序章
ふとした拍子。隣に誰かがいたような気がする。
長年寮で暮らしてきて、その間ずっと独り暮らしだったはずなのに、おかしな話だ。でも本当にここは俺の部屋だったのだろうか。旅行先から帰ってきてから、その疑問は俺の中でずっと燻っていた。
部屋の中は魔術の研究道具で雑然としている。本も無駄に多い。これは昔から変わらない。
でもそれと同様に、この部屋の台所の道具もしっかりとしている。食べ物は長期外出すると決めていたからか入っていなかったが……俺がこんなものを取りそろえるだろうか。料理が一切できない、この俺が?
「絶対おかしいんだよな」
旅行先で暴漢に襲われ生死をさまよった俺の頭には、最近の情報は入っていない。ごっそり抜けてしまった数年の記憶。
寮生活を再び始めたのは確かクリスタルが流行り病で亡くなってから。だから俺の記憶で残っている限りは、この部屋にヒトを入れたことがない。それなのに子供用のようなサイズの椅子があるのは何故だろう。記憶がない期間中に、伯爵邸や子爵邸に預けっぱなしだったヘキサをこの部屋へ招き入れたのだろうか。
しかしいくら自分に問いかけても答えが返ってくることはない。
忘れてしまうような事はきっとそれほど大した事ではないんじゃないかな。
そんな事を、仕事で失敗したトールがうそぶいた事がある。実際、大したことでなければ、忘れやすいというのは事実だ。
でも大したことではないのなら、どうして俺はこれほどその記憶を渇望してしまっているのだろう。違和感を見つけるたびに手が止まる。
そして足りない何かを、俺はいつしか必死に探ようになった。でも欠けてしまった何かが埋まらない。イライラする。
足りないのは分かるのに、何が足りないのかが分からない。
「一体、何なんだ」
ああ、憂鬱だ。
何もかもが憂鬱だ。
魔術の研究は楽しいはずなのに、それさえも時折憂鬱に感じる。ただ眠りにつくと、不思議とその時だけは穏やかな気持ちになった。
何故かは分からないけれど、欠けて足りない何かは、やはり俺の中にあるという事なのだろうか。このまま思い出せないままだったら、俺はいつか夢の中から出てこれなくなるのではないかと思うぐらいに、起きている間が辛かった。
魔族は精神が弱い歪な生き物だ。俺もそろそろ終わりが近づいているのかもしれない。
じわりじわりと神経をすり減らしていく苛立ちを堪えながら、椅子に座り目を閉じる。
ああ。それにしても瞼の裏に焼き付く……アレは一体誰なのだろう。