ぷろぽーず
夏の日差しがアスファルトに反射して小さなきらめきを作る。
それを踏みしめながら歩く彼女は白いワンピースを纏い、緩く巻いた髪はハーフアップ。艶のある肌は頬を透明感のあるピンクに染めて、ふっくらとした唇も同じ色に彩られている。
どこまでも柔らかい雰囲気に、羨望を持って向けられる視線は少なくない。
中にはふらりと体ごと引き寄せられる人間もいるようで、今も彼女の進行を塞ぐように二人の男が立ち塞がった。
「ちょっと道に迷っちゃってさ……」
言い終わりを待たずに、軽い身のこなしでさらりとかわされた二人は、起こった出来事を把握した後に慌ててターゲットを追い掛ける。
足を止めない彼女に並んで歩きながら、全国的にも有名なカフェの名前をあげて、どこにあるか知らないかと問う。
「スマホ」
「「え?」」
予想外の冷たい声に二人同時に固まる。
やっと足を止めた彼女はその指で一人のポケットを指差す。
「持ってんでしょ。チェーン店なんだから調べればすぐ出ると思うけど」
様子を伺っていた周りも巻き込んで、冷たい空気が流れる。
「あー、っと…、そう言えばあそこもじゃん、お前が行きたいって言ってたログハウスの!」
「あぁ、店の名前は忘れちゃったんだけど、駅の近くに…」
「駅も調べられるでしょ。そこで交番訪ねれば」
それじゃと二人を置き去りにしたまま立ち去る彼女を見送り、暫く呆然とする。
最初の印象に反して、あの態度は詐欺だろうと…。
予定より遅れているのを確認して彼女の歩調が上がる。チラ見したスマホをいつもの癖でズボンのポケットに押し込もうとして、そのまま滑り落ちそうになったのを指先で阻止。手持ちのバックの中に放り投げる。
通り過ぎるショップのウインドウに映った自分の姿を確認しながら髪の乱れを直し、バックを丁寧に持ち直す。歩調を緩めて真っ直ぐに前を向いたまま、その目に何も映さず、ゆっくりと少しずつ感情を投げ捨てていく。楽しい、悲しい、怒り…、人間に当たり前にある要素を置き去りにして、全てが空になった時にその手で扉を開く。
心地好いカウベルの音にさえ何も思う事なく、その顔に形だけの喜色を浮かべて一歩足を進める。
来客を知らせた音に待ち合わせをしていた何人かの客が入り口に視線を向けるが、違ったと直ぐに外される。一人だけ残った視線に足を向けると、立ち上がった彼が嬉しそうに出迎える。
「待ってたよ、ナル」
座ってと促され、対面に腰を下ろすと、店員が水を持って定型文通りの声をかけて去っていく。
「ごめんなさい、公康さん。少し遅れてしまって…」
「あぁ…」
ナルに気遣う事なく、左腕にはめられた高級そうな時計をチェックし、神経質そうに目を細める。
待ち合わせより数分進んだ長針を確認して逡巡すると、一度ナルの姿を確認してから笑顔を浮かべる。
「いいんだよ。だってこんなに汗だくになって急いできてくれたんだろう?」
腕を伸ばして首に張り付いていた髪を指先で摘まむ。
「ナルはいつもとてもいいこだからね。今日の事は見逃すよ」
今回は特別だとの意味を多分に含んだ言い回しで、公康は髪を掴んでいた手の甲で、首筋を撫で上げる。
「僕は君に狭量な人間だと思われたくはないからね。でも…」
手を顎から下に移動させて、なぞった指先で喉を捉える。
「おいたが過ぎるとお仕置きだよ」
低くなった声が笑顔に釣り合わず、異常さを醸し出す。
「公康さんが優しい人で良かった。私はとっても幸せだわ」
無邪気に言葉を繋ぐナルも笑顔を崩さない。
端から見れば、急いできた彼女を労る彼氏。それを受け入れる彼女。
しかし、その会話を聞けば、それが普通ではないと直ぐに分かるだろう。
百点の回答をしたナルに満足したのか、伸ばしていた腕を戻す。
タイミング良く現れた店員に、当然のように二人分の注文をした公康に、店の感想を述べる。先程は何も感じなかったカウベルの音や、アンティークな置物についての語り。
その表情、些細な動き、声のトーンの変化を読み取って相手が求める答えを瞬時に弾き出す。
当然だと受け取った公康はうんちくを述べ、それを今度はナルが受け入れる。
相手を支配できていると疑わない公康を、本来の支配者であるナルは優しい目で見詰める。
二人の関係がそれと呼ぶのが相応しいかは疑わしいが、恋人同士の関係に於いて、単純に愛情の大きさや、欲の深さの差によって相手への影響力が変わる。
相手とのバランスが量れない程多くを望む者は、些細な事で感情の起伏の降り幅も大きくなり、分かりやすいそれをうまくコントロールしてやれば思いのままに操れる。
何も知らない振りで相手の自尊心を充たし、知れた事で大袈裟に喜べば満足感を与える事が出来るし、機嫌を損なわない範囲でたまに突飛な言動をするのも自分に注目させておくには有効だろう。
そう、ナルにとって公康に求めるものはたった一つ。
自分から離れないように夢中にさせておけば良い――。
好みの服や化粧を施し、無知の振りをして無邪気に笑い、従順さを装いながら、たまに外れた行動をとって公康の加護欲をうまく引き出す。
あれもこれもと望む公康の興味を引くのは簡単だ。
彼自身を見ているだけで良いのだから。
「それ、してくれているんだね」
首元に移った視線を受けて答える。
「公康さんがくれたものだから大切にしているの」
指先で大切そうにネックレスを撫でる。
「本当はもっと別な場所を考えていたんだけど、ここはナルと出会った大切な場所だからね」
運ばれてきたコーヒーを前に、店員が立ち去るのを待つ。
コーヒーの話題を振るべきか考えていると、公康が先に続きを話し出す。
「僕の親に会って欲しいんだ」
事実上のプロポーズに、ナルは頬を染めて、驚いた表情を作る。
「今の仕事が少し長引きそうだからね。その間にナルに他所を向いてほしくないんだよ」
一度コーヒーに口をつけ、カチャリとソーサーに戻す。
「付き合って半年も経ってないし、急すぎるのは分かってるんだ。でも僕の不安を解消する為と思って」
差し出された掌にナルはゆっくりと自分の右手を重ねる。
女性に対しては少し強すぎる力で握られたが、気にした様子はない。
「受けてくれるね」
それが当然だと言わんばかりの口調。
対してナルは目を潤ませて幸せそうにニッコリ笑う。
「はい。喜んで」
そうだろうと満足そうに手を離す。
「仕事が片付けば結納と式と続いて忙しくなるからね。それまでは自由に遊んでおくと良いよ。遊びの範疇なら僕は咎めないからね」
チラリとナルを見れば、笑顔で頷いている。
テーブルに置いたスマホが着信を知らせるのを聞いて、出掛けた言葉を飲み込む。
苦々しく思いながらラインを確認すると、同僚からの催促。
「ごめんもう行かないと」
立ち上がって伝票を掴む。
「あ…、」
一緒に席を立とうとしたナルを手で制する。
「ナルはもう少し休んでいって。まだ汗が引いてない」
額を軽く撫でて、また連絡するからとレジへ向かう背中を見送る。
店を出る前に一度振り返った公康に手を振って、カウベルの音を聞く。
出されたコーヒーに一度も手をつける事なく、その場でただじっとしていたナルはバックをもって店を出る。
無表情で駅まで歩き、ロッカーから紙袋を取り出すと、そのままレストルームに入り、紙袋に入っていた物と着ている物を交換して、ワンピースごとゴミ箱に突っ込む。
拭き取りシートで化粧を落として洗面所で軽く顔を洗うと、大きく息を吐く。
ここでようやく本来の自分に戻れたと安心して、鏡に映った自分を見る。
ふと首元で光る物を認めて、そう言えばと無造作に引きちぎる。
躊躇なくペーパータオル用のダストに落とすと
ホームに向かう。
途中一度だけ乗り継いで最寄りの駅に着くと、停めてあった自転車に跨がって盛大に漕ぐ。勢いに任せて坂を登りきると、芳ばしい匂いが辺りに漂う。
「ただいまラウトー!」
一度玄関に入って縁側に抜けると、サンダルに履き替える。
「良い感じに焼けてるね。もうお腹すいちゃって」
炭火で炙られた肉と野菜を眺めていると、冷たい麦茶の入ったコップを差し出される。
「自転車で全力疾走だったんだろ。一応飲んどけ」
口をつけると、意外に喉が乾いていたらしく、一気に呷る。
「夏はこれだよね!」
「何言ってんだ、もう焼けてるぞ」
皿に肉を取り分けてナルに渡すと、早速と口に含む。
旨い!と叫んでからモグモグと口を動かすナルの頭を撫でる。
「女が着飾る姿はいいもんだな」
巻いた髪に指を滑らせると、知らない匂いを嗅ぎとる。
「違うあたしもまた乙でしょ」
何言ってんだと笑いながら置いてあった麦わら帽子を被せてやる。
「どんな姿でもナルはナルだ」
言いながら気付いた事実に蓋をする。