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ひも  作者: 蟻
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a missing  失踪者

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 中山に電話で相談したときに、こう伝えるとすぐさま脳のCTなどの精密検査を薦められた。脳梗塞・脳出血などで起こる高次機能障害を疑ったのだ。だが結局異常は見つからなかった。医者の診断では『一次的な失認。統覚型視覚失認』ではないかという診断が出された。一時的な失認?そんなものじゃないことを自分は気づいている。紐だ。紐のせいに決まっている。それをうまく説明できないことがもどかしいのだが、医者にそんなことを言えばもっと状況を悪くしかねない。意地悪くあんぐり口をあけて笑うように垂れ下がる紐をにらみつける。


『この失認てやつはですね、いわゆる一種の認知機能の障害なんですよね。見たものが何か判別できなくなる、名前が言えなくなる、場合によってはですが記憶してるはずの使い方や用途なんかもわからなくなる、そういう症状の…神田さん?』


『あ、はい。』


 紐の見えない医者には宙空を睨む患者に奇異を感じたのか、心配そうに声をかけてきた。


『まあ一時的な脳梗塞なんかの疑いもありますので異変を感じた場合はすぐ病院で検査を受けてください。』


『はい。わかりました。』


 病院の薄暗い廊下を歩きながら、もう一度自分に何が起きたのかを反芻はんすうする。女性が転倒したときに傘を紐にかけたのは覚えている。その後ずっと傘は()()()()()()()()()。にもかかわらず、傘が何でどんなものか周りで傘をさして歩いている人間が大勢居たにもかかわらず理解できなくなっていた。医者は記憶にすら影響を及ぼすと言っていた。そこで何かぞわりと冷たい閃きに(おのの)いた。野村の言葉が妙にゆっくりと脳裏をよぎる。誰も知らないんですよ、ホントに()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 ぞっとする思い付きに思わず紐に目をやる。頭一つくらい上の高さで輪になって垂れ下がる紐は不吉そのものに見えた。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

()()()()()()()()()()()。』


 もうそれは確信だった。リストラ対象者だった人物が何を行ったのか。自分と同じように紐を見ていた人間がどんな未来をたどったのか。この得体のしれない紐状の何かは、正しく目に見えず人を絡めとる蜘蛛の糸そのものなのだ。これがもし釈迦が差し伸べた救いの糸だとするならば、あの小説の蜘蛛の糸以上に悪意の塊だとしか思えない。そんな恐怖の眼差しを垂れ下がる紐へ暫く向けた後、野村が言っていたことをもう一度思い出す。記録には残っていた。確かにそう言っていたはずだ。この紐の影響は人の記憶や認識を書き換えるようなものなのかもしれないが、記録には残る。ならばその記録を探ればこの紐についてもう少しわかるかもしれない。

 

 出社した後、時間を作って野村と一緒に資材部総務管理課へ訪れた。失踪した課長は今村と言った。今現在は畠山と名乗る人物が課長代理として取り仕切ってるようだった。


『野村君?ずいぶん久しぶりだね』


畠山と名乗る人物はどうも野村と同じく営業部に居たことがあるらしく、懐かしそうに相好を崩した。


『久しぶりですねー畠中さん。あ、太一さんこちら以前営業部で世話になっていた方で畠中さんです。』


『どうも開発の神田太一と言います。失踪したという今村さんのことでちょっともしかしたら知っていた方なのかなと思って気になって来てみたんですが。』


真実ではないが嘘というわけでもない。知っていた可能性は本当にあるからだ。


『ああ、その件のことなら今ちょうど警察の方が…』


 畠中はきまり悪そうに肩ごしの刑事と思しき私服の男性に目を向ける。興味深げにこちらを観察していたその男はすっと話に割り込むように挨拶してきた。あちこちのポケットをごそごそと探った後おもむろに手帳と名刺を提示した。


『向島署の下平というものです。今村さん失踪の件で伺ったのですが…』


にこやかで物腰の柔らかい、初老のこの刑事はまるで世間話でも始めるようにため息を一つつくと話し始める。


『知ってます?神田さん。8万人。8万人ですよ。』


『何がですか?』


唐突に繰り出された質問に、反射的に聞き返すと、手帳に何やら書き込みながら目を合わさずに刑事は答える。


『ここ10年毎年の失踪者数ですよ。日本国内だけで年間でこれだけいるってご存じでしたか?』


『そんなに居るんですか。』


素直に驚いた。8万人と言えばちょっとした地方の都市の人口並だ。


『世間は騒いでるみたいですがね。私ら警察に言わせると今更なんですよこういうのは。』


『はあ。』


『ところでこちらの方をご存じですか?』


そう言って刑事が見せてきた写真にはまだ10代と思しき女性がはにかむような笑みを浮かべて写っている。


『いいえ。()()()()()()ね。』


『そうですか。』


そう言ってうなずきながら手帳に写真をぱたんと挟み込むと、刑事はじっと真っすぐこちらを見つめてきた。


『あなた先ほど不思議な言い回しをなさいましたね。』


『はい?』


『確かこう仰いませんでしたかね。()()()()()()かもしれないと。』


『…』


返答に窮している私を見つめながら、下平刑事は続ける。


『いやね、私も大して学のある人間じゃないんで、こういうのは苦手なんですけど、普通こう写真や道を尋ねたりした時って答えは知ってるか知らないかのどちらかじゃないですか普通。ですがあなたは()()()()()()という表現をなさったでしょ。そこがどうにも引っかかったんですよね。こういう過去形みたいな言い回しってのは何か変化があったことを受けて使うものじゃないですか。例えばそうですね、失踪された今村さんがお亡くなりになっているとか。』


 そうなんですよ、刑事さん。私は知ってるんですよ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。ちょうど普段愛用している傘がまるで見知らぬ何かに変化してしまったように。勿論、そんなことを言っても誰にも納得いただけないことは分かっているのですがね、刑事さん。今も私の目の前にその証拠があるんですよ。


黙ったままの私に下平は宣告するようにこう言った。


『よろしければ署のほうでお話を伺えませんかね。神田さん。』

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