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第2話 禁断の「勇者飼育」とバレたら即死の隠蔽工作

 翌朝、魔王軍人事部長ザガンは、その三十四年の人生で初めて、自宅の地下から聞こえてくる「鼻歌」によって目を覚ました。


「……何だ、その異常に平和な音は」


 天蓋付きの寝台の上で重い瞼を開けた瞬間、昨夜の途方もない出来事が、濁流のように一気に脳裏へフラッシュバックしてくる。


 勇者アッシュ誘拐。

 超高濃度睡眠薬。

 麻袋。

 私邸地下への搬送。

 そして極めつけの、「ここは天国?」という寝言である。


 朝から、割れるように頭が痛かった。

 ザガンはズキズキと痛む額を押さえたままのろのろと起き上がり、洗面台の鏡の前に立った。鏡の中に映る自分は、いつも通り眉間に深い皺が寄り、極度の寝不足で魚のように目が死んでいる。だが、今日の死に方はいつもと決定的に違う。過酷な業務量のせいではなく、取り返しのつかない「人生の判断ミス」による死相である。


「今からでも遅くないか」



 誰にともなく、虚空に向かって呟く。

「何がですか」


 不意に、分厚い扉の向こうから呆れたような声がした。有能な秘書官リリスだ。


「勇者を、元の場所にこっそり返すことだ」


「昨夜、あれだけ苦労して麻袋に詰めて攫っておいてですか?」


「人聞きが悪いな」


「実際に悪いです」


「……否定できん」


 ザガンは重いため息とともに漆黒の外套を羽織り、問題の地下室へ向かった。


 薄暗い石段を一段降りるたびに、ご機嫌な鼻歌のメロディがはっきりしてくる。今まさに、敵の勇者が拉致監禁されている地下室から聞こえてくるには、あまりにも穏やかで、牧歌的で、害のない音だった。普通なら怒りに任せて壁を殴っていてもいいし、剣で扉を破ろうとしていてもおかしくない。少なくとも、気持ちよさそうに歌うのは絶対に違うだろう。


 重い鉄扉を開いた瞬間、ザガンは完全に固まった。

 ただの物置だったはずの地下保管室が、妙に小綺麗に片付いていたのだ。

 昨夜まで乱雑に積まれていた木箱の山は几帳面に壁際へ寄せられ、かけられていた毛布は軍隊のベッドのように角を合わせてピシッと畳まれ、使用していない埃をかぶった棚には、ご丁寧に雑巾がけの跡まである。しかも床の隅に溜まっていた長年の埃が、きれいに払われ清められていた。

 そして当の勇者アッシュは、自分が入れられていた特大の麻袋を小さく畳んで結び直し、それを座布団代わりにしてちょこんと座っていた。


「おはようございます」


「……お前、何をしている」


「目が覚めて起きたので、少し整えました」


 アッシュは少し気まずそうに、えへへと笑う。


「整えた、だと?」


「勝手に他人のものを触らないほうがいいかなとも思ったんですけど、あんまり散らかってると落ち着か

なくて……」


「ここは地下保管庫だ。落ち着きを求める場所ではない」


「でも、使うなら少しでも快適なほうがいいじゃないですか」


「使う前提で話すな」


 ザガンは扉のところに立ち尽くしたまま、警戒を解かず慎重にアッシュを観察した。

 暴れる様子は微塵もない。

 殺気や敵意もひどく薄い。

 逃走のための構造確認をしていたような、鋭い目つきでもない。

 むしろ、ひどく「普通」だった。

 寝起きの人間が、うっかり勝手に居候先を掃除してしまって、家主に対して少し気まずくしているような顔である。

 状況と態度の意味が、まったく分からない。


「……お前、自分の置かれている状況を理解しているのか」


「ええと、たぶん……魔王軍に誘拐された、ですよね」


「たぶんではない。事実そうだ」


「やっぱり、そうですよね」


 アッシュは恐怖するわけでもなく、あっさりと深くうなずいた。


「気づいていたのか」


「途中から、空気の匂いが人間の陣地じゃないなって」


「なら、なぜもっと大声で騒がない」


「騒いだら、また元の場所に戻されるかもしれないので」


「……」


 ザガンは完全に沈黙した。

 あまりにも予想の斜め上を行く返答である。


「戻りたくないのか」


「戻りたくないです」


 即答だった。


 しかも、そこに一切の迷いがない。


「ずいぶんあっさり言うな。お前は世界を救う勇者だろう」


「はい」


「全人類の希望だ」


「そうらしいです」


「それを、自分でそんなに雑に扱っていいのか」


「僕は雑に扱ってないです」


 アッシュは、澄んだ碧眼を真っ直ぐに向けて真顔で言った。


「僕以外が、僕を雑に扱うんです」


 地下室が、水を打ったように静まり返る。

 ザガンは胸の奥を突かれたような気がして、返す言葉を一瞬失った。

 アッシュは畳んだ毛布の端を指でいじりながら、ぽつりぽつりと異常な日常を話し出す。


「朝起きたら、まず神への祈祷」


「……」


「終わったら、すぐ剣の訓練」


「……」

「そのあと、魔物討伐への出撃」


「……」

「帰ったら、膨大な報告書の作成と偉い人との面談」


「……」


「それが終わったら、休む間もなく次の遠征の打ち合わせ」


「……」


「あと、時々偉い人たちから『民衆のために、もっと勇者らしい笑顔でいてください』って怒られます」


「最悪だな」


「はい」


 まるで昨日のつまらない献立でも読み上げるみたいな、平坦な口調だった。

 そのこと自体が、彼がどれほどその狂った生活に慣れきっていたかを痛烈に物語っている。

 ザガンは深く息を吐き、上の厨房から持ってきた朝食の盆を、机代わりの木箱の上にことりと置いた。焼きたてのパン、温かいスープ、目玉焼き、干し肉少々。物置の保管庫で食べる食卓としては、かなり上等なほうだ。


「食え」


「……あ。ありがとうございます」


 アッシュは目を丸くし、次いで、まるで壊れ物を扱うかのように妙に大事そうにパンを持った。


「……お前、そんなに驚くほどのものか」


「朝、こうやってちゃんと椅子に座って食べるの、すごく久しぶりなので」


「人間界は、国宝である勇者に何をさせていたんだ」


「だいたい、移動しながら立ったまま食べてます」


「本当に最悪だな」


 ザガンは呆れ果て、二度目の本音を漏らした。


 アッシュはふんわりとしたパンをちぎって口に入れ、小さく、幸せそうに息をつく。その弛んだ顔は、戦場で聖剣を振り回し、魔族を薙ぎ払っていた時の「白い災害」とはまるで別人だった。殺気も、神聖な使命感も、張り詰めた強迫観念のような義務感もない。ただ、温かいスープを前にして心底安心している、年相応の若者の顔だった。


「……おいしい」


「手作りの何の変哲もないただのパンだ」


「でも、すごく温かいです」


「スープもある」


「はい」


「それくらい、食事として普通だ」


「僕には、あんまり普通じゃなかったので」


 ザガンはまた黙った。

 どうにも、こちらの調子が激しく狂う。

 絶対に油断してはならない、敵として警戒しなければならない相手のはずなのに、話せば話すほど、目の前にいるのが「ブラック企業で疲れ切った勤勉な若手社員」にしか見えなくなっていく。

 そして朝食を半分ほど食べたところで、アッシュは恐ろしく自然なトーンで言った。


「あの」


「何だ」


「僕、もう勇者辞めて、ここで働きたいです」


 ザガンは飲んでいたコーヒーを吹きかけた。


「は?」


「ここで」


「聞こえている」


「働きたいです」


「二度も言うな」


 アッシュは一瞬しゅんとしたが、それでも引かなかった。


「だめですか」



「だめに決まっているだろう!」


「ですよね」


「何だその妙な納得は」


「ちょっと、言ってみたかっただけです」


「言うな。こちらの胃に悪い」


 アッシュは少し申し訳なさそうに視線を落としたが、それでもぽつりと続けた。


「でも、本当に、ここにいるほうがずっと楽なんです」


「ここは地下室だぞ」


「静かです」


「お前は現在、拉致監禁中だぞ」


「誰も僕に命令しません」


「ここは魔王軍の敵地だぞ」


「寝てても怒られないので」


 ザガンが反論するたびに、なぜかアッシュの言葉の説得力が増していく。

 ザガンはこめかみを押さえ、深くため息をついた。


「お前は、自分がどれほど突拍子もないことを言っているか分かっているのか」


「はい。魔王軍に寝返りたいとか、人類を裏切るとか、そういうことじゃなくて」


「なくて?」


「ただ、ここにいたいんです」


 地下室の薄暗い空気の中で、その静かな一言だけが妙に真っ直ぐ、石の床へ落ちた。

 ザガンは目を細める。

 どうやら冗談ではないらしい。

 この最強の勇者は、本気でそう思っているのだ。


「……今は結論を出すな」


「はい」


「お前の立場は極めて複雑だ。そして、誘拐犯である私の立場はもっと複雑だ」


「……すみません」


「そう思うなら、さっさと食って寝ろ。話はそれからだ」


 アッシュは素直にこくりとうなずき、温かいスープの器を両手で大切そうに抱えた。


 ザガンはその様子を横目に見ながら、改めて絶望とともに実感する。

 これはもう「勇者誘拐作戦」などという、単純な軍事作戦の話では済まない。

 宿敵を暗殺して、はい終わり。

 そういう次元の問題ではなかった。

 自分はどうやら、とんでもなく面倒な事情と深い闇を抱えた人材を、うっかり拾って回収してしまったらしい。


  


 同じ頃、魔王城では前線から次々と飛び込んでくる報告が、豪奢な玉座の間を大きく揺らしていた。


「勇者アッシュ、突如失踪!」


「人間側は大混乱に陥っております!」


「各国、各地で大規模な勇者捜索隊が編成されつつあります!」


 報告官が息を切らしながら大声で叫ぶたび、玉座に座る魔王ヴァルゼドの口元の笑みは深く、凶悪になっていく。


「ほう。本当に消えたか」


「はい、陛下」


「見事だな、ザガンよ」


 玉座の前に静かに控えるザガンは、表情をピクリとも動かさず一礼だけした。


「身に余る光栄です」


「余は手放しで褒めているのだぞ」


「存じております」


「ならば、もっと嬉しそうに顔を綻ばせろ」


「生憎と、顔の筋肉が死んでおりまして無理です」


 左右に並ぶ四天王をはじめとする幹部たちは、まだ半信半疑の顔を見合わせていた。


「本当に、あの計画が成功したのか」


「あの化け物勇者を?」


「事務方のトップである人事部長が?」


「一体全体、どういう魔法や方法は使ったのだ?」


「聞かないでください」


 ザガンは氷のように冷たい声で即答した。


「詳細を聞いた者から、毎晩夢見が悪くなります」


 炎将ガルドが、巨腕を組んでフンと鼻を鳴らす。


「どうせ、睡眠薬だのなんだの、卑劣な真似をしたんだろう」


「戦費を最小限に抑える、極めて合理的な手段です」


「それは卑劣とほぼ同義ではないのか」


「戦争に倫理や美学を求めますか?」


 ザガンの一言に、周囲の魔族たちが妙な顔をした。


 ザガンは軽く咳払いし、場の空気を元に戻すべく束になった資料を配布する。


「勇者失踪後、我が軍の北部・東部両戦線の損耗率は即日著しく低下。さらに、前線兵からの休職・退職申請も目に見えて減少傾向にあります」


「おお……」


「さらに特筆すべきは、勇者との交戦を恐れた各部隊の配置拒否がピタリと止まり、各軍団の士気が急速に回復している点です」


「それは、非常に大きいな」


 幹部たちの顔に、ようやく数字がもたらす「実利」を理解した色が浮かぶ。


 ザガンはその隙を逃さなかった。


「よって、勇者アッシュの現在の所在については引き続き『特級極秘扱い』とします。表向きは“魔王軍の精鋭により葬られた可能性が高い”という、曖昧な情報のみを流し続けてください」


「なるほど」


「人間側を疑心暗鬼で混乱させつつ、こちらへの具体的な注意もぼかすわけか」


「はい」


「勇者は確実に、始末したんだろうな。あ奴はしぶとい」


「...」


「まぁ良い、ザガン。お前のことだ。ぬかりはないだろう」


 ヴァルゼドはひどく満足げに深く頷いた。


「よし。憎き勇者を消した最大の功労者として、貴様に特別手当を出そう」


「不要です」


「なぜだ」


「その予算があるなら、雨漏りしている前線の宿舎修繕費に回してください」


「本当に可愛げがない男だな、お前は」


「自覚しております」


 会議は、魔王軍としては珍しく笑い混じりの穏やかな空気で終わった。

 だが、ザガンの胸中は少しも笑えなかった。

 表では、国を救った大功労者。

 裏では、勇者『保護』という大罪を犯している実行犯。

 これが万が一発覚すれば、人間界との国際問題どころか、魔王軍内部での大粛清、処刑台一直線である。


「人事部長」


 会議後、長い廊下を歩いていると、リリスが山積みの書類束を抱えて寄ってくる。


「人間界からの通信が爆発的に増えています。『勇者失踪に、魔王軍の高官が関与した可能性が高い』について、抗議と問い合わせが多数」


「ただの問い合わせ、で済んでいるうちはまだいい」


「聖王国の連中、かなり本気で血眼になって探してますよ」


「当然だろう。彼らにとって勇者は、莫大な利益を生む最大の看板商品だ」


「……商品、ですか」


「比喩ではない」


 ザガンは低く、吐き捨てるように言った。


「いなくなって初めてこれだけ慌てふためく程度には、あの若者をギリギリまで使い潰すつもりだったのだろう」


 その言葉には、ザガン自身も驚くほど、予想外に鋭い棘があった。

 リリスが一瞬だけピタリと足を止め、目を細める。


「……ずいぶん、敵の勇者の肩を持ちますね」


「持っていない」


「そうですか?」


「ただ、人事のプロとして客観的な事実を述べただけだ」


「はいはい、そういうことにしておきます」


 からかうような口調だったが、有能なリリスはそれ以上深くは追及しなかった。


 ザガン自身、自分の感情の変化に自覚がなかったわけではない。

 昨夜まで、データ上の勇者アッシュは単なる「我が軍最大の損害要因」でしかなかった。

 しかし、実際に実物を拾ってきて、言葉を交わしてみれば、その中身は予想よりずっと面倒で、予想よりずっとまともで、予想よりずっと……生身の「人間」だった。

 その事実が、小骨のようにどうにも引っかかっていた。


    


 ザガンの本当の地獄は、その日の夕方から本格的に始まった。

 昼は魔王城で山ほどの書類決済と各部署への調整。

 夜は私邸に戻って、地下にいる勇者の生活対応と隠蔽工作。

 つまり、ハードな残業のあとに、まったく別件の重い残業が発生している状態である。


「なぜ、私がこんな目に……」


 グツグツと煮立つ大きな鍋を木べらでかき回しながら、ザガンは心底うんざりした声を出した。

 私邸の広い厨房には誰もいない。

 使用人たちに地下の秘密を勘づかれるわけにはいかず、彼らを早々に下がらせ、勇者の食事は家主自らが用意するしかなかった。

 そこへ、リリスが戸口からひょっこりと顔を覗かせる。


「人事部長」


「何だ」


「冷酷無比な魔王軍高官が、エプロン姿で勇者のためにコトコト煮込みを作っている図、なかなかシュールで味わい深いですね」


「鍋の中に殺意を煮込んでいるんだ。放っておけ」


「そんなこと言うと、食べられなくなりますよ」


 ザガンは木べらをギュッと握ったまま、鍋の中を恨めしそうに睨む。

 煮込みは、ごく普通の家庭料理だ。大きめに切った根菜と肉を香草でじっくり煮て、塩で味を整えただけの簡単なもの。別に特別でも何でもない。

 だが、地下にいるあの勇者は、ただの朝食のスープだけであんなに感動した顔をした。

 なら夜も、多少はまともで温かいものを出してやるべきだろう――そう思ってわざわざ厨房に立っている時点で、もう自分はかなり毒されている気がした。


「人事部長」


「何だ」


「それ、自分用の時より、お肉とか具が多くないですか」


「気のせいだ」


「そうですかぁ?」


「そうだ」


 リリスは肩を揺らして笑いを噛み殺しながら、パタパタと去っていった。


 湯気の立つ鍋をよそい、地下へ食事を運ぶと、アッシュはランプの灯りの下で熱心に本を読んでいた。

 いや、正確には普通の本ではない。保管庫の隅にあった「魔王軍の備品台帳」を読んでいた。


「……何をしている」


「あ、文字があったので、つい」


「もっと他に、まともに読むものはなかったのか」


「興味深いです。魔族の補給や兵站って、意外と人間より細かく管理されてるんですね」


「誰かが生きて組織で働く以上、補給はどこでも細かいものだ」


 アッシュは分厚い台帳を閉じ、ザガンが持ってきた食事の盆を見て、パチリと目を丸くした。


「わあ……」


「何だ、その大げさな反応は」


「ちゃんと、夕飯だ……」


「夕飯だが」


「しかも、湯気が出てる。温かい」


「出来立てなのだから、温かいに決まっている」


「すごい……」


 ザガンは盆を乱暴に置き、たまらず無言で顔を背けた。

 たかが肉と野菜の煮込みごときでそこまでキラキラした目で感動されると、自分がやっている「誘拐」という行為の罪深さが、まったく別の方向に増していく気がする。


「冷める前に食え」


「はい」


 アッシュは木のスプーンを持ち、最初の一口をふうふうと冷まして口に運んだ。

 数秒、動きがピタリと止まる。


「……どうだ」


「おいしいです」


「そうか」


「すごく、おいしい」


「そうか」


「これ、もしかしてザガンさんが?」


「厨房の仕事だ」

「でも、使用人の方はいなかったですよね。作ったのはザガンさんですよね」


「……リリスの奴め」


「はい?」


「いや、何でもない」


 余計なことを吹き込みおって、とザガンは内心で舌打ちした。


 アッシュは、花が咲いたように笑った。


「ありがとうございます」


「礼は不要だ」


「でも」


「不要だ」


「じゃあ、その」


「何だ」


「すごく、うれしいです」


「……」


 ザガンは何も返事をしなかった。

 煮込みを食べるアッシュは、信じられないほど幸せそうだった。誰にも急かされず、誰にも監視されず、ただ静かな場所で夕食を食べているだけで、人はそんな顔をするのか。見ているこちらの胸が締め付けられるような、妙な気分になる。


「お前、人間界で本当に何をされていた」


「いろいろです」


「曖昧すぎるな」


「言い出すと長くなるので」


「構わん。言ってみろ」


 アッシュはスプーンを止め、少し迷い、それからぽつぽつと淡々とした声で話し始めた。

 終わりなき魔物退治。

 要人の護衛。

 退屈な祝典への出席。

 貴族からの寄付集め。

 孤児院への慰問パフォーマンス。

 聖騎士団の無駄に長い激励会。

 遠征。

 遠征後の徹夜での報告書作成。

 そして息つく間もなく、次の遠征。


「休みは」


「一応、ありました」


「一応とは何だ」


「次の戦場へ移動中の、揺れる馬車の中で寝る時間が、それに近かったです」


「それは休みではない」


「ですよね」


「教会の上の連中や周囲の人間で、誰もストップをかける者は言わなかったのか」


「言った人はいました」


「ほう」


「でも、その人はすぐに辺境へ左遷されました」


「……そうか」


 ザガンは、スッと表情から感情を消した。

 魔王軍だって、決して綺麗なだけの組織ではない。理不尽に怒鳴る上司もいるし、根性論を振り回すだけの無能な将軍もいるし、予算を削れば現場の兵が死ぬことを理解しない頭の固い文官もいる。

 だがそれでも、一応、人材を使い潰し切る前にアラートを鳴らし、歯止めをかけようとする「人事」という機構が存在する。

 人間界の勇者運用システムは、その最低限のセーフティネットすらなかったらしい。


「お前」


「はい」


「よく、心が壊れなかったな」


「……もう、壊れてたのかもしれません」


 アッシュは煮込みの皿を見つめながら、ひどく静かに言った。


「自分でも、ちょっと分からないです。昨日、野営地であの甘い飲み物をもらって……もう何でもいいから、このまま深く寝たいって思って」


「……」


「そのまま麻袋で運ばれてる途中で、『ああ、ここ、静かだな』って」


「……」


「それで、なんだか少し、安心しました」


 ザガンは重く目を閉じた。

 勇者誘拐。

 魔王軍史上、前代未聞の「卑怯な」極悪作戦。

 だが被害者本人が、それをきっかけにして安堵し、泥のように安心して眠ってしまったのだ。

 法と倫理が、ひどく複雑な形でねじ曲がり、歪んでいる。


「ザガンさん」


「何だ」


「僕がここにいるの、迷惑ですか」


「今さら何を言うか」


「でも、すごく迷惑かけてるので」


「現にかけている」


「ですよね」


「だが」


 ザガンは少しだけ間を置いた。


「ここからお前を追い出した瞬間、お前は再びあの剣を持たされる」


「……はい」


「それが分かっていて無責任に放り出すほど、私は薄情な男ではない」


「……」


 アッシュが、ぱっと顔を上げた。


「何だ、その顔は」


「いえ」


「言え」


「ザガンさんって、本当に優しいんだなって」


「違う」


「違わないです」


「これは、貴重な人材管理の一環だ」


「その言い方、すごく好きです」


「なぜだ」


「ちゃんと、僕を“人”みたいに扱ってくれてるから」


「意味が分からん」


「神聖な勇者とか、人類の希望とか、そういう記号じゃなくて……僕のことを、ひとりの“人間”として扱ってる感じがするので」


 その言葉に、ザガンは一瞬、まったく言葉を返せなかった。

 敵である勇者にそんなことを言われるとは、夢にも思っていなかった。

 しかも、その真っ直ぐな言葉が、妙に胸の奥へすとんと落ちる。

 ザガンは誤魔化すように咳払いし、再び表情を消した。


「……食い終わったら、さっさと寝ろ」


「はい」


「私は、まだ上に持ち帰った仕事がある」


「えっ、こんな時間からですか?」


「こんな時間だからだ」


「大変ですね……」


「一体、誰のせいだと思っている」


「僕です」


「そうだ。自覚があるなら寝ろ」


 アッシュは素直に「すみません」と頭を下げて謝った。

 その申し訳なさそうな謝り方まで、どうにも本気で怒鳴りつけにくくて、ザガンはますます困り果てた。


    


 数日後、ザガンは肉体的にも精神的にも、別の意味で限界を迎えつつあった。

 人間界は、看板である勇者失踪のニュースに完全に発狂していた。

 聖王国は公式に「魔王軍高官による悪質な誘拐の可能性」に言及し始め、連日各国の使節が魔王城へ押し寄せ、血相を変えて詰め寄る。前線には偵察部隊が異常な数増え、国境警備は騒がしくなり、勇者捜索の名目で各地の街道封鎖や検問まで行われているらしい。


 対する魔王軍内部でも、ザガンの動きに対して微妙な勘ぐりが生まれ始めていた。


「人事部長、最近やけに帰宅時間が早いですね」


 総務卿がいやらしい笑みを浮かべながら言う。


「仕事量は減っていないはずですが」


「屋敷での持ち帰り残業に切り替えただけだ」


「ふむ。もしかして、何か良いことでもありましたか?」


「ない」


「自宅に可愛い恋人でも囲っているとか」


「殺すぞ」


「冗談です、冗談」


 冗談では済まない。

 実際のところ、ザガンは毎日、地下の勇者の世話と、絶対にバレてはいけない隠蔽工作で過労死寸前だった。

 三食の食事の準備。

 地下の衛生管理。

 周囲に使用人に不審を抱かせないための、緻密な導線の調整。

 さらに、人間界へ向けての偽情報の流布。

 しかも、肝心の勇者アッシュがこの異常な環境に妙に順応しているせいで、危機感の方向がまったく噛み合わない。


「おはようございます」


「なぜ、お前はそんなに元気なんだ」


「昨日、邪魔されずによく寝たので」


「そうか」


「あと、朝いただいた水がすごくおいしかったです」


「それは何よりだ」


「地下って、ひんやりして落ち着きますね」


「監禁環境への適応が異常に早すぎる」


 アッシュは、ザガンの疲労と反比例するように、日に日に顔色が良くなっていった。

 こけていた頬に少し肉が戻り、目の下の痛々しい隈もすっかり薄れる。

 食事の量も目に見えて増えた。

 地下にある備品台帳だけでなく、古い魔王軍の規程集や過去の人事記録まで引っ張り出して読み始めた時には、ザガンもさすがに止めようか迷った。しかし、下手に止めると「なぜ読んではいけないのか」を説明しなければならないので、面倒くさくなって放置した。


 そんな、ある夜のことだった。

 ザガンが自室のデスクで持ち帰り書類を山のように処理していると、屋敷の玄関の呼び鈴がジリリリリと鳴った。

 それも一度や二度ではない。

 強く、せっつくように、何度も、何度もだ。


 ザガンのペンの手がピタリと止まる。

 リリスが、血相を変えて部屋に飛び込んできた。



「人事部長!」


「誰だ」

「聖王国の『協定使節団』です。完全武装の聖騎士が数名、勇者失踪の件で、強引に屋敷内の聞き取りと確認を求めています!」


「……そう来たか」


 対立する2国にも協定がある。捕虜交換等を前提に、公式の協定使節団の交渉は受け入れなければならない。


 最悪のタイミングだった。

 地下には、彼らが血眼になって探している当人がいる。

 しかも今夜のアッシュは、珍しく「いつもご飯をもらってばかりなので、お礼に何かしたい」と言い出し、魔導コンロで昨日の煮込みを温め直している最中である。


「リリス、時間を稼げ」


「どのくらいですか」


「三分だ」


「短すぎますね」


「長く稼ぐと、逆にやましいことがあると怪しまれる」


 ザガンは椅子を蹴立てて立ち上がり、急いで地下へ向かった。

 扉を開けると、案の定、アッシュがコンロの鍋の前に立っていた。ご丁寧に、花柄のエプロンまでつけている。どこから引っ張り出したのか知らないが、たぶん体格のいい使用人のおばちゃんの予備だ。非常に、絶望的に危機感がない。


「アッシュ」


「はい。もうすぐ温まり――」


「今すぐ火を止めろ」


「えっ」


「聖王国の使節が上の玄関に来た」


「……!」


「いいか、奥の貯蔵室へ入れ。絶対に出るな。声も出すな。気配も完全に消せ」


「わ、分かりました!」


 アッシュは一瞬で顔色を変え、慌ててエプロンを外そうとしたが、焦りのあまり背中の紐が固く絡まった。

 ザガンが舌打ちし、強引に引きちぎるようにしてほどく。


「落ち着け」


「はいっ」


「まったく落ち着いてない」


「すみません!」


「いいから奥に入れ」


 アッシュを奥の窓のない小部屋へ押し込み、鍋を火からずらし、煮込みの匂いを消すために強力な消臭の魔符を焚く。完璧とは言い難いが、何もしないよりははるかにましだ。


 息を整え、上階の玄関へ戻ると、そこでは白銀の鎧を着た聖騎士たちが、いかにも自分たちが正義だという顔でふんぞり返っていた。


「魔王軍人事部長ザガン殿とお見受けする」


「何だ」


「勇者アッシュ様失踪に関して、貴殿の関与が強く疑われています」


「根拠もなく疑うのはそちらの勝手だ。戦争中だ。どこかで戦死しただけだろう」


「直ちに屋敷内を確認させていただきたい」


「断る」


「なぜです」


「ここは私の私邸だからだ」


「ほう。見られてはやましいことでも?」


「“やましいことがないなら中に入れろ”という論法は、頭の悪い無能な査察官が好んで使う常套句だ」


 先頭に立つ聖騎士の眉が、ピクリと不快げに動く。

 だが、ザガンは一歩も引かない。見下ろすような視線で睨み返す。


「貴殿は、勇者様失踪の直前、最前線の近くで目撃されています」


「人事トップの高官が前線にいることの、何が不自然だ」


「時刻が不自然です。深夜でした」


「現場の労務状況の視察だ」


「夜中にですか?」


「当然だ。過酷な現場ほど、夜にこそ隠された本性が出る」

「……」


 聖騎士は、露骨に嫌そうな顔をした。たぶん、彼ら自身の騎士団も夜の労務環境がブラックで、図星を突かれたのだろう。


 その時だった。

 屋敷の奥のほうから、がたん、と鈍い音がした。

 ザガンの背筋が凍りつく。

 使節団の視線が、一斉に奥の廊下へ向いた。


「……今の音は?」


「猫だ」


「猫?」


「最近拾った」


「魔族が、猫を?」


「つまらん偏見だな」


 言っているそばから、今度は少し大きく、どんっ、と音がした。

 たぶん、暗い貯蔵室の中でアッシュが何かの木箱にぶつかったのだ。とんでもないタイミングである。

 聖騎士が、剣の柄に手をかけて一歩踏み出す。


「……やはり、確認させてもらう」


「断る」


「ならば、強制的に――」


 その瞬間、奥の廊下の扉がギィッと開いた。

 全員の視線が、スローモーションのようにそちらへ向く。

 そして、花柄のエプロンを小脇に抱えたアッシュが、ひょっこりと顔を出した。


「ザガンさん、すみません、煮込みが吹きこぼれそうで――」


 完全なる静寂。

 時が止まった。

 アッシュも、玄関の異様な空気に気づいて止まった。

 ザガンも、心臓が止まりかけた。

 聖騎士たちの顔が、信じられないもの、この世のあり得ないバグを見た形に完全に固まる。

 次の瞬間、アッシュはハッとして口を押さえ、ものすごい勢いでバタンッと扉を閉めた。

 遅い。

 何もかもが、絶望的に遅い。


「い、今の……勇者様では!?」


 聖騎士が素っ頓狂な声で絶叫した。


「違う」


 ザガンは、鋼の意志で反射的に言った。


「どこがですか!?」


「よく似た、ただの別人だ」


「どう見ても、エプロンを抱えた勇者様にしか見えませんでしたが!?」


「その通りですね」


 後ろに控えていたリリスが、ボソッと小声で無慈悲な補足をした。


「お前は黙れ」


 聖騎士たちは、今にも剣を抜いて突入しそうな勢いだった。

 ザガンは、一瞬で腹を括った。

 ここで下手にごまかし切るのは、どう考えても不可能だ。

 ならば、まったく別の角度から強引に押し切るしかない。


「静かにしろ」


 低く、重圧を込めた声で言うと、場がわずかに硬直した。


「仮にだ。仮に、今顔を出したのが本物の勇者アッシュだったとしよう」


「仮に、ではなく――」


「その勇者が、なぜあんな花柄のエプロンを抱え、敵の私邸で暢気に煮込みの番をしていたと思う?」


 聖騎士たちが、言葉に詰まる。


「それは……何か酷い方法で脅されて」


「脅されている人間が、あんな気の抜けた間抜けな顔で『吹きこぼれそうです』と言うか?」


「ぐっ……」


 さらに一歩、ザガンは彼らに詰め寄った。


「お前たちは、勇者を一体何だと思っている」


「全人類の希望です!」


「便利な言葉だな」


「何だと?」


「希望だから、限界を超えて酷使していいのか」


「それは――」


「希望だから、寝る間も与えず休ませなくていいのか」


「……」

「希望だから、心が壊れるまで戦わせて、笑顔を強要して、看板として使い倒して……いなくなって初めて慌てふためけば、それで済むのか?」


 玄関の空気が、一気に氷点下まで冷え込んだ。

 誰も口を開けない。

 反論できない。

 少なくとも、ここにいる使節の騎士たちは現場の惨状を知っているのだろう。だからこそ、痛いところを突かれて言葉に詰まった。


 ザガンは静かに、しかし刃のように容赦なく続けた。


「勇者を探したいなら、勝手に探せばいい。だが少なくとも、今のお前たちのような連中に会わせる価値のある人間は、この屋敷には一人もいない」


「……!」


「帰れ。自分たちのこれまでの扱いを深く省みてから、出直してこい」


 聖騎士たちは、顔を真っ赤にした。

 怒りと、図星を突かれた羞恥と、そしてどうしても反論できない苛立ちが混ざった、屈辱の色だった。

 結局、彼らはそれ以上奥へは踏み込めなかった。


 私邸を強行突破する法的根拠が薄いこともあるが、それ以上に、ザガンの一言一言があまりにも鋭く的を射ていたからだろう。


 重い扉が閉まる。

 金属鎧の足音が、遠ざかっていく。

 ようやく玄関に静寂が戻ると、リリスがぽつりと言った。


「……だいぶ、本気で怒ってましたね」


「そうかもしれん」


「自覚ないんですか」


「……ないわけではない」


 ザガンはゆっくりと長い息を吐き、足取り重く地下へ戻った。


 扉を開けると、アッシュがこの世の終わりのような、ものすごく気まずそうな顔で立っていた。


「……すみません」


「何についてだ」


「全部です」


「その通りだ」


「はい……」


「なぜ出てきた」


「煮込みが、本当に吹きこぼれそうだったので」


「優先順位が致命的におかしい」


「でも、火は危ないかなって」


「それは正しいが、今は状況が違う!」


 アッシュは、耳を伏せた犬のようにしょんぼりとした。

 その様子が、大型犬の子犬みたいで、余計に怒鳴りづらい。

 ザガンは額を押さえたままコンロの鍋に近づき、木べらですくって味を見る。

 そして、動きが止まる。


「……」


「どうでしたか」


「うまい」


「本当ですか」


「本当だ」


「やった!」


 アッシュの顔が、ぱあっと太陽のように明るくなる。

 その感情の変化の早さに、ザガンは深くため息をついた。


「だからと言って、次から勝手に出るな」


「はい」


「あと、花柄のエプロン姿で出るな」


「はい」


「絵面がひどすぎる」


「すみません」


「……まあ、煮込みの味は悪くない」


「ありがとうございます!」


 冷たい地下室に、ほんの少しだけ柔らかく温かい空気が流れる。

 ついさっきまで、屋敷の上では国際問題寸前のヒリヒリした押し問答をしていたというのに、今は誘拐した勇者の作った煮込みをのんきに評価している。どう考えても状況が狂っていた。


「ザガンさん」


「何だ」


「さっき、上の玄関で……ありがとうございます」


「何の話だ」


「僕のこと、かばってくれたので」


「かばっていない。客観的な事実を述べただけだ」


「でも、すごくうれしかったです」


「そうか」


「はい」


 アッシュは少しだけ黙って、それから火の落ちたコンロを見つめながら静かに言った。

「僕、今まで生きてきて、誰かにああいうふうに、僕のために怒ってもらったこと、あんまりなかったです」


 ザガンは言葉に詰まる。

 怒られなかったのではない。

 きっと、周囲の大人たちから「別の種類の怒り」しか向けられなかったのだろう。

 魔物を倒すのが遅い、信仰心が足りない、もっと勇者らしくしろ、もっと我慢して頑張れ。

 そういう理不尽な怒りばかりを受けてきた人間が、「お前たちの勇者の扱いはひどすぎる」と、自分の代わりに誰かが本気で怒ってくれるという経験を、この青年は持っていないのかもしれない。


「……勘違いするな」


 ザガンは目を伏せ、視線を逸らした。


「私は、お前の味方ではない。敵だ。」


「はい」


「ただ、組織としての管理責任の所在を明確にしただけだ」


「はい」


「何だ、そのにやけた顔は」


「ザガンさんって、優しくしてくれる時ほど、言い方が硬くなるなって」


「うるさい」

 アッシュが、クスクスと小さく笑った。


 その無邪気な笑い声を聞いた時、ザガンは妙に「まずい気分」になった。

 敵のトップ戦力を自宅の地下に匿っている時点で法的に十分まずいのに、それとはまったく別方向でまずい。

 このままだと、自分は本格的にこの勇者を「処理すべき対象」ではなく「保護すべき対象」として見てしまう。

 それは、冷徹な合理性を重んじる魔王軍人事部長として、あまりにも不健全な感情だった。

 だが、ではどうする。

 今さら追い返すというのか。

 あの、勇者を道具としか思っていない人間どものもとへ。

 その答えは、自分でももう、とっくに知っていた。


    


 それから数日、ザガンは大量の胃薬の消費量をさらに増やしながら、綱渡りのような勇者隠匿生活を続けた。

 だが不思議なことに、地下の空気は日が経つにつれ、少しずつ落ち着いていった。

 アッシュは食事を出されるたびに丁寧に礼を言い、風呂を使わせる回数すら申し訳なさそうに申告し、空いた時間は静かに本を読んで過ごし、よく寝る。

 妙に静かで、妙に手がかからない。

 この男、本当にあの戦場を荒らした勇者なのかと疑いたくなるほど、「居候」としての適応力だけが異常に高かった。


 そしてある夜、ザガンがいつものように地下の机で持ち帰りの仕事をしていると、机の向かいからアッシュがそっと顔を覗かせてきた。


「ザガンさん」


「何だ」


「お仕事、相変わらず多いですね」


「見れば分かるだろう」


「毎日、これですか」


「だいたいはな」


「すごい……」


「感心するところではない」


「何か、僕にも手伝えること、ありませんか」


 ザガンは、書類の山から顔を上げた。


「ない」


「すごい即答ですね」


「あるわけがないだろう」


「でも、僕も一応居候ですし」


「自分の立場に自覚はあるのか」


「あります。だから、せめてご飯の恩返しを」


 真っ直ぐな、真面目な顔だった。

 冗談や思いつきではないらしい。

 ザガンは、目の前にそびえ立つ山のような書類を見た。各部隊からの補充申請、離職報告、配置調整、傷病手当の計算、苦情処理、査察日程の調整。見ただけで頭痛がし、気が遠くなる量だ。

 その横で、敵である勇者アッシュが「何か手伝いたい」と目を輝かせている。


 常識的に考えれば、即座に断るべきだ。

 この書類は機密だらけである。

 人間側の勇者に見せていいものではない。

 いや、そもそも魔王軍人事部の機密書類を、誘拐して監禁している勇者に触らせるな、という話だ。

 だがその時のザガンは、連日の極度の疲労のあまり、思考の一部が完全に死んでいた。


「……これを、日付順に並べろ」


「いいんですか?」


「絶対に、外へ情報を漏らすなよ」


「分かりました!」


「いいか、触って並べるだけだぞ。絶対に余計なことはするな」


「はい」


 アッシュは嬉しそうに、分厚い書類の束を受け取った。


 ザガンは、心のどこかで高を括っていた。

 どうせすぐに音を上げるだろう、と。

 剣を振るう勇者だからといって、複雑な事務仕事ができるわけではない。

 少し触って「やっぱり僕にはこれは無理です」と返してきて終わりだろう。

 ところが。


「ザガンさん」


「何だ」


「これ、同じ部隊の補充申請が、なぜか三日おきに出てます」


「……そうだな。激戦区だからな」


「でも、それに伴う新人訓練の終了報告が追いついてないです。現場の要求数と人事の数字、大きくずれ

てませんか」


「……何?」


「あと、この決裁書類。隊長名の署名が二種類あります。筆跡が違うので、たぶん代筆です。規定違反では?」


「……」


 ザガンは、バッと顔を上げた。

 アッシュは、書類をただ言われた通りに日付順に並べているだけではなかった。

 膨大な文字の中から瞬時に不備を拾い、重複を見つけ、組織の「流れ」を正確に読んでいる。


「お前」


「はい」


「何でそれが分かる」


「昔、故郷の村で、よく帳簿の手伝いをしてたので」


「帳簿だと」

「はい。村長の父がそういう細かい計算が苦手で」


 アッシュは少し照れたように、えへへと笑った。


「数字を合わせて整理するの、昔から嫌いじゃないんです」


「勇者が?」


「勇者になる前の話ですけど」


 ザガンは、ペンを持ったまましばらく黙った。

 勇者になる前。

 その言葉が、妙に引っかかる。

 そうだ。この男には、剣を持たされて狂った生活を送る「前」の、当たり前の人生があったはずなのだ。人間界の連中は、そのことをまるで忘れているようだが。


 アッシュは手元の書類をトントンと綺麗に揃えながら、遠慮がちに言った。


「……続きも、僕がやりましょうか」


 ザガンは、残された書類の山を見た。

 目の前のアッシュを見た。

 再び、書類の山を見た。

 そして、ひどく不本意なことに、心の底からこう思ってしまった。


 ――こいつがいれば、助かるかもしれん。


「……好きにしろ」


「はい!」


 アッシュは花が咲いたように嬉しそうに笑い、それから信じられないほどのすさまじい集中力で、複雑な書類を的確に仕分け始めた。


 魔王軍人事部長ザガンは、その有能すぎる働きぶりを見ながら、胃の痛みとはまったく別の、妙な予感で背筋が震えるのを感じていた。

 勇者を攫った。

 地下に隠した。

 ここまででも、十分に人生が狂っている。

 だが本当にまずいのは、たぶんこの先だ。

 なぜなら、この勇者は、思っていたよりずっと心が壊しにくく、

 思っていたよりずっと扱いやすく、

 そして――思っていたよりずっと、「役に立つ」。


 その恐ろしい事実に気づいてしまった時点で、もう後戻りは不可能だ。

 地下室の隅で、勇者アッシュは手際よく書類を揃えながら、ぽつりと呟いた。


「なんだか、こういう静かな仕事、すごく落ち着きますね」


「お前は本当に勇者か?」


「たまに、自分でも自信なくなります」


「私もだ」


 だが、ほんの少しだけ。

 本当に、ほんの少しだけだったが。

 ザガンはその夜、いつもより早く仕事が終わって眠れるかもしれない、と安堵に近いものを感じていた。

 その小さな可能性、アッシュの事務能力の発見こそが、後に魔王軍全体を巻き込む「特大の労働環境改革」の、最初の兆しだったのである。


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