がじゅまるさま7
私たちは、再び林に足を運びました。
恐怖の林でしたが、不思議と前に来たときほど怖くありません。多分、ミカドさんの三人がいてくれるお陰だと思いました。
「……不利ですね」
シマヅさんが私の期待を速攻で台無しにしてくれました。
「あれ?昨日に比べたら全然平気な感じなんですけど?」
ナオくんも私と同じことを考えていたようです。確かに、あの圧迫されるような空気に比べれば、今日の方がずっとマシです。寒気も気のせいで済まされる程度です。
「そりゃ、オレたちだって素人じゃない。子猫を苛めるときは集団でかかる狼どもが、狩人を相手にするときは慎重にもなるわな」
ハヤマお爺さんは周りをチラチラ見ています。私たちには見えない何かがいるのかもしれないと考えると、少し怖くなりました。
「……斥候役が六匹。道中で遊んでいるのが八匹。奥の樹に九匹。狼さんは全部で二十三匹いますね」
マツバラさんが冷静に答えました。赤童がそんなにたくさんいるのでしょうか?それに数字がやたらと具体的なのも気になります。
「え…一人につき八匹くらい倒さなきゃならない計算じゃないですか?大丈夫ですか?」
ナオくんはやってはいけない計算をしてしまいました。
「ボウズ、猟銃持ちはオレだけだ」
ハヤマお爺さんは腰に付けっぱなしの棒状のものを指でコツンと叩きました。木を叩く乾いた音でした。
「ハンターはオレ一人。……女学生はレーダー役で、……オカマ野郎は…弾倉持ちといったところか」
ハヤマさんなりに工夫を凝らした言い回しなのでしょう。この林では、名前を呼ぶことは絶対のタブーなのですから。
「勘弁してくださいよ。何で私だけ色々と酷い扱いなんですか」
シマヅさんが不満を申し立てましたが
「文句を言うな。せっかく、ここまで上手い喩えが続いたんだ。空気を読んで“スロー”しろ」
ハヤマお爺さんは何故か得意気に却下しました。しかも何かが盛大に間違っています。無理して横文字を使って目も当てられないことになるパターンです。
ですが、細かいことに拘っていられない状況が私たちの目の前に立ちはだかりました。
葉の擦れ合う音とともに、何かが見えました。
それは一瞬の出来事で、私には動物か何かが前を通り過ぎたように見えました。
三人の大人たちが足を止めました。
「いるな」
ハヤマお爺さんが腰に差した長物の布袋についた紐を引いて、解きました。
「やりますか」
シマヅさんも胸の内ポケットに手を入れました。
私は戸惑ってしまいました。この人たちは現れた何かが赤童であることを大前提に動こうとしていました。
「待ってください。もしかしたら、林に棲む動物かもしれないじゃないですか」
私はつい、横から余計な口を出してしまいました。そうせずにはいられなかったのです。
「……と言っているが、お前にはどう見える?」
ハヤマお爺さんは、どうしてかはわかりませんがマツバラさんを長物でつつきました。
「……。…イクコちゃん。残念だけど、猫さんでも犬さんでもないの。真っ赤なの」
マツバラさんはまた、その目で見たかのように言います。
「……どうしてわかるんですか?マ…お姉さん、目が良いんですか?」
私には、何かいるぐらいにしか見えませんでした。でも、マツバラさんは矢鱈に自信たっぷりにものを言います。
マツバラさんは目を背けました。どうやら聞いてはいけないことを聞いてしまったようです。私にはとても気になることなのに、それが禁忌なんてズルいような気がしました。
「……はい。私、よく見える子なんです。『ジャキ』に関してだけは」
私にはマツバラさんの言ったことが感覚でわかりました。このひとはいわゆる『見える人』なのでしょう。人には見えないものが見えてしまう人なんでしょう。もちろんハヤマお爺さんもシマヅさんも見える人でしょうけど、マツバラさんはもっとよく見える人なのでしょう。
「……左手の藪の中です。気をつけてください、私たちのことを見定めています」
マツバラさんがそう言うと、シマヅさんがハヤマさんに何かを渡しました。それは御札でした。何やらわけのわからない文字の書かれた、不思議な御札です。
ハヤマさんは布袋を外しました。袋から出てきたのは、綺麗な白木造りの木刀でした。表に出ただけで、新鮮な木の匂いが漂います。お土産屋さんで売っているような木刀とは違う、何か特別なものだということが素人の私でもわかりました。
ハヤマさんが刀身を御札の紙で包み拭うと、木刀が一瞬だけ光ったように見えました。多分、気のせいだったように思います。私のように特別な力を持たないただの子供に、ミカドさんの力が見えるはずがないのですから。
「悪・鬼・退・散!」
ハヤマさんが木刀を上段に振りかぶり、藪に打ち下ろしました。
ギャッッッ!
山鳥が鳴くような声が林に響きました。全身を震わせるような、不気味な声でした。
「やりましたか?」
シマヅさんが訊ねると、ハヤマさんは首を横に振りました。
「かすっただけだ。化け物め、速すぎるわ」
ハヤマさんは歯を食いしばっています。
私は不安にかられました。ハヤマさんはきっと、剣の達人なのでしょう。マツバラさんが探し、シマヅさんが補佐を務め、ハヤマさんが狩る。それがこの三人の戦術なのでしょうが、不意を突いても赤童には逃げられてしまう有り様です。
マツバラさんが見立てたところによると、赤童の数は二十以上。こんな調子では囲まれたらあっという間に倒されてしまうようにしか思えません。
「あの…マジ、勝てるんですかコレ?」
ナオくんも私と同じ心配をしたようです。戦力差は明らかにしか見えません。
「……ボウズ、誰が戦をすると言った?」
ハヤマさんが謎めいたことを口走りました。私たちにはさっぱり意味不明です。
「私たちには、二つの読み違いがあったようですね」
シマヅさんが語り始めました。
「まず、赤童たちの戦力は予想より上回っています。魑魅魍魎が二十以上。はっきりいって、私たちではせいぜい二匹前後と心中するので精一杯でしょう」
シマヅさんの感想は、まさに妥当と呼ぶに相応しいものでした。どう考えたって、勝ち筋が見つかる気がしないのです。
「きやつらは私たちに総力戦を挑めば、問題なく殲滅できるはずなのです。たかだか数匹の犠牲で済むというのに、それをしない。どうしてだかわかりますか?」
シマヅさんのナゾナゾが私たちのような素人に解ける道理がありません。私もナオくんも、首を横に振ることしかできません。
「きやつらは、仲間の命を惜しんでいるんです。これが私たちの読み違えた第二の誤算なのですが、これは良い方向に転んでくれました。化け物のくせに、まるで人間のようなものの考え方をするんです。奇妙な話ですが、結果的に攻め殺されることはなくなったのわけですがね……」
シマヅさんは、それがまるでとても気持ちの悪いことであるかのように言いました。でも、私は全く逆の感想を持ちました。
「お化けなのに、仲間想いの優しいところもあるんですね。意外です」
私は何の気なしにそう言ったのですが、シマヅさんは私のことを食い入るように見つめたのです。
「……ごめんなさい。余計なことを口にして……」
私は謝ったのですが、意外にもシマヅさんは怒ったわけではありませんでした。
「いやいや、その発想はなかっただけのことです。きやつらはあくまで本能でそうしているものとしか考えていなかったのですが…そうか、優しさか……」
シマヅさんは考え込んでしまいました。私のような子供の意見なんて笑って流すのが正解だろうに、なんだか変わった人です。
「で、どうするんですか?戦わないなら、ショウヘイはどうなるんですか?」
ナオくんの質問に、マツバラさんが答えました。
「話合うことにしましょう。私たちはショウちゃんを元に戻して貰えればいい。赤童さんが戦いを回避したいというなら、交渉の余地はあると思われます。
その場合、必要となるのは接点です。私たちには赤童さんとの繋がりは何一つありません。でも、イクコちゃんたちは赤童さんと大きく関わる一族の傍系です。ですので…また大変申し訳ないんですが、交渉の大部分をお二人に負ってもらうことになるかと……」
マツバラさんは、また非常に申し訳なさそうに言いました。
「かまわない。オレだって男だぜ。それに……」
ナオくんは耳たぶまで真っ赤にして言いました。
「君たちが来てくれなかったら、オレはここまで来ることも出来なかった。君がいるから、あいつらに脅威となる要素があるから、交渉に持ち込めるんだろ?感謝の言葉もない」
ナオくんは両手でマツバラさんの手を握りました。なんなんでしょうか一体。全く脈絡がありません。
なのに、ナオくんもマツバラさんも顔を赤らめて対面しています。わけがわかりません。
「マセガキどもが、言ってることは間違っちゃいないが、やってることは間違いだらけだぞ」
ハヤマさんが二人の頭に拳骨でグリグリしました。お爺さんの仰る通りです。いいぞもっとやれ、くらいに私は思いました。
「行こう。これから大変なことになりそうだ」
シマヅさんがそう言って、前に歩み始めました。私もナオくんに思いっきり軽蔑の視線を向けた後、シマヅさんの後に続きました。ナオくんのことが、なんだかひどく嫌いになりました。
私たちが昨日辿り着いてしまったあの場所に到着したとき
『がじゅまるさま』に対面したとき
そこは昨日とはまるで別の場所でした。
そこは、恐怖と名の付く場所のはずでした。近付くだけで体が震え、視界が歪む邪気に満ち溢れた場所の筈でした。
ところが私たちが再びそこに至ったとき、そこは単なる大樹の生えた場所でした。ただ、何故か墓石が転がっている点だけが奇妙といえば奇妙な、それだけの場所でした。観光地といわれたらそれで信じてしまいそうな、平凡な場所だったのです。
ただしそれが、やはりミカドさんたちのお陰であることは明白でした。
「随分と、良い子ちゃんしていますね」
マツバラさんの一言が、その事実を裏付けていました。赤童たちにとって、仲間を失うことは余程の痛手となることのようです。
「これ、また樹の根っこに一撃加えりゃイケちゃうんじゃないですかね?」
ナオくんが素人判断にしては名案に思えることを口にしました。
「残念だが、そうはいかん」
ハヤマお爺さんが却下しました。
「オレの剣なら一発なのは、奴も百も承知だ。簡易な結界を張ってやがる。オレたちは奴に近付けんぞこりゃ」
ミカドさんたち三人は、獣道に突っ立ったまま、そこから動こうとしません。というより、動けないのでしょう。何かが足止めしていて、それ以上前に進むことができないのです。
皮肉にも、樹に近付くことのできるのは何の力も持たないナオくんと私でした。なぜなら、私たちには何も力が無いからです。何の力もないので、近付かせようがどうしようが何の心配もいらないのです。おそらくハヤマさんの木刀を貸して貰ったとしても、私たちには『がじゅまるさま』に打撃を与えられないのです。
ナオくんはマツバラさんのそばから離れませんでした。お母さんにしがみつく子供みたいに、くっついたままでした。
(何て情けないんだろう)
ナオくんの格好いいところばかりを見ていた私にとって、幻滅もいいところでした。
私は『がじゅまる』に向かって歩きました。今は何もできないマツバラさんたちにしがみついていたって、どうにもならないのです。
「ヤスコちゃん、迂闊に動かないで!」
シマヅさんが注意するのを、私は完全に黙殺しました。得体の知れない怒りがこみ上げてきて、足が止まりませんでした。
「……あれ、今…?」
マツバラさんが後ろで何か言いましたが、私はまたもや黙殺しようとしました。
そして
気付いてしまいました。
シマヅさんが犯してしまった、致命的なミスに。
私の耳に、笑い声が響いてきました。
地の底から響いてくるような、引き笑いです。
私はみんなの方向を振り向きました。……確か、振り向いたんだと思います。
記憶はあやふやです。
私は立ったまま意識を失ってしまったのです。地の底に魂を吸い取られるような、奈落の底に落ちるような感覚に落ちていったのです。