順番待ち
独楽犬の艦魂シリーズ第3段です。
かつて世界は二分され、半世紀に渡り戦争寸前の緊張状態が続いた。
対立する二つの陣営の一方を率いる超大国は敵国の強大な海軍力に立ち向かうため、水中を隠密に行動する優れた海の殺し屋、潜水艦の増強を推し進めた。全盛期にはその戦力は300隻以上に達し、相手陣営の洋上航路に対して巨大なプレッシャーを与えたのである。
しかし、巨大な潜水艦隊を創りあげた超大国はある日、一瞬にして消滅した。
20世紀末 ロシア沿海州 パヴロフスキー湾
冷戦時代より外国交易の窓口であった商業港ナホトカから西方に30キロ、各地に散らばるロシア太平洋艦隊の拠点の1つであるフォーキノの南東へ10キロ、アヴレーク湾に浮かぶプチャーチン島の東の対岸に小さな入り江がある。それがパヴロフスキー湾である。
堤防で守れた湾の中には桟橋が幾つも伸びていて、そこに多くの潜水艦が係留されていた。この湾は10数年ほど前であれば、アメリカや日本、西側の船舶を海に引きずり込む魔物の住処として恐れられていたわけであるが、今では沖に浮かぶプチャーチン島に西側から多く訪れている観光客にも見るべき価値のない場所と見られている。無論、アメリカはいまでもここを監視している。ただし、それに力を注いでいるのはアメリカの海軍では無く環境保護団体だ。
この湾に停泊する潜水艦には戦力としてはなんの価値もなかった。よく見れば船体の各所に錆が目立ち、今にも沈んでしまいそうな艦も見える。それもそうだろう。彼女らは海軍から除籍され、もはや軍艦ですらなかったのだ。
パヴロフスキー湾、かつてのソ連太平洋艦隊潜水艦基地は今や潜水艦の墓場となっていた。
今にも崩れそうな古びたコンクリートの防波堤の上に立って彼女は沖を眺めてきた。どうやら新しい“幽霊仲間”が増えるらしい。
「誰だか分かったかしら?」
それまで沖を眺めていた女は後ろから声をかけられたのに驚き、慌てて振り向いた。
「驚かせないでください。310」
声をかけられた女は相手の正体を知ってようやく落ち着いた。その様子を見て310と呼ばれた女は微笑んだ。
「こうしないと訓練にならないでしょ?308」
「いつまでも現役気分はやめてくださいよ」
SS-310はプロジェクト690ケファル型―NATOコードネーム<ブラヴォー>―の1隻で、対潜訓練において“敵艦役”の役目をする専用艦でプロジェクト670スカート型―NATOコードネーム<チャーリーI>―の1隻であるK-308も彼女の“指導”に苦労させられた者の1人だ。
「それで結局、誰…」
310は曳航船に引っ張られてくる新顔の姿を見て顔を顰めた。
「まさか…シチューカ型?」
「えぇ。おそらく242です。まさかシチューカ型の退役まで始まるなんて…」
308は溜息をついた。
シチューカことプロジェクト671RTM型―NATOコードネーム<ヴィクターIII>―はロシア海軍では比較的新しい潜水艦で、671シリーズの中で彼女達だけは21世紀初めまでは現役に留まると予想されていたが、母なる祖国の危機的財政状況はそれすら許さなかったらしく、姉たちと同様に“処刑場送り”の順番待ちリストに名前を記されたのである。310や308のように。そして、その1隻であるB-242がパヴロフスキー湾へと連行されてきたのだ。
「近くを通りかかったチェーカーに聞いたのですが」
308が話を続けた。チェーカーとは、ここではかつてKGBに属していた沿岸警備隊の警備艇を指す。
「水上艦でもソヴレメンヌイ型まで退役艦が出たらしいです」
308の言葉に310も驚きを隠せなかった。
「本当なの?」
ソヴレメンヌイ型といえば駆逐艦としてはロシア海軍の中では最新に分類される艦級で、就役を開始してから20年経っていない筈である。優れた能力を持ち、今後もロシア水上艦隊の主力を担うと期待された駆逐艦であるから、310もまさか早々と退役するとは思っていなかったのだ。
「初期の艦のオーバーホール時期が丁度、ソ連崩壊と重なったのが致命傷だったようで」
「あっけないものね。あれほどの超大国が、こうもあっさり崩れるなんて」
2人は彼女らを生み出した今は亡き国家に思いを馳せていた。
プロジェクト671RTM型の3番艦であるB-242、もしくは<コムソモリスク・ナ・アムーレ市50周年>号は、その艦名にもなっている極東ロシア最大の工業都市で20年ほど前に産声を上げた。コムソモリスク・ナ・アムーレで最初に建造された671型で、市政施行50周年を記念して名前を付与されるのも仕方が無いが、本人はみっともないと感じていた。そして彼女は今、死出の旅への最初の行程を歩んでいた。
船体が堤防の前に達すると曳航船が停まり、湾内から2隻のタグボートが出てきた。先頭のタグボートには程よく太った高級将校が乗り込んでいた。曳航船の船長はそのタグボートの方にタラップを下ろさせ、水面につかないうちに止めた。そして空中に浮かんでいるタラップを船長自ら降りていった。
タグボートもそのタラップに近づき、高級将校が船長の前に立った。
「貴方が指揮官ですか」
船長が尋ねると、相手の高級将校は頷いた。
「パヴロフスキー湾泊地のワシリー・ロシュコフ大佐だ。荷物を受け取ろう」
それを聞いた船長はタラップの手摺に片手で捕まって身体を伸ばして、書類をロシュコフ大佐に差し出した。ロシュコフはそれに受け取りのサインをすると、すぐに返した。
「すぐにここを離れた方がいい。長居はよくないぞ」
ロシュコフの言葉に船長は眉を顰めた。
「あの噂は本当なんですか?ここが放射能で汚染されているというのは?」
ロシュコフは鼻で笑いながら答えた。
「そこまでは酷くないが、ここには予算もろくな技術者もいない。私はここで核爆発があっても驚きはしないね」
それを聞いた船長は返事もせずに船内にそそくさと戻ってしまった。ロシュコフはそんな有様を嘲笑した。
曳航船とB-242を繋ぐ索が外され、B-242の船体はタグボートにより湾内に運ばれた。
艦橋の上に1人の女が立っていた。彼女はヒトでは無かった。彼女は彼女が立っている船そのものであり分身。ある者は彼女をこう呼ぶ。艦魂と。
242は曳航船がこちらを見て、いかにも同情しているという風な表情をしているのを見て鼻で笑っていた。どうせアンタもこうなる運命なんだよ?分かってる?
タグボートに押されて桟橋に着くと、そこでは多くの“先客”たちが待っていた。先頭に立っていたのは308だった。308は671RTM型から早くも脱落者が出たことにまだ驚いているようであった。
「やはりお前だったか。242」
242は笑顔で応じた。
「えぇ。お久しぶりね、308。私もいよいよ“幽霊”の仲間入りってわけ。しかし、本当に揃いも揃って…」
242は周りに集まった戦友たちの顔を見回して、奥から新たに2人近づいてくるのを見とめた。そしてその2人の威圧感に口を閉ざしてしまった。
周りの艦魂たちもそれに気づいて振り向き、一斉に動いて道を空けた。そんな様子を前に242はようやく口を開いた。
「42…貴女はもう解体されたのかと思ってた…」
それを聞くと42と呼ばれた女はニヤリと笑った。
「あぁ。我らが祖国はワシを働かせる金も殺す金も惜しいようでな。今でも飼い殺されておるわ。まぁ皆同じであるがのぅ」
緊張している周りをよそに42はケラケラ笑っていた。
「まったく迷惑な話じゃ。宙ぶらりんというのが一番気にくわん。とっとと決めてほしいのぉ。なぁ134」
42は隣に立つ無表情な艦魂に語りかけた。
「どう思おうとも、どうにかなるものではありませんから」
「まったく相変わらずつまらん女じゃのう。まぁ良い」
それだけ言うと視線を242に戻した。
「歓迎するぞ。と言ってもなにも出せんがな」
42は134とともに、ぱっと後ろを向いて陸地に戻って行った。
プロジェクト627キト型―NATOコードネーム<ノヴェンバー>―12番艦K-42。プロジェクト675型―NATOコードネーム<エコーII>―29番艦K-134。パヴロフスキー湾において最古参である両者は、仲間の中において長老的存在に収まっていた。
「相変わらずなのね」
242がそう漏らすと、308が相槌した。
「あぁ。姐さんはいつまでも変わりはしないさ」
242のパヴロフスキー湾における日々が始まったわけだが、結局のところを暇な日々であった。“幽霊”たちには実行すべき任務も無く、ただ毎日を無為に過ごしていた。しかし、ただ暇なだけではない。それは何時やってくるかもしれない死を待つ日々なのだ。しかも暇なので、なにかに精を出して気を紛らわすことも叶わない。彼女達にかかる精神的な重圧は相当なものである。
その重圧に対してどう立ち振る舞うかは艦それぞれであった。決して逃れられない運命に脅える者は多い。パヴロフスキー湾で誰かがすすり泣く声が聞こえない時はない。しかし、運命に脅えるわけでもなく気丈に振舞う者もいる。242は後者だった。
242は諦観故か死に脅える様子もなく、むしろ脅える者を鼻で笑っている節さえあった。
「貴女、なにを嘲笑っているの」
そんな様子を見かねた者が居た。
「別に。何でもないわ。454」
242を責めたてるのは彼女の姉にあたる船で、454は671型の初期のタイプであるヨールシュ型―NATOコードネーム<ヴィクターI>―に属する艦であった。
「ふざけないで!」
454は242に掴みかかった。胸倉を掴み、恐ろしい形相で242を睨みつける。対する242の方は無表情のままで迫る454に対してなんの感情もないようであった。そうした反応に454はますます怒りを膨らませた。
「どうせ貴女は私のことを臆病者だと思っているのでしょ!だから嘲笑っているのでしょ!」
泣き叫んで思いをぶつける454に対して、黙って聞き手に徹している242。すると騒ぎに気づいた仲間たちが駆けつけて2人を引き離した。454は仲間に支えられながら泣きじゃくっている。242の方は308に腕をつかまれ、その場を離れた。
「すまないな」
308は454から距離をとると、242にそう切り出した。
「彼女は最近、どうも不安定でね。仲間が処刑場に連れて行かれてるところを見てからは特に」
「仲間?」
242が尋ねると308が頷いた。
「K53の時だ。454は彼女を慕っていたからね。取り乱した53を見て、かなりショックを受けていたよ」
K53はK454と同じくヨールシュ型の1隻で、姉にあたる。
「相当、辛かったでしょうね」
「だろうさ。皆、怖がっているんだ」
308は一息ついてから小声で漏らした。
「私もだ…」
その頃、パブロフスキー湾の管理施設には太平洋艦隊司令部から新たな指令がもたらされていた。
「久々だな」
ロシュコフ大佐はテレタイプから吐き出された命令文が印刷された紙を見て呟いた。それから建物内各地に設置されたスピーカーに繋がるマイクのスイッチを押した。
「全員集合だ」
将兵はすぐに集まった。元々人員は多くなかったが、祖国の経済危機もあって充足率は下がる一方だった。
「明日、艦隊から曳航船が潜水艦を引き取りにくる。解体の為だ。明け渡しの準備を始める」
集められた将兵たちはロシュコフの命令を聞いて互いの顔を見合った。これまで艦隊から退役した潜水艦がもちこまれることばかりで、解体のために持っていくことなど滅多に無かった。
「始めるんだ!」
ロシュコフに怒鳴られて将兵たちは慌てて動き出した。
軍の施設から次々と水兵たちが飛び出してくるのを見て、戦船たちは青ざめた。それは彼女たちの何れかが処刑場へと連れて行かれる前兆なのだ。
水兵たちは曳航用の器具を手にして彼女たちが待つ埠頭にやってくる。その魂たちは水兵たちの一挙手一投足を見逃すまいと一言も口にせず黙り込んで彼らの動きを睨みつけていた。
そして水兵たちは1つの艦の甲板の上に集まった。
「まぁ妥当じゃな」
船たちの長老格、42が頭を掻きながらそれを見て平然と呟いた。一見すると犠牲になった船に対して冷淡に見えるが、しかし水兵たちが集まって曳航の準備をしているのはK-42の船体の上であった。
「古くて危なっかしいのを処分する。当然じゃろ」
42の超然とした態度に他の者は呆然としていた。勿論、42と同じように動じないものもいた。242もその1人だ。
「まるで他人事ね」
42の隣に立った242が尋ねた。
「なにぶん元より半分死んでいたような船だからのぉ。このような生殺しの状態がやっと終わると思うと、むしろほっとするわい」
ソ連原潜の黎明期に生まれたK-42は不具合も多く、祖国の崩壊前より実質的には退役状態になっていたという。だから彼女が“生きる”ことに価値を見出していなかったとしても不思議ではない。ただ桟橋に繋がれているだけの人生とはそれだけ惨めなのだ。
「そういうお前はどうなのじゃ?まだまだ現役でいられた船、それが金がないからと殺されるわけじゃろ?」
逆に聞き返された242はすこしびっくりしたような顔をした後、またいつもの達観したような態度に戻った。
「ほっとしたとかそういうわけじゃない。悔しい気持ちもある。だけど、どうしようもないことじゃない。戦船に生まれた以上、道具として生まれた以上、運命に身を委ねるしかない。嘆くことはとっくの昔にやめたわ」
「とうの昔に覚悟は決めていたというわけじゃな。強い女子じゃのぉ」
「あなたほどじゃない」
「別にわしはそんな覚悟なぞしとらんぞ」
2人の会話を後ろで聞いていた308が42のその言葉に反応した。
「どういうことですか?」
「うーん、そうだな。ただの見栄じゃな…」
「見栄って!」
思わぬ答えに308が嬌声をあげた。242も興味を持ったのか42を凝視していた。
「死ぬのは怖い。だがな恐怖に負けるのはもっと嫌じゃ。みっともない姿を仲間には見られたくないからのぉ。そしてみっともない姿を皆に見せずに済んだ。だから、ほっとしているというのは本当じゃ」
「そんなことにどんな意味があるんですか!」
308が声を荒げた。今まで見たことの無い308の姿にまわりのみんなも動揺していた。
「どうせ皆、死ぬ運命だ。それも近いうちに、姿も名前も知らない誰かの手によって…それまでなにもすることができない!自分の力で運命を切り開くことも、なにも!そんな時に見栄を張ってどんな意味があるって言うんですか!」
気を動転させた308の姿を見て42はため息をつき、それから微笑んだ。
「308。お前も詰まらないことを聞くようになったのぉ。意味があるに決まっておるだろう。たとえどんな様であろうと、今この瞬間、わしは生きているんじゃ。だから意味があるに決まっているだろう」
淡々と言葉を口にする42を前に308も他の艦も次第に落ち着きを取り戻していった。
「確かに限られた命、変えようの無い運命が待っている…じゃが、最期の時が来るその瞬間までは間違いなく生きているんじゃ。だから悔いの残るような生き方はしたくないのぉ。そう思わんか?」
人生を諦めていないが故の平然とした態度。確かに諦めたが故に超然としている242とは正反対だ。
「まったく。あなたという人は…」
まだ息が荒い308だったが、口調はいつもの調子に戻っていた。
「本当に凄い人だ」
1日はあっという間に過ぎた。翌日は朝から沖合いに曳航船が姿を現し、綱をK42の船体に繋いでいった。
42は桟橋を海に向かって、最期の場所に向かう自らの船体に向かって進んでいた。その背後には彼女を慕う同胞が集まって、彼女を見送っている。多くの者がすすり泣いていたが、そうでない者も居た。
242は泣き出す様子はないし、134は相変わらずの無反応。そして308は310とともに穏やかな表情で42を見送っていた。
「泣かないのね」
242の問いに308は深く頷いた。
「そういう柄じゃない。それに、あの人の意思を尊重したいんだ。あの人は最期の時まで悔いの無い生き方をしたいと。だから、私は今を悲しい時間にしたくない。私はあの人を笑顔で送り出したいんだ」
「大丈夫」
310が308の手を握って優しい口調で語りかけた。
「あなたの思いはきっと届いている筈」
「そうですね」
308は手を大きく挙げて、42に向けて振った。42の方も背後に並ぶ見送る同胞に手を振った。ずっと背を向けていたので、308に対して返したというわけではないが、それでも308は42に自分の思いが通じた気がした。
曳航船の汽笛が鳴り、かつて強大なソ連海軍の一翼を担った原子力潜水艦K-42は最後の航海に出発した。
東西冷戦の終結とソ連の崩壊により財政危機に陥ったロシア海軍は冷戦期に膨れ上がった艦隊の大幅な縮小を余儀なくされている。ある情報筋によればソ連崩壊以後に200隻近い原子力潜水艦が除籍されたという。
しかしソ連崩壊による経済危機、それに続くアジア通貨危機の波及によりロシア政府は解体費用さえ捻出することができず、多くの艦が桟橋に繋がれたまま放置されることとなった。
この事態を西側諸国も危惧した。原子炉に多くの放射性残留物を残されたままとあって重大な環境汚染をもたらす危険を帯びていると見なされたからである。潜水艦解体に西側も援助を行い、日本も“希望の星”計画に基づき5隻の原潜解体の資金を拠出した。近年のエネルギー輸出によるロシアの経済成長もあって解体は順調に進むようになり、2006年末時点で150隻近い潜水艦の解体が完了した。
そして今でも幾らかの潜水艦は、東西冷戦時代に祖国防衛の最前線に居た彼女たちは、ロシア各地の桟橋で、パヴロフスキー湾のような潜水艦の墓場で、最期の時を待っている。