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第3話 ホワイト化への第一歩? 勇者の「お手伝い」

 その信じがたい異変に最初に気づいたのは、有能な秘書官リリスだった。


「人事部長」


「何だ」


「……机が、見えます」


「は?」


 爽やかな朝の光が差し込む執務室で、書類に目を落としていたザガンは、怪訝そうに顔を上げた。

 リリスの指差す先を見れば、確かに、見えていた。


 いつもなら、各部隊からの補充申請、泥沼の再配置依頼、凄惨な負傷報告、絶望的な離職届、引き留めに失敗した慰留失敗記録、装備の損耗報告、そして戦線別採用計画の修正案などが幾層にも地層のように積み重なり、険しい書類の山脈に埋もれて木目など絶対に見えなくなっているはずの執務机の天板が、今日は異常なほどに、妙に広い。

 いや、広いどころの騒ぎではない。


 なんと、優雅にインク壺まで置く余裕がある。


 これは魔王軍人事部において、もはや天地がひっくり返るほどの異常事態だった。


「……なぜだ。魔法か?」


「昨夜、地下の勇者さんに機密書類を触らせたからでは?」


「……触らせた記憶は、確かにかすかにある」


「その結果です。ご覧ください。不備のある申請が赤紙できれいに分けられ、緊急度別に美しいグラデーションで並べ替えられ、同内容の重複分がクリップでひとまとめに束ねられています」


「……」


 ザガンは無言のまま立ち上がり、広々とした机上を唖然と見下ろした。

 確かに、昨日の夜まで混沌の坩堝だった書類の山が、恐ろしく分かりやすい、完璧な清流のような流れになっている。


 しかも、ただ単に日付順に並べただけではない。


『補充申請と、新人訓練完了報告の時系列にズレが生じています』

『隊長署名の筆跡に違いあり。代筆の可能性が高いです』

『同一部隊より、今月三度目の再補充要請。現場の指揮系統そのものに問題あり?』


 書類の端々には、そんな達筆な走り書きの付箋まで丁寧に挟まっていた。


「……何なんだ、あいつは」


「勇者では?」


「そういう意味で言ったのではない」


 ザガンは付箋を一枚めくり、さらにもう一枚めくり、そして重い頭痛を堪えるように額を押さえた。

 正しい。

 どれもこれも、恐ろしいほど正しい。

 人事のプロとして悔しいことに、その指摘がいちいち的確で、寸分の狂いもなかった。


「村で、帳簿をつけていた、か……」


「人間界は、とんでもない優秀な人材のとんでもない使い方をしていたんですね」


「……知っている」


 ザガンは地の底から響くように低く答えた。


 勇者アッシュ。

 神聖なる聖剣に選ばれた、人類最強の理不尽な戦力。

 そして今、自邸の地下に匿ってみた結果、新たに判明した衝撃の事実――「異常なまでに事務処理適性が高い」。

 笑い話にもならない。

 人類はいったい、あの若者に何をやらせていたのか。


 その夜、ザガンは薄暗い地下室で、向かいの木箱にちょこんと座ってものすごいスピードで書類をめくるアッシュを、目を細めてじっと観察していた。


「……おい」


「はい?」


「お前、本当に勇者か」


「最近、その確認すごく多いですね」


 アッシュは手を止めず、困ったようにえへへと笑う。


 出会った夜に比べ、その表情はずいぶん柔らかくなっていた。温かい食事と十分な睡眠が足りてくると、人間はここまで顔つきが穏やかに変わるものなのかと、ザガンは人事部長として妙なところで感心してしまう。


「褒めてます?」


「半分はな」


「じゃあ、残り半分は?」


「純粋な困惑だ」


「ですよね」


 アッシュは、トントンと小気味よい音を立てて書類を揃えながら言った。


「でも、僕、こういうの嫌いじゃないんです」


「顔も知らない人間の配置とか、部隊の損耗とか、そういう血の通わない話がか?」


「ちょっと違います」


「何が違う」


「その冷たい数字の向こうに、ちゃんと一人ずつ、“生きている人”がいるのが分かるので」


 ザガンは、ハッとして黙った。

 人事という裏方の仕事をする者として、その感覚は痛いほどよく理解できる。

 無機質な配置表の一行。

 損耗一覧の一件。

 退職報告の一枚。

 その紙切れの裏には必ず、一人ひとりの人生と、生活と、切実な事情がある。

 だが、あまりに多忙な日常が続くと、それが単なる「処理すべき紙の束」にしか見えなくなる瞬間があるのも、悲しい事実だった。


「お前」


「はい」


「そういう青臭いことを、よく平気で言えるな」


「変ですか?」


「変ではない。だが……」


 ザガンは、冷たい指先で眼鏡を押し上げた。


「お前自身が一番、その数字の向こう側に追いやられ、記号として扱われていた人間だろうに」


「……」


 アッシュの書類を繰る手が、ピタリと止まる。

 少しだけ、地下室のひんやりとした空気が静かになった。


「まあ、そうかもしれません」


 やがて彼は、過去を遠く見るように苦笑するみたいに言った。


「僕、人間界にいた時、自分の過密な予定表を見ても、最近はもう“僕がそこにいる”って感じがしなくなってたので」


「……終わりのない予定表に殺される類の人間は、だいたい皆そう言うものだ」


「ザガンさんも、経験あるんですか」


「ある」


「なんだか、少し安心しました」


「安心するな。地獄の共有だ」


 アッシュは肩をすくめてくすっと笑い、また書類の山へ向き直った。

 その日から、この物置の地下室は夜ごと、奇妙な共同作業の場へと変わった。

 ザガンが城から持ち帰った大量の仕事を、机代わりの木箱へバサリと広げる。

 アッシュが目にも留まらぬ速さでそれを分類し、ザガンが目を通す。

 必要に応じてザガンが補足の指示を出し、アッシュが完璧に並べ直す。


 やっていることだけを見れば、ただの上司と有能な部下による残業補助である。

 ただし、手伝っているのが「本来殺し合うべき敵軍の最強勇者」という一点だけが、致命的におかしい。


「ザガンさん、この部隊、離職理由が全員判を押したように“体力的理由”になってます」


「書きやすい定型句だからだ」


「でも、実際は違いますよね?」


「だいたいは、上にいる無能な上司のパワハラが原因だ」


「うわあ……」


「うわあ、で済むなら、我々人事部はいらん」


「こっちの部隊は、補充申請の数は異常に多いのに、被害報告が極端に少ないですね」


「自分の評価を下げる、損耗の隠蔽だろうな」


「なんでそんな意味のないことを隠すんです?」


「上に無能だと思われたくないからだ」


「それ自体が、無能ですね」


「まったくその通りだ」


「ザガンさん、この人、同じ名前が三つありますよ」


「偽名を使って、何度も再雇用を繰り返している手合いだ」


「なんでまた、そんな面倒なことを」


「軍を辞めても、明日食うための飯が必要だからだ」


「世知辛い……」


 アッシュは書類をめくるたび、いちいち真っ当で新鮮な反応をした。

 ザガンにとってはすでに見慣れた日常の地獄も、世間知らずの勇者にとっては新鮮な地獄らしい。

 だが驚くべきは、その圧倒的な処理速度だった。

 速い。

 とにかく、異常に速いのだ。


 読み込みがスキャナーのように速く、分類が機械のように正確で、しかも途中でまったく集中が切れない。

 勇者として過酷な戦場で何時間も何日も立ち続けてきたせいか、椅子に座って机に向かっての作業でも、底なしの異常な持久力を発揮するのだ。


「……お前、どういう集中力だ。バグか」


「慣れてるので」


「何にだ?」


「終わらない仕事に、ずっと向き合うの」


「……嫌な慣れ方だな」


 その結果、ザガンの持ち帰り残業は、目に見えて激減した。

 一週間後には、毎日深夜二時までかかっていた作業が、日付が変わる前の零時前には綺麗に終わるようになった。

 二週間後には、リリスが本気で目を丸くした。


「人事部長」


「何だ」


「今月、まだ一度も執務室の床で倒れてませんね」


「お前は、私を何だと思っている」


「繁忙期になると、二回に一回は椅子から崩れ落ちて気絶する、哀れな生き物かと」


「そこまでひどくはない」


「いいえ、客観的に見てそこまでです」


 実際、ザガン自身もその変化を認めざるを得なかった。

 明らかに、体が楽になっている。

 書類が魔法のように片づく。

 組織の滞っている流れが、手に取るように見える。

 現場の不備が、致命傷になる前に早めに拾える。

 結果として、翌日の現場への修正指示まで最速になる。

 魔王軍の業務効率が、ザガン一人を起点にして劇的に上がっていた。


「……信じられん」



 ある晩、きれいに積まれた処理済みの書類の束を見ながら、ザガンはぽつりと本音を漏らした。


 アッシュが応える。


「何がです?」


「敵の勇者を誘拐したら、私の残業が減った」


「字面だけ聞くと、ひどいですね」


「紛れもない事実だ」


「でも、よく眠れるようになって、よかったじゃないですか」


「よくはない」


「減ったのに?」


「減った理由が、一発で首が飛ぶ国家反逆級の犯罪だからだ」


 アッシュは、くすっと声を立てて笑った。

 その笑い方も、ここに来たばかりの時よりだいぶ自然になった。

 最初の頃は、笑うにもどこか「勇者らしくないかもしれない」という遠慮があった。

 だが今は、少なくともこの狭い地下室の中では、自分が素で笑っても誰も咎めないのだと、しっかり理解したらしい。

 その温かい変化を、ザガンは気づかないふりをして見て見ぬふりをした。



 書類仕事の効率化以外にも、私邸の周囲で奇妙な変化は起こっていた。

 最初の異常は、屋敷の門前に立つ強面の門番オーガ、ゴルムの挨拶だった。


「おはようございます、人事部長! 本日もよろしくお願いいたします!!」


 朝から、濁りのないやたらと澄んだ声が飛んできて、出勤中のザガンはピタリと足を止めた。


「……誰だ」


「門番のゴルムです!」

「顔を見れば知っている。なぜ急に、そんな新人みたいな爽やかなのだ」


「なんだか昨日から、ずっとあった胸のつかえや苛立ちがスッと消えまして! あと、安い酒が妙にまずく感じて、代わりに朝飲むただの水が最高にうまいんです!」


「……気味が悪いな」


 翌日には、屋敷脇の路地裏にたむろする粗暴なワーウルフたちが、なぜか自発的にゴミを綺麗に分別し始めた。

 さらに翌日、通りで客引きをしていたサキュバスが「一時の誘惑より、誠実な対話のほうが、長期的には安定した関係を築ける気がするのよね」と言い出して、健全な恋愛相談所を開業し始めた。

 適当だったスケルトン配達員は秒単位で配達時間を厳守し、イタズラ好きのインプたちは、勝手に屋敷の花壇の美しい手入れを始める始末。


「……何だ、これは」

 ザガンは執務室の窓から外を眺め、本気で戸惑った。

 別に屋敷周辺がもともと治安最悪というほどではない。

 だが今起きているのは、そういう次元のレベルの改善ではない。

 空間の「空気」そのものが変わっていた。

 理不尽な怒鳴り声が消え、魔族同士の雑な衝突が減り、妙にみな紳士的で礼儀正しい。

 そして不思議なことに、そのほうが全体的に物事が円滑に、ストレスなく回っているのだ。


「アッシュ」


「はい」


「お前、外で何かしたか」


「何もしてないです。ずっと地下にいますし」


「では、屋敷周辺の粗暴な魔族たちが、急に道徳の教科書から抜け出した善良な社会人みたいになった理由を、合理的に説明しろ」


「善良な社会人……」


 アッシュは小首を傾げて少し考え込み、それから「あっ」と声を漏らした。


「もしかして……加護かもしれません」


「加護?」


「はい。僕の持ってる聖剣の力って、もともと『浄化』寄りなんです」


「それは知っている。魔界の瘴気を払うとか、邪悪な呪いを祓うとかだろう」


「そうです。でも、強すぎてたまに漏れるんです」


「漏れる?」

「はい。昔、人間界で宿屋に泊まったら、翌日だけそこの厨房が異様にピカピカに清潔になったことがあって……」


「お前、そういう重要なことはもっと早く言え」


「だって、こんなこと役に立つと思わなくて」


 ザガンは、雷に打たれたように黙った。

 役に立つどころの話ではない。

 これは軍事的に見ても、戦略級の価値がある。


「つまり、お前の近くにいるだけで、瘴気だけでなく、魔族特有の無駄な攻撃性とか、衝動性とかも多少薄れて浄化されるということか」


「たぶん……?」


「たぶんで済ませるな」


「でも、意識して魔法みたいにやってるわけじゃなくて、自然に漏れちゃうので」


「構わん。現にこうして、圧倒的な結果が出ている」


 ザガンは、その場で超高速で人事トップとしての思考を走らせた。

 もしこれが、一時的な気分の問題ではなく、あらゆる場所で再現可能な効果だとしたら。

 勇者の理不尽な力を、戦場での「破壊」ではなく、職場環境の「改善」へ転用できるとしたら。

 それは、長年ブラック化していた魔王軍の根本を変える、究極の切り札になる。


「人事部長」


 リリスが、背後からスッと声をかける。


「今、ものすごく悪い顔で、ものすごく革新的なこと考えてますね?」


「嫌な顔とは何だ」


「たぶん今、“この勇者の便利な浄化オーラを、どうやって全軍に制度化して回すか”って考えてますよね」


「……」


「当たりですか」


「口に出すな」


「はいはい」


 その夜、ザガンは地下室でアッシュに向かって真剣な顔で言った。

「明日、外へ出るぞ」


「えっ」


「もちろん、顔がバレないよう完璧な変装のうえでだ」


「どこに行くんですか?」


「倉庫管理班だ」


 アッシュは、パチリと目を丸くした。


「戦場じゃなくて?」


「戦場ではない。荒れ果てた職場だ」


「……はい?」

 ザガンは、一切の冗談を交えずに真顔で続けた。


「お前の持つ浄化の加護が、劣悪な職場環境改善に寄与する可能性が極めて高い。まずは、軍でも一番荒れている部署で実験として試す」


「試すって、僕、何をすれば……」


「いるだけでいい」


「……いるだけ?」


「そうだ。隅にいるだけだ」


「それで、本当に何とかなるんですか」


「分からん。だから、データ取りのために試すのだ」


 アッシュはしばらくぽかんとしていたが、やがてこらえきれずに吹き出した。


「ふふっ……なんだか、すごい使い方ですね」


「不満か」


「いえ。ただ」


「何だ」


「僕、剣で戦う以外でも、誰かの役に立てるんだなって」


 その純粋すぎる言葉に、ザガンはわずかに視線を逸らした。


「……まだ、結果は出ていない」


「でも、うれしいです」


「そうか」


「はい」


 その翌日。

 問題の倉庫管理班で、前代未聞の実験は行われた。

 管理班の巨大な倉庫は、魔王軍でも指折りの荒れ果てたブラック職場だった。

 棚卸しの管理は雑、飛び交う怒号は日常茶飯事、責任転嫁と貴重な物資の紛失が同時多発している地獄だ。班長は「細かい計算などいい! 気合いで数を合わせろ!」が口癖の脳筋で、部下たちは日に日に目のハイライトが消え、死んでいっていた。


 そこへ、目深にフードを被り変装したアッシュを、「人事部からの臨時の見学員」として隅の椅子に座らせる。

 ただ、それだけである。


「あの、本当に、ここにいるだけでいいんですか」


「いい」


「僕、手伝いとか何もしなくて?」


「するな。お前が勝手に動いて余計なことをすると、バレた時に別の特大の問題になる」


「分かりました」


 アッシュは大人しく、倉庫の隅の椅子にちょこんと座った。

 最初の一時間は、何も起こらなかった。怒号は相変わらず飛び交っている。

 離れて監視していたザガンも、少しだけ「さすがに都合が良すぎたか」と期待を裏切られ始め、舌打ちしかけた。


 しかし、二時間目に明確な異変が出た。


「……おい」


 いつも顔を真っ赤にして怒鳴り散らす班長が、ピタリと動きを止め、在庫の棚を見たまま低い声で言った。


「その箱のロット、そこじゃないな」


 怒られると思った部下が、ビクッと身を縮める。


「す、すみませ――!」


「……いや、待て。俺も昨日、ここの置き場所を適当に変えた気がする。俺の指示ミスだ」


 部下が、信じられないものを見るように顔を上げる。

 班長自身も、自分の口から出た「理性的で素直な言葉」に、本気で驚いたような顔をしていた。


「……なぁ、お前ら。一度、手順書をちゃんと作り直すか」


「……は?」


「毎回、俺の勘とノリでやるから、現場が混乱するんだ。すまん」


「班長、もしかして高熱でも出ましたか?」


「うるさい。……あるいは、何か悪い憑き物が落ちた気分だ」


 半日後には、広大な倉庫内に響き渡っていた怒鳴り声が、明らかに激減していた。

 翌週には、慢性化していた欠品率が、嘘のように半減した。


「……出たな」


 執務室で完璧な結果報告書を眺めながら、ザガンは低く呟く。


「出ましたね」


 リリスが、眼鏡を光らせて言う。


「再現性は?」


「確実です。次の部署でもすぐに試しましょう」


 次に試したのは、常にギスギスしている兵站課の休憩室。

 次は、悲鳴と怒号が絶えない後方治療班。

 その次は、職人気質で喧嘩の絶えない武具整備所。

 どこでも、まったく同じ奇跡が起きた。


 空気が、魔法のように少し柔らかくなる。

 無意味に怒鳴る頻度が激減する。

 言葉のキャッチボール、論理的な会話が通じるようになる。

 結果として、ポカミスなどの事故が減り、作業がスムーズに進み、心を病む離脱者も劇的に減る。

 ザガンは夜ごと上がってくる素晴らしい報告書を読み、目の前のアッシュを見て、また信じられない報告書を読んだ。


「すごいですね」


 アッシュは自分のことなのに、控えめに笑った。


「本当に、僕がいるだけでそんなに変わってます?」


「劇的に変わっている」


「へえ」


「へえ、で軽く済ませるな。これは魔王軍の歴史的な大改革だ」


「そんなにですか?」


「そんなにだ」


 ザガンは、机を指でトントンと叩いた。


「今までの魔王軍は、力が強い者が怒鳴り、弱い者が黙ってサンドバッグになって潰れるという狂った構造を、ある程度“当然”として容認してきた。だがその状態は、短期的には回っても、長期的には人材を失うだけで極めて効率が悪い」


「はい」


「お前のその加護は、その凝り固まった“当然”を根底から崩せる」


「……」


「荒んだ空気が緩み、現場に最低限の理性が戻るなら、まともな話し合いが成立する。話し合いが成立すれば、業務の改善ができる。改善ができれば、人が辞めにくくなる」


「なるほど」


「つまり、お前は……」


 ザガンは、至極真顔で言った。


「『歩く職場環境改善策』だ」


「字面がすごすぎます」


「まごうことなき事実だ」


「勇者なのに」


「勇者という規格外の存在だからこそ、だろうな」


「そういうものなんですか?」


「私が知るか」


 アッシュは声を立てて笑った。

 そして、その穏やかな笑顔のまま、少しだけ真面目な声のトーンに落ちる。


「でも、やっぱりうれしいです」


「何がだ」


「僕、自分の授かった力って、ずっと『何かを壊すため』にだけあるんだって、ずっと思ってたので」


「……」


「魔物を斬って、人を守って、血を流してそれで終わりだって。でも、こういうふうに誰かのために使えるなら、なんだか少し……自分のことが、怖くなくなります」


 ザガンは、すぐには返事をしなかった。

 その感覚は、痛いほど分かる気がした。

 他人に無理やり押しつけられた役割が大きすぎると、自分自身すら、その役割の形でしか認識できなくなる。

 アッシュはずっと、人間界で「無敵の勇者」でいることだけを強要され、求められてきた。

 なら、人を傷つける剣以外で、誰かの役に立てると分かったことは、たぶん彼本人にとって救いになるほどかなり大きいはずだ。


「勘違いするな」


 ザガンは、照れ隠しのようにあえて事務的な冷たい声で言った。


「私は単に、人事部長として手元にある使える資源の、最適配置を検討しただけだ」


「はい」


「何だ、そのにやけた顔は」


「ザガンさんらしい、不器用な言い方だなって」


「褒めてないだろう」


「褒めてます」


 また、柔らかく笑う。

 最近こいつは本当によく笑うようになったなと、ザガンは内心で思った。


    


 当然ながら、この軍内部の急速な変化を、全員が手放しで歓迎したわけではない。

 最初に露骨な敵意と不満を見せたのは、第四軍団長バルバスだった。

 筋肉と根性論、そして恐怖による暴力的な統率こそがすべてだと信奉する、いかにも旧式で頭の固い将軍である。


「最近、お前のところの人事部が、現場で妙なことをしているらしいな」


 ザガンの執務室へ土足で乗り込んできた巨漢のバルバスは、入るなりフンと鼻を鳴らした。


「休憩室の整備? 悩み事の相談窓口? 挨拶の徹底? ふざけるな。戦場に必要なのは気合いと殺意だ」


「気合いだけで、減った補充人員は増えない」


 ザガンは、書類から目を離さずに即答した。


「厳しい訓練で辞めるような軟弱者は、我が軍には最初から不要だ!」


「その古臭い理屈で兵を潰しているから、お前の軍団は毎月大量の欠員を出しているのだろうが」


「ぐっ……」


「加えて、お前のところは損耗報告の記載不備があまりにも多い。差し戻しだ」


「それは現場が血を流して忙しいからで――」


「忙しい現場ほど、きっちり数字を書かせろ。正確な数字がなければ、予算の補充も環境改善もできん」


「ええい、数字、数字と小賢しいうるさい男だ!」


 バルバスは激昂し、分厚い机を拳でドォンと叩いた。


「いいか、兵というものはな、圧倒的な恐怖で縛りつければ死ぬまで動くのだ!」


「ああ、短期的にはな」


「何だと?」


「恐怖で無理やり黙らせた兵は、心が完全に壊れるまで何も言わん。そして壊れてから、ある日突然離脱する。あるいは、装備を持ったまま敵前逃亡する」


「……」


「結果、莫大な採用コストと時間を損をするのは、お前ではなくこの組織だ」


 バルバスは忌々しげに舌打ちし、なおも顔を真っ赤にして何か怒鳴ろうとした。

 だがその時、執務室の外から、やけに爽やかで通る声が響いた。


「失礼いたします! 第四軍団より、書類の差し替えをお持ちしました!」


 ガチャリと扉が開き、バルバスの部下である下級兵が入ってくる。

 背筋はピンと伸びており、受け答えはハキハキと明瞭、提出された書類は一枚の不備もなく完璧。以前の彼なら、バルバスの怒鳴り声にビクビク怯えて常に萎縮していたような、気弱な兵だ。

 それを見たバルバスが、信じられないものを見るようにぎょっとした顔になる。


「おいお前、何だその堂々とした態度は」


「はいっ! 適正な緊張感を保ちつつ、上官への円滑な報連相を心がけております!」


「……お前、なんかキラキラしてて気持ち悪いな!?」


「恐縮です!」


「褒めてない!!」


 爽やかな兵が風のように去ったあと、ザガンは一切の無表情のまま言った。


「見たか」


「……」


「無駄に怒鳴らなくても、人は動く」


「た、たまたまだ。あいつが変なだけだ!」


「たまたまで、お前の軍団の欠勤率と事故率が今週同時に下がるなら、私は今ごろ人事の仕事など辞めて失業している」


 バルバスは悔しそうにギリギリと歯噛みして唸ったが、現に完璧な数字で結果が出ている以上、真っ向からは否定しきれない。

 結局、「今に見ておれ!」と三流悪役のような捨て台詞だけ残して、ズカズカと去っていった。


「……すごいですね、人事部長」


 一部始終を見ていたリリスが、横で心底感心したように言う。


「何がだ」


「完全な理詰めで、あの脳筋将軍をあそこまでボコボコに殴れるの」


「人聞きの悪いことを言うな。私は物理的に殴ってはいない」


「物理以上に、精神をかなり殴ってましたよ」


「言葉でな」


 その夜、地下室でアッシュにその痛快な話をすると、彼は複雑そうに苦笑した。


「人間側にも、たくさんいました。そういう怖い人」


「どこにでもいるものだな」


「いましたよ。『若いうちに寝ないのは、美しき努力の証だ!』って大声で言う偉い司祭様とか」


「そいつは真っ先に斬り殺してよかったんじゃないか」


「……勇者なので、グッと我慢しました」


「お前が偉いのか偉くないのか、判断に困るな」


 アッシュは少し笑ったあと、ふと手元の書類に視線を落とした。


「でも」

「何だ」


「僕、前の環境にいたら、そういう人に自分からは何も反論できなかったです」


「……」


「勇者は文句を言わずに我慢して当然だって、僕自身も少しそう思い込んでたので」


「そうか」


「はい。でも今は……ああいう理不尽なの、絶対におかしいって、はっきり分かります」


 地下室の薄暗いランプの灯りの中で、その言葉は淀みがなく、妙にまっすぐだった。


「ザガンさんが、僕を変えてくれてるからです」


「……買いかぶるな」


「買いかぶってないです」


「私はただ、組織としての損を減らしたいだけだ」


「……また、そういうところです」


「どういうところだ」


「自分のやってる優しいことを、すぐそういう理屈っぽい言い方にするところ」


「事実だからだ」


「はいはい、そういうことにしておきます」


 アッシュは、心底楽しそうに笑った。

 その曇りのない笑い声を聞きながら、ザガンは珍しく返す言葉を失った。

 損を減らしたい。

 それは紛れもない本当だ。

 だが、もうそれだけの理由でもない気がしていた。


 誰かが無理をして、取り返しがつかないほど潰れる前に、引き止めて休ませたい。

 完全に壊れたあとに、新しい駒を補充するより、ずっとましだ。

 いや、人員を管理する者として、当たり前の、当然のことだ。

 それなのに、この狂った世界では、その「当たり前のこと」が、まるで歴史を覆す革命みたいに扱われる。

 何とも、馬鹿げている。


    


 一方その頃、人間界は魔王軍とはまったく別の意味で、完全な地獄と化していた。

 絶対的な抑止力であった「勇者不在の穴」は、彼らが考えていた以上に大きかったのだ。


 地方では抑えが効かなくなった魔物討伐が滞り、物流の要である街道封鎖が相次ぎ、責任を逃れたい貴族たちは醜く責任を押しつけ合う。焦った聖王国は「勇者の穴を数で埋めるため」と称して強引に徴兵枠を拡大し、ろくに訓練も受けていない若者を次々と前線へ送り込み始めたが、当然ながら武器も補給もまったく追いつかない。

 そして何より、勇者という絶対的な「象徴スケープゴート」を失ったことで、現場に限界まで溜まっていた不満が一気に表面化し、爆発していた。



「人間側、かなり荒れに荒れているようです」


 斥候から上がってきた最新の報告書を読み上げながら、リリスが呆れたように言う。


「ふむ」


「利権を巡る貴族同士の対立も激化。特権階級の聖騎士団と、現場で血を流す地方軍の連携も最悪の状況に悪化しています」


「勇者一人にすべてを依存し、問題を先送りしてきたツケだな」


「あと、過酷な環境に耐えきれなくなった脱走兵が急増しています」


「どのくらいだ」


「週ごとの集計で、先月比三割増という異常なペースです」


「……崩壊の速度が、私の予想より早いな」


 ザガンは、報告書の紙を机にパサリと置いた。

 人間界の腐敗した統治者たちは、勇者という「万能の重い蓋」で、長年組織のあらゆる歪みを押さえつけていたのだろう。

 その重い蓋が物理的に外れた結果、下にマグマのように溜まっていた熱と不満が、一気に噴き出しているのだ。


「加えて、国境付近の人間たちの間で、妙な噂もまことしやかに流れているそうです」


「何だ」


「“魔王軍の一部は、人間側より意外と待遇が良く、ホワイトらしい”と」


「……その噂、一体どこから漏れた」


「屋敷周辺の、急に浄化された魔族たちの口からでは?」


「最悪だな」


 ザガンは、ズキズキと痛むここめかみを強く押さえた。

 革命というものは、だいたいこういう予想外の、ひどく面倒な形で広がるものだ。

 最初は、ただ過労死寸前の勇者を一人、地下に匿っただけだった。

 それが夜の書類整理の手伝いになり、加護による職場環境の改善になり、いつの間にか「魔王軍のほうが、まだ人を人として扱うらしい」という噂に変わって、国境を越えている。

 事実だとしても、あまり広まっていい種類の事実ではない。


 しかし、現実はザガンの頭痛をよそに容赦なく進む。

 国境警備隊から緊急の追加報告が届いたのは、そのわずか三日後だった。


『人間側の前線兵士数名、我が軍へ亡命の意思あり』

『理由:過酷すぎる徴兵と、人間側の待遇悪化への強い不満のため』


 ザガンは手元の書類を読んで、しばらく沈黙した。


「……来たか」


「来ましたねえ」


 リリスは、この混沌とした状況をやや愉快そうに楽しんでいた。


「笑うな。受け入れ態勢の構築と、尋問の検討が必要になる」


「でも、人事部長としては優秀な人材が増えてうれしいでしょう?」


「うれしくはない。私の仕事が増えるだけだ」

「そこだけは、どんな時も一貫してブレませんね」


 夜、地下でその亡命兵の話をすると、アッシュはひどく複雑そうな顔をした。


「人間側の兵士が、魔王軍のこっちに……?」


「ああ」


「それって……いいことなんですか」


「少なくとも、無謀な突撃をさせられない分、死ににくくはなるだろうな」


「……」


「お前は、どう思う」


「……分かりません。でも」


 アッシュは少し真剣に考えてから、静かに言った。


「もうあそこでは無理だって絶望した人が、別の生きる場所を選べるのは……悪いことじゃない気がします」


「……そうだな」


 ザガンは、短く同意して答えた。

 その時、地下室に再び沈黙が落ちる。

 だが、出会った頃のような気まずさは微塵もなかった。

 アッシュはここに来た頃より、ずっと「自分の言葉」で話すようになっていた。

 誰かに押し付けられた「勇者として用意された模範的な答え」ではなく、アッシュという一人の人間として考えた答えを、自然に口にする。

 その劇的な内面の変化が、ザガンには少しだけ、誇らしく、眩しく思えた。


    


 そしてついに、恐れていたその日が来る。

 魔王城から、ザガン宛に最優先の召喚状が届いたのだ。


 禍々しい、黒封蝋。

 玉座からの直通命令。

 羊皮紙に書かれた内容は、ただ一行、極めて簡潔だった。


『人事部長ザガン、直ちに玉座の間へ出頭せよ』


 ザガンは手紙を読み終え、表情を変えずに静かに机へ置いた。


 リリスがその深刻な表情を見て、大きなため息混じりに言う。


「……ついに、ばれましたか」


「ああ」


「どこから情報が漏れたんでしょうね。私もこの屋敷の使用人も口は堅いです」


「知らん。だが、これだけ派手に動けば、遅かれ早かれだ」


 屋敷周辺の魔族たちの劇的な変化。

 人間側の執拗すぎる捜索と抗議。

 そして何より、最近の魔王軍内部における、異常なまでの業務改善速度。

 鋭い者がいれば、不審に思う者が出ないほうがおかしい。


 ザガンは少しだけ目を閉じ、頭の中でこれからの最悪のシチュエーションと、その打開策の流れを高速で組み直した。

 隠し通す段階は、もう終わった。

 次は、実力行使で「認めさせる」段階だ。


 勇者アッシュは、もはや魔王軍にとって排除すべき危険物ではない。

 ただ予算を食い潰す損害でもない。

 利用価値がある、などという陳腐で安い言い方でも、まだ足りない。

 こいつは、魔王軍に巣食う長年の歪みを正すための、前代未聞の「切り札」だ。


 夜、足音を忍ばせて地下へ降りると、アッシュはザガンの纏うただならぬ空気から、すぐに異変を察したらしい。


「……何か、ありましたか」


「魔王城に呼ばれた」


「……!」


「十中八九、お前の件だ。バレた」


「……すみません」


「謝るな」


「でも、僕のせいで」


「ここから先は、人事部長である私の仕事だ」


 ザガンは、逃げ隠れせずに真正面からアッシュの碧眼を真っ直ぐに見据えた。


「明日、お前も私と一緒に来い」


「……え?」


「もう隠れるな。逃げるな。堂々と私の隣を歩け」


「そ、そんなことして、僕もザガンさんも、本当に大丈夫なんですか」


「大丈夫なわけがないだろう」


「ですよね!」


「だが、これ以上こそこそ地下に隠しても、もはや得るものはない」


「……」


「むしろ、表に引きずり出して既成事実にしたほうが、勝てる」


 アッシュは、少しだけ不安そうにキュッと眉を寄せた。

 だがそれでも、以前のようにただ運命に怯えるだけの弱々しい顔ではない。

 ザガンの言葉の意図を必死に考えて、飲み込み、やがて小さく、だが力強くうなずく。


「……分かりました」


「怖いか」


「少し」


「そうだろうな。相手は魔王だ」


「でも」


 アッシュは、迷いのない瞳でザガンを見た。


「一人じゃないなら、きっと大丈夫かもしれません」


 その信頼に満ちた言葉に、ザガンは一瞬だけ、肺の空気が止まるような感覚を覚えた。

 すぐに冷たい指先で眼鏡を押し上げ、いつもの無表情の仮面を作る。


「……買いかぶるな」


「買いかぶってません」


「私は、ただ自分の首を繋ぎ、勝つための合理的な選択をするだけだ」


「はい」


「何だ、その顔は」


「またそういう言い方だなって」


「うるさい」


 アッシュは、フッと少しだけ笑った。

 その笑顔を見ながら、ザガンは腹の底で静かに確信する。

 ここで引く気は、もう一切なかった。

 敵の勇者を誘拐して隠した重い責任も、

 その勇者の「真の価値」を見つけてしまった責任も、

 全部まとめて、自分が引き受けるしかない。


「アッシュ」


「はい」


「明日、お前は『敵の勇者』としてではなく」


 ザガンは、地を這うような低い声で宣言した。


「私が立案した『魔王軍改革案』そのものとして、堂々と魔王城の玉座に立て」


 地下室のオレンジ色のランプの灯りが揺れ、二人の影を石の壁に長く、大きく伸ばす。

 本来ならば、絶対に交わるはずのない宿敵同士だった。

 誘拐犯と、可哀想な被害者のはずだった。

 だが今、彼らの関係はもう、そのどちらの言葉でも説明しきれない、強固な絆の領域まで来ていた。


 魔王軍人事部長、ザガン。

 人間界の勇者、アッシュ。

 理屈と武力。

 徹底した管理と、規格外の浄化。


 最悪の出会い方をした二人は、次の瞬間、魔王軍そのものを相手取った、一世一代の大勝負(賭け)へ出る。

 そしてその賭けが、やがて人間界の腐敗した秩序をも巻き込む巨大なうねりになることを、この時点ではまだ、誰も正確には理解していなかった――。


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