表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/4

第4話 決戦の魔王城! 崩壊する人間界と新生魔王軍

 魔王城、最奥部にある豪奢な大広間。

 そこに集められた顔ぶれは、いつもの定例軍議とは明らかに違っていた。

 四天王。

 各軍団を統べる軍団長たち。

 兵站、総務、財務、そして人事の各部局長。

 さらには前線から叩き起こされてきた歴戦の将官たちに、普段は奥に引っ込んでいる宮廷付きの文官までいる。

 つまり、魔王軍を動かす中枢の人間が、ほぼ全員集結していた。

 広間を埋めるざわめきは低く、しかし、嵐の前触れのように重かった。


「人事部長が、玉座に呼び出されたらしい」


「ついに何か特大の失敗をやらかしたか」


「前からだいぶ色々とやらかしているだろう」


「いや、今回は“いつもの始末書の範囲”では済まない大罪だ、と聞いたぞ」


 四方八方から突き刺さる無数の視線の先で、ザガンは一切の無表情のまま、大理石の床に立っていた。

 皺ひとつない漆黒の軍装。

 冷たく光る銀縁眼鏡。

 いつも通りの、感情の読めない冷えた顔だ。

 だが、その彼の隣に並んで立つ存在が、この場のすべてを異常なものにしていた。


清潔な白い外套を羽織った青年。

 サラサラとした金色の髪。

 淀みのない、澄んだ青い目。

 今はあの忌まわしい白銀の聖剣こそ背負っていないが、それでも、この場にいる誰が見ても一目で分かる。


勇者アッシュ。

 広間の空気が、目に見えない強烈な殺気と戸惑いで、一瞬にして張り詰めた。


「……本物か」


「馬鹿な、生きていたのか」


「いや、百歩譲って生きていたとして、なぜ普通に連れてきているんだ」


「人事部長、ついに過労で正気を失ったか?」


 周囲の反応は当然だった。

 長年、魔王軍が甚大な被害を出して苦しめられてきた絶対的な宿敵が、なぜか魔王城の中心である大広間に、鎖の護送でも拘束具でもなく、ただ普通に立っているのだ。

 意味が分からないにもほどがある。


圧倒的な困惑が渦巻く中、一段高い玉座の上では、魔王ヴァルゼドが肘掛けに頬杖をつき、この混沌を心底愉快そうに眺めていた。


「さて、ザガン」


 低く、腹の底に響くようによく通る声が、広間に落ちる。


「余は寛大だ。貴様が裏で何かとんでもないことをしているらしい、という程度の噂くらいでは、その首を刎ねたりはせぬ」


「光栄です」


「だが、さすがに説明は求める」


「承知しております」


 ザガンは、躊躇うことなく一歩前へ出た。


「本日、陛下ならびに各幹部の皆様へ、重要なご報告と、あるご提案があります」


「ほう」


「勇者アッシュの生存は、紛れもない事実です。そして、その所在を私邸の地下に秘匿していたのも、この私です」


大広間が、文字通り爆発した。


「やはりか!」


「本当にお前の仕業だったのか!」


「堂々と自白しやがったぞ!」


「馬鹿か!? いや、大馬鹿かお前は!?」


 炎将ガルドが激昂して立ち上がり、分厚い机を粉々に砕かんばかりに叩いた。


「ザガン! 貴様、自分が何をしたか分かっているのか! 憎き勇者を討たず、隠し、しかも今日ここへ連れてくるだと!?」


「分かっています」


 殺気立つ怒号を浴びても、ザガンは氷のように淡々と答えた。


「魔王軍の未来を見据えた、極めて合理的な判断でした」


「一体どこがだ!!」


収拾のつかない怒号の中、魔王ヴァルゼドだけが口元の笑みをさらに深める。


「……続けろ。余はまだ、面白い」


 ザガンは背後のリリスに視線で合図を送り、控えていた彼女が素早く分厚い資料の束を広間の幹部たちへ配って回った。

 怒りながらも、ざわつきの中で幹部たちがその紙面に目を落とす。

 そこには、ここ数週間で起きた「明確な変化」が、残酷なまでに正確な数字として並んでいた。


 倉庫管理班の欠品率の大幅低下。

 後方整備所の事故件数の激減。

 兵站課における物資遅配率の劇的改善。

 ストレスによる離職申請の減少。

 過労による休職率の低下。

 そして、試験導入されたすべての部局における、残業時間の驚異的な短縮。


紙を見た幹部たちの、ざわめきの「質」が変わった。


「……何だ、これは」


「改善率が異常すぎるだろう」


「しかもこれ全部、同時期に一斉に起きているのか……?」


ザガンは、広間全体を見渡して静かに言った。


「これらはすべて、勇者アッシュを保護した後、及び極秘裏に行われた『限定的な運用試験』の後に確認された、揺るぎない実績です」


「運用……試験だと?」


「はい」


 ここで一瞬だけ、ガルドの顔が引きつった。


「まさか貴様……あの化け物勇者を、軍の内部で運用したというのか?」


「しました」


「さらっと言うな!!」


ザガンは構わず続ける。


「勇者アッシュの持つ聖なる加護は、本来、瘴気や呪いの浄化を目的とした戦闘用のものです。しかし、我が家で本人の精神状態が安定した結果、その効果が周辺環境へ穏やかに波及し、荒れ果てた『職場の空気』そのものを改善するという現象が確認されました」


「職場の……空気?」


 総務卿が、理解が追いつかずに間の抜けた声を出す。


「ええ」


「勇者が?」


「はい」


「……お前は一体、何を言っているのだ」


「事実です」


 ザガンは冷たい顔のまま、平然と言い切った。


「勇者アッシュを一定時間、特定の部署へただ滞在させたところ、不毛な怒号の頻度が減少し、無意味な衝突が減り、円滑な報連相が成立し、結果として組織の生産性が飛躍的に向上しました」


「理屈が雑すぎるだろうが!」


「これこそが本質です」


「本質なのか……?」


 広間の怒りが、次第に深い困惑へと変わっていく。


「さらに」とザガンは畳み掛ける。「本人には、信じがたいほど高い事務処理適性があり、複雑な書類整理、不備の抽出、業務課題の発見に極めて優れています」


「勇者が?」


「勇者です」


「意味が分からん」


「私も、最初はまったくそうでした」


 その率直すぎる一言で、張り詰めていた広間に、わずかに「ふっ」と吹き出すような笑いが漏れた。

 極限の緊張が、ほんの少しだけ緩む。

 ザガンは、その人事のプロとしての絶好の隙を逃さない。


「結論を申し上げます」


 彼は言葉を切り、一拍の重い間を置いた。


「勇者アッシュは、もはや処刑すべき単なる敵戦力ではありません」


「何だと」


「彼は、魔王軍の組織改革における、極めて有用な『戦略資産』です」


「戦略資産……」


「はい。より分かりやすく、端的に言えば」


 ザガンは、全幹部の顔を真っ直ぐに見据えて言い放った。


「彼を、『組織改革コンサルタント』として我が軍に正式採用すべきです」


沈黙。

 その後、今日一番の大爆発、否、大噴火が起きた。


「はぁぁぁ!?」


「敵の勇者を、中途採用だと!?」


「ついに頭でも打ったのか、人事部長!!」


「いや、よく考えろ! こいつは前からずっとこんな感じの狂人だったな!」


「だとしても限度というものがあるだろうが!」


 ガルドのみならず、さすがに冷静な文官たちまでが信じられないものを見る目で立ち上がった。

 しかし、四天王の一角である毒姫セレナなどは、口元を優雅な扇で隠しながらも、その妖艶な目だけは本気でこの事態を面白がっている。


「ふふっ……まあ、発想としては嫌いじゃないけれど」


「セレナ様、面白がらないで止めてくださいよ!」


「だって面白いじゃない。あの勇者が、魔王城で就職活動するのよ?」


玉座の上のヴァルゼドは、ついに腹を抱えて大笑いしていた。


「いい、実にいいぞザガン! 余はこういう常識を覆す狂気を待っていた!」


 だが、全員が笑って済ませる気など毛頭ない。

 第四軍団長バルバスが、重い足取りでどん、と怒気を孕んで前へ出た。


「ふざけるな!!」


 その腹の底から響く怒声だけで、広間の空気が再びビリビリと緊張した。


「数字がどうした! 職場環境がどうした! 我らは今、人間どもと血みどろの戦争をしているのだぞ!」


「だから何だ」


 ザガンは、顔色一つ変えずに即答した。


「終わりの見えない戦争だからこそ、無駄に兵を減らすなと言っている」


「ぬるい!!」


「ぬるくない。これが現実だ」


「兵など、圧倒的な恐怖で縛りつければ死ぬまで動く!」


「……短期的にはな」


「何?」


ザガンは手元の資料を一枚抜き取り、ばさりとバルバスの前の机へ投げ置いた。


「お前の軍団の、今月の離脱率だ。恐怖で無理やり黙らせた結果、兵たちは心が壊れるまで何も言わず、限界が来てからまとめて抜ける。その結果発生する、莫大な補充と再訓練にかかる莫大な費用は、お前が自腹と根性で埋めてくれるのか?」


「ぐっ……」


「さらに見ろ。現場からの報告の遅延、重大な事故件数の隠蔽、休職者の水増し処理。時代遅れの恐怖統率の末路が、この惨状だ」


 バルバスの顔が、屈辱で赤黒く染まる。

 周囲の軍団長たちも、気まずそうにスッと視線を逸らした。多かれ少なかれ、図星なのだ。


「それでもなお、今まで通り無駄な血を流し続ける気か?」


 ザガンは、冷酷なまでに低く言った。


「ゆ、勇者が有用だというのなら、なおさら手元に置くのは危険だ!」


 バルバスは負けじと吠える。


「こんな得体の知れないもの、いつ寝首を掻いて裏切るか分からん! 人間だぞ!」


その時だった。


「裏切るつもりはありません」


 静かだが、驚くほどよく通る声が、大広間に響き渡った。

 アッシュが、ザガンの隣から一歩、堂々と前へ出る。

 広間中の視線が、かつての宿敵に一斉に集まる。

 アッシュの震える拳から、彼が少し緊張しているのは分かった。だがそれでも、その背筋は折れることなく、真っ直ぐに立っていた。


「僕は、人間です」


 彼は、一つひとつの言葉を確かめるようにゆっくりと言った。


「それは事実です。でも、だからといって、今さら人間界の都合のいい言いなりに戻るつもりはありません」


「何だと……」


「僕はこれまでずっと、人間のために血を流し、戦ってきました」


 アッシュは一度だけ深く息を吸い、目を閉じた。


「でも、人間界の誰も、僕を“人”として扱ってくれませんでした」


広間では、誰も動かない。

 怒り狂っていた将官たちも、誰も口を挟めない。


「戦え」


「笑え」


「勇者らしくしろ」


「壊れるな」


「休むな」


「我々の希望でいろ」


 アッシュは、自分を縛り付けてきた呪いの言葉を、一つずつ床へ落としていく。


「そう言われ続けて……気づいたら、自分が本当は何をしたいのか、感情すら分からなくなってました」


「……」


「でも、ここへ来て、初めて、怒るのではなく『寝ろ』って言われました」


そこで、彼の顔にほんの少しだけ、照れ隠しのような苦笑が混じる。


「初めて、食事を座ってゆっくり食べました。初めて、剣で戦う以外でも、誰かの役に立てるって知りました」


「勇者……」


 バルバスの背後で、誰かが呆然とした声で呟く。

 アッシュは、玉座に座る魔王を真っ直ぐに見据えた。


「僕はもう、自分が理不尽に壊れるだけの場所には、絶対に戻りません」


 その声は決して大きくなく、静かだった。

 だが、どんな剣撃よりもひどく強かった。


「それに今は、この場所で、やりたいことがあります」


「やりたいこと、だと?」


 ヴァルゼドが、目を輝かせて興味深そうに問い返す。

 アッシュは、もう一切迷わなかった。


「働きたいです」


「……」


「この、魔王軍で」


広間に、一瞬の完全な沈黙が落ちた。

 次いで、広間のあちこちから、本当に妙な声が漏れた。

 咳払いとも、呆れ笑いともつかない、脳の処理が追いつかない時の空気の音である。


「……就職希望者かよ」


「あの勇者が」


「よりによって、宿敵の魔王軍に」


「しかも、洗脳でもなく本人の強い意思で……」


ヴァルゼドはしばらくアッシュの目を見つめていたが、やがて喉の奥で「くくっ」と笑い始めた。


「……よい」


「陛下!?」


「余は、ひどく気に入った」


 魔王は、ゆっくりと玉座から立ち上がる。


「余はな、他人に敷かれたレールではなく、自分の意思で居場所を選ぶ者が好きだ。しかもそれが、あの人類の勇者だと言うのなら、なおさら面白いではないか」


バルバスが、たまらず叫ぶ。


「陛下! どうかお考え直しを! こやつは危険です!」


「危険、か?」


 ヴァルゼドは、猛禽のように目を細めた。


「なら、試せばよい」


 その一言に、広間がまた冷水を浴びたように静まる。


「……試す、ですか?」


 バルバスが問う。


「うむ」


 魔王は凶悪に笑った。


「貴様がこの男を危険で信用ならんと思うのなら、貴様のその力で排除してみせよ。今、ここでな」


空気が、限界まで張り詰めた。

 バルバスの顔が、好機を得た歓喜に歪む。


「よろしいのですな!」


「余の許しは出た。やれ」


「では、遠慮なく!!」


バルバスの背から、巨大な戦斧が抜かれる。

 周囲の将たちが、巻き添えを食うまいと息を呑んで後ずさる。

 ザガンが庇うために一歩出ようとした瞬間――それより遥かに早く、アッシュが前へ出ていた。


「やりますか?」


 ただの日常会話のような、静かな声だった。

 それなのに、殺気に満ちていたバルバスの動きが、本能的な恐怖で一瞬だけ止まる。

 アッシュは白い外套をふわりと脱ぎ、足元へ落とした。

 その手には、剣すら持っていない。丸腰だ。

 それでも、その場にいる戦闘のプロフェッショナル全員が理解した。

 この細身の青年は、いざとなればここにいる全員を、素手でねじ伏せ得る規格外の存在なのだと。


「舐めるな! 来い!!」


 バルバスが雄叫びを上げ、戦斧を大上段に振り上げ、大理石の地を踏み割る勢いで突っ込む。

 ――次の瞬間、アッシュの姿が「消えた」。


ドォン!! という広間を揺るがす衝撃音が響き、空気が爆発したように揺れる。

 誰の目にも、何が起きたのか見えなかった。

 土煙が晴れて見えた時には、バルバスの巨体が無様に床へ転がされ、彼の持っていた戦斧は、遥か遠くの太い柱に深々と突き刺さっていた。

 そして、アッシュはその巨漢の喉元へ、魔王城の壁の飾りにあった「儀礼用の木剣」を、ぴたりと寸分違わず添えていた。


「落ち着きましたか?」


 にこやかに、まったく息を切らさずに聞く。


「ぐ……!」


「よかった」


 そのまま、木剣を捨てて手を差し出し、敵を起こそうとするあたり、勇者としての染み付いた癖が抜けきっておらず、余計にたちが悪い。


広間は、完全なる沈黙に支配された。

 強い。

 あまりにも、異常なほど強い。

 そしてこの絶望的な力の持ち主が、「できれば、もう暴力は使いたくありません」と心の底から本気で言っていることも、全員なんとなく肌で分かってしまった。


ヴァルゼドが、天井を仰いで高らかに大笑いする。


「はーっはっはっ! 決まりだ!」


 魔王の歓喜の声が、広間をびりびりと揺らした。


「勇者アッシュを、これより魔王軍特別嘱託・組織改革コンサルタントとして正式に採用する!!」


「……へ、陛下!」


「異論がある者は、今の神業を見てなお、余の前に出ろ」


誰も、一歩も出なかった。

 床に座り込むバルバスでさえ、差し出された手を見つめたまま、ただ悔しそうに歯噛みするのが精一杯だった。

 こうして、魔王軍史上、前代未聞どころの騒ぎではない「異常な人事」が、トップダウンで正式に決定したのである。




そこから先の魔王軍の変化は、まさに雪崩のようだった。

 まず、魔王城内の分かりやすい場所に『改善相談室』が設置された。

 相談室といっても、最初は使われていない空き会議室に、古い机を二つ置いただけの簡素なものだ。

 だが、そこに氷の顔をしたザガンが座り、横で勇者がにこやかに微笑んでいるだけで、異様なほど人が殺到した。


「上司が、理不尽な理由で毎日怒鳴ります」


「部隊長が、ノルマのために兵の休憩を平気で削ります」


「うちの部隊、どう計算しても補給が足りません」


「第三寮の水回りがずっと壊れてて、悪臭がひどいです」


「深夜の抜き打ち訓練が常態化してて、誰も眠れてません」


最初は「本当に話を聞いてくれるのか」と半信半疑でやってきた兵たちも、ザガンが書類に目を通して本当に話を聞き、必要なら相手が誰であろうと容赦なく是正命令を飛ばし、横にいるかつての宿敵が真顔で「それは明らかに無理しすぎです。人道に反します」と言うのを目の当たりにして、次々と堰を切ったように本音を漏らし始めた。


「あの勇者様が、俺たちに“休め”って言ってくれた……」


「勇者様が、“まずは温かい飯を食え”って……」


「つまり、限界で休むのは決して甘えではない……!?」


強さこそすべてだった魔王軍の凝り固まった価値観が、少しずつ、しかし確実にひっくり返っていく。

 アッシュは血みどろの前線ではなく、訓練場や武具整備所、兵站課を直接回ることが増えた。

 魔物を斬る剣を振るうのではなく、ホワイトボードの前で説明する。

 効率的な見本を見せる。

 長丁場の行軍における、正しい体力配分を教える。

 パニックに陥らないための呼吸の仕方を教える。

 そして何より、無理をすると人間の心と体が「どう壊れるか」を、自分自身の痛ましい経験から静かに話す。


「戦うのが僕たちの仕事でも、心が壊れるまで働く必要は絶対にないです」


「休むのも、明日のための立派な任務のうちです」


「限界が来る前に、必ず誰かに言ってください。倒れるまで言わないと、結果的に周りももっと困るので」


かつて誰よりも強く、誰よりも無理をしてきた勇者にそう真っ直ぐ言われると、肉体労働の兵たちには異様なほど説得力があり、心に効いた。

 結果として、無茶な訓練中の事故が激減し、補給物資の無駄が減り、何より新兵の定着率が右肩上がりに急上昇した。

 それはまさに、人事部長であるザガンが長年夢にまで見た、組織の健全な改善だった。


「……信じられん」


 デスクで輝かしい月次報告を見ながら、ザガンは本気で呟いた。


「すごく嬉しそうですね」


 リリスが横で、にやにやとからかうように言う。


「嬉しくはない」


「その顔で言いますか?」


「事実、私の確認仕事が増えている」


「でも、目に見えて成果も出てますよ」


「それはそうだ」


「なら、人事として嬉しいんでしょう」


「……否定はしないでおこう」


 ザガンがわずかに口元を緩めたのを見て、リリスは嬉しそうに肩を揺らして笑った。


さらに、魔王軍のこの劇的なホワイト化の変化は、国境の外まで波及し始めていた。

 人間界では、抑止力であった勇者不在のまま、醜い内輪揉めが激化し泥沼化していた。

 聖王国は焦りから理不尽な徴兵を強め、地方の貴族は互いに責任を擦りつけ合い、現場の兵たちはただ無意味に疲弊していく。

 そこへ、「最近の魔王軍は、待遇が驚くほどまともらしい」という噂が、風に乗って流れ込む。

 最初は、ただの質の悪い笑い話だと思われていた。

 だが、限界を迎え、死に物狂いで国境を越えて亡命してきた者たちが、みな口を揃えてこう言ったのだ。


「こっちは、上官に理不尽に殴られない」


「悩みを聞いてくれる相談窓口がある」


「休憩時間が、名ばかりではなく本当に休憩だ」


「支給される食事が、温かくて美味い」


「何より、死んだはずの勇者が普通に働いている」


 最後の一言だけで、聞いた者の脳が一度フリーズして停止するが、彼らが目の当たりにした紛れもない事実だから仕方ない。


国境警備隊からザガンの元へ届く報告書は、日を追うごとに異常な数に増えていった。

『本日、人間側の亡命希望者二十七名。受け入れ完了』

『翌日、三十一名。急ぎ仮設テントを増設中』

『さらに、腐敗した王宮に見切りをつけた文官志望者十四名が到着』

『聖王国の兵站経験者など、我が軍の即戦力候補多数あり』


ザガンは、執務室で頭を抱えた。


「人間側の転職市場が、完全に崩壊している……」


「これって、採用側としては喜ぶところでは?」


 横で書類を仕分けしていたアッシュが、小首を傾げる。


「受け入れ態勢を整え、審査する私の仕事が爆発的に増えるのだ」


「あ、怒るのそこなんですね」


「そこだ。私は忙しいのだ」


「でも、もう限界で、生きやすい場所に行きたいって思うのは、人として自然なことだと思います」


「自然だ。だからこそ、止める理由がないから面倒なんだ」


「ふふっ」


「笑うな」


だが、アッシュに笑われても仕方がなかった。

 ザガン自身、心の奥底で少しだけ分かっていたのだ。

 これは自分の仕事が増える面倒な事態であると同時に、自分たちがこれまでやってきた「組織改革」の、正しい結果でもある。

 人をただの部品としてすり潰す組織より、

 まだ対話が通じ、人を人として扱う組織へ、人が流れる。

 ただそれだけの、極めて真っ当で、残酷な現象に過ぎないのだ。




 やがて、焦りに焦った人間界から、魔王城へ正式な使節団がやって来た。

 聖王国のトップである宰相。

 特権階級である聖騎士団の上層部。

 そして、かつてアッシュの「勇者管理」を担っていた、ふんぞり返った高位司祭までいる。

 彼らの目的はただ一つ。

 貴重な兵器である『勇者アッシュの即時返還要求』だった。


魔王城の冷たい応接の間で向かい合ったその場は、着席した最初からヒリヒリと険悪だった。


「単刀直入に申し上げる。勇者アッシュは全人類の希望であり、神聖なる聖王国に帰属する所有物です」


 恰幅の良い宰相が、鼻息荒く傲慢に言う。


「ゆえに、魔王軍による不当な拘束を解き、即時返還を強く求めます」


ザガンは用意された紅茶を静かに一口飲み、表情を一切変えずに返した。


「帰属、所有物という表現は、極めて不適切だな」


「何?」


「彼は物ではない。人なので」


「屁理屈を! しかし勇者は神に選ばれた――」


「人だ」


 ザガンは、氷のような目でぴしゃりと言い切る。

 宰相の顔が、屈辱にピクピクと引きつる。

 その横で、苛立った高位司祭が口を開いた。


「アッシュ様は、人類を救うために尊き聖剣へ選ばれたのです。己の個人的な感情や我儘で、行動を決めてよい立場では――」


「では、本人に直接聞くか」


 ザガンがそう言って指を鳴らすと、重い扉が開いた。

 魔王軍の黒い腕章をつけたアッシュが、静かに入ってくる。

 室内の空気が、一変した。

 使節団の目が、一斉に驚愕で見開かれる。


「ゆ、勇者様!」


「おお、アッシュ様!」


「ご無事で何よりです……! さあ、我らと共に帰りましょう!」


 その声には、確かに安堵もあった。

 だが同時に、「自分たちのもとへ戻ってきて当然」という、無意識の傲慢な前提も透けて見えた。

 アッシュは彼らには見向きもせず、ザガンの隣の席へ静かに着き、それから、彼らを真っすぐ前を向いた。


「僕は、戻りません」


 彼らの歓喜の声が、ピタリと止まった。


「ア、アッシュ様、急に何を」


「僕は、二度と戻りません」


 もう一度、聞き間違いではないとはっきりと宣言する。


「ここで、魔王軍で働きます」


「は、働く……魔王軍で!?」


「はい」


 高位司祭が、理解できずに顔を真っ赤にして立ち上がる。


「正気ですか! 勇者たるもの、己の個人的な安寧を優先してどうするのです!」


「個人的な安寧?」


アッシュは、初めて不快そうに少しだけ眉を寄せた。


「夜にちゃんと寝ることや、温かい食事を食べることが、そんなに身勝手なことですか」


「それは……非常時なのだから、多少の犠牲は!」


「僕、前の場所にいた時は、自分がすり減って壊れていくのが分かっても、どうしても止まれませんでした」


 静かに、しかしはっきりと、過去の自分を憐れむように続ける。


「あなたたちの誰も、僕を止めてくれなかったからです」


宰相も、司祭も、聖騎士たちも、その言葉の重みに息を呑んで黙る。


「ここでは、僕が倒れる前に『無理するな』って叱られます」


「……」


「仕事の途中でも、『今は休め』って言われます」


「……」


「魔物を殺して戦う以外でも、事務仕事で誰かの役に立てるって、教えてもらいました」


「……」


「だから僕は、絶対にあなたの元へは戻りません」


その言葉の響きは穏やかだったが、絶対に覆らない決定的で、強固なものだった。

 もはや、どんな綺麗事の説得でも動かない。

 本人が、洗脳でも脅迫でもなく、自分の明確な意思で居場所を選んでいるのだ。

 使節団は顔を見合わせ、なおも何か見苦しく言い募ろうとしたが、諦めて退室する際、最後尾にいた下級の随員の青年兵士が、周囲の目を盗んで小さな声でザガンへ聞いた。


「あの……」


「何だ」


「魔王軍って、本当に、今からでも求人ありますか……?」


ザガンは深く同情の息を吐き、机の引き出しから「中途採用窓口の案内紙」をスッと渡した。

 それに気づいた宰相の顔がこの世の終わりのようなひどいことになったが、ザガンの知ったことではなかった。




それから、半年後。

 魔王城前の広大な石畳の広場には、見たこともないような長蛇の列ができていた。

 屈強な魔族、身なりの良い人間、耳の長い亜人、その他諸々の種族たち。

 老若男女入り混じったその熱気ある列の先に掲げられている巨大な看板は、あまりにも堂々としていた。


『魔王軍・秋の合同採用説明会』

『経験者優遇・未経験者も安心の充実研修あり!』


ザガンは執務室の窓からその凄まじい光景を見下ろし、深いため息をついた。


「終わってるな」


「何がですか?」


 隣で新入社員用の資料束を抱えたアッシュが、不思議そうに首を傾げる。


「この、世界の常識がだ」


「でも、血を流し合うより、悪くない終わり方じゃないですか」


アッシュは、窓から差し込む光を浴びて穏やかに笑った。

 最初に私邸の薄暗い地下室で見たボロボロの姿とは、まるで別人だった。

 血色はすっかり良くなり、痛々しかった目の下の隈は綺麗に消え、背負うものがなくなった姿勢も軽い。

 よく眠り、よく食べ、誰かを守る本当に必要な時だけ剣を取り、普段は悩む兵士たちの話を真摯に聞く。

 今は「勇者」という記号である前に、一人の有能で心優しい若者として、ここに立っている。


「そうだな」


 ザガンは珍しく、素直にそれを認めて言った。


「少なくとも、理不尽に命を散らしていた以前よりは、はるかにましだ」


「以前が、お互いにひどすぎましたからね」


「否定できん」


 執務室の机には、新しく刷り上がった魔王軍の組織図が置かれていた。

 魔王ヴァルゼド総帥。

 人事統括部長ザガン。

 特別嘱託・組織改革コンサルタント・アッシュ。

 そしてその下に、新設された部署名がずらりと並ぶ。


 労務管理課。

 安全衛生室。

 人材育成課。

 多文化雇用推進室。

 人間界亡命者受け入れ支援室。


世界征服を目論む悪の組織の図面としてどうなのか、というお役所のような部署名ばかりだが、驚くべきことに軍全体の業績と戦闘力は上がっていた。

 離職率はかつてないほど下がり、補給線は安定し、前線の兵たちの士気は改善し、優秀な亡命者は後を絶たない。

 人間界の一部では、もはや「ブラックな国を捨てて魔王軍へ転職する」という発想が、酒場の冗談ではなく、現実的な生存の選択肢になっていた。


そこへ、リリスが最新の報告書を持って入ってくる。


「人事部長」


「何だ」


「今月の応募者数ですが、ついに人間側からの転職希望者が、魔族側を初めて上回りました」


「……頭が痛い」


「しかも、人間側の志望動機の一位は圧倒的に“もうブラックな環境は嫌だ”です」


「見なくても知っている」


「そして二位は、“あの勇者さんがいる職場で働きたいから”でした」


「それは困るな」


「えっ、僕ですか?」


 アッシュが、キョトンと目を瞬かせる。


「お前だ」


「ええ……」


「お前は、敵からも味方からも無駄に人気があるからな」


「無駄って言わないでくださいよ」


 二人のやり取りを見て、リリスが口元を押さえてクスクスと笑う。


「ちなみに、三位は“人事のザガン部長は顔が怖そうだが、筋を通せば話は通じそうだから”でした」


「……誰だ、そんな失礼なことを書いた奴は」


「匿名アンケートなのでお答えできません」


「気に入らん」


「でも、だいたい合ってますよ」


 アッシュが笑顔で言う。


「お前もか」


「だって、本当に話は通じますから」


「怖そう、の部分は一切否定しないのか」


「そこは……まあ、事実ですし」


「おい」


 アッシュが堪えきれずに肩を揺らして笑う。


その屈託のない笑い声を聞きながら、ザガンはふと、彼を拾ってきた最初の夜を思い出した。

 薄汚れた麻袋の中で、薬に酔って「ここは天国?」と呟いた、哀れな勇者。

 疲れ切って、絶対に警戒すべき敵地であるはずの場所で、心底安堵して眠り直した若者。

 あの時はまさか、この判断がこうなるとは夢にも思わなかった。


最大の脅威である勇者を攫ったつもりが、

 実際に回収したのは、心が壊れかけた哀れな一人の労働者で、

 その結果、世界の労働市場ごと根底からひっくり返してしまった。

 何とも迷惑で、何ともスケールの大きな話だ。


「……ザガンさん」


「何だ」


「あの時、僕を誘拐してくれて、本当にありがとうございました」


 不意打ちだった。

 ザガンは、思い切り顔をしかめる。


「お前、その言い方は人聞きが悪いからやめろ」


「でも、事実ですし」


「私が犯罪を肯定しているように聞こえるだろうが」


「じゃあ……あの時、僕を助けてくれて、ありがとうございます」


「……それならまあ、ぎりぎり許容範囲だ」


「ぎりぎりなんですね」


 アッシュは、本当に嬉しそうに笑う。


 ザガンは照れ隠しに咳払いを一つして、窓の外を見た。

 広場の列はまだ信じられないほど長い。

 面接の仕事は山ほどある。

 胃薬の在庫も少し気になる。

 だが、以前のような、暗闇を歩くような底の見えない消耗感は、もうどこにもない。


「雑談は終わりだ。働け、アッシュ」


「はい、ザガンさん」


「次は、人間界からの亡命希望者向けの研修資料の作成だ」


「それなら、昨日の夜にもう半分できてますよ」


「……有能すぎるな、お前」


「ふふっ、優秀な人事部長の育成の成果です」


「口の減らない奴め」


 ザガンは、小さく安堵の息を吐いた。


 魔王軍は、今日も忙しい。

 だがその忙しさは、もうただ理不尽に人をすり潰すだけのものではない。

 疲れたら休ませる。

 温かい飯を食わせる。

 理不尽があれば話を聞く。

 限界を超えて無理をさせすぎない。

 そのうえで、本当に戦うべき時にだけ、誇りを持って戦う。


 そんな、人として「当たり前のこと」が、ようやくこの魔王城で確かな形になり始めていた。

 世界一ホワイトな魔王軍。

 誰がそんな平和な未来を想像しただろう。

 少なくとも、勇者を麻袋に詰めて自宅の地下へ運んでいたあの夜のザガンは、絶対に信じなかったはずだ。

 だからこそ、彼は最後に、横にいる誰にも聞こえないくらいの小さな声で呟いた。


「……まあ、悪くない」


「ん? 何か言いました?」


「何も言ってない。いいからさっさと仕事をしろ」


「はーい」


 元勇者アッシュは笑いながら書類の束を抱え、軽やかな足取りで扉のほうへ向かう。

 魔王軍人事部長ザガンは、眉間にいつもの皺を寄せたまま、その頼もしい背中を静かに見送る。

 そして魔王城の広い廊下には、今日も元気な声が響き渡っていた。


「おはようございます!」


「人間関係の相談があれば、二階の労務管理課まで!」


「残業申請は、必ず事前にお願いしますね!」


「あ、勇者さん! 午後の新人研修資料、こちらに置いておきます!」


「ありがとう。手伝うから、君もあまり無理しないでね!」


 かつて恐怖と怒号と悲鳴だけで満ちていた魔王城で、

 そんな優しい声が当たり前に飛び交うようになったのだから、

 世界というものは案外、とんでもない偶然ひとつで劇的に変わってしまうのかもしれない。

 もっとも、その世界を救った偶然が「魔王軍による勇者誘拐」だったことだけは、後世の歴史家たちも  最後までどう評価していいか、頭を抱えて分からなかったらしい。


 ただ一つ、歴史において確かなことがある。

 あの日、勇者を攫ったのは、間違いなく魔王軍だった。

 けれど、その結果救われたのは、きっと勇者一人ではなかったのだ。


 心が壊れるまで働くしかないと思っていた者たち。

 理不尽に黙って耐えるしかないと諦めていた者たち。

 自分には、居場所を選ぶ権利などないと洗脳され、思い込んでいた者たち。

 そういう無数の者たちが、少しずつ希望を持って顔を上げ、

 別の働き方を知り、

 自分の意思で、別の場所を選べるようになった。


 そのすべての最初のきっかけが、

 残業に疲れた魔王軍人事部長の、無茶苦茶な「誘拐」という判断だったというのは、

 たぶん世界の皮肉としては、かなり出来のいい部類だろう。


そして今日もまた、忙しい執務室の中では。


「ザガンさん」


「何だ」


「この秋の採用広報のポスター、“あの勇者も働いています!”ってキャッチコピー書くのはありですか?」


「絶対にやめろ。ミーハーな応募が増えすぎる」


「えー、でももう十分多いですよ?」


「だからこれ以上増やすなと言っている」


「じゃあ、“悩みを相談しやすいアットホームな職場です”で」


「それは事実だ。よろしい」


「“美味しい温かい食事あり”」


「それも事実だ」


「“怖い顔の上司が、親身に話を聞いてくれます”」


「……一部、誇張表現が含まれているな」


「ええー」


「ええー、じゃない。却下だ」


そんな漫才のようなやり取りが、ごく当たり前の平和な日常になっている。


 魔王軍人事部長、ザガン。

 元勇者、アッシュ。

 最悪の出会い方をした二人は、結局、世界の理不尽な仕組みそのものへ喧嘩を売り、そして完全勝利してしまった。


 だからこの物語の結末は、きっとこうなるしかなかったのだ。

 勇者は救われ、

 魔王軍はホワイトに変わり、

 人間界は自分たちの醜い歪みと向き合わされる。

 そして、誘拐犯であるザガンだけが、大量の採用面接で最後まで胃を痛め続ける。


 それで十分だ。

 少なくとも、誰もが理不尽にすり潰されていた血みどろの以前よりは、ずっと、ずっとまともで、幸福な結末なのだから。


(おしまい)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ