眠れない
眠れない。
明日は大事な用事があるというのに眠れない。
一度眠れないと自覚すると、どんな些細なことも気になって眠れないのは何故だろう。
それは例えば漏れ聞こえてくる音だ。
外から時折聞こえてくる自動車の通過音。日頃は気にならない冷蔵庫の低く唸る駆動音。何より刻一刻と眠る時間がなくなっていくのを告げる秒針の回転音。
時を刻むとは正にこのこと。秒針が時計板を渡りゆく音が、時間を細切れに俺から刻み取っていくかのようだ。
眠れない。
このままいけば、一睡もしないままに朝を迎えてしまうことになりそうだ。
焦れば焦る程眠気は俺を襲ってくれない。ほんの僅かのことが、俺の意識を覚まさせる。
それは例えば隠し切れない光だ。
日頃は重宝する照明のリモコンのほのかな光。主電源が入っていることを告げる数々の生活家電の赤い光。閉め切っているはずのカーテンから漏れる街灯の光。
人類は本当に暗闇を怖がって進化してきたのだろう。部屋を閉め切り目をつぶっても、尚灯りからは完全に逃れられないこの現実に、俺は増々そんなことを考えて眠れなくなる。
眠れない。
明日はただ起きればいいという訳にはいかないのだ。
ぐっすり眠って万全の体調で臨まないといけないのだ。
眠らなくては思う程、俺は日頃は意識しないことに気を取られる。
それは例えば逃れられない己の感覚だ。
普段は気にならない寝具の重たさ。足先で収まってくれない寝間着のこそばゆい感触。どちらに身を傾けても、何となく寝心地が定まらない己自身の身体そのもの。
あちらに傾いては、こちらに振り向く。身を僅かに屈めては、思い切り伸び上がってみる。枕の角度を変えてみては、己の首の位置をちまちま定め直す。
眠れない。
どんなに音を気にすまいしても。どんなに堅く目をつぶって光を追い出そうとしても。どんなに己の感覚を考えまいとしても。
意識すればする程、それは正に意識の片隅を突くように眠気から俺を遠ざける。
ちちち。早く寝やがれよ――
秒針の音が意地悪な舌打ちのように聞こえてきた。
まだ眠れないの――
主電源の赤い光が非難の眼差しのように感じられてくる。
お前はいつもそうだもんな――
何より丁度いい姿勢を探れない俺自身の存在が、存在自身を否定するかのように俺をねちねちと責めて立てる。
眠らないと。眠らないと。眠らないと。
だが焦れば焦る程、目は覚めていく。
どうせ今更寝ても一緒だろ? ぐっすり眠ったからって、明日の大事な用事とやらは大丈夫なのか? いっそ、眠れなかったせいにしろよ。大事な用事をこなす自信がないんだろ? いつも通りじゃないか。大切なところで失敗する。寝不足なんて都合のいい言い訳が手に入ってよかったじゃないか。
俺の意識の中で、俺自身の別の人格が囁きかける。いや、勿論囁いているのは俺自身だ。明日の大事な用事を失敗するかもしれないという、俺自身の弱気を呼び起こしている一人芝居の相方だ。
明日の用事? いや、もう今日の用事だ。遠の昔に日は変わってしまっている。
それでも眠れない。眠ろうとしても眠れない。眠り方を忘れたかのように眠れない。眠れ眠れと己に言い聞かしても眠れない。
眠れない。眠れない。眠れない。
眠れ。眠れ。眠れ。
眠らないと。眠らないと。眠らないと。
俺は夜が明けたら大事な用事があるんだ。
だから眠らないと。
俺が己に眠ることを強要していると――
そんなところで目が覚めた。
あれっと一瞬思う。
どうやら、眠れない夢を見て眠っていたらしい。
俺はカーテンの向こうから差し込んでくる朝日にそのことを悟る。
やれやれ。どうやら緊張のあまり、眠れない夢を見てしまったらしい。
だがお陰でぐっすりと眠れた。寝起きの体を意識するに、多分そうだと俺は考える。
俺は夢の内容を思い出せるだけ思い出してみた。なるほど。俺は余程今日の用事を気にかけていたらしい。そんな夢を見る程にだ。
縁起が良かったのか悪かったのか。それはこれからの用事の成果にかかっている。
俺は朝の支度を全て済ませると、学会で発表する論文の最後の確認をすることにした。
不眠症の治療について――
これを発表するのが、眠れない夢を見てしまう程の俺の大事な用事だった。