ひろいもの
下からの風が髪を巻き上げる。
湿気を含んだそれを鬱陶しく思わないのは、一緒に感じる大好きな潮の香りのせいだろう。
コツコツと踏み鳴らしていた音を止め、それを胸いっぱいに吸い込むと、さっきまで隣にいた男の記憶と共に一気に吐き出す。
途端に陰鬱だった気持ちが霧散し、防波堤を軽く踏み込んで体を宙に投げ出す。
たっぷりの砂が両足を受け止めるのを感じ、今度はサクサクとした柔らかさに足をとられないように、しっかりと踏みしめて歩き出す。
寄せては出迎え、引いては誘う、小悪魔的な魅力の母なる海。
視界一杯に捉えながら前へ出る足数を上げる。
白いTシャツが張り付いてハタハタと裾が波打ち、女性らしい膨らみが呼吸に会わせて上下する。短くカットされたデニムから延びる足がスピードをあげていく。
止まることなく、引いていく波に合わせてその身を受け入れてもらおうとしていた体が、異物をとらえた途端に萎縮したように力を失っていく。
しっかりとそれを確認して、一度首を左に傾けて、異常さにビクリと肩を揺らす。
「う、動いてる…」
波打ち際に打ち上げられた異物は真っ黒でぶよぶよとした物で、見た目にも滑りを帯びていて、汁物に浮かんだキクラゲのよう。
それが砂浜から波打ち際にふよふよと浮かんだものまで無数に散らばり、その中央にワカメのように漂うものから時おり水しぶきが上がっている。
直ぐに逃げられる距離を取りながらも、視線を外さないようにゆっくりとポケットからスマホを取り出すと、サイドのボタンを押してカメラ機能を立ち上げる。
ここは動画で撮影でしょと画面に視線を移し、ばしゃばしゃという水音のみで現状を確認しながらムービーモードをタップする。
よしと、カメラを向けるのと、音がやむのは一緒だった。
画面越しにしっかりと合ってしまった視線に、悲鳴も上げられずにフリーズ。
頭に滑りを帯びた異物をのせ、それが顔の半分を隠したまま片目だけでこちらを見つめている視線はお世辞にも穏やかとは言い難く、フシューフシューと荒い息は噛まされている皮のような物のせい。
波間に漂っていたワカメはどうやら髪の毛だったらしく、水から上がった彼は今はその場に胡座をかいて座っている。
そう、彼だ
間違いなく人間がその場にいる。異常な状態で…。
裾も袖も擦りきれて茶色ばんだシャツと、同じ状態の膝丈のズボン。
布なんかでは足りないと言わんばかりに、分厚い皮の猿轡を噛まされ、口を完全に閉じることが困難になっても、噛みちぎる勢いでギリギリと上下の歯を動かしている。
両足は足首で同じ様に皮で固定されているものの、膝を開けて無理に胡座を組んだせいで、足首に食い込み、血が滲んでいる。
背中に回ったまま見ることができない両手も、おそらく同じ様に固定されているのだろう。
どうしよう…
画面を通して見つめあっているものの、そこから互いに動きがない。
いや、正確には動きがないのは片方だけ。『彼』はずっとギリギリと歯を立てたまま顎を動かして皮を噛み続けている。こちらを見詰めたまま。
「ぁあー、…っと、言葉は通じますかー?」
未だスマホを構えたまま、間抜けだとわかっていても、もう目を離すことができないでいた。
見た目は東洋人を若干含んでも、確実に西洋人より。
通じなければ、一生懸命意思の疎通をはかった体で適当に話して逃げるが勝ち。
ついでに途中の公衆電話から通報すれば救助完了、又は市民としての義務を果たした事になる。事情聴取なんて面倒事からも逃げられるし、あとは1日引きこもってればまたいつもの日常が始まる。
それでいこう
相手が話せない状況だということを無視して、二度目のコンタクトを謀る。
「話せます…? 話せませんよねぇ…。じゃあ誰か呼んでくるんで待ってて下さいね」
スマホを下ろすと同時に背を向けて歩き出す。
怖くて相手の同行を直視できない。
逃げるように背を向けると、うなり声が聞こえてくる。
充分に距離をとっていたはずなのに、何故か随分と近くから聞こえたような気がして、思わず振り向くと、今まで以上にギリギリと歯を動かし、そのまま血走った目で此方を見ている。
「…うそ、…」
二度目のフリーズ状態のまま動かずにいると、さっきより開きが少なくなり、幾分自由が効くようになった口をモゴモゴと動かして何かを訴えてくる。
「ホイシュホ、ハウシヘフヘ」
「ぁの…、言葉が通じないようなんで後でまた来ますんで…」
『別の人が』とは言わずに小さく頭を下げると、彼は一度口を大きく開け、見ている方が引くような必死の形相を見せる。
「っがぅっっっ!!」
ガツンッと、凡そ聞いたことがないような歯の打ち合う音と共に、猿轡を噛み切った彼に呆然とする。
ぼちゃんと重量感のあるものが水に落ちた音が現実として受け入れられない。
彼は一度下顎を確かめるように動かした後に、頭を左右に盛大に振りだした。
勢いに任せて、今度は顔の半分を覆っていた異物を水面に吹き飛ばす。
「おい、あんた!」
聞き慣れた言葉を吐き出した彼を認めて思う。
終わった―――。
まさかの流暢な日本語を耳にして、うんざりとした気持ちを隠しつつ、小さく返事を返す。
「あ、はい…」
「こいつを外してくれねえか」
半身背中を向け、両腕をこちら向ける。
やはり足と同じ様に手首も分厚い皮のようなもので固定されている。
「頼むよ、首んとこが痒いんだけど掻けなくて困ってんだ」
困るとこそこなの?という疑問は口には出さずに、どうしようかと悩む。
正直近付きたくはない。
見た目にも不衛生な上に痒いという体に触れたくはないし、何よりその様相が剰りにも異様過ぎる。
両手両足、口を拘束されて海に投げ出されているなんて、過激な大人のプレイだ等と人騒がせで終わるような状況ではないだろう。
何かの事件に巻き込まれた被害者の可能性も考えるが、その射抜くような目付きが堅気とは思えない。
「じゃあそういう事で」
後ろ手に手を振って歩き出すと、焦った声が追ってくる。
「待て待て待て! 怪しいもんじゃねーんだ! じゃあ、あれだ! ちょっとばかし首んとこ掻いてくれよ! さっきからずっと我慢してんだよ!」
「誰か別の人呼んでくるんで」
「何でだよ! 掻いて終わりだろーが!」
「あたしにはハードルたけーって言ってんだよ!」
怪しい要求を受け入れる程お人好しのつもりはない。
猿轡を噛み千切る男が腕の拘束を解けないとは言い切れない。近付いて自分の身を危険に晒す位ならこのまま見放した方がいい。
「逃がさねーからな!」
怒りに任せて既に拘束を解いたかと振り向くと、彼はうつ伏せに倒れ込み、まるで芋虫のように体をくねらせながら進んでくる。
「人呼んでくるから待っててって言ってるでしょ!」
動きの気持ち悪さに青ざめながら、距離を取ろうと小走りになる。
「お前はそのまま帰ってこねぇつもりだろ!」
彼も動きを速めて距離を詰めようとする。
「あたしは関係ないでしょ! てか、ついてこないでよ!!」
小走りから駆け足に速度をあげる。
「俺はあんたに頼んでんだ! うんと言うまでどこまでも付いていくからな!!」
「どこに拘ってんだ!!」
こうなったら話せない距離まで逃げるしかないと本気で駆け出す。
暫く無言で時間を稼ぎ、足を止めないままに振り返る。
流石に確認出来ないだろうと気を抜いていた体に衝撃が走る。
猿轡を噛み切った時以上に必死の形相を纏った彼が、ほんの少し離れた地面にのたうっている。
顔中砂だらけにして、息も荒く、汗だくのその姿を見て心の底から叫ぶ。
「キモッッッ!!!」