1話 野良神様に懐かれました。
真っ暗な田舎道を1度も振り返ることなく、無我夢中で走る。こんなド田舎には、街灯なんてものはない。いや、あるにはあるのだが、数百メートルごとに点々とあるのみで、さらには所々整備が追いついていないらしく、チカチカと点滅していたり、完全に消えたりして意味を為していないものもある。こんなの、ないのと大差ないではないか。街灯がないということは、危ないことが起こっていたとしても、ほかの人に気が付かれないということ。そういった場所には、相対的に危ない奴らも集まってくるということ。普通のか弱い女の子が、そんな場所を歩くなんて、危ないとは思いませんか。
「……ッ! いつまでついてくんのよ!」
ええ、私もそう思います。現に今、その危ない奴に追われている最中です。発端は、深夜の残業。シマウマの新種ではないだろうかと、社内で噂されているクソ上司に、終業間際に仕事を振られ、気が付いたらこんなすれ違う人もいないような夜更けになってしまった。その帰り道、裏山のやん道入り口付近で見てしまったのだ。月明かりに照らされた大柄な男と、その足元に転がる裸の女性。女性のほうは明らかに生気がない。まずい。そう思った時には既に手遅れ。男と目線がかち合う。手に持っていた鞄を思わず落としてしまうが、今はそれどころではない。すぐさまその場から走り去る。が、間違いなく追ってきているドタドタと重たい足音が後方から聞こえる。捕まったら、今度は私が何をされるか分かったものではない。
「こんなことなら、もっと運動しとくんだった! そうだ、警察。警察に電話しなきゃ」
お腹周りについた怠惰のつけを呪いながら、一番重要なことを忘れていたことに気が付く。が、それと同時にさっき自分が犯した最大のミスにも気が付いた。いつも持っているはずのカバンは、男と目が合った時にとっさに落としてしまった。スマホはその中にしまってあるのだ。
「なんで手を離したのよ、私のバカ!」
一目散に逃げたため、どこに向かってどのくらい走ったかわからない。そもそもここは周りを山に囲まれているような田舎である。どこで道を間違えたのか、いつの間にやらどこかの山道に入り込んでしまっていた。走れば走るほど、徐々に人工物もなくなってくる。その少ない人工物を頼りに、ほかの助け舟を必死に考える。相変わらず、後ろのほうからはドスドスという音がついてきている。靴擦れの痛みなんて一切感じない。必死に目線を動かし、ふと視界に鳥居と小さな看板が入った。
「浅弦神社?」
このあたりに住みだして数年。聞いたこともない名前の神社だ。だけれど、神社なら神主さんとか、誰かいるのではないだろうか。今はこの蜘蛛の糸にも似た希望にすがるしかない。私の足はその参道へと踏み入れていく。
が、私の期待は大きく裏切られることになる。神社というのは名ばかり。あるのは先ほどの鳥居と参道とは不釣り合いに小さな祠だけ。社務所らしきものは見当たらない。完全に最後の望みが絶たれた。そして出口は、先ほどの参道のみ。
「詰んだ……」
参道の入り口から先ほどの大男のシルエットが見える。その男は鳥居を邪魔そうにくぐり、ドンドンとこちらへ近づいてくる…… え、待って。さっきまでと大きさが明らかに違う。そう気づいた時には既に手遅れ。鳥居を跨げるくらいの大男が、地響きとともに月明かりに照らされ、私の目前に姿を現す。しかし、それだけ近くにいるというのに、その詳細はなぜだか見えない。いや、認識できない、といったほうがいいだろう。かろうじて目の前にいるのが男、ということは分かるが、若いのか年老いているのか。スリムなのか太っているのか。イケメンなのか醜男なのか。明らかに人のそれではない太さの腕が、ゆっくりと鎌首を上げ、私のほうへと延ばされる。後ろは祠。これ以上は下がれない。延ばされた腕が、あと数センチで私のところへ届く。神様、どうか私をお助けください。
「その願い、聞き届けた!」
どこからか声が響く。その直後、自分の目を疑った。私の背もたれになっていた祠から一筋の光が、目の前のデカ物に突き刺さった。その光にひるんだのか、延びてきた腕が引っ込む。いや、引っ込んだからといって、誰も体の中に収納しろとまでは言っていない。え? 体の中に引っ込むの? そこから徐々に男の体に異変が起き始める。よく考えてみると、先ほどから明らかにおかしかった。人間ならば鳥居を跨げるほどの大きさであるはずもない。そうこうしているうちに男の体はあっという間に小さくなり、そもそも人間の姿ですらなくなっていった。シェパードぐらいの大きさのイヌ。闇夜に溶けそうなほど真っ黒い毛に、ぼんやりと赤い目だけが浮かんで見えた。
「……全く。下等な犬っころの分際で、儂の領域で狩りとは。舐めたまねをしてくれるのぉ」
聞きなれない声がした。いつの間にか私のもたれていた祠の上に、和装の女性が立っている。その女性に対して、眼前の犬は威嚇を続ける。
「その血なまぐさい臭い。既に人間を食ったか…… なに? いいから獲物をよこせ、じゃと? 下級妖怪風情がこの儂に指図とな」
祠の上野女性が、私のほうへ目線を移す。今のは恐らく、彼女と犬の会話だろう。犬の声は聞こえないが、彼女の返事からするに、犬は私を食べたがっている。そんなの、嫌に決まっている。彼女に向かい、私はゆっくりと首を横に振る。それを見た彼女はニカッとした笑顔の後、私と犬の間へ、まるで夜闇を泳ぐかのように舞い降りる。
「残念じゃな犬っころ。それはできない相談じゃ。なんせこやつは、儂の大事な信者一号にすることに決めたんじゃからの」
直後、一瞬で片が付いた。飛びかかってきた犬に目掛け、彼女の手に握られていた光が振り下ろされる。今度はその光の正体をしっかりと視認できた。何やら刀のようなものが犬の首をスッパリと落としてしまった。頭を失った導体は、しばらくふらふらと後ずさりをしたところで光の粒になり消滅した。
「なんじゃ、呆気ない。この程度のものが儂に勝とうなんぞ、百年。いや、千年早いわ」
彼女が、手に持っていた刀を投げるように放すと、真っ赤な紅葉になり舞い散っていった。季節外れの紅葉に思わず見とれていると、いきなり彼女の顔が私の視界いっぱいに占領してきた。
「で、おぬし。儂になにか言うことはないのか?」
端正な顔立ちの女性に急に近づかれ、まるで恋愛経験の少ない思春期真っ盛りの中学生男子のようなリアクションをとってしまい、少し恥ずかしくなる。遠目からでも美人と分かるほどの顔立ちである。吐息を感じるほどの距離に近づかれると、その雪のように白い髪と、真っ赤に燃えるルビーのような目が、より私の視線を捕らえて離さない。
「あ、ありがとうございました……さ、さっきのっていったい」
強い光は目に毒だ。これ以上彼女を見つめては話が進まないと判断し、すっと彼女の顔面から逃げるように距離をとりつつ、やはり気になるのは先ほどの謎の生き物。日常生活ではまず体験しないようなことばかり怒っている。大きさの変わる男、もとい犬。光のような刀。突然祠の上に現れた和服美人。学生時代、成績簿の平均が3だった私の脳では全く処理ができていない。
「ん? さっきの奴か? 儂らはゐぬじゃな。昔からおるんじゃよ。ああやって人に化けてこそこそと狩りをするような下等な妖怪が。おぬしも、夜道には重々気をつけるとこじゃ」
「いやいや、明らかに犬じゃないでしょ。大きさも変わるし、首切られた後蒸発しちゃったし」
「犬ではなく、ゐぬじゃな。正式な名前はないが儂らはそうよ産んでおる。犬と姿かたちは似ておるが、人食らいの妖怪じゃよ。して、おぬし。名と住み処を言え」
だめ。全然わからない。この和装美人は真面目な顔で何を言っているんだ。妖怪? まあ、確かにあれは明らかに現実のものとは思えない。しかも、それを倒してしまうような美人に今度は名前と住所を聞かれている。そうか、これは夢なのだ。じゃなきゃ、こんなおかしなことが起こるはずもない。そう、自分の心に言い聞かせる。残業終わりにあんな化け物に長距離追いかけまわされて、身体的にも精神的にも限界が近く、だんだんと思考力が低下していた。恥ずかしながら恋愛経験は多いとは言えない私の人生。夢の中ぐらい、美人とお近づきになっても、神様もお許しになってくれるはず。
「名前、ですか? 名前は、赤羽椛です。住所は──」
最後に覚えているのは、和服の彼女がニカッと笑って手を振った場面だ。次に目を開けたときには、家のベッドで寝間着に身を包んで寝ていた。やはり夢、だったのか。あの美人と夢の中だけの関係だったのは少し惜しいが、現実であんな化け物に追いかけられたのではないと思うと少し安心した。台所から香ってくるみそ汁と白米の匂いが余計に心を落ち着けてくれる。いや、待ってほしい。私はひとり身であり、ましてや同居しているようなルームメイトもいなかったはず。では、この朝食の匂いはだれが……?
「おお、やっと目覚めたか。あれから死んだように眠っておったから、起こすのも憚られておったからちょうどよかったわ。ほれ、朝餉が冷めてしまう前に食べてしまえ」
キッチンのほうかの扉が開き、そこに立っていたのは夢の中で見た和服美人だった。その白い和服の上に白い割烹着をきている。またしても理解が追い付かない。とりあえず言われるがままにテーブルへ着き、出されたみそ汁をすする。
「あ、おいしい……じゃなくて! なんであなたがいるの!? というか、どうやって私の家に!?」
「なんで、って。いうたじゃろ。おぬしは儂の信者一号じゃ。大事な大事な信者を守るのが、儂ら神の務めじゃからな!」
神。確かに彼女はそういった。ここから、ひょんなことから神様と同棲することになった私の物語が始まった。