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ひも  作者: 蟻
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失認

 玄関先で空を見上げると梅雨空から霧雨がまとわりつくような湿気をまとって天から舞い降りてくる。例年であれば見慣れた光景だ。だが、今年は不思議な闖入者ちんにゅうしゃが見たこともない光景を作りあげている。例の紐が下がっているのだ。どこから繋がっているのかすら見届けることもかなわない遥か上空から。

 芥川龍之介の小説『蜘蛛の糸』の主人公が見ていた光景もこんなものだろうか。そんな風なことを思いながら傘を手に取る。


『今日も天気悪いわね。』


空を見上げていると妻が背後からのんびりと声をかける。


『ああ。』


この不思議な光景を目にしていないと思われる妻には自分は天気の心配をしているくらいにしか見えていないのだろう。


『行って来るよ。』


『行ってらっしゃい、傘を置き忘れたりしないでね』


 ふと思い出してビジネスバッグから本を出して懐へしまう。先日買った本『ホーキング宇宙を語る』ひも理論の有名書籍だ。中山にそれを見たいと要求してるから見えるのだと言われた後で、少なからず今自分が見ているものについて興味がわいてしまったのだ。正直自分に理解できるとは思っていないが、何かのとっかかりになると考えたわけだ。

 傘をさして外を出ると例の紐が視界から消えていることに気が付いた。傘を見上げると紐は雨で流され道路に張り付くミミズのように傘に張り付いていた。家や建物の天井はすり抜けてきていたのに、まるで今度は自分は実体であるそう言わんばかりに主張する紐をしばらく見上げて、駅へ急いだ。

 

 駅の混雑するホームで搭乗口の案内に並ぶ列の後ろへ並ぶと早速本を取り出そうと懐に手を入れようとした時、手の甲にはたりと冷たい感触が伝わる。何かと思って前方に注意を向けると、濡れた紐から垂れた雫が手の甲を濡らしたようだった。

これから満員電車に揺られるという状況でこの紐は何としたものか。このままの状態で電車に乗れば動きのままならない車内で濡れた紐が自分や他人の顔や頭に張り付くことは避けられないだろう。こんな時に限って、自分の前に並んでいるのが頭頂部の禿げあがった中年男性というのはまさに何かのいたずらだとしか思えない。ちょっとどうなるのか見てみたい気もしたが、ため息をついて駅のトイレへ駆け込むことにした。個室に入ると意を決して洋式便座の上に登り紐と向き合う。この紐に触れられることは最初の時に気が付いていた。寝ぼけていた拍子でそれをつかんで引っ張ってみたことがあったのをちゃんと覚えていたからだ。これに触れるのはそれ以来になる。今までどんなに邪魔でうっとおしい思いをしても、物理的に干渉するのはやめようと努めてきた。これ以上説明のつかない状況になったら本当に自分はどうかしてしまうのではないか。漠然とそんな怖さを抱いていたからだ。

 触った感触は…何の変哲もない紐だった。この紐が車内で誰かの顔や頭に張り付かないように、と、たくし上げて結んだ。結果輪となったその紐は…まさに絞首台のロープそのものに見えた。

 

 いやな想像を振り切って急いでホームへ戻り電車に乗り込むと吊革に掴まり本を開いた。内容はさっぱり頭に入ってこなかった。だが一つ面白い発見があった。『なぜ紐なのか?』という問いの答えだ。このように垂れている紐を真下から垂直に見上げると、それは点という認識になる。そして起き上がって一歩離れて見たときそれは線として認識される。そしてさっき私がしたように物理的に接触したときそれは立体であるという認識に代わる。つまり紐という形状は多次元性を内包しているというのだ。この自分にしか認識できない物体が異次元的な存在であるという可能性。それが何を意味しているのか、まだ自分には何も判断できなかった。

 



『太一さん一緒にご飯行きませんか?』

 

 昼休みが始まりどこかで昼食をとりながらまた本でもゆっくり開こうかと思っていると。営業部に異動した後輩から誘いがかかった。人懐っこい男で開発部で一緒だった時もよくこうやって昼食に行ったものだが、なぜか気に入られているようで、暇があるとこうやって誘いに来る。


『野村君、久々にラーメンでも食べるか?』


 しばらく麺類は避けていた。特にラーメンは食べようとすると紐が顔にかかりそうになったのだ。そんな煩わしいものを前にして似たような形状のものを食べるというのは、なかなか食欲の進まない話だったのである。だが今日は。たくし上げて結ぶという行為は想像以上に効果があった。頭上にある分には視界の妨げにもならない。


『あそうそう、太一さん知ってます?うちでもあったらしいですよ例の事件。』


 昼休み時のラーメン店は普通に考えるとのんびり会話してる暇なんてない。だが、やや人通りのある道から離れたところには意外な穴場というものがあるのである。ここもそんな一つだ。


『例の事件?』


『あの謎の失踪事件ですよ。資材部の課長が消えたって結構社内だとこの話で持ち切り。』


『誰だっけそれ。』


『そこなんですよね。誰も知らないんですよホントに。記録は残ってるのに誰も顔が思い出せないって。3週間も出勤してない人がいるって気が付いた人が調べたら、役職もある人間だったと』


『嫌な世の中だなあ。3週間も同じ職場で働いてた人間が居なくなって気が付かないなんて』


『まあ、あそこの別名はリストラ部ですからね』


『うちの部長もノルマの件で出向いたとき話した覚えがあるんだけどって首ひねってましたよ。』


『リストラ対象者にまでノルマとはね、あの人らしい』


営業部長はこの会社の3代目となる社長候補である。現社長の長男である彼は人にノルマを課すことこそ至上の使命であるとしている節があった。


『人間版蜂群崩壊症候群でしたっけ?結構世間でも騒いでますけどどういうことなんでしょうね。』


『野村君、それ詳しいの?その蜂群なんとかって。』


『何年か前騒ぎになったじゃないですか、世界中のミツバチが3割くらい消えたって。いないいない病とか言われてたやつですよ。なんでも、外敵に攻撃された形跡もなく、さなぎや幼虫の世話をする外に出ない働きバチまで忽然と姿を消すらしいんですよ。死骸も見当たらないらしく、なぜか女王バチだけがぽつんと巣に残ってるって話で。』


『蜂もとうとう嫌になっちゃったかな。働くの。』


『洒落になりませんてw アインシュタインでしたっけかね『蜂が死滅したら、人類は4年後には滅亡するだろう』って予言したって話もあるくらいなんですから。』


『普通に暮らしているとわからないことって結構あるんだな。蜂が居なくなったくらいでそんなことになるなんて考えてもみなかったよ。』


『普通に暮らしていくだけで手いっぱいですからね。さて戻りましょうか、蜂と違って逃げ出すわけもいかないですしね。』


茶目っ気たっぷりにそう言う野村と店を出て会社へ戻ることにした。




 定時を30分回ったところで、区切りをつけて帰ることにした。朝から続いていた雨はこの時期には珍しく、強めの夕立めいた雷を伴うものになっていた。駅のプラットフォームで例の紐を見上げると、朝よりひどいことになっている。雨が紐をつたい真下に水たまりを作っていたのだ。

 忌々《いまいま》しく思いながらもどうする事もできない。ただ落ちてくる水滴が人にあたらないようにだけ自分が立つ位置に気を配ることにした。駅員が水たまりに気が付いて雨漏りでもしているのかと集まってきたころようやくきた電車に逃げるように飛び乗った。

 朝ほど込み合っていない車内でも水滴は勢いだけは失ったもののぽたりぽたりと床を濡らしていた。紐を観察していると車外からの雨はどうも天井で遮断されてつたい落ちてきていないらしい。未だにどういう原理なのかは検討もつかないが。

 もうすぐ次の駅に差し掛かるちょうどそんな時だった。ガクンという衝撃とけたたましいブレーキ音がして電車が急停車を行った。目の前に居た女性が吊革をつかみ損ねたうえに紐から落ちた水滴で濡らされた床に足を滑らせて盛大に転んだ。


『ただいま、次の駅で傘が線路に飛ばされたとのことで緊急停止ボタンが作動しました。しばらくお待ちください』


 盛大に転んだ女性を助け起こそうと塞がった両手を開けるために傘を紐にかけることにした。朝来るときに輪にした部分は傘の柄をひっかけるのにちょうどよく、こういう時は便利なものだとほくそ笑む。普段人に煩わしい思いをさせてきた罰だ、こういう時くらい役に立つがいい。

立ち上がった女性は恥ずかしそうに申し訳ありません申し訳ありませんとしきりに繰り返していたが、大した怪我もしていなさそうなので、そっとしておくことにした。


 電車を降りて改札を過ぎ駅を出ようとしたときに何か強烈な違和感を覚えた。何とも言い難い漠然とした不安だ。急かされるように雨の中を家に向かって歩き出すが、その奇妙な感覚は消えなかった。途中コンビニにより濡れた頭や衣服を軽くぬぐう。雨はだいぶ弱くなったが遠雷が遠くでどよめいている。喪失感。何かが抜け落ちた感覚。

 やっとのことで家にたどり着くと玄関を入ったと同時くらいに、雷鳴が轟く。


『あんたどうしたの?とりあえず上着脱いで。』


玄関に出てきた妻は驚いて濡れた上着を脱がそうとする。自分も急ぎ上着を脱ごうとして手を振り上げたとき手に何かが当たりごとりと落ちた。


…あれ、なんだっけこれ。


落ちたのは傘だった。が、それが数十秒ほどだろうか()()()()()()()()()()()


『傘あるじゃない。どうしたの?』


 不思議そうな顔をする妻にどう説明していいか言葉に出来なかった。そもそもいったい自分に何が起きたのかわからなかったのだ。

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