さんが母さんとゲームしててな。それで母さんに負けたんだ。それはもう、圧倒的に。でも、オレもそのときは若くて⋯⋯」
「『今の負けてない。今のはズルだ』とか言って、難癖付けてきたわよね、あのとき。素直に負けを認められないのか、と言い争いになったかしら」
訂正。やはり両親は仲が良い。これが一番の大喧嘩と言うような間柄なのだ。しかも真面目に大喧嘩だと二人とも思っているのが、むしろ正和には面白くも思えた。
痴話喧嘩。その言葉のほうが語弊がない。
「⋯⋯っと、そろそろ時間だな。行ってくるよ、母さん。変な人が押しかけてきても、逆に倒さな──玄関は開けずに、警察呼んでね?」
昔、黒井家に空き巣が入ってきたことがあった。美穂は専業主婦であるため、空き巣と相対することとなったのだが、空き巣を交番まで引き渡しに行ったことがあるのだ。
傷もなく気絶させるとか言う技が、美穂には使えるらしい。全く、どうして正和の両親はこうも凄い人たちなのか。
「はいはい。分かってるわよ」
その言葉を聞いて、正和と颯斗は一緒に外に出る。そしてロードバイクに乗って、ヘルメットを被って、走り出す。
学校と仕事場への道は途中まで同じだ。だから、こうして一緒に通勤通学できるのである。
「ほう。初めてスポーツバイクなんて乗るもんだが、やっぱり速いな」
そう言いながら颯斗はどんどんスピードアップしていく。
正和はそれに追走する形だが、サイクルコンピュータの速度表示には37km/hとある。
「37km/h!? 父さん速っ!」
何が凄いって、昨日納車したばかりなのだ、颯斗は。だから、これまで自転車なんて乗ってなかったような初心者が、余裕でここまでの速度を出すなんて可笑しい。
正和も運動ができる方だったが、それでも最初から30km/hを維持するのは辛かった。
父親の万能っぷりを改めて理解したが、負けじと正和はペダルを踏む。
──結果、正和が学校につく頃には、ゼエゼエと息を荒げていた。颯斗はおそらく、余裕で仕事できるだろう。
「父さんやっぱ化物だわ」
尊敬できる。そして、目指して、追いついて、追い越すべき相手でもある。
黒井正和にとって、父、黒井颯斗は憧れでもあり、目標であるのだ。