:天才は灯籠を行く
千影 藤九郎。
我ながら言うのもなんだが、この名前を街で知らない者はいないだろう。
私は所謂、天才部類に分けられた人間であり、凡才部類に嫌われ、拒まれた人間でもあり、また、えらく遠い所に置き去りされた人間だ。
初めて習うこと、学ぶことは、全て応用までその日の内に頭に入ってしまう。定期テスト、模試は全てオールトータルスコア。
嫌みで無くいうが、私は授業以外で勉強はしていない。むしろ授業もまともに受けていない。習っていない数式も多い。
しかし、いざテストを迎えると、習っていない数式でさえも解けてしまうのだ。
あげくの果てには、関数計算までも、暗算で解けてしまった。陰ながら、昔の数学者が残した解けないと言われていた数式も解けてしまった。
私の頭は、限界を知らない。
−−−異常……。
私は明らかに異常なのだ。
おかしい。
アダムとエヴァは、サタンに唆され、真実の実を食べた事で、後に生まれ行く人間の寿命を縮ませ、脳の機能を20%以下まで低下させたのではなかったのか。
では、私は人間でないのか。
私は異常な程に、才能の波に溺れて、
ついに私は……。
−−−溺死したのだ………。
「藤九郎君」
クラスメイトの瀬能 奏が話し掛けてきた。
なかなかの美少年顔であり、背も低く小柄で可愛らしい。女装してもバレないのではないか。
彼もなかなかの才能の塊である。
名高い音楽家の息子で、ヴァイオリンの腕が認められている。双子の弟である肆揮は、コンダクターをしている。
私に続いて、この街では有名な人物である。
「…なに?」
「うん。今日、数学で当たりそうなんだ。教えてもらいたくって……」
ちなみに、この天才を通り越して化物へと成り下がった私に話し掛けてくるのは、奏、肆揮の双子を含め、近所のマセガキぐらいだ。
見せてもらったノートは、確かに数式が途中で切れている。
「あぁ、ここ…? ここは、簡単に考えると……」
シャープペンを取ると、勝手に手が動く。説明が手に追い付かない。
「……で、ここを逆符号で掛けて……はい」
「あぁ、なるほど…。やっぱり、藤九郎君の説明は解りやすいよ。…ついでにさ、ここの公式の使い方、教えてよ」
断る理由もなく、私は奏に教えてやった。
「……藤九郎君。今日も午前で帰っちゃうの…?」
「そのつもりだけど……?」
即答だ。
私がいては、授業が不快でならないだろう。それに、私には必要ない。これからの勉学など。
「…出席日数、大丈夫なの……?」
「さぁ…? 担任に確認しない事には…。それに、私がいては、このクラスの殺伐とした空気は晴れないでしょう…?」
奏は尻目に他のクラスメイトを伺う。私から見ても解る。皆、蔑んだ目で見ている、冷めた鋭利な視線が、奏の背中に突き刺さるのが解る。
「…でも……」
「ありがとう、奏。…私は帰る」
既に片付けていたリュックを背負うと、そのまま教室を出ていった。
学ランの下に着た臙脂色のフードパーカーを被り、極力目立たないようにしている。寄り道という高校生のデフォなど知った事ではない。速やかに家に帰るのだ。誰もいない小さな部屋に。
歓楽街を抜け、住宅地に出る。
「…藤九郎兄ちゃん……?」
長い前髪とフードの端から、見えたのは、青いワンピースを着た黒髪お下げの女の子だった。後ろには赤いランドセルを背負っている。私はフードを脱いだ。
「弥做……」
桜庭 弥做。近所にある、真宵神社の神主の一人娘だ。小学五年生であるが、今時の小学生のようにマセても、煩くも、生意気でも、放課後の高校生を気取る変に大人びているガキとはまったく違う。普通の、小学生らしい小学生である。その証拠に、彼女は携帯機器も、ゲーム機も持たず、ボードゲームやカードゲームの方が好きらしい。しかし、ジジ様達に囲まれて育ったからといって、まさか麻雀も出来るとは、思いもよらなかった。
私はよく、弥做の世話を任され、親の代わりに入学式にまで出向いた程だ。
「…高校生って、こんな早く帰ってくるの? さんしゃめんだん…?」
「違う。単に早退。…お前は?」
「ボクの所は、特別日課で早いだけ。…クラスは遊ぶ約束と遊び場所の言葉で溢れ返っていたよ」
弥做は私の前では、一人称が『ボク』になるらしい。不思議なのは違和感がない事だ。慣れのせいと思いたい。
「…ねぇ、兄ちゃん。もし今から暇ならさ、算数、教えてくれない…? 兄ちゃん、頭いいんでしょ?」
人一倍新聞や書物を読む弥做は、情報収集が得意である。私が全国に名が知れ渡った事を知ったのも、彼女が新聞にそう載っていた事を教えてくれたからである。
『藤九郎兄ちゃん、目立つの嫌なんでしょ? もしかしたら、新聞見て寄ってくる人がいるかもしれないから……』
なんと気の利く子なのだろう。
その日から私は、フードパーカーを着るようになり、そんな彼女の助言のおかげで、街では声を掛けられる事はなかった。
私は小学生相手に、借りを作りすぎた。
「解った。家においで」
「え、藤九郎兄ちゃんの部屋、行っていいの…?」
「もれなく冷茶か麦茶くらいなら出してやるぞ。それか帰り道、なんか買ってやろうか……?」
「…いいの……?」
「あぁ。何故か今、すごく気分がいい」
「珍しいね」
「違いない。私にもよく解らん」
いや、弥做と話していて、気分が晴れたのやもしれない。
私自身、心を開ける相手が、まだ無垢な小学生というのは、些か安心出来る。
「じゃぁ、お言葉に甘えさせていただきます……」
深々と頭を下げてきた。
「何が飲みたい?」
彼女は顔を上げた。
「ボク一回、炭酸飲料を飲んでみたい!」
キラキラと目を輝かせながら言ってきた。この小学生は、炭酸飲料を飲んだことがないらしい。あの爽快さを知らないとは、これは教えてやらねばならない。
「よし、おいで。そこの自販機にコーラがあるから、それでいい?」
「うん」
彼女は早くと言いたいのか、その小さな手で私の汗ばんだ手を握り、家の方へと引く。
−−−…………。
「…………!!?」
私は振り返った。
鋭い視線。一瞬で背筋が凍り付きそうな、鋭利な視線。
「藤九郎兄ちゃん…?」
弥做の声で我に帰る。しかし、一瞬のその目線らしき気配に、私の汗腺は暴発した。
「…いや、なんでもない……」
私はその場を後にした。
しかし私は怖かった。
この経験は、一度や二度ではないのだから。
「〜〜〜〜〜〜!!!」
初めての炭酸に、弥做は涙を目尻に浮かべ、ペットボトルを握り潰す勢いで握る。
「し、染みる〜……。でも、美味しい」
「あんまり飲みすぎると、お腹痛くなるから、気を付けて」
「そうなの…?」
「炭酸っていうのは、簡単に言えば、二酸化炭素を身体に入れてると同じだから。ほら、人間って、酸素を取り込んで、二酸化炭素を吐いてるだろ? まぁ、身体の排出システムに背いてるって事だな」
弥做は小首を傾げる。いや、無理もない。相手は小学生だ。私も無神経な男でなければ、クレヨン48色を使って描いた虹がある事を信じてやりたいし、雲が水蒸気の塊と学ぶまでは、雲に乗りたいというメルヘンな夢が叶いますようにと願ってやるつもりでいる。
「で、藤九郎兄ちゃん。これ………」
弥做が算数のノートを広げてきた。そこにあったのは、俗にいう連立方程式であった。
「これが解らないの……」
これであればすぐに解ける。私は弥做の可愛らしいペンケースから鉛筆を借りると、そばにあったルーズリーフに解き方を書いていく。
「最小公倍数は解るよな?」
「うん」
「じゃぁ、2の段と3の段で、一番最初に答えが同じになる九九は…?」
「……6…?」
「そう。で、2の段は、2に3をかけたら6になっただろう? だから、分子にも同じように3をかけてやればいい。3の段の方も、2を分子にかければ………」
鉛筆を指し棒代わりに使いながら、説明すると、弥做は小さく相槌を打ちながら聞いて、解き終わると、私の方を向いてきた。
「すごい。あっという間に……」
「まぁ、習ったから……。ほら、解ったらやってごらん」
弥做は頷くと、鉛筆を握り、問題を解き始めた。小さく呟きながら、途中式が完成していく。
−−−チリ……ッ!
「…………!!?」
まただ。
背中がぞわぞわする。
「ねぇ、藤九郎兄ちゃん……ここ、分母、4で合って……兄ちゃん…?」
「……あ、あぁ……。うん、ごめん。なんでもない……」
熱でもあるのではないか。そうだ。熱があるのだ。弥做の宿題を見たら、すぐに寝よう。
「藤九郎兄ちゃん。汗、酷いよ…?」
「いや、少し暑いだけだから……」
私はすぐに弥做の解いた問題を見てやる。正解を告げると、弥做は小さくガッツポーズをする。
「…ねぇ、藤九郎兄ちゃん。テレビ見てもいい? この時間、再放送のアニメやってて……」
「あぁ、いいよ」
高校生の一人暮らしの部屋のテレビの大きさには、突っ込まないでいただきたいが。私はリモコンの電源ボタンを押す。
『続いてのニュースです。今朝、都内マンションにて、女学生の遺体が発見されました。遺体は鋭利な刃物のような物で全身20箇所以上刺されており、即死。警察は詳しい捜査を進めています……』
「……………」
「ねぇ、藤九郎兄ちゃん。知ってる…?」
弥做が画面を見ながら問い掛けてきた。
「都市伝説に憑かれると、死ぬっていう噂…………」