:文武は曇天を仰ぐ
武家出身の女学生は、普通に恋をしていただけなんです。
私は、田舎からこの都会にやって来た。
私の家は、江戸時代、帝に仕えていた家臣の名家であり、私はその血を濃く受け継いでしまった。
小さい頃は、家の為だと、あらゆる武道に取り組んだ。そのせいで、同年代はおろか、何年も上の上級生の男子生徒十五人が束になって私にかかってきても、涼しい顔で片付けられるようになった。
そのせいで、私は『化物女』と呼ばれてきた。
中学、高校では、面白がって私につっかかってくる、馬鹿な不良も増えた。強姦目的だった男子生徒も多かった。
そんな田舎が嫌で、私は都会の大学の国文科を志望し、見事に合格して、今は三回生だ。サークルは剣道部に入り、友達も増えて、嬉しい限りだ。
しかし、私が本当に嬉しいのは、都会で一人暮らしでも、友達が増えた事でも、ファッションセンスが上がったことでも、田舎よりモテた事でもない。
ある教授に会えた事だ。
少し長い黒髪に、切れ長の濃い青の瞳。180越える長身を包む黒いスーツ。また、本や勉強をする時は眼鏡をかけるなど、他の女学生からも高得点の、若手の教授である。
私は、ただでさえ人気の教授のゼミを受けようと粘り、なんとか八つしかない席の一つを取った。
「立氷 維咲です。よろしくお願いします」
自己紹介が私から周り、最後の教授に行き渡る。
「で、私はこのゼミの教授、千影 誠十郎です。八人しかいませんが、仲良くやっていきましょう」
私は、千影教授に一目惚れした。いや、私だけじゃないのは知っている。それでも。
「立氷……?」
私は、千影誠十郎さんが大好きです。
千影誠十郎准教授。歳は確か、26。国文学を担当していて、一度行ったことがあるが、教授の部屋は書物だらけであった。唯一のスペースは机だけというぐらい、あらゆる本で埋め尽くされていたのだ。その山に湧いたネズミと仲良くしているらしいが。
教授の特徴は、なんといっても、その容姿だ。おかげで教授の講義は、いつも目の保養目的の女学生で満帆であり、なかなか取れないことが多い。
それだけ、教授は大学の人気者だった。
初夏のある日、私はその人気者の背中をようやく見つけた。
「千影教授!」
教授は振り向いてくれた。こんな暑苦しい日だと言うのに、なんとも涼しそうな顔をしている。私は息を整え、鞄の中からレポートを出した。
「さ、さっき渡しそびれちゃって……。すみません、今からでも間に合いますか…?」
私は教授の顔を伺うと、呆れ顔で溜め息をつかれた。
「まぁ、いいだろう。次は気を付けるようにな……」
教授はレポートで、低くなった私の頭を軽く叩いた。顔を上げると、教授は薄く笑っていた。
「…………」
「立氷…?」
私としたことが。見とれてしまった。私は「なんでもないです」と顔を逸らした。
「じゃ、じゃぁ、私はこれで……」
「あ、立氷」
今度は教授が引き留めてきた。
「お前、次、暇…?」
「授業は一応、入ってませんけど……」
「ちょっと私の部屋の片付け、手伝ってくれないか?」
私の思考が一旦止まる。
「…………」
「…立氷…?」
「は、はいぃ!?」
「やっぱ嫌……?」
「い、いぃいえぇぇえ!! 喜んで手伝わせていただきま…ゴホッ! ケホッ!」
歓喜のあまり噎せてしまった。
いや、待て、暫し。
「あの、他に手伝う人は…?」
このような二枚目が誘って来る場合、社交性が高い二枚目は、他の人にも片付けの応援を要請しているに違いない。私はこのような展開の先は読めている。片想い中の女の子が、『家に来ない?』と主人公を誘い、二言目か家に行けば案の定『大人数の方が楽しいものね!』と、五、六人既に、お邪魔していますというオチに違いない。
教授は気にしていないような顔をしているが、自分が黄色い声の標的になっていることは気づいているだろう。解っている上で、このような古典的な誘い方をするとは。なかなかサディスティックではないか。
「いや、お前一人だけ、だけど……」
「…………」
「私は一人以上に集られるのが嫌いなんでね……。立氷、一人だけだけど、よろしく頼むよ……」
神様はいたのだと、痛感した。
来るのが久し振りではあるが、教授の部屋はすごい。すごい本の山だ。相も変わらず埃っぽく、紙屑が散乱している。
「…………」
「とりあえず、司馬法の本、その辺に纏めといて。古事記や古典のは、出来れば空いてる本棚に頼むよ…」
教授は慣れた足取りでデスクに向かう。私は荷物を置くと、その場にある本を平積みにして持ち上げる。虫に食われ、黄ばんだページや、まだ紐で綴じられている本など様々だ。私は感心して、教授に目を向けると、教授は頬杖を付き、パソコンを操作していた。
「あ、あの、教授は何を……?」
「某動画サイトのトークソフト使ってるフリーゲームの実況動画見てるけど……。何か問題でも……?」
「大アリですよ! 私だけに片付けさせて、自分は悠々と娯楽に走らないで下さい!」
私は本を本棚に入れると、埃が降ってきて咳き込む。教授は私のツッコミなど無視して、実況動画とやらを見て笑っている。
かなり貴重だった。教授は仏頂面が売りなのだが、こうやって笑うところは見たことがない。なんとも可愛らしい。
「立氷、ほら、そこの本も片付けて」
「………っ!」
私は目も合わせず指示を出してくる教授に、少し怒りを覚えた。しかし私は、言われた通り、指差された本を掴むと、指先に何か、フサフサした生暖かい何かが触れて、確認すると、
チュウ。
「いやあぁぁぁあぁ!!?」
私は腰を抜かして悲鳴を上げた。私の指先に触れたのは、一匹の、パンダのようなネズミだった。
「あ、やっぱ驚く……?」
教授は解りきっていたように、私の方に寄ってきた。そして鼻をピクピク動かすネズミに手を差し出すと、ネズミは教授の手のひらによじ登る。
「女子って、こういうの好きなんじゃないの……?」
「キャラクター限定ですよ!」
「おかしいな……。最近の女子の守備範囲は爬虫類まで伸びたって聞いたんだが…」
「何処の情報ですか!?」
教授は答えず、ネズミと親しげだ。
「…か、飼ってるんですか?」
「ここに住み着いてたらしくて……。以来、お友達だ」
手のひらの上で、チュウと鳴くネズミ。私は吹き出して笑い出してしまった。
「……どうかしたか? 立氷…」
どうかしたかって。どうかしてますよ、教授。集られるのが嫌いな教授の『お友達』が、まさかネズミとは思わない。
「教授……。ハハッ、し、少公女みたいですね……プハッ、ハハ……!」
「せめてMr.ディ●ニーにしてくれ…」
しかし教授は考える。
「しかしなぁ……。白雪姫をあそこまで変えられて、一回本当に怒ったんだよな…」
「そうなんです…?」
確かに、あの有名アニメーションは、完全に話を変えている。本家グリム童話があまりにもグロッキーだったから変えたというのだが、それはいかがなものか。
「白雪姫って、確か訪問販売に三回引っ掛かるんですよね…?」
「あぁ。最初は腰紐、次に櫛、最後に毒リンゴ」
「白雪姫って馬鹿ですよね」
「その馬鹿さがミソなんじゃないか。これは持論だが、あのグリム童話は、『人を安易に信じるな』っていう教訓なんだよ」
「…あとは、三匹のコブタもそうですよね……?」
私は本を片付けながら問う。
「あぁ。三匹の内、二匹は助からない」
「シンデレラにあんな妖精のお婆さん出てきませんし……」
「姉様方はガラスの靴を履こうと、踵切り落とすしな。あと鳩が出てくるし……」
「全部を否定する気はありませんけど、百年以上の重みが一気になくなりますよね…」
「それに私はキレた」
すると、片付けていた本の隙間から、スルリと新聞の切り抜きが落ちた。私はそれを拾い上げると、流れでその記事を読んでみた。
「……IQ測定不可。現世に置いて、唯一無二の天才高校生……」
私は黙読で読み進める。
『定期テスト、全国模試、入試共にオールトータルスコアを叩き出し、関数計算、かの有名数学者の編み出した数式までも解いてしまう、IQ測定不可の逸材。千影 藤九郎17歳……。本日、市長から記念品が渡され……』
すると、その千影藤九郎らしき人物の写真が、私の目に入る。
かなりの好青年だ。思わず見とれてしまう。新聞の白黒でも充分伝わるかっこよさであった。
しかしすごい。つまり、この高校生は、全九教科の百点満点のテストを受けた場合、900点を普通に取るということなのだ。それでいて、関数計算までも普通に解いてしまうとは。それにここまできたら、語彙力も半端ではないだろう。生きたExcel。生きた広辞苑と言ったところか。私は少し、凄いと思う反面、怖いと思った。
「何見てるの…?」
「ぎゃあぁ!?」
なんてこった。好きな人の前で、なんて声を上げているのだ、私は。教授はそんな私にお構い無く、記事を私の手から取る。
「……すごいですよね。この、高校生。なんでしたっけ……えっと…」
「千影藤九郎」
「そう、千影藤九郎………って、千影……。千影って……」
千影藤九郎……。千影…誠十郎……。
私は目を教授に向けると、教授は小首を傾げて、私を見た。
「…ん? あぁ、そうだよ? 藤九郎は私の弟だよ……?」
「……………」
「目元とか、似てるだろ…?」
私は写真と教授を見比べる。確かに、目元どころか、顔は瓜二つに等しい。
「弟さん、カッコいいですね。モテるんじゃないですか…?」
「あぁ…。女の子にストーキングされてた時もあったからな……。うん…?」
記事で扇いでいた教授が、記事の裏側を見る。教授が目を細めるので、私も見てみた。
「立氷…、お前知ってる…?」
「『都市伝説に憑かれたら、殺される』っていう噂……」