人の魔手
男は嫌いだ。
中でも特にバカな男は嫌い。
そういう男に限って、なぜだか自分に何かしら特別なものがあると信じていたりする。
まるで根拠のないこともあれば、一応は理由がある場合もあった。
高い戦闘能力、成長力。確かにそれはひとつ目を見張るものがあるとしても。
(愚かなことには変わりない。むしろ加速して愚かさを極めていますわね)
成長が早いのは愚かしさの方向にもそうなのかもしれない。
そう思えば滑稽だと言える。
特にこの男の場合は、まだ若輩の頃から特別扱いを受けてきたことで、自分を英雄物語の主人公のように捉えているのがまたおかしい。
どれだけ力があったところで、所詮は一人の人間に過ぎないのに。
――洞窟内で火炎系統の魔法は使わないでくれ。
なるほど、ない頭でよく考えられたものだ。
火炎系統の魔法は、うっかりこちらがあの黒いモンスターを倒してしまうかもしれないのだから。
よほど自分の手であれを始末したいのだろう。気持ちはわかる。
「……」
声を出すと思わず笑ってしまいそうだったので、唇を結んで頷いた。
あれを他人に倒されたら、この男はどんな顔をするだろうか。
その間抜け面を想像するだけでちょっとした快楽だ。
(なぜ、それを知っているのが自分だけだと信じられるのかしら)
本当の愚か者は、自分の愚かさには気づけないものか。
濁塑滔。
その言葉は神話伝承で語り継がれているのだから、マルセナが知っていても不思議はないだろうに。
戦闘を終えて、足の治療を自らしているラザムと、体を丸めて震えているイリア。
シフィークは落ち着かない様子で、だが一人で先行するつもりはさすがにないらしく、モンスターが逃げていった崖の辺りを右へ左へと歩いていた。
「イリア、大丈夫ですか?」
震えているイリアに声を掛けるが、彼女は小刻みに首を振るだけ。
ゲル状生物に飲み込まれかけて、信頼していたはずの勇者様に切り捨てられ、粘液塗れの体で吹雪に晒された。
短時間でこれだけの目に遭えばショック状態になっても仕方があるまい。
とても気分が良い。
(本当に、今日は善い日ね)
この黒涎山に来る少し前のこと。イリアは魔物の粘液に塗れたマルセナに、わざわざそのぬめりを肌に擦り付けて楽しんでいた。
それはほんの少しだけマルセナの異常性癖を喚起する部分があって、ほんの少しだが悪くないと思ってしまったのだが。
(あの時のお礼をしませんと、ね)
こちらが気付いていないと思っていたのか。その悪戯に。
愚かな女だ。シフィークほどではない。まあ可愛げもあるとも言える。
そこそこに険悪で、でも見た目は嫌いではない。そんなイリアの弱った姿を見下ろすことで、感情が高ぶるのは仕方ないのではないか。
いずれ自分の足元に這いつくばらせて許しを請う姿でも見せてもらおうかと思っていたが、とりあえず惨めにうずくまる様子を見られたことは良い。
(ああ、呪枷を刻んで奴隷にしてあげたい)
下に見てきたマルセナに見下される関係にイリアがどう感じるのか、そう考えるとマルセナに昏い喜びの炎がちらついた。
呪枷は、もともとは魔獣を飼い鳴らす為の呪術だった。一応、人間に施すことは禁じられている。
表向きは。
結局は裏ではそうした行為も行われているということになる。
「イリア、しっかりして下さい」
とりあえず今はそんな嗜虐心に酔っている場合ではない。
「愁優の高空より、木漏れよ指窓の窈窕」
気を取り直して、冷えたイリアの体を温めるように体力回復の魔法を唱えた。
ぼんやりとした光を浴びて、次第にはっきりとした目でマルセナを見上げるイリアの様子が悪くない。
まるで天から遣わされた何かを見るかのよう。
(いつもそうしていればもっと可愛げもあるでしょうに)
愚かでもマルセナを崇める気持ちがあるというのなら、少しは救いもあるだろう。
救ってやってもいい。気まぐれにそう思う程度には。
(その顔は、嫌いではありませんの)
「あの影陋族を」
珍しい。
本当に珍しいことというか、マルセナは初めて目にした。
「あの影陋族を、殺さずにもらいたい」
ラザムが何かを要求することなど、マルセナが知る限り今までにない。
目を丸くして固まっているシフィークの様子から見ても、彼もそんなラザムを見たのは初めてなのか。
驚かされる。
要求の内容は、まあマルセナが知る限りラザムの嗜好と合致しているが。
「あの影陋族を?」
「ああ、出来ればで生かして捕えたい」
決して不可能ではないが、意外な要求にどうしたものかとシフィークが戸惑っていた。
「どうして……いや、別にいいけれど」
聞くのも野暮だと思ったのか、自分の言葉を否定してから続ける。
「あれが素直に大人しくするかわからないぞ」
「腕を落とせばいい。両腕を失えば抵抗もしないだろう」
鳥の羽を捥ぐように、あれの手を落としてしまえば解決する。
「足は、あのままで」
感情を感じさせないラザムの声だが、その言葉には熱がある。
粗末な襤褸切れを纏っていた謎の影陋族は、すらりとした脚を見せつけるような姿だった。それを思い出しているのか。
(色々な性癖があるものですわね)
マルセナも自分の性癖が普通ではないことを承知しているので、他人のそれも自分とは違っても理解しないわけではない。
というかむしろ、ラザムの性癖とであれば近しい部分もあるのだ。
(私もいつか、気に入った者を従属させたいものですわ)
冒険者なってすぐの頃に見たことがある。中年の女が連れていた美しい影陋族の少年奴隷。
その光景はマルセナが冒険者として成功をしたいと思う端緒になっている。
影陋族の奴隷は安くはない。
なぜか少年の方が高いという傾向もあり、一介の冒険者風情が簡単に入手できるものでもないが、成功者であれば違う。
二人――三人の少年奴隷を傅かせ、それらと共に暮らす日々。
そんな甘い日々を夢見たころもあるマルセナにとって、ラザムの希望は十分に理解できた。
珍しいとはいえ欲望に素直なラザムの言い分を聞いて、シフィークはとりあえず納得したようだ。
「そうか……わかった、出来たらそうする」
「頼む」
短く無感情に答えたつもりのラザムだったのだろうが、マルセナは見たような気がした。彼の口元が喜びに歪むのを。
(案外と、人間らしいところもあるのですね)
ラザムは一流の冒険者だが、自分の成長の限界を感じてシフィークの仲間になったと聞く。
強さを求めることについては諦め、勇者パーティの一員としての成果を求めるのか。
暗い洞窟で昏い欲に塗れた会話を交わす人間を、影陋族の少女は唇を震わせながらただ黙って見ているのだった。
※ ※ ※
近付いてくる。
水音で少し察知するのが遅れたが、人間が近づいてくる音が聞こえていた。
(なぜだ?)
ゲイルたちは痕跡を隠しながら人間の入りにくい場所に潜んでいる。
だというのに、人間の気配が近づいてくるのはなぜか。
真っ直ぐに――洞窟は直線的ではないので進行ルートとしては真っ直ぐではないのだが、感覚的にはかなり真っ直ぐに。
(あんまり直線的で、反対側に出ているみたいだけど)
ゲイルたちが通ってきた道ではない。別のルートから、ゲイルたちが潜む場所に近付くように足音や話し声が聞こえていた。
つまり、足跡や痕跡を辿っているわけではない。
(なんだ……? 呼吸だとか、生体反応だとか?)
生命を感知する魔法のようなものがあるのだとすれば、痕跡を無視して直線的に向かってくるというのもわかる。
おそらくその場合、感知されているのはアヴィということになるだろうが。
だからと言って見捨てるはずもない。むしろそれなら一層、一緒にいなくてはならない。
(でも、その位置からならここに来るのは無理だな)
ルートが違うせいで、近付いてはいてもゲイルたちの潜む場所に進める道がない。
目的地は見えていても道がわからない、という状況。
(洞窟の中で良かった)
地の利があるということに感謝する。
ゲイルの緊張が伝わっていたのか、アヴィも敵が近いことに気が付いていたようだ。
体を強張らせて剣を握っていた。ゲイルはそっと背中を擦るように動いた。
(怖がらなくていい。大丈――)
――ヅッガアアアァァァッッ!
地響きが響き渡った。
ゲイルたちが潜む崖の平台から見て、対岸側の岩壁から。
崩れた岩や土が、下を流れる水脈に落ちて大きく波を立てた。
その轟音に洞窟全体も震える。
連鎖して崩れ落ち続けていく他の土壁の向こう側に、今まで繋がっていなかったはずの通路がぽっかりと。
「そこにいます。光よ!」
女の声。
そして辺りを照らす眩しい光が、ゲイルとアヴィを闇の中に照らし出す。
誰も来ないはずの洞窟の奥に潜んでいた一匹と一人を。
「あれは僕が――」
彼が言い終わる前に、大男が大きく跳んでゲイルたちに襲い掛かってきていた。
「見つけたぁ!」
(滅茶苦茶しやがる!)
無理やりこじ開けてきた。
道のない場所を文字通り切り開いて、強引に目的地を目指す。
力があるから出来ることだとは言えるが、あまりにも無茶だ。こんな洞窟の中で。
「こいつ!」
ゲイルの体から飛び出して迎撃するアヴィ。
拳を握って打ち付けてくる大男に向けてアヴィが剣を振るった。
生身の拳と刃がぶつかり、金属音のようなものを鳴らしてアヴィが押し返された。
すぐ後ろにはゲイルがいるし、その後ろは地面がない。
今なお崩れ落ちる対岸の土砂のように下を流れる水脈に落ちてしまいそうだ。
広い足場ではないので、他の人間は襲い掛かってこなかった。
「……俺の」
大男の気味が悪いほど充血した目がアヴィの体を舐め回すように凝視する。
薄着なので少女の肌の露出が多い。
(この変態野郎。うちの娘を)
殺意が湧くが、今はそれどころではない。
「ぬぉぉっ!」
「くうっ!?」
小さな体を掴まえようとする大男に向かって斬り払いながらバックステップするアヴィ。
その刃を、大男の拳が再びはじき返した。
(逃げる)
押し返されてゲイルと肉薄していたアヴィを取り込み、後ろにずれ込んだ。
「あっ」
アヴィの小さな声と共に、どぼんと。
落ちる瓦礫と共に水の流れに姿を消すゲル状生物とそれに取り込まれた少女。
人間どもは、とりあえずすぐに追ってくることはなかった。
※ ※ ※
エントランスで。逃げた魔物の追跡に移る前のこと。
ついている、というのはこういうことだ。
イリアの体に付着していた粘液。凍りかけていたゲルが、体温で再び溶けてぬめりを取り戻す。
決して清潔そうには見えないそれを手に取り、マルセナは笑顔を浮かべた。
いつもの、考えの足りない純真な少女の笑みを。
「これで追えますわね」
「あ、ああ……」
答えるシフィークの表情が少し引き攣っている。
おっといけない、ここは少しは忌避感を示すべきだったか。
悍ましい魔物の体液などを手に朗らかな笑顔を浮かべるのは奇妙だったかもしれない。
(つい、ね)
目的に近付く実感を手にして、思わず素の笑顔を浮かべてしまった。
どうせ汚いものに触れるのは慣れているのだ。
愚かでどうしようもない勇者様の欲求に応えている時の嫌悪感と比べたら。魔物の体液程度はどうということもない。
(お前の体液と比べたら何でもないのですよ。こちらの方がまだ愛おしいくらい)
マルセナの掌でぷるりと揺れるその粘液に、いっそ口づけでもしたいくらいだ。
さすがにそんな姿を見せたら、洞窟という環境で気がふれたのかと思われるだろうが。
そっと目を閉じて呪文を唱える。
目を閉じたのは集中の為ではなくて、変な方向に高まる気持ちを静める為だったが。
「分かたれた血肉よ、その連なる枝を示せ」
ねっとりと、マルセナの手から粘液が浮き上がる。
浮き上がったその小さなゲル状の物体を薄く光る球体が包み込んだ。
水晶球の中に小さなゲル系モンスターを封じ込めたようなものを作ると、その球の中でゲルが一定の方向に進もうと泳ぐように、もがくように。
「……あちらの方角ですね」
残った血肉から元の主を探し出す魔法。
迷子を捜すことも出来るし、こうした探索にも使える。あまり一般的な魔法ではないが。
「この量だと持って三日程度だと思います。この洞窟の広さはわかりませんが」
「急ごう」
シフィークはそういうと思っていた。
彼としては、せっかく見つけた神話級モンスターを逃がしたくないという焦りがあるだろうから。
急かされた形になるラザムだが、彼は彼で目的があるのだから別に不満はない。
足の傷は魔法で治癒したようで問題なさそうだった。
「で、でも……」
問題があるのはもう一人の方。
粘液塗れになったものの、それによる肉体的なダメージはない。
斬られそうになったことも防いでいた、
肉体的なダメージというのなら、その後の氷雪を吹き付けられたことだが、それもマルセナが回復した。
(心のケアまではしていませんけれど)
ダメージが大きいのはそちらだが、そんなことをシフィークが思いやるはずもない。
彼にとっては自分の小間使いや道具であり、気が向いた時に欲求を吐き出すだけの相手。
勇者様にとってはそうでも、その相手も一人の人間なのだから、一人の女なのだから、言いたいこともあるだろう。
このまま進むと言われて完全に気後れしているイリアに、シフィークは苛立ちを隠せない。
「あ……」
不満を言いかけたイリアが恐怖の表情を浮かべる。
その顔は、気の進まない作業を押し付けられる時の影陋族の奴隷と同じ。
「だけど、洞窟の道は……」
苦し紛れの咄嗟の言い訳だが、真っ当な意見でもあった。
ルートのわからない洞窟の探索なのだから、セオリーで言えば急いではいけない。慎重に慎重を重ねていかなければ。
だがそれを勇者が認められるか。
「影陋族を使役するような異常なモンスターを放っておけない」
シフィークが意見を曲げないことなど承知の上だったろう。
イリアは俯いて、口を閉ざす。
(さっき見捨てられそうになったことを持ち出さないのは、まさか本当にこれに惚れているのでしょうか)
マルセナには到底信じられないが、やはり人の性癖は様々だ。
まあ責めたところでシフィークが助ける為だったとか何だとか言うだけだろう。事実、それで助かっているのだし。
「一刻も早く追う。道なら――」
すっと姿勢を正して、まるで御伽噺の英雄のように剣を掲げた。
「僕が開く」
そうそう、その調子ですわ。
マルセナは、彼女の思うシナリオを進めてくれる役者に笑顔を湛え頷いて見せた。
※ ※ ※
ずっと流された場合にどうなるのか。
ゲイルは平気でもアヴィはそうではない。冷たい水の中を泳がせるわけにはいかないので、ゲルの中に包み込んでいたが、呼吸は必要だ。
流れに翻弄されながら、途中何度か壁に掴まっては空気を取り込もうとしたが、水面がそのまま洞窟の天井だったりしてうまくいかない。
何とかへばりついて岸に上がって、咳き込むアヴィの背中を擦る。
「うぇぼっ、げふっ、ふ……」
窒息しかけていたアヴィが、涎や鼻汁を噴きながら咳き込むのを介抱して、落ち着いてきたところで顔を拭った。ゲル状の手で。
荒く肩で呼吸をしながら、とりあえず涙目で頷く。大丈夫だと。
(このままだと、また追ってくるな)
地下水脈から這い上がってみたが、この先どうするか。
どの程度の距離を稼げたのか、水流の中だったのでわからないが、どうしたって洞窟内には変わりがない。
アヴィの呼吸を気にしながらだったから、そこまで長い距離ではないだろう。
(この地下水脈は……)
このまま流れても、地底湖のような場所に流れ着くかもしれない。そこが天井まで満水だったとしたら、アヴィの命がない。
危険すぎる。
(ダメだな。とりあえずここは?)
周囲の様子を探る。と、記憶にある場所だった。
「アリの……」
巣穴の入り口に近い。
アリの巣穴は、入り口から登っていくような構造になっていた。
登って、あちこちに部屋があって、奥の方で下がりながら女王が暮らす大広間に、と。
もしかすると水が増水した時に流れ込まないような構造だったのか。
(……近付いてくる)
洞窟を震わせる振動と音。
ずっと昔に、初めてグィタードラゴンの咆哮を聞いた際、洞窟の壁が震えるようだと感じたものだが。
(今度は本当に振動している)
先ほどと同様に、邪魔な壁を切り開いて進んでいるのだろう。
無茶苦茶だ。
洞窟が崩落するなど考えたりしないのだろうか。
そうした心配以上に、こちらを追ってくる理由があるというのか。わからないけれど。
なんにしろ選択の余地はなかった。
※ ※ ※




