『生きる』ことについて思うこと
誰もが当然のように生きる事を選択し、生きている世界ですが。
……世界、と言うのは言い過ぎですね。私が知る世界はとても狭いので、あくまで私の暮らす近辺に限った話となってしまいますから。
どんな人でも、まず死のうとは考えないはずです。
それで結果的に生きている、という人も多いでしょう。
そんな人は人生の苦境に立ったとき、何故生きるのかという考えが思いつく事があると思います。
自殺する人の中に、「生きるために頑張っていた。もう生きていたくないのに頑張りたくなんかないし、だったら生きることも頑張ることもやめてしまおう」という人は少なからずいるのではないでしょうか。この場合の頑張るというのは世間一般の指す生産的な行動(仕事、勉強等)です。
少なからずというのは絶望したからとか復讐にとか、そう思って踏み切る人もいますから。追い詰められれば諦めたり一矢報いたり、何かしらアクションを起こさない人はいません。
蜻蛉日記の人も自殺ではないですが自らの死を望む時もあったようですし。
何故生きるのか、と考える人はあまりいないように思えます。
内容が重すぎて話題にならないから、という訳では無く、実際に少ないのではと考えているのです。
当然、と言われれば当然なのでしょう。
多くの人が、そんな無駄なことに掛ける時間はないと言って無視しているのが現状ではないでしょうか。
確かにそんな時間は無いでしょう。意味が無いと思っているのですから。人にとって最も精神的に苦痛な事は無益なことを延々と続けることです。誰も無駄なことに時間を掛けたくはありません。
生きる理由、というのは何をしたいかであるべきだと思います。
理由を探すために生きるのも、生きるために何かをするというのも個人的に受け容れられません。
なぜなら生きることに縛られているからです。
それでは自由に生きれないのです。
死ぬこと、生きることへの不安や義務感から外れてやっと、生きる事に対して自由になれるのだと考えています。
これはまた、延命治療への批判でもあります。
生きながらえる事が良いこととは単純に言えないのは、クオリティオブライフというものがある通り一定の理解を得られています。
長生きする事よりも大事なことは生を全うする事です。
同じかと思うかも知れないけど全く違います。
無意味に長生きする事はただ醜いだけです。生き汚さというのは生以外の求める夢があって初めて蔑視から逃れられるのではないでしょうか。
若い人が生き残りたがるのは分かりますが、十分に生きたであろう人が執着するのはみっともないというのが個人的な意見です。それでも、まあ、孫の顔が見たいとかなら分かるけど。
このより良い生をという考えが安楽死にまで及ばないのはおかしいのではと思うのですけど、自殺防止とでも思っているのでしょうか。
もしそうだとしたら笑いの種にしかならないです。
自殺を諦めさせる、生きたいと思わせる事が本来自殺をやめさせる正しい方法だろうに、自殺を出来なくさせるというのは自殺希望者を追い詰めるだけであるからです。
生きる事から死ぬ事へと希望を見出したのに、生きる希望を思い出させるのでなく死ぬ希望を奪うのだから当然の話。
自殺希望者に残されるのは文字通り絶望だけです。
自殺での死亡者数は減るだろうが精神的に死んでしまう人は代わりに増えるでしょう。
もし体裁を繕ったのだとしたら、その中身の伴わなさに嘲笑を隠せないです。
個人の価値が薄まっている世界で、生きる意味を見出すのは難しい事だと思います。
何で、こんな時代に人として生まれたのだろうと嘆かずにはいられません。
この時代に生まれるのなら動物園のアザラシがよかったです。
寝て食べて、寝転がってても怒られず、健康的に死にたかったてす。
人として生きねばと思うと、溜め息がつい漏れてしまいます。
ここまでずらっと書き連ねてますけど、なんというか、深い意味は無いです。急にこんなことを書きたくなっただけなので。
私は知識も経験もないので、現実逃避してる人が書いた負け惜しみだと思うかもしれません。
実際、そうです。
何も考えずにいられたら、と思います。
ただ、こんな突拍子もない話にこれを読んだ人はどんな事を考えるだろう、同じ事を考える人はいるのだろうか、と思って書きました。
何か思うことがあれば、メッセージでも感想でも、書いて頂けると幸いです。
最後までお付き合い頂きありがとうございました!ではまたいつか