勇者の剣
黒い壁に覆われた聖域。
天井も壁も黒く何かに塗られている。
試すように剣を突き立てて、その硬さに驚きを示した。ただの土壁ではない。
四人の冒険者と一人の奴隷。
さすがにこの場所は何か感じることがあったのか、その足取りが慎重にならざるを得ないのだろう。
松明の灯りでも魔法の灯りでも照らしきれないその黒い神殿のような場所に。
「まさか……魔神の神殿か?」
見当違いなことを。
ただのアリの巣穴だ。
「ま、マルセナ」
一度は飲み込んだ女が弱々しい声で仲間を呼ぶ。
「ど、どこにいるの?」
仲間の居場所を探しているわけではない。
呼ばれた女が手にしている球体。それが探知の魔法なのか。
やはり最初にあの魔法使いを倒していればと、歯軋りする。ゲイルの心中で。
「わかりません……この部屋は何か、変ですわ」
呼ばれた女も戸惑いながら、きょろきょろと周囲を見回していた。
「おい、何か見えないのか?」
強い語気で呼びかけられたのは清廊族の少女だ。
同じように部屋のあちこちを見回すが、黙って首を横に振るばかり。
見えない。何も見えない。
ただとても広い黒い部屋があるだけで。奥の方までは見えないはず。
「あの女はどこだ?」
「それも……わかりません」
大男の質問にも清廊族の少女は否定を返すだけ。
(探知されていたのはアヴィじゃないのか?)
痛恨だった。
そうとわかっていれば、アヴィだけ別の場所に逃がしたのに。
今更遅いが、自分の迂闊さに臍を噛む思いだ。
探知しているのは生き物ではない。印をつけた魔物を追うような魔法が使えるのだろう。
(……考えても仕方ない。とにかくここでこいつらを)
見下ろしながら。
ゲイルの下で、モンスターの姿が見えないと騒いでいる一行を見下ろしながら、その瞬間を待った。
彼らが、天井一杯に広がったゲイルの体の中心に来る時を。
見えていないのではない、見ているのだ。
壁とほぼ同化した姿で広く伸びたゲイルの姿を彼らは目にしている。それと認識できないだけで。
戯れのようにそこらに立つ柱に攻撃を加えてみたりしているが、そこはゲイルとは関係がない。
鋼鉄よりも硬いメラニアントの分泌液で固められた材質の柱に、彼らの武器が傷むだけのこと。
「わ、わたくし……嫌です」
言い出したのは誰だったのか。
ゲイルが一度飲み込んだ女ではない。
奴隷の少女でもない。奴隷にそんなことを言い出す自由がないのかもしれない。
そう言ったのは、一行の中では年の若い魔法使いの少女。
進む彼らから段々と遅れて、最後尾にいた清廊族の奴隷よりも後ろに。
「マルセナ、何を……」
(魔法使いだけ……)
異常な強さの剣士と並んで始末しておきたい対象だが。
離れてしまわれると一網打尽にしにくい。
(……いや、優先順位でなら二番目だ)
真っ先に殺すべきなのは剣士の男。
アヴィの安全を守る為に最善を尽くすのはもちろんだが、欲を出して何の成果も得られなければ意味がない。
まず一つ。
愚鈍な自分がこれまでやってこられたのは、そうした地道な姿勢を忘れなかったからだ。
他に気を取られたりしない。あの剣士の男を殺す。
「マルセナ、ここまで来て」
(ここだ!)
剣士の男が、怖気づいた仲間に声を掛けようと振り向いた瞬間だった。
そのタイミングしかない。ゲイルにとって最高のタイミングでの仕掛けで、それ以上は望むべくもなかった。
天井が落ちる。
と錯覚するような、あるいは部屋が急速に狭まるような感覚に陥ったはず。
黒い部屋が人間を飲み込むように、濁流のような黒い波が彼らを覆った。
「なっ!?」
魔法使い以外を包み込みつつ、剣士の鼻や耳から中に入り込もうと――
「原初の海より来たれ、始まりの劫炎」
怯えていたはずの魔法使いの、異常に澄んだ声。
そして部屋は灼熱の地獄に。
広間のほぼ中心で黒い粘液に飲み込まれた人間と共に、呪文と共に発生した劫火が爆発的に噴き上がった。
怖気づいたはずの魔法使いの少女が、謡うように紡いだ言葉と共に。
「ぐあぁぁぁっ!」
「ぎゃあああぁ!」
悲鳴が轟く。
ゲイルの粘液に飲み込まれたはずの人間どもが悲鳴を上げた。飲み込まれていれば声を発せられないはず。
飲み込まれなかったわけではない。呪文と共に吹き上げた爆熱により、ゲル状の液体はその大半が爆散、焼失した為に、中にいた人間が放り出されている。
(ぐぅぅ、これはダメだ!)
混乱による暴走なのか何なのか、味方諸共に容赦なく焼き尽くそうとする灼熱の魔法。
ゲイルに抗う術がない。
ゲイルの体は、普段は身を引き締めるように生活していたので、その凝縮していた状態を解いてしまうと相当な体積になった。
それを部屋の壁から天井全体に這わせて擬態しつつ、攻撃のタイミングで一気に凝縮したのだ。
移動の速度は速いが、自分の体を中心に集めるのはかなり短い時間で事足りる。
人間の注意が逸れた瞬間に、混乱する状況を作っての攻撃。
今のゲイルに出来る最も有効な作戦で、それは成功したはずだったのに。
「やめっ、マルセナァ!」
「うずくまっていなさい、イリア」
悲鳴を上げる女に、魔法使いがかけたのは助言なのか嘲笑なのか。
「ぐぉぉぉっ、っぶぁ」
大男が呻いた。その肺に熱が入って激しく咳き込み、さらに呼吸を苦しくしている。
「く、やめ……やめろぉ!」
剣士の男が飛んだ。
炎を切り払いながら、剣を掲げて魔法使いの少女の頭上へ。
殺意を孕んだ瞳で、剣を振りかざして。
狂気に酔った瞳の、仲間のはずの少女に。
(清廊族は)
奴隷の少女はまだゲイルのゲルの中にいた。
どうするのが正しいのかわからないが、とりあえず奴隷の首輪を断ち切るように環の一部を消化してしまう。
(助けられるものなら……アヴィ!)
広間の中が蒸し窯のような高温になっている。今も残る炎の渦は広間の中央あたりだけだが。
奥の壁に隠していたアヴィがどうなったのか、無事なのか。
少なくとも最初の爆熱からはある程度の距離があったが、それに伴う炎熱が広間を支配している。
酸素とてあるのかないのか。
(アヴィ!)
熱で気流の乱れる部屋の中にゲイルが感知したのは、洞窟の壁際を走るアヴィの足音だった。
※ ※ ※
剣を手に、壁を走る。
状況はわからないが仲間割れをしているのだ。人間どもが。
母さんが最高のタイミングで仕掛けたのはわかった。完全に飲み込んだ人間どもごと爆炎の魔法が吹き飛ばした。
(母さん)
無事だ。
相当な威力の魔法で、ひどいダメージを負っているかもしれない。
いや、間違いなく大きな打撃を受けたはず。母さんが火に弱いことは知っている。
けれど母さんが負けたことはない。どんな相手にでも。
アヴィがもうダメだと思った時でも、必ず母さんは生きて、生き残ってきた。
いつも決して恰好がいいわけではないけれど、這いずってでも生きてきたのだ。一緒に。
だから今回も大丈夫。母さんはきっと大丈夫。
そんな思いが通じたわけでもないだろうが、アヴィの目の端にちらりと映るものがあった。
(首輪を)
奴隷だった清廊族の少女の首輪が、そろりと外れるのが見えた。粘液の中で。
アヴィが言葉にしなかった想いを酌んで助けてくれたのだ。アヴィと同じような境遇の少女を。
(母さん、良かった)
無事だと確認すると同時に、母さんの優しさも確認する。
そうだとすれば、次にアヴィがするべきことは決まっている。
(あいつらを!)
人間どもを殺す。
母さんに飲み込まれ、そこに爆炎の魔法を受けた連中。それらがどうなったのかまではわからない。
呻き声が聞こえるところから、決して無事ではないのだろう。
今の脅威は、無傷の魔法使いの女と、異常なほどの強さを見せるあの剣士。
仲間割れするのならそれはもちろん歓迎だが、どちらも残すわけにはいかない。
幸い、清廊族の奴隷は解放された。やつらの目を奪った。
部屋は暗く、アヴィの素足の走りは音も静かだ。
焼き殺されそうになった剣士は、耳から血を流しながら逆上して魔法使いに斬りかかっている。
魔法使いは、その剣士に止めを刺そうと次の魔法の準備をしている。
(このタイミングなら!)
前回は殺されかけた。
あの剣士の動きについていけなかった。今でもその戦闘能力に敵うなどと思ってはいない。
だが、このタイミングなら届く。
アヴィよりも圧倒的に強い剣士の命にも届く。きっと。
(この一つだけなら)
全部をやろうとするのではない。
一番危険なものを排除して、次はそれからだ。
黒いマフラーで口元を隠しながら、熱さで焼ける広間の地面を蹴って走った。
※ ※ ※
笑顔。
狂気に酔っている笑顔。
いつものように。
そうだ、思い返してみればいつもこんな笑顔を浮かべていた。この女は。
何も知らない少女のような顔で、何一つ悪意もない素振りで。
純真無垢な笑顔は心の闇から発せられていたものだったのか。
そんなものに触れて、そんなものと肌を重ねていたのかと思えば吐き気がする。
(吐き気が)
頭の中がぐわんぐわんと揺れているのは、先ほどの爆炎魔法の影響だった。
不愉快だが、あのゲル状の魔物に飲み込まれていなければ即死だったかもしれない。
明らかに、シフィークを狙って発動した魔法だ。
彼の近くにいたラザムは相当なダメージを負い、少し距離を置いていたイリアも無事では済まなかった。
幼いが非常に才能に溢れた魔法使いの少女だという触れ込みは偽りではなかったと知る。
思い知る。
(思い知らせてやる)
人を小馬鹿にして笑っている小娘に、思い知らせてやらねばならない。
世間の厳しさを。冒険者の矜持を。
(勇者の力を)
少女の持つ魔術杖が光を放つ。発動準備を終えている。
だから何だというのか。シフィークは勇者だ。
小娘の放つ魔法程度、不意打ちでもなければどうとでもなる。そもそもこの間合いではもう魔法など間に合うものか。
「死ねよ裏切り者がっ!」
「小物のあなたにできますの?」
ふふっと鼻で笑われたことで更に血が上った。
シフィークの剣が振り下ろされた。
マルセナの脳天から、下の地面までを突き抜けて。
「っ!?」
「ハズレ」
幻影。
マルセナの姿をすり抜けたシフィークの剣が、黒い広間の地面に深々と突き刺さった。
「さようなら」
勝ち誇った微笑み。
(そうやって僕を馬鹿にしていたのか……っ!)
終わらない。
「なんっ!?」
魔術杖を突き付けていたマルセナの表情が急変した。
シフィークの持つ剣は、地面に突き刺さった所で終わらなかった。
そのまま洞窟の地盤ごとまとめて切り裂き、大きく地割れを起こす。
「ば、馬鹿力なのっ」
大きく揺れた地面にふらつきながら、さらにバカ呼ばわり。
もはや許しては置けない。いや、もうとっくに許すつもりはなかったのだが。
「マァルセナァ!」
振り抜いた剣を再び掲げた。
真なる勇者シフィークの一振りを、この愚かな女に示す為に。
※ ※ ※
爆炎の魔法を仕掛けた魔法使いと、逆上した剣士が相争うそこに。
(なぜアヴィが!)
考えるまでもない。この機に討とうというのだろう。
その判断自体が間違っているとは言い切れないが、あの二人は危険だ。
ゲイルは他の全てを投げ出して、その場に急ぐ。重い体を引き摺って。
体の半分ほどは先ほどの爆炎で吹き飛んでしまった。
残った体も、いまだ残る炎の熱で煙を上げながら蒸発している。気化している。
どんな体でもいい。アヴィの盾にならなければ。
だが粘液状の体の進む速度は、どんな奇跡を願っても遅いままだった。
地割れが広間を揺らした。
天井や壁と違って、地面は塗り固められていない。
洞窟を破壊しながら進んだ時のように、地面を切り裂いたというのか。とんでもない力だ。
(どんな馬鹿力なんだよ!)
毒づいても仕方がない。
足場が揺れたことで、アヴィも魔法使いの女も態勢を崩しているが、ゲイルには関係ない。
地形に影響されない僅かなアドバンテージ。
ただそれでも、その決着の時に間に合うほどの時間はなかった。
(光って……?)
剣士の剣が光を帯びた。
一度は地面を切り裂き、再び高く掲げられたその剣が、光を放つ。
まるで――
(勇者、みたいな……)
その光景に浮かぶ言葉は、ゲイルの知るところではないが当人の呼称と合致していて。
光を放つ剣を、勇者が振り下ろすのだとしたら。
(ダメだ)
袈裟懸けに、斜めに振り下ろされる剣。
それ自体は届かない。その刃が誰かに届く間合いではない。
その延長上に、魔法使いの女がいる。
そしてその斜め後ろに、アヴィがいた。
(ダメだ、アヴィ! それは……っ!)
それは。
その勇者の一振りは、ゲイルの思う通りだとするならば。
――ッッッ‼
思っていたより狭い広間の隅々まで、轟く。
そこにある全てを薙ぎ払う力を伴い出現した激烈な稲妻が、その空間を破裂させた。
※ ※ ※




