:慧眼は蛇行を装う 肆
−−−……そっちは…。
ボクは何を言っているんだ。そっちとは。そっち……。
そっちに何があると言うのだ。
「………」
解らない。駄目だ。ボクは消えた背中に、何を言おうとしていたのだ。
「待って…!」
ボクはランドセルをその場に捨てた。
かなり時間が経ってしまった。学校も始まっている。
それにしまった、見失った。出たのは大通りで、見渡す限り、朝一ラッシュアワーに車が数台引っ掛かっている。人も増えてきたが、某スクランブル交差点ほどではない。ボクは藤九郎兄ちゃんの背中を探した。
藤九郎兄ちゃんは人混みが苦手だ。こんな大通りを長時間歩くはずもない。ボクは路地に目を凝らして探した。
「……!!」
いた。
臙脂色のフード。ボクは走った。人の波に消えそうな背中から目を離さないように、人の波を分けた。
「ま、って…っ! 待ってよ…っ!」
−−−……っ!!
僅かに見えた小火。藤九郎兄ちゃんの背中で小さく、一瞬、蠢いた。かなり距離があるはずなのに、それを見た、可視出来てしまったボクの足は止まる。
今までに感じた事のない、ドス黒い霊波動。鋤くんでしまった。
それと同時に、頭に流れた予言。
藤九郎兄ちゃんは、死ぬ。
「…いや、いやだよ……!」
止めなくては。そっちに行っては駄目だと。ボクは裸足になると、再び追いかけて行った。今のボクは数珠も幣も持っていない。払えなくとも、今は藤九郎兄ちゃんを、そっちに行かせてはならない。
いつの間にか人混みを抜けた。藤九郎兄ちゃんの姿はない。
ボクは狭い路地を確認した。だがいない。
気配。気配を感じられないか。しかしそれも叶わない。
ボクは直感で一つの路地に入る。さっきとは打って変わって、静かすぎる。静かすぎて気味が悪い。別次元に飛ばされた気分だ。
ボクはとりあえず走った。ボクのペタペタという足音だけが聞こえる。鳥の鳴き声も、自転車が走る音も、会話も、何一つ聞こえない。鼓膜でも破れて聞こえなくなったのかとも疑う。
「はぁ……はぁ……」
ボクは膝に手をついた。耳の後ろに汗が流れる。
「駄目だ…。何処に……」
もうボクが見た『そっち』には来てしまっているだろう。早く藤九郎兄ちゃんを探さなければ。
−−−…そっちに……。
−−−…来てしまっている……?
ボクの身体が一瞬にして冷めた。
ボクが感じてしまった、いけない『そっち』。
「……これ、マズくない、かな…」
「見ーつけた」
−−−………。
背後から、不気味な声。まるで夏の心霊映画に当てられるような、人工的に複数の音声を合わせ作られた、そんな声。
背中を押されそうな、膝を折られそうな気配を感じつつ、ボクは後ろを振り返った。
「………」
「…いきなり出ていくんだもの、探したよ、弥做ちゃん……?」
何故だ。なんで、どうして…。『コレ』がここに……。
「あ、あ……あ…」
「ちゃンと髪のケ結バないto……。ちャんと私ヲ見テ、ね…?」
鏡。鏡だ。母の形見である、鏡。
「ほら、早く……」
動いていないが、距離を詰められたような気配に、ボクの足は後ろに下がり、そのまま走り出した。
「どうシテni、ゲるのぉぉ…?」
「いや…。やだっ! 来ないで!!」
「逃げないでヨ、ねぇ…。ねぇぇぇ、ぇええぇぇえeeEぇ、Ee、ぇeえぇ……!!!?」
ボクは逃げた。必死になって、目の前にある道なりに逃げた。気配で解る。あの鏡は追いかけてきている。ボクはとにかく逃げ、巻こうと角を曲がる。が
「ざーんねーん…」
鏡は先回りしていた。足なんてついていない。何故だ。
「鬼ごっこカなぁa…? 負keないョおぉ?」
「ひ、ぁ……っ!!!?」
踵を返して、再び逃げる。早くここから、あの鏡から逃げなければ。
しかし、私の勘は当たっていた。やはりあの鏡は母の形見と言えど、見てはいけないモノだったのだ。
「…見ーつけたぁaあぁ…」
また先回りされた。急ブレーキをかけた踵が擦れて皮が剥けたか。足の裏が血でベタベタする。
ボクはまた逃げる方向を変えた。路地を抜けて、ヒト気のない四つ角に出る。何処に逃げればいい。とりあえず、大通りに出そうな道に進んだ。
進もうとした。
「…あれ?」
四つ角、ではない。ここは何処だ。壁には無数のドア。その向かいには高い景色。見覚えがあった。
「ま、マンション…?」
しかもここは、藤九郎兄ちゃんが住んでいるマンション。
「藤九郎兄ちゃん……!」
一番端の部屋の番号で、藤九郎兄ちゃんの住んでいる部屋の階を覚えていた。ここはその階だ。ボクは部屋に向かい、ドアノブに手をかけた。
なんとドアは開いていた。ボクはその中に飛び込む。
「藤九郎兄ちゃんっ!!」
「もうおしまいなの…?」
ボクは目を疑った。目の前には奏お兄ちゃんらしき人物がいた。
「あは、あはは…っ! あははははははっ!! あはははハハはハハハはははははhaハハはははHaは……!!!!!!」
発狂したように、奏お兄ちゃんらしき人物が笑った。が、らしきというように、目の前の奏お兄ちゃんは生きてる感じがしない。むしろ、死んでいる。その足元には。
藤九郎兄ちゃんがいた。
「………!!?」
ボクは口を押さえた。言葉を失った。
気を感じない。死んでいる。きっと、おそらく、いや。目の前で高笑う彼が殺した。
「あはは、は……ハ…っ、は……」
奏お兄ちゃんらしき人物は、いきなり膝をついて、ゆっくりその場に倒れた。
頭がこんがらがる。
待ってほしい。ボクの目の前には、藤九郎兄ちゃんが死んでいて、それを殺したのは奏お兄ちゃんらしき人物。そうなのか?
待て。足りない。気配が、途絶えかけている気配がある。ボクは部屋に入った。
藤九郎兄ちゃんを見ると、心臓を一突きにされているのか、吐血に加え傷口からの出血で床が血の海になっていた。倒れた奏お兄ちゃんらしき人物を起こさないよう、半開きになっている部屋に入った。
「…奏お兄ちゃん…っ!!」
奏お兄ちゃんが倒れていた。確証がある。ボクの後ろで倒れているらしき人物とは全然違う。こちらが本物だ。
だが、死んでいる。
ボクはその場に膝をついた。
「…な、なんで……なんでこんな…」
「見ーつけたぁ」
その部屋の鏡から声が聞こえた。ボクが瞬きすると、そこにはボクの部屋にあった鏡に変わる。
「つーかまーえたぁ」
「いやぁぁぁぁっ!!!」
ボクの身体に何か異変が起きる。顔を上げると、何か黒い影がボクの前に現れる。
黒い狐だ。
「……守護霊…」
黒い影、狐は揺らいだ。すると、僕の手の中に身体を細くして入ってきた。更にはその身体を狐から、剣になった。
「わ……っ!」
ズシリと重い。なんなのだこれは。
「巫女の剣……」
鏡が呟いた。
「またワタシの邪マをスルnoか……!!!」
鏡が光った。ボクは反射的に剣を構えた。だが、どうする。
しかし、この剣。
『紫鏡と剣』
あのお兄ちゃんが言っていた。まさか、これがその剣だというのか。形見が守護霊で剣。
これで、払えると言うのか。
受け継がれたのは敵と、味方。
「…お母さん、ふざけないでよ……」
ボクは立ち上がって、剣に力を込めた。
「砕けrォ剣いいぃぃぃいぃぃっ!!!」
叫ぶ鏡を、ボクはそれを平然と、無言で斬った。
砕けたのは鏡だった。鏡の破片が散らばり、太陽に反射する。剣も消えると、ボクはやっと現実に引き戻されたように、そこに呆然と立ち尽くした。
「ふざけないでよ……」
「救えたかもしれないのに……」
ボクは拳を固くして、歯を食い縛った。
この事を知っていれば。もっと早ければ。救えたかもしれないのに。
しかし、藤九郎兄ちゃんは死んでしまった。奏お兄ちゃんも死んでしまった。
「う、あ……うわぁぁぁぁん…!!」
一度に失うなんて思ってなかった。しかしこれが現実だ。すぐに受け入れた自分にも驚いたが、こんな現実を見たくなかった。
「君のせいじゃないよ」
ボクは後ろを振り返った。あのお兄ちゃんが場違いの笑顔を向けていたのだ。
「これは運命だったんだよ」
「そんなはずない!!」
「言い切れるのかい? 神でもない君が」
言葉が詰まった。
「…なにしてたの、まさか黙って見てたのっ!!?」
「人聞きの悪い事を言わないでよお嬢さん。まぁ、俺は元々こういうのに関心がないけどね。そこで死んでる藤九郎君みたいに」
「あなたと藤九郎兄ちゃんを一緒にしないでっっ!!!」
それは一瞬だった。お兄ちゃんの手がいきなり伸びてきて、首を絞められた。身体がその細い腕によって持ち上がる。見ると、お兄ちゃんの目は冷ややかだった。
おかしい、何処かで見たことがある。
「口を慎めガキ。現実を見ろ。…人間なんてな、全員裏を返せば同じなんだよ。どいつもこいつも見てるモンと言ってることは上辺だけだ。勿論本心で言ってる奴もいるだろうがな、そんなのは粒子に近い。残酷さの塊。それがお前ら人間だよ」
「か、は……っ!!?」
「皆同じなんだよ。仰天ニュースらで美化されてるVTR然り、100年以上語り継がれた内容はロマンチックに、薄く安い絵本にされた白雪姫、シンデレラらの御伽噺然り。綺麗事並べてハッピーエンドで済むなんて思うな。…更正される悪人も僅か。いくら王子様がキスしたって、その闇から生き返るなんてあり得ない。真実の通り、家来の一人が木の根に躓いて、棺桶落として林檎を吐かせる。または、お姉様方が三人とも踵を切り落として、無理矢理ガラスの靴を履いて、鳩が爪先に溜まっている血を指摘する度、王子は城と家の間を三往復しないと意味ないんだよ」
視界が狭まる。お兄ちゃんの手に更に力がこもる。その中で兄ちゃんは優しく笑いかける。
「いいかい、お嬢さん。人生、何事も予習なんだぜ……?」
お兄ちゃんがある一点を押さえると、僕の意識は途絶えた。
「奏! 奏、しっかりして!」
後にやって来た肆揮が見たのは、藤九郎の死体と、奏の死体、気絶したドッペルゲンガー。
その三体だけだったという。