彼方の希望 2
佐久間は身嗜みを整えると部下を引き連れて駐屯地の広間に出てきた。そこには第14師団の各部隊の兵員が集まっている。佐久間らがその中に入って整列して暫くした後、司令官が現われた。
西部方面軍司令官は48歳にして大将にまで登りつめたのだから優秀な指揮官に違いない。彼は同じ世代の朝鮮人の中で社会的に高い地位に登りつめた人物と同じように師範学校で中等教育を受けた。そして彼は満州軍官学校に進み満州軍の対ゲリラ特殊部隊の将校として大東亜戦争を戦ったのである。現在では対ゲリラ戦法の先駆者として知られている。そんな彼が整列する兵士らの前に置かれた演台の上に立った。
「諸君、今夜はいよいよ日本が世界で初めて月面着陸を成し遂げる。宇宙開発においても黄色人種が決して白人に劣らないということを示す時がやってきたのだ。そして東亜陣営の最前線で戦う諸君らもその栄誉の瞬間の目撃者となる権利を当然に持っている筈である」
整列する兵士たちの顔色が次第に明るくなっていく。
「よってEATOシベリア総軍司令部は各方面軍司令官に対して、今夜午前零時より当直兵以外の全員に24時間の自由時間を与えることを通達してきたのである。
月着陸は午前3時頃を予定している。諸君らも歴史の目撃者となり、己の任務に対する責任への理解を今まで以上に深めてほしい。
では、解散」
司令官が演台を下りると兵士たちが一斉に歓声をあげた。
兵舎に戻った兵士たちの顔は笑顔一色であった。みんながテレビが置かれている食堂に集まった。
「しかし、テレビを見るのも久しぶりだな。最近、暗いニュースばかりだから禄に見てもいなかったよ」
佐久間が覚えているのは、本土での反戦運動とか南米戦線の芳しくない戦況だとかそのような話題ばかりである。聞いた話によれば長期休暇を利用して本国に帰郷したある兵士は、制服を着て電車に乗っていると学生が集まってきて目の前で国軍や政治への批判を始め、さらにその矛先を兵士自身にまで向けてきたという。そういう話を思い出すと、先ほどの司令官の“己の任務に対する責任”という言葉が空しく感じるように思う。いったい我々はなにを守っているのだろうか、と。
「ところであの白人って誰なんだ?」
柊曹長がテレビを指差していった。
テレビ画面の中では“かぐや計画”責任者の日本人学者が明らかに白人らしい人物の写真を手に持って、賛辞と追悼の言葉を述べていた。
「名前は忘れたが、ロシア系のロケット学者だよ。元はソビエトでロケット研究をしていたんだが、大粛清でシベリア送りになってね。それで関東軍に救出されたんだ。日本の宇宙開発の父さ。過労が祟って早死にしちゃったけど」
佐久間が説明した。日独宇宙開発競争は多くの研究者を抱えるドイツが常に先を進んでいたが、そのロシア人学者の登場により日本はドイツに追いつき、そして月面着陸により追い越すことができるようになったのである。しかし日本ではほとんど唯一の専門家であったこともあり多忙な日常が彼の身体を蝕んだ。結局、彼は月着陸を見ることなく2626年―西暦では1966年―に逝去した。しかし“かぐや計画”は彼の後継者によって推進され、今まさに成功しようとしているのだ。
「さすが、大学出の士官だけありますね!」
「ありがとう」
佐久間は帝大出の幹部候補生出身の士官である。しかし柊の言葉に他意は無かっただろうがその言葉は佐久間の心に複雑な感情を残した。彼が学んだ大学は今や反軍運動の急先鋒になっているのだ。
(追加 3/19)
実在の人物が登場する部分をカット