4−36 契約
全てを捧げる。それは、即ち、支配権を得るということだ。
「⋯⋯『契約』。そう、『契約』か⋯⋯」
絶対的な力を持つ結び、『契約』。それを一度結んでしまえば、両者の合意なしにそれを書き換えることも、破棄することもできないもの。
エストがイザベリアに求めた『契約』の内容は、イザベリアにとっても悪くないものであった。ある一点、その支配権が全てエストにあるということ以外。
「私はあなたに何もできない。思うようにできない。全てをあなたに捧げるということは、そういうこと。⋯⋯それは、正直、好ましくない」
イザベリアの『欲望』は、外の世界に出ることであり、また、エストという少女を愛することだ。
その愛は、束縛的なものである。こちらが支配されるなんて、以ての外で、論外である。片方の目的は達成されるが、もう片方の目的は達成されない。
欲深い彼女にとって、妥協とは許されないものである。その二つの目的が達成されて、ようやく晴れて『欲望』が叶ったと言えるのだ。
「だから、あなたの提案に今すぐ乗ることは、しない。できるはずがない。⋯⋯けど」
エストの真意、それをイザベリアは理解していた。
「ああ⋯⋯あなたは本当に、性格が悪い」
「お互い様でしょ?」
最初の、二人の間に提示された、エストに魔女の力を取り戻させる条件は、『五つの試練』をエストが突破すること。そして、それを突破できたらエストは魔女の力を取り戻す。しかし、突破できなければ、エストはその全てをイザベリアに捧げるということだった。
「第四の試練で私に本当の『欲望』と黒の魔女への憎悪を思い出させ、そこでキミは私を誘惑する。不安定となった私は、キミの甘い言葉に釣られる⋯⋯第四の試練も突破できず、結果、私はキミに全てを捧げることになっていた」
イザベリアの狙いを、エストは明らかにする。
なるほど、道筋は正しい。何せ、エストは一瞬、イザベリアの言葉に従おうとしたからだ。しかし、
「キミは一つ、見ていない私の記憶があったよね」
「──」
「それが、キミの過ち。⋯⋯私には、私を必要としてくれている人が居るのさ」
エストの脳内に三人の男女が映る。今、彼らはそこには居ないが、彼らの存在が、エストを甘い誘惑から救った。
『お前が仲間だからだ。大切だからだ』
そう、彼はエストに言ってくれた。裏切った彼女に、必要だって、大切だって、言ってくれた。
「彼は、キミに支配された私を必要としていない。彼は、私を必要としている⋯⋯それをキミが視ていたなら、嘘をついて騙して言葉巧みに私を惑わしていたかな?」
「──計算外、というわけね」
イザベリアは、エストを理解したつもりだった。彼女の記憶を視て、彼女を分かったつもりでいた。
全て視たはずだった。けれど、全て覚えたわけではなかった。全てを考慮に入れて、魅了する方法を考えなかった。
「たしか、マサカズ・クロイだっけ、あの男の名前は」
イザベリアはそのイレギュラーとなった男の名前を口にする。名前を知ってるのは、エストの記憶からだろうか。
「あなたを少しみくびっていたようだ」
エストの新たな狙いは、条件を達成した際の結果の変更。つまり、魔女の力を開放する、というのを、イザベリアに全てを捧げさせる、というものにしろ、ということだ。
「キミは私のトラウマを刺激し、私の試練の続行意欲を消そうとした⋯⋯それは、公平性を欠くよね。⋯⋯さあ、第五の試練を」
無理難題を押し付けない。そう言ったのは誰でもない、イザベリア自身だ。
エストは、大変優秀な人だ。無理難題でもなければ、大抵悠々とこなしてしまう。だから、イザベリアが提示する第五の試練もきっと、こなしてしまうだろう。
エストは勝利を確信したようなものだった。
「──あなたのそういうところも良いよね。徹底して、相手の逃げ道を奪っていく⋯⋯最初に、何気なく言ったあれが、特に何も考えずに承諾したあれが、ここに来て毒となるなんて」
無理難題を押し付けない。それが、今、毒となってイザベリアを襲う。
追い詰められた。そう思ったイザベリアは、現状を打開する方法を必死になって探し、見つけてしまった。
「無理難題は押し付けない。絶対にできやしない試練は試練じゃないもんね。そしてあなたは、大抵のことに才能を持っていて、できてしまう。それは私もよく知っていること」
イザベリアは顔を上げて、笑みを浮かべる。その笑みには、悪巧みも、負けを認める心もない。あるのは──勝負をする時の、昂りの感情だ。
「結局、何が一番信用できると、エスト、あなたは思う?」
ちゃん付けがなくなった。イザベリアは、エストを敵と見なした、子供でも何でもなく、対等な相手として。
「⋯⋯仲間とか、家族」
エストは思いつく信用できるモノを言う。イザベリアはそんな彼女の答えを嗤うことはしなかったが、
「ああ、確かに、それらは信用に値する立場にある。けれど、私が聞いたのは『一番信用できるモノ』。それらは、一番にはない。そのうちどちらかでも、ね」
イザベリアの言いたいことを、エストは分かった気がする。その瞬間、エストは驚きの表情を浮かべてから、顎を引き、イザベリアの解答を聞く。
「一番信用できるのは自分自身さ。自分自身は、絶対に裏切らない。そうでしょう?」
当たり前のことだ。自分の思いが自分を裏切ることなんてない。あったとしたらそれは間違いであり、絶対に意に反した行動は取らない。
「第五の試練、それは──私に勝利すること」
イザベリアは始祖の魔女だ。この千年間、まともに戦っていないとはいえ、その戦闘力は凡そ人の域にない。魔人でも、魔女でさえ、勝つことなんて不可能だ。
「勿論、普通に戦えば私が勝つことなんて明々白々の結果。だから、一時的にあなたの魔女の力を開放し、いくつかの縛りを私自身に課そう」
イザベリアは勝負の内容と、勝利条件について説明した。
エストは、魔女の力を一時的に取り戻す。そして勝利条件は、イザベリアに一撃でも与えること。
イザベリアは、エストを殺すことが禁止で、仮に殺してしまった際はエストの勝利となる。勝利条件は、エストを気絶させることである。
一見すると、エスト有利の条件だ。しかし、イザベリアとはそれでようやく互角。なんなら、これでも尚イザベリアの方が若干有利なまである。
「なるほどね、一番信用できるのは自分自身。だから、最後の試練の壁になるのは、自分自身が適任、ってわけだね」
これは賭けだ。ここには事前の備えとか、計画とか、何も関係がない。力が直接結果に繋がる、公平な試練だ。
──勝者が、全てを手にする戦い。それが今、始まる。
◆◆◆
全身に傷を負い、立っていることさえ不思議なくらいだ。今にも意識が飛びそうで、体は重りでもつけられているみたいに動かしづらい。
鎌を持つ力が弱くて、思うように武器を振れない。だが、それでも、負けを認めることは許されない。だってそれが、主人との『約束』なのだから。
『⋯⋯この我を相手に、よくぞここまで戦えたものだ。まさかこの我が、重症を負い、血で血を洗うことになるとは』
目の前の竜も、大怪我を身体の至るところに負っている。六つある脚のうち二脚はまともに動かせなくなっていて、血を流しすぎて魔法陣の展開も苦しい。
「⋯⋯私は、あなたに負けることはできません。私は、勝たなくてはならない」
『我も同じこと。我も、汝に負けることはできない』
それは、分かりきっていることだ。どちらも、負けられない、負けてはならない理由がある。
しかし、勝負は決するから勝負なのだ。そして、引き分けなんて生易しい結果が、殺し合いにはない。
両者が向かい合い、その戦いを再開しようとした直後──、
「っ!?」
『何だ⋯⋯この揺れは?』
とてつもない衝撃音と振動が、墳墓の第三階層全体に伝わった。
明らかな異常事態にレイとイリシルは殺し合いどころではなくなり、一旦休戦することとなる。
引き分けはないと言ったが、それはあくまで外からの干渉がなければの話だ。
『⋯⋯まさか、あの娘⋯⋯!』
どうやらイリシルには、この事態に思い当たりがあるようだ。レイがそれについて聞くと、
『汝の主人、エストが向かった先は知っているだろう?』
「ええ。⋯⋯って、あなたが今言った娘って」
『その通りだ。娘──イザベリアは、この墳墓内であれば実体として発現できる。そして、今のはきっと、イザベリアの仕業だろう』
始祖の魔女、イザベリア。その力は古竜でさえも簡単に捻り潰すことができる、まさに最強の魔法使いの名に恥じぬ強者だ。
否定したいが、レイの主、エストよりもおそらく強い魔女。そんな魔女が、力を発揮する。
『待て』
『約束』なんてお構いなしに、レイはエストの元へ転移しようとした。だが、そんな彼をイリシルは引き留める。
「何ですか。これはあなたとの戦いを放棄してでも行かなくてはならない事態です。例えあなたとイザベリアを同時に相手することになっても、私はエスト様の身に何か起こるかもしれないこの状況に、知らないフリなんてしていられません」
レイはエストへ忠誠を誓っており、それは並外れたものだ。エストの死はレイの死でもあり、それは絶対阻止しなければならない、例え、命令に背くとしても。
『違う。⋯⋯我の使命は、イザベリアから汝らを遠ざけること。そして今、それは失敗した。つまり、我の負けだ』
イリシルは、簡単にレイに負けを認めた。彼は自分自身に治癒魔法を行使しながら、話す。
『イザベリアの力は強大だ。あの娘は手加減というものを知らない。下手をすれば、この墳墓も危ない⋯⋯もし、墳墓が破壊されてしまえば、その時──世界は、終わる』
世界の終焉。イザベリアの力はそれを引き起こせる。
「そんなことが⋯⋯」
にわかには信じがたい。しかし、否定することもできない事実。
『あるんだ。レイ、この我も、一緒に転移させろ。あの化物相手にどれだけ立ち回れるか分からないが⋯⋯居ないよりは断然マシなはずだ』
「⋯⋯分かりました」
イリシルの同行を承諾すると、転移するため、レイはエストの現在位置を──、
「──」
『⋯⋯どうした?』
レイの表情がどんどんと焦りのものへと変化していく。小刻みに震えて、まるで予想外の事態に、それも最悪な事態に直面したかのようであった。
「⋯⋯イリシルさん、イザベリアという魔女は、一体どれだけの化物なんですか」
レイがエストの位置を特定できるのは、彼女の魔力を感知しているからである。原理は、距離不問、魔力消費なし、感知妨魔法完全無効化ということを除けば、感知の魔法と同じである。
『化物という言葉以外では、形容できないくらいだ』
「本当に⋯⋯そうですね。だって⋯⋯その魔力によって、エスト様の現在位置が分からないのですから」
考えてみれば、そうだった。レイのその力は、妨害魔法完全無効化なのだ。であれば、どうして第二階層の時、レイのエストを感知する力は妨害されたのか。そして今、完全に繋がりが途絶えたのか。
答えは単純明快。特定の魔力が見えないくらいの、また別の魔力が、空間に漂っていたからだ。
「この魔力は異常です。量も当然ですが、何より、何の不自然さもない」
今ようやく気づくくらい、この墳墓内に充満している魔力は自然そのものだ。魔力は物質であり、本来魔力の充満しているところに入るとそれにすぐに気づける。しかし、この魔力は不自然なくらい自然に溶け込んでいたのだ。
『気づいたか。⋯⋯ああ、この魔力は、確かにイザベリアのものだ』
そしてその魔力は、あの衝撃のあとからより濃くなっている。
『⋯⋯このままでは、墳墓が崩れる前に、我々がこの魔力に耐え切れずに死んでしまうだろう』
生命体には、保有できる魔力に上限がある。それを超えたとき、生命体は死亡する。そして何より質が悪いのは、魔力は生命体の体に溶け込みやすいということであり、意識して魔力の外部からの溶け込みを阻害するコントロールは大変難しいのだ。
『すぐに第四階層に行き、あの娘を止めなくてはならない』
「しかし、イリシルさん、あなたの体では⋯⋯」
イリシルは竜だ。第四階層へと続く階段を通るには、あまりにも大き──
『我がただの竜だと思うなよ? 我は最古の竜であるぞ。故に、人化など容易い』
──イリシルは、瞬時にして人の姿へと変わる。
身長はレイより少し低いくらいか。ショートの黒髪には赤色のメッシュがあり、両目は閉じたまま。服装は赤色のシャツに黒のスーツ。ズボンも黒色である。黒、黒、黒の黒尽くしだ。
ドラゴン形態と同じ角を頭から、尻尾を尾てい骨辺りから生やしている。
『これならば、そこの階段も下れるというもの。さあ、時間は一刻と迫ってきているぞ』
「⋯⋯そうですね。早く行きましょう」
人化したイリシルは、その体には慣れていないはずなのに、躓くことも特になく、第四階層へと続く階段を下る。
「イリシルさん、一つ、聞いてもよろしいですか?」
『なんだ?』
「⋯⋯イザベリアは、あなたにとって何なんですか?」
イリシルはレイより先に走っていたが、振り返ることなく答える。
『同じ人を師匠と、主としており、古くからの友人だ。⋯⋯だが、殺せないわけではない。我は友より、主の命に従う』
「⋯⋯分かりました。あなたと共闘しましょう」
友を殺す。それがどんなに辛いことかは、分かっているつもりだ。もしイリシルがそれを明確にしなければ、レイは彼を信用し、共に戦うことはできなかった。だがその一言で、レイはイリシルへの認識を敵から仲間へと格上げした。
「似た者同士、助け合うに相応しいものです」
傷は完治した。力も回復している。イリシルとの戦闘で、この有り余っていた力も制御できるようになっている。
万全そのものだ。全力を尽くせる。
レイとイリシルは階段を下りて、そうして見る、変わり果てた第四階層の現状を。
そこは──