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新大陸の若き勇者



 熱風に晒されたものの、その温度はそこまで高温ではなかった。

 衝撃での傷や所々の火傷を癒しながらアヴィに休息させる。


 カイザーアントはもう動かない。無我夢中のゲイルの攻撃で息絶えていた。

 戦いに敗れた王の亡骸を食らう。


 小さくなってしまったゲイルの体だが、カイザーアントの死骸を消化、吸収するとある程度まで回復する。どうやらこのゲルの体は、過去に成長したところまでは増加しやすくなっているらしい。伸びたパンツのゴムとでもいうのか。



 食事しつつアヴィの体の傷を隅々まで治そうとするゲイルに、もどかしそうに身を捩って逃げる。

 へその辺りの擦過傷を癒していたので、くすぐったかったのだろう。



「もう大丈夫だってば」


 そうは言われても心配なのだ。


 ゲル状の体と違ってアヴィの体は傷つくし、部位によっては重要な場所もある。

 せめて見える部分の傷だけは万全にしておきたいと思う親心だと。


(……もうすっかり親だな)


「心配しすぎだよ、母さん」


 心中で嘆息するゲイルと、呆れながらも嬉しそうに笑うアヴィ。


 カイザーアントの残骸を処理しているうちに、今ほどの死闘を忘れていつも通りの様子で笑う。



 死にそうだった。ゲイルもアヴィも。


 未知の敵との戦闘で死にかけた。どの手が良くて、どの手が悪かったのか。全て悪手だったと。そもそも安易に踏み込むべきではなかった。


 生きているのは運が良かったのと、強引な力技で生き延びただけ。


(力技、か)


 そうするだけの力は、身についていたということになる。


 やはりゲイルは弱くはない。アヴィにしても、この洞窟内では弱い存在ではない。

 今のカイザーアントのような敵が複数いたら、その時は逃げの一手だが。



 女王アリの居室内に、もうカイザーアントの気配はなかった。

 岩陰から出てきたメラニアントを処理するのは容易い。時折、地面をのたうつような幼虫もいたが、これも問題にならない。


 敵を片付けながら奥に向かう。




「これが……」


 巨大な腹を抱えたクイーンアント。

 むしろ腹からちょっとだけ胸部と頭が出ているというそんな風にも見える。



 メラニアントは黒い体をしている。カイザーアントは赤かった。それに対してクイーンアントは緑色の塊だとアヴィが言った。


 産む卵も緑色の楕円形をしていて、ぬめりと共に排出されていく。

 本来なら排出された卵をしかるべき場所に運ぶ働きアリがいるのだろうが、既にゲイルたちが片付けてしまっていた。


 ただ地面に転がる卵と、歯を鳴らしながらゲイルたちを見据えるクイーンアント。



「……」


 言葉はない。

 ゲイルよりも高い場所から、ゲイルとアヴィを見下ろして、何の感情も示さずに蠢いている。

 何も出来ないようだ。巨体すぎて身動きが取れない。


 そんな女王アリの姿を見て、ゲイルは思う。


(このまま生かして、産まれてくる子供を殺し続けたら)


 力を増すことと、食料の確保が楽に両立できるのではないか。


 そんな考えが浮かんでしまったゲイルを、アヴィがどうしようかと見上げていた。


 赤い瞳が訊ねてくる。

 その姿はゲイルには視認できないが、そういう仕種をしているのはわかった。



(……違うな、そういうのは)


 子を産ませて殺し続けるなんて、いくら外道に落ちた身でも一線を越えている。

 生き物としてすべきことではない。


(……)


 違う、そういう御託ではなくなくて。

 ただ単に、アヴィにそんな姿を見せたくないだけだ。


 ゲイルだけだったらそれを選んでいたかもしれない。いや、大して迷いもせずにそれが効率的だと実行していただろう。

 底辺を這いずり泥を啜って生きるモンスターだ。下衆な行いだと誰が謗るとしても気にする体面などない。


 そんなゲイルを見るアヴィの目は、どんな色を浮かべるのだろうか。

 濁って、くすんで、冷たいものになってしまうのではないか。


 アヴィの目がなければそうしていただろう。心の芯まで外道な魔物に堕ちていた。

 だからこれでいい。



 アヴィの手に魔法の武器を持たせる。


「……うん、わかった」


 賢い子だ。やるべきことを理解して、武器を構えた。


 冷たい息吹が女王アリを包む。

 カイザーアントと違って抵抗する術がない。巨大な体をゆっくりと凍らせながら、その命の火を消していった。



(アヴィがいてくれてよかった)


 死にゆく女王アリを見届けて、ゲイルはそっと頭を下げた。下げる頭はなかったから体を小さくした。

 アリたちの母の最期を見送る、アヴィの母の心境で。


(母親じゃないけどな)



  ※   ※   ※ 



「壊滅したって、不滅の戦神が?」


 イリアが知る限り、彼がそんな声を出すのは滅多にないことだった。


 驚き、戸惑い。およそ信じられないというようなやや甲高い声で聞き返してから、自分の口元に手を当てた。

 自分の声の大きさに自分で驚いたようだ。


 訪れた酒場でそんな話を聞いて、つい動揺して声を上げてしまった。


「ああ、結構前の話だぜ」


 彼にその情報を伝えた相手はそう言って、ぐびりと酒を飲み干した。



 ――最近、不滅の戦神はどうしている?


 その質問に答えた形だったが、返ってきた答えは珍しく彼――シフィークの心を大きく揺らしたらしい。


「まあ、誰もあいつらのことなんざ同情してねえ。喜んだ奴の方が多いってのは間違いねえな」


「あ、ああ……そうだろうな。ありがとう」


 構わんぜ、と言いながら杯を掲げて去っていく男。その一杯はシフィークの奢りだったので、情報料とすれば十分すぎたのだろう。



 男が去ってからも、シフィークは少し信じられないという顔で息を吐いた。


「知ってるの、シフィーク?」


 彼の様子に意外そうに訊ねた目の前の女性――イリアに対して、一瞬だけ視線を外してから微笑を浮かべて頷く。


「有名じゃないか、不滅の戦神なんて」


「それはそうだけど」


 シフィークの返事に不自然な気配を感じたのか、彼の隣に座る別の女に視線を向けた。



「知り合いみたいな驚き方だったから。ねえ、マルセナ」


「シフィークが大きな声だすのは珍しいですもの。わたくしもびっくりしました」


 マルセナはシフィークに体を寄せて首を傾げる。


 マルセナは若い。シフィークから見れば10歳近く年下のはずで成熟した女性ではないが、どこかその仕種には艶を感じさせた。

 男女の関係のある間柄。


 シフィークが、冒険者としての力量とは別にマルセナを連れている理由は明白だ。

 彼ほどの冒険者であれば、いくら才気に溢れるとはいえ駆け出しの少女を同行させる必要はないはず。副次的な意義がある。



「わたくしより長くシフィークと付き合っているイリアでも見たことないんですね」


「そうね、戦っている時以外では、シフィークの驚く声なんて滅多に聞かないから」


 ベッドの上でもね、とは言わない。

 年少のマルセナが、先輩であるイリアにシフィークの寵愛を受けていることを誇示しようとする態度は理解している。


 まだ幼い。彼がマルセナにどんな甘い言葉を囁いているのか、大体想像は出来た。自分も聞いてきたのだから。


 イリアとしては決して面白いわけではないが、シフィークが望むのなら今はそれでいい。

 そうして夢を見て、そして去っていった女たちをイリアは知っている。見てきた。シフィークの傍で。



(捨てられた、の方が正しいわね)


 何も知らないマルセナの瞳が、憧れと熱情を伴ってシフィークを見つめる姿を見て、暗い優越感に浸る。


 彼女が残るのか、捨てられるのか。マルセナについてはおそらく後者になると思っているが、自分は違う。

 身勝手な行いを許されるシフィークと共に冒険を続けてきて、今も同行している女は自分だけだと。



「知り合いってわけじゃない」


 二人の女の想いを察しているのかどうか、シフィークは気を取り直すように杯を傾けた。


「昔、まだマルセナより若い頃に見たことがあるだけだよ」


「こっちにいたんだっけ?」


 イリアの質問に頷いたシフィークの苦笑いを見て、あまり話したくないのかと察する。

 シフィークとの付き合いも七年になるし、それなりの親密さもあった。


「南部にいたんですか?」


 知り合ってから一年足らずのマルセナにはわからない。


 そういう機微がわからない少女に苛立ちを覚えると共に、反対にやはり彼のことがわかっていないのだと見下す気持ちもある。


 新大陸の冒険者の中でも頂点に数えられるシフィークのことを、自分の方が理解していると思えば悪くない気分だ。



「人の過去を聞きたがるものではない」


 ぼそりと、イリアの横から声が発せられた。

 先ほどまで黙って水を飲んでいた男だ。黒一色の貫頭衣を身に着けた大男。


 静かにしていると存在していることをつい忘れる。


「いいんだ、ラザム」


 不安げにシフィークと男を見比べたマルセナを庇うようにシフィークが少し明るい声で応じた。


 気に食わない。

 小娘の気持ちを慮ってフォローするなど。イリアに対してならそんなことをしないのではないか。



 やや乱暴に卓にあった杯を手にして、一息に煽る。


「同じのもう一杯ちょうだい!」


「飲みすぎじゃないですか、イリア」


 誰のせいだと思っているのか、マルセナの責めるような言葉に、再度シフィークから構わないという声がかかった。

 彼はわかっている。彼は、イリアの気持ちがわかっている。


 新大陸最高位の冒険者ともなれば女が寄ってくるのは仕方がない。イリアはそれを咎めるつもりはないし、口出しする権利もない。

 シフィークの行動は許される。それだけの力があり、名声を得ているのだから。


 いずれ一線を退く頃には、どこかの町の領主側近などという形で迎えられるのではないか。



 ただの荒くれものの冒険者と違ってシフィークは理性的だ。女性関係はだらしないが、それも若く才能あふれる男とすれば不思議な話ではない。


 イリアはそれを理解して、許容して、彼にとって都合の良い仲間として付き合ってきた。




「南部にいたのは本当にマルセナくらいの頃だけさ。僕はまだ新米の冒険者で、不滅の戦神はその頃にはもう結構有名なパーティだったから」


 一度見たことがあるだけだよ、と。

 先ほども言ったことを繰り返したのは意味があるのか。



 シフィークの言う通りだとすれば十年以上前ということになる。今では勇者の序列にある彼が新米だった頃など想像も出来ないが、新米の頃には誰にでも苦い経験の一つや二つはあるものだ。


 彼が聞かれたくないことを聞くほどイリアはバカではない。


「それにしたって、不滅の戦神ってあれでしょ。評判は最悪だけど腕は一流の三人組っていうんだから」


 過去の話ではなく今の話に誘導した。

 今でもないだろうが、少なくともシフィークの過去とは関係がない。



「黒涎山でブラックウーズなんかにって、有り得るのかしらね」


「……わからないな」


 シフィークは頭を振った。彼の記憶の中の不滅の戦神も、そう簡単に死ぬようなイメージではないらしい。


 ブラックウーズというのは暗がりに出没する魔物で、洞窟などにいけば当たり前にいる。


 黒涎山はこの町から数日の場所にあるモンスターの巣窟で、およそ六十年ほど前にそこに入ったパーティが壊滅しつつ持ち帰った情報により多少の賑わいを見せた魔境だ。



 曰く、メラニアントの大群がいる。

 曰く、巨大なブラックウーズがいる。

 曰く、洞窟の奥にはグィタードラゴンが住んでいる。


 それらの情報と共に、生き残った冒険者が持ち帰ったもの。


 神洙草(しんじゅそう)


 千年以上、月明かりだけを溜め続けた泉に生育すると言われる神の植物。その末端だった。



 伝説にしか伝えられないそれだったが、男が持ち帰った神洙草の噂を聞いた豪商が、娘の病気が治せるのならとそれを買い上げて与えたことで本物だと知られた。


 万病に効く薬になるということで、それを採取に行く冒険者もいた。


 ただこういう場合には得てしてよからぬことを思いつく者もいて、神洙草と偽ってただの野草を煎じたものを高値で売るなどの詐欺も横行。


 結局、本当に必要な者が、信用できる冒険者などを雇って採取に行かせるという程度に落ち着く。

 洞窟内部については、労力に見合わないという理由でほとんど手つかずの状態だった。




「ブラックウーズですか。イヤですわね」


 マルセナが、その姿を想像したのか小さく肩を震わせた。


 半年ほど前に、ブラックウーズの群れに溶かされかけていた人間の死体を見たことがあった。思い出したのだろう。

 マルセナの魔法で、死体もろともに吹き飛ばしてしまったのだが。


「また吹っ飛ばすのはナシよ。あんたにへばりついた粘液を取るの大変だったんだから」


「も、もうやりませんわ!」


 失敗を思い出して顔を赤くしながら言い返すマルセナ。



 まだ発展途上の、だが滑らかな肌触りの胸の間に滑り込んだ粘液を拭き取るのが、どれだけ面倒で不快だったか。

 暴れるマルセナに、意地悪で粘液を塗りたくってみたりもしたが、その程度の憂さ晴らしは許してもらう。



「いるのか?」


 不意に、黙っていたラザムが疑念の声を上げる。

 彼の言葉は短く、要領を得ない。


「いるかって……ブラックウーズ? そりゃあ洞窟ならいるでしょ」


「とっても迷惑ですけど」


「巨大な……人間の倍のブラックウーズがいるのか?」



 ああ、とラザムの疑問を理解する。

 噂に言われるような巨大なブラックウーズが存在するのかと言われたら、それは眉唾だった。


「見たことないわね。っていうか、あれそんなに大きくなれるの?」


「いつも潰れているので大きさってよくわかりませんけど」


 考えてみて、あまり思いつかない。


 見たことがあるのは、人間の膝よりも低い位置で蠢く粘体。ナメクジのように這いずりながら、腐肉などを溶かして啜っている。

 複数のものが重なっていることもあるが、それでも下半身より大きいものは見たことがない。


 横幅を含めて、人間との体積を比べることは難しいのだが、人間の倍の大きさと表現される形は想像しにくかった。



「僕も昔、その噂を聞いたけど。やっぱり有り得ないかな」


 シフィークが言えば全員が頷く。彼がこのパーティの中心だ。


「ブラックウーズは一定の大きさになると自分の体を支えきれなくなる。そうすると二つに分裂するって話だから。黒涎山の伝説は、たくさんのブラックウーズの群れを見たんじゃないかって話だよ」


 腐肉を食らい、体を増やして分裂する。おぞましい生き物だ。

 見つけ次第駆除したい魔物。物理的に始末するには、中心核ごと吹っ飛ばす必要がある。


 そうすると魔石が取れなくて無駄な労力になるので、普通なら外側から焼いて炙って殺すのだが。そうすれば焦げた体の内側から魔石が取れるので。




「炎の魔法、またバカみたいに強烈なの使わないでよ」


「わかっていますわ! イリアに言われなくっても」


 それならいいのだが、差し迫ると何でも全力を出そうとするマルセナの行動には何度も困らされてきている。

 何度でも言ってやらないといけない。脳への栄養が性欲に向かっているような女なのだから。


 女同士の言い合いに苦笑しながら、シフィークは空っぽになった杯の底を見つめて呟いた。


「それとも、違う何かなのか」


 ラザムはそれを聞いていたのか、やはりシフィークと同じく自分の杯の底に溜まった濁りを見ながら、何も言わなかった。



  ※   ※   ※ 



 シフィークは勇者だ。世間ではそう言われる。

 新大陸の未開地を切り開き、人々にさらなる発展をもたらす勇者だと。


 人間がこの新大陸に入植してから百五十年になる。

 西南の一角から始まったそれは、瞬く間に西部を、南部を、人々の生活圏にした。


 新大陸にいた影陋族などの原住民を従えながら、活動範囲を広げていく。その中で魔境や原住民の集落などの問題はいくらでもある。


 それらを解決するための冒険者だ。時には大規模な作戦で協力することもあるが、基本的には大体がチーム単位でまとまって行動している。


 単純に分け前が減るから。




 人間の成長は早い。

 影陋族と比べて三分の一ほどの時間で成熟し、その数を増やしていく。


 これは身体的な成熟という意味とは別の意味でも、その成長速度の明らかな違いがあった。


 魔物を倒すと、その体内に魔石ができる。

 これは人間にとっては周知の事実だった。


 魔物が死にあたって体内のエネルギーが魔石となる時に、漏れ出すエネルギーがある。

 無色のエネルギーという呼び名が付けられているそれは、魔物を殺した者に吸収されて、その力となる。


 魔物を多く殺せば殺すほど強くなる理由を、過去の学者が解明した結果だ。

 そのエネルギーによる成長も、影陋族と人間とでは三倍以上の差があった。



 人間が三百匹の同じ魔物を殺すと、おおよそその魔物一匹と同等の力を得られるという。年齢的な衰えは別として。


 影陋族の場合は、一千匹でそれと同等になる。成長速度が遅い。



 長寿であるが故のことなのかもしれないが、この事実は人間と影陋族との戦力差に大きく影響した。

 もともと影陋族は自然との対話などと言って無暗に魔物を殺そうとしなかった為、その差は広がる一方だったのだ。 


 既に新大陸の半分以上が人間の支配下となり、原住民は極寒の北部と辺境の東部に追いやられていた。

 それとは別に、人間に従属する形で存在する者もいるのだが。



 シフィークは、勇者と呼ばれる。

 強いから。だから勇者としての扱いを受けられる。


 その強さがどこから来たのかといえば、これも単純な話だった。


 シフィークは、人間の中でもさらに成長が早い。魔物を倒した際に吸収するエネルギーの効率が、他の人間の三倍ほどだった。

 だから若くして一流の冒険者と認められたし、強くなったことでさらにその成長は加速した。


 今ではシフィークの名を聞いて知らない者など、よほどの田舎者くらいだ。


 そんな彼でも、駆け出しの頃はあった。新米で、まだ強くなる前――と言ってもそれなりには強かったが、他を圧倒できるほどの強さがなかった頃。




「……くそっ」


 思わず言葉が漏れる。

 計画が狂ってしまったことに、暗い部屋で一人になってつい汚い言葉が口から出た。


 その彼の言葉にびくりと震える影がある。

 一人になったシフィークの部屋で、隅で震える影。


 人間ではない、一匹の影陋族の姿があった。

 戯れに短く切り裂いた黒髪に、怯えるように震える赤い目。



 苛立つ気持ちを静めようとシフィークはなるべく静かに呟く。


「跪け」


 白い首輪をした影陋族の少女が、宿の部屋の床に膝をつく。


 そこに向けて、粗末な干し肉を投げた。


「這え」


 襤褸切れを纏った少女が、干し肉の投げられた床に這いつくばる。

 下賤な生き物だが、所有者として餌は与えなければならない。


「食え」


 床に這い、投げられた干し肉を咀嚼する影陋族の少女。


 見苦しい。愚鈍な生き物だ。

 だがシフィークの言葉に素直に従うことには価値がある。


 決して女としての魅力は感じないが、上位者の命令に従うという行為は見ていて落ち着くものだ。


「汚いな。食べかすを床に残すなよ」


 這いつくばって食べているせいで食べかすが床に零れている。命令に従い床を舐めてそれらを食す姿を見ながら、シフィークは自分の感情を整理した。



「あのクズどもが今も偉そうな顔していたら、僕が殺してやったんだけどな」


 計画が狂ったことに再び怒りを覚えないでもないが、少しだけ考え直す。


「まあ似合いの末路か。洞窟でおぞましい魔物に食われて死ぬなんて、奴らにはちょうどいい」


 ブラックウーズに食われている死体を少し前に見た。あれと同じだとすれば、実に陰惨な死に様だと言えよう。

 憎い男どもの顔をその記憶に当て嵌めてみると、少しばかり涼やかな気分になる。


 その姿が見られなかったことは残念だが、その頃は大陸西部方面に行っていたのだから仕方がない。



 十分な力を蓄える為と、もう一つの目的も果たした。


 天然の、影陋族の奴隷。

 集落の一つを潰して、その中から一匹を奴隷として呪枷を付けた。


 人間が影陋族を支配するようになってから、影陋族は数を大きく減らした。このままでは西部、南部の影陋族は絶滅するというほど。


 影陋族は人間と近い容姿で長寿の生き物だ。それらを惜しむ声もあった。


 主に金持ちの愛玩用に、影陋族の交配、繁殖をさせる施設がある。そこで養殖されたものを買うことも出来るが、どうせなら()()()の方がいいと思ったのだ。




 あの時に、とシフィークの脳裏に思い出される情景がある。


 かつてまだ自分の力が不十分だった頃。

 自分の連れていた少女の冒険者を、あの三人組に奪われた時のことだ。


 ちょっとした正義感と、悪者退治という安易で愚直な発想で首を突っ込み、返り討ちにあった。


 連れの少女については、もう名前も思い出せないが、シフィークを叩きのめしたついでの戦利品として奪われた形になる。後で戻ってきたが、何を話したのかも覚えていない。

 その女のことはどうでもいい。



 影陋族がいた。


 三人組――不滅の戦神は、一匹の影陋族を連れていた。

 正直なところを言えば、あの時はシフィークも若かった。影陋族のそれを美しいと思ってしまった。


 悪行三昧の三人組を倒せば、ついでにそれも手に入ると思って挑んだという事実も、シフィークは認められないが、実際はそうだった。

 その時の意趣返しと、自分用の影陋族の奴隷を欲してみたのだが。



 いざ手に入れてしまえば、天然というか野生の影陋族などどんな病気を有しているか知れたものではないし、人間未満の物に欲情する気にはなれない。


 だからこうして、世間では勇者と称えられるシフィークの精神の波を安定させる為に使っている。

 使い道があれば道具として所有していてもいい。



「それにしても、ブラックウーズか」


 駆け出しから不滅の戦神に絡むまでの短い期間だったが、シフィークはこの辺りで冒険者をやっていた。

 だから黒涎山の話は聞いたことがあったし、その巨大なブラックウーズの噂も耳にしていた。


 西部や、元大陸から入ってくる話から、それに類似する噂を聞いたことがある。


「神話、だな」


 噂話というにはやや荒唐無稽な、神話伝承の類の話の中に。


濁塑滔(だくそとう)か」


 その言い伝えは、誰も見たことがない為に、嘘か本当か知りようのない話だった。


 

  ※   ※   ※ 


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