魔物と少女
ずっと考えていた。
人ならぬ身の自分と、人に近しい体の少女。
こうして一緒に暮らしているものの、その生態は大きく異なる。
体の構造は、ゲイルが確認する限り人間の女性と同じ――だと思う。たぶん。
そういえばこの世界に来てから他に接触した人間は全て男だった。
接触したというか、摂取したというか。
まあどちらにしろ、それらの体の構造はゲイルの記憶にある人間の男とおよそ同じだと思える。
それと対比すれば、アヴィの体が人間の女性と変わりはないと言ってもいいだろう。
(その辺は知識がなさすぎる)
もう微かにしか残っていない日ノ本で人間として暮らしていた頃の記憶にも、あまり女性の体の仕組みに関する知識が多くはなかった。
当時は日ノ本の底辺を這いずるような毎日だったように思う。今も這いずる生活は変わらないが、苦には感じていない。
何にしろアヴィのことだ。
ゲイルは別にいい。この体は洞窟などで生活するのに何の不自由もなく、むしろそれに適した生態なのだから。
アヴィは違う。
日ノ本であれば、もっとオシャレな服を着て楽しいことを探して暮らしているような年頃だ。
「母さん!」
暗がりから駆け寄ってくる少女。
足音の他に何かを引き摺るような音を伴って。
「ロックモールが獲れたよ。今日はご馳走だね」
これでいいのだろうか、と。
ずっと考えていた。
とはいえ、ここ黒涎山の風穴と言われる洞窟に服飾を手に入れられる場所はない。
不憫だ。
自分の娘が襤褸切れを纏って裸足で洞窟を走り回り、モンスターの肉を炙って食べている姿を見ているだけの情けない親の心境は、居たたまれない。
(親じゃないけど)
世が世なら、きっと誰からも愛されるような娘。
柔らかくて美味しい、などと笑顔で肉を噛み千切っているアヴィに、罪悪感なのか無力感というのか。とにかく自分を情けなく感じる。
「……どうしたの? 元気ないみたい」
どうしてなのか、アヴィはゲイルの心境を察することがある。
言葉を発しないゲル状の黒い粘体の気持ちなど、どうやって察しているのか。
(優しい子だからな)
何でもないよという気持ちを込めて、アヴィの背中をそっと撫でる。
アヴィが獲ってきてくれたロックモールの肉は、確かに柔らかい部位が多い。
食べやすい部位の肉はアヴィの食料として、それ以外の部位はゲイルの食事として。
「……こっち、食べる?」
アヴィが自分の食べていた方を差し出してきた。
固い肉ばかりでゲイルが嫌になっているのかと心配したのか。
少しおかしくて、でもそんな心配をさせてしまったことが申し訳なくて、ぶるぶると震えて否定の意思を示した。
本当に優しい子だ。
そんなアヴィを見てきて、ずっと考えていたのだ。
(……野菜、食べさせた方がいいかな?)
人間と同じような体なら、食生活の偏りは健康を害するのではないかと。
※ ※ ※
「うぇぇ、これ…?」
恨めしそうな声で呻くアヴィ。
まあ仕方がない。洞窟内に植物は非常に少ない。
所々にある隙間から日が差す辺りには草がある。見るからに雑草だが。
(確か、人間って大抵の植物は食べられるんだよな。毒性がなければ)
先にゲイルが食べてみて確認してみたが、体に悪そうな感じはしなかった。
ただ、ゲル状の体では実験体としての信頼性が極めて低いので、捕まえた鼠などにも食わせてみて様子を確認している。
とりあえず、この草が原因で死ぬようなことはなかった。
鼠が実験体として適しているかどうか、ゲル状生物よりはマシだと思う。
他にも、その辺に生えていたコケだとかも試して、なるべく刺激が少なそうな植物を厳選してみたのだが。
アヴィがゲイルを見る赤い瞳がどのような表情を訴えているのか。ゲイルは視覚がないからわからないが、まあ大体は想像がつく。
好き嫌いの改善を要求された子供のような目をしているのだと。
(その通りなんだが)
アヴィと出会ってから数年間が経つはずだ。もしかしたらもっと長いかもしれない。今までは何も言わなかったのに、急に野菜を食べなさいなどと言い出されるとは思わなかったのだろう。
時と共に彼女が成長したように、ゲイルにも親としての自覚のようなものが芽生えてきたのだということにしようか。
(……仕方ないんだ。これもアヴィの為なんだから)
心を鬼にする。今日のゲルは鬼モードだ。
不満そうなアヴィがゲイルの中にいる。逃がさないようにゲイルの粘液の中で、口元に適当に刻んだ草を突き付けられていた。
「……私、お肉の方が好き」
ゲルの方がもーっと好き、と言われたら許してしまったかもしれないが、今宵のゲルは一味違う。
微動だにしない。
食べなさい。食べるまでおやつは抜きです。という構えだ。
「うぅ……わかったけど、うー」
わかってくれて嬉しいよ、アヴィ。
目を瞑って口を開けるアヴィ。
ピンクの舌の上に、緑色のごちゃごちゃを運んだ。
「う……んっ!?」
顔を歪めて嚥下するアヴィは、一度も噛まなかった。
よく噛んで食べなさいと言うべきかもしれないが、言葉は発せられないし、そこまで強制したら嫌われてしまうかもしれない。
アヴィに嫌われたら、このゲル状生物は生きていけないだろう。
なるべく味わうことな飲み下したアヴィだったが、うぇぇと舌を出した。
「にが、……後からえぐいのがくるよぅ」
仕方なかったとはいえ、やはり生食はよくなかったかもしれない。
純水でよく洗ってはおいたのだが、もっと工夫が必要なようだった。
ゲイルは自分の体温を調整できる。
とはいえあまり下げすぎると凍結するし、上げすぎたら蒸発する。そこまでは自分で調整することも出来ないが。
とりあえずゲルの沸点は摂氏百度よりも高いらしいが、体感的には70度くらいまでしか加熱できないようだ。
70度と言うと、人間が飲むにはぬるいが触れるには熱すぎる。
ゲイルは体の一部をそこまで温度を上げて、体内で生成した水をその温度にまで熱した。
その中に、アヴィの為に用意した植物類を入れる。
煮る。
手法は単純だが、調理をしようと思った。
それはそうだ。いくらなんでもその辺の雑草やらを生で食べさせるなど親のすることではない。
食べやすいように調理をして与えるのが普通だろう。母親として間違っていた。
(いや、だから母親じゃねえけど)
とにかく反省したのだ。食べる行為に関する基準がゲル状生物準拠になっていたことを。
高温ではなくても低温調理という言葉があったと思う。ゲイルは残念ながら料理の知識はなかったが、とにかく煮ることで柔らかくなったりえぐみが薄くなったりするだろう。
火を通すことで安全性も増す――んじゃないかな、と。
(もっと色々と知っていたらなぁ)
無能な我が身を呪うが、出来ることをコツコツやるだけ。
煮ていると、何か泡のような汁が浮いてくるので、きっとこれは避けた方がいいだろうと捨てていく。
「そんなに頑張らなくてもいいよ」
アヴィはそう言ってくれるが、ゲイルにとってアヴィの健康は何よりも大切なことだ。ここで頑張らないでどうする。
「……いいんだよ」
いいんだよ。
二つの心は重なっているんだか、いないんだか。
さあ召し上がれ、と。
ホウレンソウなどはその成分の中に結石になりやすいものがあるのだとか。茹でることでその成分を水に逃がして捨ててしまうと聞いたことがあった。
最初からこうするべきだった。
ほわほわと湯気を立てる雑草とコケを前に、アヴィが視線を泳がせる。
ゲイルを見たり、視線を逸らしたり、用意された草食系の食品(?)を注意深く観察したり。
「う……ん」
それでもゲイルが用意した物を食べないという選択肢はなかった。
恐る恐る手にして――箸やスプーンなどないのだから仕方ないが――手掴みで口に運ぶ。
「……」
無言で、今度は咀嚼するアヴィと、その様子を固唾を飲んで見守るゲイル。
ただちに吐き出すようなことはしなかったが、どうなのだろうか。
飲み込んだ。
「……」
反応を待つゲイルに対して、アヴィはしばらく言葉を発さない。
ただじっと、ゲイルを見上げて、見つめて。
だいぶ経ってから。
「うん……美味しいよ。ありがとう、母さん」
(!)
「わきゃっ!」
抱きしめた。
というか、ゲルの体で飲み込んだ。
まだ火を通した草はあったが、そんなものは放り出す。
そんなもの、どうでもいいのだ。
(なんて優しい子だ)
そう思うと同時に。
(なんて俺はバカなんだ)
激しく自分の愚かさを呪う。
その辺にあった雑草を水で煮ただけで何が料理だ。何が愛情だ。
目尻から涙を零しながら震えて、それでもゲル状生物の心情を思いやって優しい言葉を返してくれた娘を、思い切り抱きしめた。
(美味しいわけ、ないじゃないか)
「……本当に、嬉しかったのは、本当だよ」
抱きしめるアヴィが泣いている。先ほどよりも大粒の涙で。
我慢していたのだろう。
このゲルの体では涙も出ないが、もし流せるのならどれほどの涙が溢れたか。
「ありがとう、母さん」
ごめんな、アヴィ。
ありがとう、アヴィ。
※ ※ ※
ゲイルはアリの巣穴に来ていた。
もちろんアヴィも一緒だ。別行動などしない。
アリの巣穴の奥は、壁の質感が違った。気になっていたのだ。
(……やっぱり、岩じゃない)
壁に触れて確認する。無機質な感じの表面だが、有機物だ。
メラニアントが生成した化合物で塗り固められている。
(蟻塚だとか、ハチの巣だとか、昆虫の唾液と化学物質を混ぜて固めて作っているんだよな)
取り込めるのではないかと思っていた。
おそらくこれは、固まっていなければ粘液状の物質なのではないかと。
触れていると、だんだんとその表面に侵食していくことが出来た。
「母さん、何するの?」
食事の改善には失敗したが、他にアヴィの為に何か出来ることがあるはずだと。
それで思いついたのがここだ。
壁から溶けてくる物質を、ゲイルの体内で収束しつつ細くしながら絞り出す。
「糸?」
ゆっくりだが、壁に塗り込まれていたメラニアントの粘液を、細い糸として紡ぎ出す。
紡ぐというのは、綿のような繊維を縒り合わせながら糸にしていく行為のはずなので、今のゲイルが行っていることとは違うだろうが。まあ結果は同じだ。
慣れてくると、糸状になるそれを数百に分けながら、それを織り合わせるように重ねながら絞り出すことができた。
たくさんの糸が規則正しく絡みながらゲイルの前に、やはり少しずつだが伸びていく。
「布……作ってるの?」
アヴィは保存していた肉を食べながらその様子を見ていた。
結構長い時間がかかったので、途中は寝てしまっていたが。
ゲル状自動機織り機、というところだろうか。
それなりの長さの布が出来て、とりあえず満足する。
服を作るには幅が不足しているので、小さな布地までしかできなかった。今後の改善を期待しよう。
「わあ、すごい!」
目を覚ましたアヴィが、完成した布を見て喜びの声を上げた。
ゲイルもかつてデパートの反物屋でこうした布が売られているのを見たことがあったはずだが、その時は何も思わなかった。
布を作るというのは簡単ではない。
およそ1.5メートルほど、幅は20センチほどの布を作るのにかなりの時間がかかってしまった。
「真っ黒ですごくきれい!」
そうか、黒いのか。
メラニアントの生成物から作ったので、そういうものかもしれない。
苦労した甲斐があった。アヴィの様子に労力が報われたと思うのと同時に、料理の失敗を取り戻したという喜びも湧く。
「これ、どうするの?」
アヴィが、生成した黒い布を手にして訊ねた。
ゲイルは少し考えて、アヴィの体を指さす。指というか、少し尖らせた粘液で指し示す。
アヴィの、下腹を。
「え、っとぉ……」
自分の臍の下あたりに目をやって、やや恥ずかし気に首を傾げた。
「……パンツ、作るの?」
肯定するように体を軽く膨らませて、その布を裁断するようにナイフを手渡すのだった。
できなかった。
ナイフの刃が立たない。
それどころか、アヴィが普段使っている剣でも、この布に傷をつけることが出来ない。
理由は単純だ。
メラニアントは、巣穴を固める為にこの生成物を作る。そしてそれを塗り固める時に使うのは彼らの手である。
洞窟の壁を簡単に削り、ドラゴンの表皮にさえ傷を刻めるヤスリのような手で。
その手で塗られる壁の硬度は、その手よりも上だった。鋼鉄よりも硬い。
本来なら加工などできないものを、ゲイルが妙な手法で糸状に紡ぎ、それを織り重ねて作った布だ。切れるはずがなかった。
(……)
「だ、大丈夫だよ。母さん。今までもなかったんだから」
娘の優しさがつらい。
せっかくいい考えだと思ったのに、やはりゲイルの浅知恵はその程度までかと。
食事がダメならせめて娘の衣服くらいはと思ったのだが、それすらも適わなかった。
(もっとちゃんと、色んなことを学んでいたら)
後悔しても何も出来ない。
しょげるゲルをどうしようかと、アヴィがふと思いついたように言った。
「皮をなめして、服に出来るかな?」
愚かなゲイルが考えるよりもよほど現実的な発想だった。
モンスターの皮を、表面をきれいになめして、ほぐして、ほぐして、なめして。
いい加減かなり柔らかくなったそれを適当な大きさに切り、横を糸で結び留める。
糸はメラニアント由来の糸だ。ここで少しは役に立ったことにやや満足。
とりあえずそれをパンツとしてアヴィに穿かせた。
文化的な生活の一歩を刻んだと言える。
(言えるか?)
少なくとも前進だ。そう思わないとやっていられない。
「……」
アヴィはそれを身に着けたままゲイルの中で眠る。
眠るのだが。
(……わかっちゃうんだよな、これ)
アヴィの体がゲイルの粘液と接している以上、わかってしまうのだ。
無理をしているのが。
「え、あっ! 母さんっ!?」
脱がせる。
せっかく作った衣服を脱がせる。
腿の辺りや足の付け根、腰回りにも、赤い発疹のような跡が出来ていた。
「あ、う……」
これも深く考えるまでもない。敏感な肌に、他の生物由来の物を密着させていたら、何らかの拒絶反応が出ることもあるだろう。
特に繊細な肌の部位であれば。
かぶれている。
痒かったり痛かったりしたのではないか。
それを悟らせないようにしていたことに腹が立った。アヴィにではなく、自分自身に。
(そういう気遣いをさせるのは親子じゃない)
その通り、親子ではないのだけれど。
でも、少しだけ悔しかった。
「……ごめんなさい」
違う。謝らせたいわけではない。
何も出来ない自分と、それを気遣うアヴィと。
そこに距離があると感じて、それを埋められない自分に腹が立つだけだ。
「違うの、ちょっと我慢すれば平気だから」
どうしようもなく違う。
それはそうだ。ゲイルの身は、人に疎まれ嫌われる魔物。泥を這いずり腐肉を食らうモンスターなのだから。
(……違うんだよ)
その事実がどうしようもなく寂しくて、やるせなくて。
(救えないな、俺は)
不安げな声でゲイルに呼びかけるアヴィに、心から自分を嫌悪するのだった。
※ ※ ※




